『響』
その音が最初に聞こえたのは、十月の肌寒い夜、午前二時を少し回った頃だった。
ト、ト、ト、ト。
それは、ひどく規則正しく、乾いた音だった。
木造アパートの二階、六畳一間のワンルーム。半年前からそこに一人で暮らしている真司は、ベッドの中で寝返りを打ち、耳をすませた。音は頭上――つまり、三階の部屋から響いているようだった。
「上の人、まだ起きてんのか……」
真司は小さくため息をついた。上の住人がどんな人物かは知らない。ただ、普段は驚くほど静かな部屋だった。夜中に多少の生活音がすることはあっても、これほど明確に歩き回るような音が聞こえたことはない。
だが、その夜は違った。音は一度始まると、一向に鳴り止まなかった。
ト、ト、ト、ト。
一定のテンポ。歩幅も全く変わらない。まるで機械がステップを刻んでいるかのような不気味な正確さで、音は天井を右から左へ、そして左から右へと往復している。
真司は枕を耳に押し当て、無理やり目を閉じた。やがて浅い眠りが彼を連れ去り、次に目を覚ました時には、外は薄明るくなっていた。足音は消えていた。
翌日。会社から帰宅し、ひと風呂浴びてテレビを見ていると、時刻は再び午前二時を迎えた。
時計の長い針が十二の数字を重ねた、まさにその瞬間だった。
ト、ト、ト、ト。
真司は思わずテレビの音量を下げた。
やはり聞こえる。昨日とまったく同じテンポ。同じ音量。
天井を見上げると、古いビニール壁紙の向こう側で、誰かが確かに歩いている。いや、「歩いている」というよりは、何か別の意図を持って床を叩いているような、そんな奇妙な違和感があった。
(少し神経質になりすぎているな)
真司は自分にそう言い聞かせた。集合住宅なのだから、上の住人が夜型なだけかもしれない。あるいは、何か夜間にしなければならない作業でもあるのだろう。
しかし、その翌夜も、さらにその翌夜も、午前二時になると正確にその音は始まった。
一週間が経つ頃には、真司の精神はすっかり摩耗していた。睡眠不足のせいで目の下には濃い隈ができ、日中の仕事中も、あの「ト、ト、ト、ト」という乾いた音が耳の奥で鳴り響いているような錯覚に囚われるようになった。
「なぁ、お前のところのアパート、上の階にどんな奴が住んでるか知ってるか?」
会社の昼休み、真司は同僚の男に尋ねた。
「さあな。俺も隣の奴の顔すら知らんし。それがどうかしたのか?」
「いや……毎晩、決まった時間になると、ものすごい正確な足音が聞こえるんだよ。時計の秒針みたいに規則正しい音が、何時間も。不気味で眠れなくてさ」
同僚は気の毒そうに眉をひそめた。
「管理会社に言った方がいいぞ。それか、直接文句を言いに行くか。だけど、最近は物騒だからな。まずは管理会社だな」
その日の夕方、真司はアパートの管理会社に電話をかけた。
「あの、302号室の騒音の件でお願いしたいんですが」
真司が事情を説明すると、電話の向こうの担当者は、なぜか妙に静まり返った。
『……お客様、恐れ入りますが、もう一度お部屋番号をよろしいですか?』
「302号室です。僕の真上の部屋です」
『……おかしいですね』担当者の声が、一段と低くなる。『302号室は、現在空室のはずですが。先月の半ばに退去されてから、まだ次の入居者は決まっておりません』
真司の背中に、冷たいものが走った。
「空室? でも、毎晩確かに音がするんです。誰かが無断で侵入して住み着いてるとか、そういう可能性はありませんか?」
『それは……鍵は施錠されていますし、定期的に巡回もしていますが、そのような形跡は。念のため、明日確認に行かせていただきます』
電話を切った後も、真司の心臓は激しく脈打っていた。
空室。誰もいない部屋。
では、毎晩午前二時に、自分の頭上でステップを刻んでいる「あれ」は、一体何なのだ。
その夜、真司は眠ることができなかった。電気をつけたまま、ベッドの上に座り込み、壁の時計をじっと見つめていた。
午前一時五十八分。
午前一時五十九分。
そして、午前二時。
ピピッ、と時計が午前二時を告げた電子音と同時に。
ト、ト、ト、ト。
始まった。
真司は息を呑み、天井を凝視した。電気に照らされた白い天井。その向こう側で、確かに何かが動いている。
だが、今夜はいつもと違っていた。
ト、ト、ト、ト……ト、ト、ト、ト……
音が、いつもより激しい。そして、気づく。
これまでは天井の右から左へ往復するだけだった音が、今夜は部屋の中心に向かって集まってきている。
ト、ト、ト、ト。
ト、ト、ト、ト。
音が、真司が座っているベッドの、真上の位置でピタリと止まった。
部屋が静まり返る。自分の荒い呼吸音だけが聞こえる。真司は天井の、ちょうど自分の頭上にあたる一点を、瞬きもせずに見つめ続けた。
沈黙。
長い、心臓が破裂しそうなほどの沈黙の後。
――ドスン!!
