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ショートショート→ショートへ(AIに文字数を増やさせホラー)  作者: 斉藤一


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3/15

『記憶の澱(おり)』

 その日は、朝から嫌な雨が降っていた。

 空は低く、重い鉛色の雲が垂れ込め、街全体が湿った灰色の膜に覆われているようだった。大学三年生の佐伯直人は、その日、亡くなった祖父の遺品整理のために、数年ぶりに実家の古い蔵を訪れていた。

 地方にある実家は、明治時代から続く古い地主の家系で、敷地の隅には時代から取り残されたような真っ黒な蔵が建っている。重厚な扉を開けると、ひんやりとした空気と共に、カビと埃が混じった特有の匂いが鼻を突いた。

「直人、無理しなくていいのよ。危ないものはないと思うけど、埃っぽいから」

 母の言葉を背に、直人は懐中電灯を手に蔵の奥へと足を踏み入れた。

 祖父は博識で、古美術品や古書の収集が趣味だった。棚には整理されているのかいないのか分からないほど大量の古書が並び、床には出所不明の奇妙な骨董品が転がっている。

 一時間ほど作業を続けた頃、直人は棚の最上段、重い木箱の裏に隠されるようにして置かれていた一冊のノートを見つけた。

 表紙には題名も名前もなく、ただ黒い革で装丁されている。手に取ると、吸い付くような奇妙な質感が指先に伝わった。直人は何気なくそのページをめくった。

 そこには、びっしりと狂気じみた文字が並んでいた。

『六月十三日。今日もアイツが来た。庭の隅、紫陽花の陰に立っている。顔はない。いや、顔があるべき場所に、真っ黒な穴が開いているのだ。アイツは私を呼んでいる。いや、私の中にある「何か」を呼んでいる。』

 直人は眉をひそめた。几帳面だった祖父が、こんな妄想めいた日記を書いていたとは驚きだった。ページを繰る手が止まらない。

『六月十五日。アイツが家の中に入ってきた。夜中、廊下を歩く音がする。ペタ、ペタ、という、濡れた足跡のような音だ。美津子(祖母の名)には聞こえていないらしい。私にしか見えず、私にしか聞こえない。アイツは、私の名前を「盗もう」としている。』

 日記の内容は、日付が進むにつれて支離滅裂になっていった。文字は次第に大きく、歪み、最後の方は血のように赤いインクで、ただ一行だけ、こう記されていた。

『次にこのノートを開く者に、私はすべてを譲り渡す。』

 直人は冷たいものが背筋を駆け抜けるのを感じ、思わずノートを床に落とした。その瞬間、蔵の奥から「ペタッ」という音が聞こえた気がした。

 その夜から、直人の身の回りで奇妙なことが起き始めた。

 アパートに戻った直人の耳に、絶えず微かな音が聞こえるようになったのだ。水が滴るような、あるいは濡れた何かが床を這いずるような「ペタ、ペタ」という音。

 最初は、隣室の生活音か、あるいは雨漏りだと思っていた。しかし、音が聞こえるのは決まって直人のすぐ後ろだった。振り返っても誰もいない。だが、振り向く瞬間の「空気の揺れ」だけは、確かに感じられた。

 三日が過ぎた頃、視覚的な変調が現れた。

 鏡を見るたびに、自分の顔が「わずかに」違って見えるのだ。鼻の形、目の角度、唇の厚み。どれも決定的な違いではないが、昨日までの自分とは明らかに違う誰かが、鏡の中から自分を見つめている。

「……疲れてるんだな」

 直人は洗面台の蛇口を捻り、冷たい水で顔を洗った。しかし、顔を上げた瞬間、鏡の中の「自分」が、まだ顔を洗っている動作を続けていた。

 一瞬のズレ。

 鏡の中の自分は、ゆっくりと顔を上げると、直人の目を見てニタリと笑った。その顔は、直人のものによく似ているが、口角が耳元まで裂け、瞳の中には無数の小さな「顔」が蠢いていた。

「うわあああ!」

 直人は洗面所から飛び出し、居間のソファに倒れ込んだ。心臓が早鐘のように打っている。

 (あれは幻覚だ。祖父の日記を読んだせいで、脳が勝手に恐怖を作り出しているんだ)

