ソムベリーからの手紙
リリィは一気に酔いがさめてゆくのを感じた。みんなが、ヴァイオリン弾きやレイチェルさえも、リリィの台詞に唖然としている。ヴァイオリン弾きは演奏をやめ、口をポカンと開けていた。
「リリィ、大丈夫?」
メアリーが心配そうな顔をして言った。ちょうど、海の上で聞こえないはずの声が聞こえるのは、狂言の始まりだという言い伝えを思い出したのだ。
「空耳よ」
リリィはやっとのことで言った。
どう考えても、あの「声」は空耳などではなかった。それなのに、みんながリリィを狂人かなんかのように見ている。
「頭がぼんやりしていたんだ」
マティアスが庇うように言った。
「そうだわ。昨日だってちゃんと寝ていなかったものね」
メアリーが言う。
リリィは適当に話を合わせておいた。皆が元の調子に戻ってからも、波の合間を見つめる。今にも人魚が顔を出すような、そんな気がしていた。
翌朝、マティアスの出発は延長になった。メアリーもリリィも別れのためにとっておいた涙を引っ込め、奇跡が起こらないかと祈ることにする。
どうやらマティアスはリチャードに出発を引き止められたらしい。老トルナドーレ卿にあてた手紙を渡して欲しいとのことである。
メアリーといえば、海辺でのお祝いの日から、何か落ち着かなくなっていた。エル城行きを免れたというのに、苛立っている。最初はマティアスとのいざこざのせいなのかもしれない、と思った。少しは反省したのだろう、と。だがその割には悪びれた様子はない。結婚のけの字も思い浮かばないようである。相変わらずの調子で、マティアスに話しかける始末だ。マティアスは、メアリーよりもリリィやレイチェルと時間を過ごそうとした。
「マティアスとレイチェルって、意気投合してるのね。まったく予想してなかった」
リリィは剣の稽古の休憩中に言った。
アレックスとリリィとで、野晒しの踊り場に来ていた。使われていない階段の踊り場と、天文台から伸びた橋の上が、皇女の稽古場である。天文台の近くは人が寄りつかないのでいい。天文台はごく少数の学者と弟子が使うだけで、城内の衛兵でさえ見回りに来ないのだ。ヘレナに咎められる心配もなかった。階段の方は取り壊そうとしたところを放置されているので、皇家の兄妹と冒険を切望している子どもしか使わない。
稽古場のすぐ近くには滝壺がある。休憩のたびに、流れ落ちる滝を眺め、水の音を聴いた。真っ白な滝を見つめていると、心が浄化されるような気がする。
「レイチェルとマティアスは同郷なんだ。二人って、心根が似てるような気がしないか?メアリーはレイチェルを嫌っている。二重顎とか、のろまとか、男たらしとか、散々な言いようだよ」
アレックスがそう言って苦笑した。
「そうなの、知らなかったわ。レイチェルが男たらしなんて、そんなことないはずだけれど。ただ内気で、ちょっとぼんやりしているだけよ」
メアリーの機嫌が悪い理由がわかった。レイチェルに自分の座が奪われるのが嫌だったのだ。女で〈風と波の宿〉に来ていいのは、メアリーとリリィだけ。レイチェルがマティアスと仲良くなるのも許せない。ほんの少し前までマティアスの心を占めていたのは、この私だというのに。
「レイチェルが不憫だ。珍しいなぁ。マティアスが来たよ。ひょっとしたら、別れの挨拶かもしれない」
アレックスがヒョイと身を起こして言った。
見ると本当にマティアスがやってきていた。橋の向こうから広い歩幅でこちらに近づいてくる。リリィはマティアスのところまで走っていった。
「祖父から便りが来たよ。〈兵舎〉にとどまれ、という命令さ」
マティアスが朗らかな口調で言った。
「まあ、本当に?それって、とっても嬉しいわ。メアリーやレイチェルも喜ぶわね」
リリィは不安を覚えながらも言う。
「ああ、問題はそのメアリーなのさ!」
マティアスがアレックスに聞こえないように、低い声で言った。
いよいよ不穏な気配がする。
「皇帝が正式に僕ら両家の縁組を考えているらしい。考えてもみろよ。僕にもメアリーにも地獄だ。メアリーはアレックスの横で何を思う?僕は無理やりにメアリーと結婚なんてしたくない。そんな下劣な男になるつもりはない」
しかし、婚約は決まってしまった。リチャードが直々にメアリーと話したのだ。メアリーとて断れるような状況ではなかった。
皇帝の書斎で、メアリーは自分の人生すべてが失われようとしているのを、感じていた。愛も、野心もない。
リチャードはメアリーの生い立ちについて語った。リーの意向一つで、メアリーの貴族としての人生が奪われようとしていることも。
「若い君には試練だろうね。母親の知られてはならない秘密を聞かされるとは。貴族の娘として、裕福な暮らしもしてきた。妃のヘレナにも可愛がられて。だが、トマス卿は君から、裕福な生活も、将来受け継がれるはずの遺産も取り去ろうとしている。酷いことに思えるかもしれないが、法的にも可能なんだ」
メアリーは奴隷の娘として生きることよりも、結婚を選んだ。だが、本当のところ、すっかり混乱していただけかもしれない。母の驚愕の素性が明らかになり、皇帝に朗々たる口調で説得されたので、そうするしかないように思われたのだ。




