花 3
僕は固まりつつある頬の筋肉を動かして愛想笑いを浮かべようとした。
人々は僕の表情を見ると口々に何やらささやき合っては僕を軽蔑の視線でみた。そして僕と視線を合わす度に急に顔色を変えて早口で何かささやき合う。そんな事を繰り返していた。
一人、大柄の老人が振り向くと砂丘の向こうへと歩き出した。それが何かの合図だったのだろう。一人、また一人と僕を置いて砂丘の向こうへと消えていった。
残ったのは僕とさっきの女だった。僕は相変わらず凍っていた。僕はまた彼女の顔を見た。白い頬に、光る筋を見つけた。
「何で行ってしまったんですか」
そういうと女は僕に向かって右足を踏み出した。近づいてくる、近づいてくる、ちかづいてくる、チカヅイテクル、CHIKAZUITEKURU・・・・、
それからどれくらいたったのだろう。僕が目を開けたその先にはえっちゃんの顔があった。暗くなった部屋の中で僕はベッドに寝せられていた。医者も看護人ももうどこかへ行ってしまったのだろうか、彼女は一人で静かに僕の顔を見入っていた。いつもの発作だろう、はじめのうちはそう思った。これまでも同じ様な事は何度か合った。しかし今度のそれはなんとなく不安だった。頭がガンガンと痛んでくる。意識を失ったときにどこかにぶつけたようで包帯が頭を締め付けて気持ちが悪い。しかし断じてそれが原因ではない。
「あ、気がつきましたか。下で林檎を剥いて貰ってきましたから」
林檎を取ろうと彼女が振り向いた瞬間、彼女が少し笑ったように見えた。そしてほぼ同時に僕は不安の原因を突き止めた。
「僕の花、花はどうしたかい」
僕は搾り出すようにそう呟いた。
林檎の乗った皿が僕の布団の上に落ちた。沈黙。突然、えっちゃんの表情が少し寂しそうな表情に変換された。
「どうしたんだい」
僕は彼女の細い肩に手を掛けた。しかし、彼女はパッと飛び上がって。部屋の隅に座り込んでしまった。
僕はそんな彼女をはじめてみた。いや、どこかで見た事があるかも知れない。ただ忘れてしまっただけかも知れない。僕はしかたなく上体を起こした。今、重要なのは花である。そしてゆっくりと祈りをこめながら窓の方へ首を回転させて行った。
机の上、僕の視線はふらふらと徘徊を続けた。そこには何もなかった。いや、植木鉢だけは明らかにそこにあった。しかしその上から伸び上がっている緑の茎も、鉢の縁からはみ出した葉も、そして真っ赤に輝く花弁もそこにはなかった。僕はすべてを了解したような気がした。それと同時に身体の力が抜け、何もかも嫌になっていくような気がした。
「そうか分かったよ」
僕はそう言うと立ち上がろうとした。
その時、急にえっちゃんが立ち上がって僕の前に立ちふさがった。彼女は泣いていた。僕はそのまま押しのけて立ち上がろうとしたが、白く細い腕は思いのほか力強く僕をその場に固定した。
「私が捨てたの。この植木鉢には何も生えてなかったから・・・」
僕は知っていた。いつかこうなるだろうという事ぐらいは。僕は別に怒るわけでも嘆くわけでもなく、立ち上がりかけたそのままの姿勢で彼女を見つめていた。彼女は下を向いて何かに必死に耐えているようにも、また何か違った変化を待っているようにも見えた。確かに変化はあった。彼女はきっと正しいだろう。そして僕は間違っているだろう。
「植木鉢には何も生えてなかったの。だから捨てたの・・・。あなたにもそれを知って貰いたくて・・・、捨てたの」
僕は肩の上に乗せられた悦子の手を握った。他にどうしようもなくて笑顔を浮かべると彼女もようやく落ち着いたように僕に向かって昔のような金属製の微笑みを浮かべていた。
「解っているよ。僕は知っているよ。ただなんとなくそう言ってみたかったんだ」
僕はゆっくりと立ち上がって、もう一度、昔、僕が生えていた鉢に目をやった。素焼きの粗末な植木鉢の底、こびり付いた砂粒の中に昔ながらの見慣れた世界が何処までも果てしなく広がっていた。
橋が壊れた今僕はもう戻れない。