 自分に言い聞かせ、必死に呼吸を整える。しかし、ふと視線を落とした先で、彼は見てしまった。

 フローリングの床に、点々と続く「濡れた足跡」を。

 足跡は玄関から始まり、今、彼が座っているソファの目の前で止まっている。

 そして、その足跡の主は、直人の目の前にいた。

 天井から。

 首が異常なほど長く伸びた、真っ黒な影のような「モノ」が、逆さまに吊り下がっていた。顔があるべき場所には、祖父の日記にあった通り、深い、深い闇の穴が開いている。

 その穴から、掠れた声が漏れた。

「……なお、と……」

 名前を呼ばれた瞬間、直人の頭の中に、濁流のような「他人の記憶」が流れ込んできた。

 戦時中の飢え、見知らぬ女の叫び声、誰かを刺し殺した時の手の感触、そして、祖父が死の直前に感じていた、暗くて冷たい絶望。

 それらはすべて直人の記憶ではないはずなのに、今や直人の脳に深く根を下ろし、彼自身の記憶を食いつぶし始めていた。

 翌日、直人は大学へ行った。いや、行くしかなかった。部屋に一人でいれば、あの影に完全に飲み込まれてしまうと思ったからだ。

 しかし、大学の友人に会っても、彼らの顔が認識できない。目鼻立ちがぼやけ、まるで泥で捏ねた人形のように見える。

「直人、顔色悪いぞ。大丈夫か?」

 友人の一人、高橋が声をかけてきた。しかし、直人の耳に届くのは声ではない。高橋の「思考」だった。

(こいつ、気持ち悪いな。さっさと離れよう。でも借りた金は返さなくていいか)

 悪意に満ちた内面が直接脳に響く。直人は吐き気を催し、トイレに駆け込んだ。

 個室に閉じこもり、頭を抱える。

 今、自分の名前は何だったか?

 両親の顔は?

 子供の頃の思い出は?

 思い出そうとすればするほど、脳内の記憶の引き出しが、真っ黒な煤に汚されて開かなくなる。代わりに、あの影が持っていた「死の記憶」だけが鮮明に浮かび上がる。

 ふと、個室のドアの下、わずかな隙間に目が止まった。

 外から、誰かがこちらを覗いている。

 十本の指がドアの縁にかけられ、じわじわと中に入り込もうとしている。指は白く細長く、関節がいくつもあるように見えた。

「開けろ……返せ……私の名前を……返せ……」

 それは祖父の声だった。いや、祖父の声を真似た「何か」だ。

「嫌だ!来るな!」

 直人は狂ったようにドアを蹴った。しかし、指は消えない。それどころか、ドアを透過するようにして、白い腕がズルリと中へ侵入してきた。

 その腕が直人の首に触れた瞬間、猛烈な冷気が全身を襲った。

「お前が日記を開いた……契約は成立した……」

 直人の意識はそこで途切れた。

 気がつくと、直人は自分の部屋のベッドに寝ていた。

 窓の外は夕暮れ時で、部屋の中はオレンジ色の光と長い影が交錯している。

「……夢、だったのか?」

 全身にぐっしょりと汗をかいている。直人はゆっくりと起き上がり、台所へ向かった。喉が猛烈に渇いている。

 水を一杯飲み干すと、ようやく人心地がついた。

 ふと、居間のテーブルの上を見た。

 そこには、あの黒い革装丁のノートが置かれていた。

 直人は凍りついた。蔵に置いてきたはずだ。なぜ、ここにあるのか。

 吸い寄せられるように、彼は再びノートを開いた。

 日記の最後のページ。血のような赤で書かれた一行の下に、新しい文字が書き加えられていた。

 それは、紛れもなく直人自身の筆跡だった。

『六月二十日。成功した。私は今、佐伯直人としてこの部屋にいる。前の「直人」は、もう鏡の裏側だ。彼が私の記憶に耐えられず崩壊するまで、せいぜい三日といったところか。さあ、次は誰の名前を盗もうか。』

 直人は、いや、直人の姿をした「それ」は、鏡の前へ行った。

 鏡の中には、怯えきった表情の、本物の「佐伯直人」が閉じ込められていた。鏡の中の直人は、必死にガラスを叩き、何かを叫んでいるが、こちらの世界には一切の音は届かない。

 「それ」は、鏡の中の自分に向かって、穏やかに微笑んだ。

「お疲れさま。もう、いいよ」

 その時、玄関のチャイムが鳴った。

「直人ー?入るわよー」

 母の声だ。実家から様子を見に来たのだろう。

 「直人」は、キッチンから一本の包丁を手に取った。そして、鏡の中の自分をもう一度見つめ、口の端を異常な角度まで吊り上げた。

「お母さん、待ってたよ」

 ドアが開く音が、静かな部屋に響き渡った。

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