天井が、大きくしなるほどの凄まじい衝撃音が響いた。何かが上から思い切り飛び降りてきたような音だった。
「ひっ……!」
真司は短い悲鳴を上げてベッドから飛び退いた。
しかし、恐怖はそこからだった。
天井の一点から、再び音が響き始めた。だが、それはもう「上の階の床」を叩く音ではなかった。
ト、ト、ト、ト。
音のトーンが変わった。肉厚なものが、密着した何かを叩くような音。
それは、真司の部屋の「天井そのもの」を、下から逆さに歩いているかのような音だった。
ト、ト、ト、ト。
音は天井を這い回り、ゆっくりと、壁に向かって移動していく。
真司は恐怖のあまり身体が硬直した。動けない。視線だけが、音の主を追う。
音は天井から、壁へと移った。
ト、ト、ト、ト。
壁のクロスが、微かにピシ、ピシと音を立てる。目には見えない。しかし、確かに「何か」が、重力を無視して壁を垂直に降りてきている。
そして、その音は床へと到達した。
ペタ、ペタ、ペタ、ペタ。
床に降りた瞬間、音が変わった。それは、湿った素足がフローリングに吸い付くような、生々しい音だった。
アパートの床を媒介して、振動が真司の足の裏に直接伝わってくる。
(来る。こっちに来る)
音は部屋の隅から、真司が立つ場所へと、ゆっくりと歩みを進めてくる。
ペタ。
ペタ。
ペタ。
姿は見えない。部屋の空気は凍りつくように冷え切っている。だが、目の前の空間が、確実に「歪んで」いるのが分かった。そこに、質量を持った何かが存在している。
真司は狂ったように叫び、這うようにして部屋のドアへ向かった。
鍵を乱暴に開け、靴も履かずに廊下へ飛び出す。背後で「ペタペタペタペタ!!」と、凄まじい速度で追いかけてくる足音が聞こえた。
真司は階段を駆け下り、夜中の街へと飛び出した。心臓が口から飛び出そうだった。近くの、明るい光が灯るコンビニエンスストアへ駆け込み、店員の怪訝な視線も気にせず、夜が明けるまで雑誌の棚の前に立ち尽くした。
翌朝、真司は管理会社の人間とアパートの前で合流した。
眠れぬ夜を過ごした真司の顔は土気色だった。管理会社の社員は、真司のただならぬ様子を察してか、真剣な面持ちで言った。
「お待たせしました。では、302号室を確認します」
二人は階段を上がり、302号室の前に立った。
社員が鍵を取り出し、ドアノブに差し込む。カチャリ、と重い音がして、ドアが開いた。
部屋の中は、当然ながらがらんとしていた。家具はなく、カーテンもない。窓から差し込む朝の光が、埃の舞うフローリングを照らしている。
「ご覧の通り、誰もいませんよ」
社員は部屋を見回しながら言った。
「やはり、お疲れだったのでは……」
真司は何も言えず、部屋の中へと一歩踏み込んだ。
本当に誰もいない。自分の錯覚だったのだろうか。あの生々しい足音も、壁を這う音も、すべては寝不足が見せた悪夢だったのか。
そう思い、安堵のため息を漏らそうとした、その時だった。
真司の目が、部屋の中央の床に留まった。
「あ……」
真司の声が震えた。
社員が不思議そうに真司の視線を追う。
そこには、あった。
埃がうっすらと積もったフローリングの床に、くっきりと、いくつもの足跡が残されていた。
だが、その足跡は異常だった。
サイズは人間の子供ほどのように小さいが、指の数が明らかに多い。そして何より、その足跡は、部屋の入り口から始まっているのではなかった。
部屋の、真ん中の一点。
そこから始まって、円を描くように、ぐるぐると執拗に歩き回った跡が残されていたのだ。
まるで、真下の部屋(真司の部屋)にいる人間の位置を、上から正確に探っていたかのように。
「これ……何ですか……?」
真司が呟いた瞬間。
パチ、と部屋の電気が一瞬、明滅した。
いや、この部屋には電球などついていないはずだった。
そして。
ト、ト、ト、ト。
真昼の、誰もいないはずの空室の、その天井から。
今度は、さらに上の階(屋上)から押し潰すような、あの乾いた足音が響き渡った。
「う、うわああああ!」
管理会社の社員が悲鳴を上げて部屋から逃げ出した。真司もそれに続くように、狂ったように走り出した。
真司はその日のうちに荷物をまとめ、ビジネスホテルへ避難した。アパートの解約手続きもすぐに進めた。違約金がいくらかかろうが、あの場所に一秒でも長くいることは不可能だった。
一週間後、新しい引っ越し先が決まった。
今度は築浅の、鉄筋コンクリート造りのマンションだ。遮音性も高く、周囲の音はほとんど聞こえない。
「ここなら、大丈夫だ」
新しい部屋のベッドに横たわり、真司は深く息を吐き出した。ようやく、あの恐怖から解放されたのだ。時計を見ると、時刻は午後十一時。心地よい疲労感が彼を包み込み、意識は急速に遠のいていった。久しぶりに、深い眠りにつけそうだった。
……。
……。
どれほどの時間が経っただろうか。
ふと、身体が奇妙に冷え込むのを感じて、真司は目を覚ました。
部屋の中は真っ暗だった。
スマートフォンの画面をつけると、文字が浮かび上がる。
午前2:00
真司の心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をした。
静寂。
耳をすます。しかし、何も聞こえない。最新のマンションだ。上からも、隣からも、何の音もしない。
「……あぁ、良かった」
真司は安堵し、スマートフォンを枕元に置こうとした。
その時。
ト、ト、ト、ト。
音が聞こえた。
真司は全身の血が凍りつくのを感じた。
だが、その音は、天井からではなかった。
壁からでも、床からでもなかった。
音は。
真司が敷いている、布団の「中」から聞こえていた。
ト、ト、ト、ト。
小さな、しかし確実に質量を持った「何か」が、真司の足元から、布団のシーツを蹴りながら、ゆっくりと彼の胸元に向かって登ってきている。
暗闇の中、真司の足の上に、冷たい、湿った「何か」が、ぽんと置かれた。
ペタ。
それは、次のステップを踏み出すための、確かな足音だった。




