花 2
何時もと同じ台詞。一瞬、古代ギリシャの彫刻のような表情が緩んで黄色い笑顔が浮かんだ後、あたかもそうする事が当然の事と言ったふうにベッドの上に散乱した本やノートの類を片付けはじめる。これもいつもの事だ。まるで機械のように正確であること。彼女と接する上で大切な事はこれだけだ。
僕は何をするわけでもなく何時ものように書き上げたばかりの花の観察記録を読み直して、誤字脱字がない事を確認した。そしてえっちゃんがベッドの上を片付け終わったのを見ると水をこぼしたシミのある茶封筒と一緒に彼女に手渡した。彼女はつまらなそうに僕の報告書を手に取ると、さもそうするのが当たり前だと言ったようにベッドの脇に座って読みはじめた。僕は自分の書いた物を目の前で読まれる事に少し抵抗を感じたが、いつものように何も言わずに彼女の細い眉が僕の報告書の文字を追っているのを眺める。真剣に読んでいるのか、読み飛ばしているのか、その表情だけではなんとも言えない。しかし明らかにそれが自分の義務であるとでも言うように彼女は報告書の隅から隅へと視線を移動させた。
僕は彼女の置いていった番茶を啜りながらまた花に目を移した。近頃、なぜか光が弱まっているように見える。はじめ、ここに来た頃はこうして机に座っているだけで赤い光が嫌でも目に付いたが、最近はただこうして振り向いてやらなくてはその赤い光を見てやる事ができない。肥料が足りないわけではない。油粕は一ヶ月に一度、液体肥料もちゃんとやっている。また水のやりすぎで根腐れしているわけでもない。この前、植え替えをしたときに根をよく見てみたが、特におかしな所は何処にもなかった。しかしそれでいて昔のような光は何処にも見られなくなってしまった。昔は空に向かって垂直に伸びていた茎も、今では重い頭に耐えかねたようにずり下がり、葉には虫食いの痕が点々としてその何枚かはもう既に黄色く枯れかかっていた。しかしこの花を枯らす事はできない。
「殺虫剤、役に立ちましたか」
僕の意識がこの部屋に立ち戻ったとき、えっちゃんは読み終えた報告書を封筒の中にしまい終わっていた。
「ああ、本当に助かったよ。また今度変な虫が湧いたときもよろしく頼むよ」
無意識だったが僕は彼女の肩に手を掛けた。えっちゃんは静かに俯いた。化繊の様な艶を持つ髪が耳から眉、そして鼻とあたかも劇場の幕が降りるようにその一つ一つを隠していく。僕はその一つ一つを思い出しながらえっちゃんの肩を強く握った。なぜか震えているように見えたのは気のせいだったのだろう。そう思うと急に恥ずかしくなって、僕は彼女から手を離して机の上のお茶に手を伸ばした。思えば不思議なものだ、彼女は明らかに狂っている。しかし、それでいて僕についての諸々の思い出を除いて仕舞えば彼女は何処と言って悪いところなど無い。なのになぜ・・・。
止めよう。それ以上考えるのは。
僕が再び薬の礼を言おうとして振り向いたとき、もうえっちゃんはいなくなっていた。何時も聞かされている僕の知らない昔の僕の話を聞けなかった事が、少しばかり残念な気がしたが。
僕は番茶の最後の一口を飲み干すと、昨日の大風のため埃にまみれたサッシを開けて、光を失いつつある僕の花のために新鮮な空気を部屋に取り込んでやろうと立ち上がった。せめてそのぐらいしか僕にできる事はない、そう思っていた。
ふと植木鉢を見下ろした瞬間、僕は奇妙な光景を見た。植木鉢の中の光が急に赤々と燃え上がって、僕の身体を包んだかと思うと、次の瞬間急に辺りが真っ暗になった。何が起こったのか解らず、僕はその場に座り込んだ。
僕は歩いている。視界は殆ど無い。足元には白い砂があるから砂浜かもしれないが、波の音が聞こえないので海の近くだとも言い切れない。ただ僕は歩いている。何やらさっきまで僕は相当気になる事があったらしいが、もう僕はすっきりとした気分で歩いていけるようになった気がする。何か音が聞こえる。自然音ではない事だけは分かる。何やら金属的な、ものを引っかくような、叩くような、そう言った無駄な音だ。それが一体何であるか、僕はそれを知ろうともしない。ただ僕は満たされようとしている。何に満たされているかすら、僕には分からない。
足が重くなった。地面が緩くなってきて足を取られているらしい。砂粒が靴に入って足の裏がざらざらとしてきた。僕はそれでもなお歩き続けている。満足感は更に大きくなっている。ここで止めてたまるか、そう思いながら更に歩き続ける。
霧がだんだん薄くなってきたのが分かって、僕は立ち止まった。視界が開けてくるに従って、何やら黒っぽい影が見え、それがだんだん大きく、はっきりとしてきた。いつの間にか黒い塊は数人の人影となった。そしてその一人一人の顔に浮かんだ不安と嫌悪が僕の満足感を薄めようとしているかのようで僕は目を反らしたくなった。
なぜだろう、身体が急に凍ったように動かなくなった。僕の目はただ正面の一点を向いたまま瞬きもできずにいる。僕はその一点に目の焦点を当てていった。ただ一人、表情をまったく消去したような顔がそこに浮かんでいた。何処かで見たような女だった。僕は必死に思い出そうとしたが、或一点までくると急に何もかも忘れて出発したところに戻ってしまうようで何一つとして思い出すことはできなかった。




