偽貨の列と締めのズレ#1
俺の名前は港健一。45歳、独身、趣味は表計算ソフトのマクロを組むこと。
……と書くと、なんだか「静かな男」みたいに見えるかもしれないが、実態は逆だ。
頭の中だけはいつも騒がしい。
数字がズレる音、締めが崩れる予兆、誰かの一言で炎上が加速する気配――それが、日常のBGMになっている。
そんな俺が勤めていたのは、都心のあるメガバンクの市場事務部だ。
部署名を聞いてピンと来る人は少ないだろうが、要するに「金融市場で動く金の裏方」である。
資金、債券、外為、デリバティブ——そういった取引が成立したあと、実際に金を動かし、帳簿を合わせ、ミスがあれば火消しに回る。そういう仕事だ。
世間は表側のニュースだけ見る。金利が上がった、円安だ、株が荒れてる。
でも裏側では、ひとつの数字が違うだけで人が走り、電話が鳴り、画面の色が変わり、空気の温度まで変わる。
俺はその温度差に、妙に敏感だった。
だからこそ、この仕事を「向いてる」と言われてきたのかもしれない。
俺はその中でも管理職として、毎日の決済承認や月末の締め処理、そして、場合によっては障害対応の指揮を執っていた。
深夜二時に電話が鳴って「システムが止まりました」と言われても、三十分で復旧手順を組み立てられる。
そういう人間だった。
深夜のオフィスは静かだ。蛍光灯の白い光が机の上の書類だけを照らして、窓の外の街の明かりは遠い。
なのに、心臓だけは妙にうるさい。
「止まるな」
「焦るな」
「順番を守れ」
自分に言い聞かせる声が、ずっと胸の奥で反響し続けるのだ。
そして今日——正確には、今日だった日——は、俺の人生で最大の事故対応の日だった。
朝九時。
いつものようにデスクに座ってメールを開いた瞬間、画面が真っ赤に染まった。
赤い帯、赤い件名、赤い緊急フラグ。
その色は、目に見える警報というより、嗅覚に刺さる焦げ臭さに近い。
『緊急:外貨決済システム異常。数百件の送金指示が二重発行されています』
心臓が一瞬止まった。
正確には、止まった「気がした」。
次の瞬間、心臓が取り返すみたいにドクン、と強く打った。喉が渇く。手のひらが汗ばむ。
「二重発行」――それは、裏方の世界で最悪に近い単語だ。
数字が一個ズレるだけでも大変なのに、指示が倍になる。
それも数百件だ。
外貨決済システムというのは、海外の銀行とドルやユーロをやり取りするための仕組みだ。
ここが狂えば、何億、何十億という金が宙に浮く。
最悪の場合、取引先との信用が崩壊し、資金が逆回転する。
信用が崩れる、というのは詩的な表現で言っているわけではない。
窓口が荒れる。取引が止まる。追加の担保を要求される。資金繰りが詰まる。
そして「銀行なのに大丈夫か?」という疑いが、雪崩みたいに落ちてくる。
その雪崩の最初の一粒は、いつも地味なミスだ。
俺はすぐに立ち上がり、部下を集めた。
椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きい。誰かがペットボトルのキャップを開ける音。プリンターが動き出す音。
それらが、戦闘開始の合図みたいに重なった。
「状況を洗い出せ。まず、どの取引が二重になってるか確認しろ。次に、相手先の銀行に連絡を入れて、着金を止められるか聞け。それから——」
指示を飛ばしながら、頭の中では既に復旧の手順が組み上がっていた。
問題の切り分け。影響範囲の特定。応急処置。恒久対策。そして再発防止。
これが俺の仕事だった。
いや、仕事というより、俺の反射だ。怖いと思う前に、手順が立つ。手順が立つから、怖さに飲まれずにいられる。
そうやって、いくつも炎上を切り抜けてきた。
だが、今回は違った。
システムの異常は、単なるバグではなく、データベースそのものの破損だった。画面の裏側で、足場が崩れていた。
運の悪いことに、バックアップから復旧しようにも、最新のバックアップが取れていない。
つまり、手作業で前日分からの処理を突き合わせて、どの取引が二重になっているのか、一件ずつ確認しなければならない。
「最新がないって、どういうことですか」
部下の声が震えていた。
俺は怒鳴りたくなる衝動を飲み込んだ。怒鳴ってもバックアップは生まれてくるわけではない。
「今は原因探しより、被害を止める。原因は後で潰す」
自分の声が、やけに乾いて聞こえた。
午前が終わり、昼が過ぎ、夕方になっても終わらない。
オフィスの空気が、じわじわ重くなる。
冷房は効いているのに、首の後ろに熱が溜まる。
部下の目が、少しずつ焦点を失っていく。
上司は電話口で怒鳴り、取引先からは問い合わせが殺到する。
電話の向こうの声は、ひとつひとつが正しい。だからこそ厄介だ。
「いつ戻るんですか」
「うちの資金が足りない」
「相手先が受け取ってしまった」
その全部に返事をしながら、俺は同時に別のことも考えていた。
「ここで止められなかったら、次は何が起きる」
未来の事故が、頭の中で勝手に増殖する。
それでも俺は、淡々と指示を出し続けた。
「この取引は正。これは誤送信だから取消依頼を出せ。こっちは——待て、この資金は既に使われている。回収不能だ。損失確定で報告書を上げろ」
「回収不能」
口に出した瞬間、胃がきゅっと縮む。
俺は数字の世界にいるのに、損失という言葉はいつも生々しい。
それが誰かの評価を削り、誰かの賞与を削り、誰かの未来を削る。
そして最終的に「責任」という名の矢が、どこかに刺さる。
深夜十時を回った頃、ようやく全体像が見えてきた。
被害総額は約3億円。
取り返せないものもあったが、それでも大半は何とか食い止めた。
「何とか」――この言葉の裏に、どれだけの人間の神経が削れたか、数字では表せない。
俺は最後の報告書をまとめ終え、ふうと息を吐いた。
吐いた息が、紙の匂いと混ざった。コピー機のトナーの匂い。乾いたインクの匂い。
いつもなら、それが「終わった」という合図になる。
そして——その瞬間だった。
胸に、鈍い痛みが走った。
鋭い痛みじゃない。鈍くて重い、嫌な痛みだ。
まるで胸の内側に、小さな石が落ちてきて、それがじわじわ沈んでいくみたいな。
「……あれ?」
視界が、ぐらりと傾いた。
椅子、机、モニター、蛍光灯――全部が、ほんの少しだけ斜めになる。
俺の体だけが、水平を失った。
デスクに手をついたが、力が入らない。手のひらが滑る。指先の感覚が遠い。
鼓動が早いのか遅いのか、それすら分からなくなる。
「まずい」
頭の中で手順が立つ。救急。連絡。AED。
なのに体が動かない。
「港さん!」
誰かが叫ぶ声が聞こえた。
その声が、まるで水の底から聞こえるみたいに遠い。
ああ、そうか。これ、心臓か。
そんなことを思いながら、俺は床に倒れ込んだ。
冷たい床が、頬に当たった。
「床って、こんなに冷たかったっけ」
妙にどうでもいいことが頭に浮かぶ。
人間、最後は本当にくだらないことを考えるんだな、と他人事みたいに思った。
そして――意識が途切れた。
次に目を開けたとき、俺は草の上に寝転がっていた。




