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東京時代(「水槽の街」改題)  作者: 恵梨奈孝彦
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弘美

「婦警さん、ちょっとあたしの話を聞いてよ…」


彼女は関東の、ある地方都市に生まれた。

 父親は普通のサラリーマン、母親は専業主婦だった。

 母が怖くて、父は気が弱かったが、生まれて何年かは普通の子どもだった。

 しかし彼女は、本人が望んだわけではないが、ひどく可愛らしく成長した。

 父親はそんな彼女を異常なやり方で愛した。

 初潮を迎えたころから、彼女が入浴しているところを覗くようになった。

 彼女が寝ているところを触りに来るようになった。

 所謂「性的虐待」であるのだが、彼女自身はその意味がよくわからなかった。

 友達に聞いて、そんなことをするのは自分の父親くらいだと知ったが、自分が特別に愛されているとしか思わなかった。

それほどに、彼女は幼かった。

 しかし当然、それが母親の知るところとなった。

 家つき娘だった母親は、父を家から追い出した。

 母親は、若いころから美人だと言われていた。しかし父親はもはや、妻の気の強さに辟易していた。もしかしたら自分の娘に、出会ったころの恋人の面影を見ていたのかもしれない。

 家には彼女と母親と三歳上の兄だけになった。

 しかし、これで普通の生活に戻ったのかといえばそうではなかった。

 「お前なんかいらねえんだよ。この泥棒猫が! おまえさえいなければあたしも! 家事だけやってれば普通に飯が食えたんだ!」

 母親が彼女にまず言ったことはこれだった。

 母親は彼女を娘としてではなく、「女」として見始めていた。父親を家から追い出したのは、娘を守るためではなく、娘から引き離すためだけだったらしい。

 本格的な虐待が始まった。

朝は、椅子が飛んできてお腹の上に落ちて起こされる。

 首を絞められて脱糞し、「きたねえ!」と殴られトイレに閉じ込められる。

「カネがねえからおまえなんか自殺しろ」と怒鳴られる。

 学校の友達に会ったあとは必ず「あの子はね、お母さんの前では猫をかぶっているけど本当はおまえのことが嫌いなんだ」と言われた。

離婚の経緯が経緯だけに父親から養育費が振り込まれることはなかった。しかし母親は働いてこそいなかったが、二人分の児童手当と生活保護を受け取っていた。だが、それを彼女のために使うことなどなかった。

 元々家事が嫌いで、掃除も洗濯も全くしなくなったため、家の中は臭くて、彼女はいつも汚れた服を着ていた。

 ご飯とふりかけだけでも与えられればいい方だった。

 いちばんつらかったのは、自分のぶんだけ食事が用意されていない時だった。

 兄は、普通にこざっぱりした服を着せられ、ちゃんとした物を食べていた。

 いちど兄が食べ残したおかずに手を出したとき、「やっぱり泥棒猫は泥棒なんだな!」と怒鳴られ、本当に殺されるかと思うくらいに殴られ、蹴られた。

 むろんこんな虐待家庭を周囲が放っておくはずもなく、近所の大人が通報し、彼女は母親のもとから離れることができた。

 ここで問題になったのが彼女の行き先である。父親はすでに再婚し、別の家族を持っている。彼女の入り込む余地などない。必然、施設で保護されることとなった。

 そこの所員、先生たちはやさしかった。彼女ははじめて人のやさしさに触れることができたと思った。

 しかし、「将来は、お母さんと暮らせるようになればいい」と言われたのには閉口した。

かつて孤児院と呼ばれていただけに、(名称が変わったのは、今では孤児よりも被虐待児の入所者の方が多いからだろう)こういう施設は、設備が整っているとはいえない。しかし彼女には、友達ができないことの方がつらかった。

 乳児や幼児のころから施設育ちの子どもが多く、彼らは最初から施設を自分の家だと考えている。よその家から、小学校の高学年になって入ってきた彼女を、家のメンバーと認めるような度量は彼らにはなかった。

 それに耐えられずに何回も施設を脱走し、そのたびに連れ戻された彼女は、自立支援施設に送られた。

 「自立支援施設」は、「主に義務教育世代の少年少女で、犯罪や触法行為をする危険性が高いとされた者を、共同生活の中で自立の道を探らせよう」というコンセプトで作られている。矯正施設ではないが、軟禁されているような状態であることは確かだ。今度脱走したら「国立きぬ川学院」(矯正教育や外出制限がはるかに厳しい)に行かせると脅されしばらくは大人しくしていた。

 そんなある日、施設の先生からこう言われた。

「あなたが15歳になるまでに、お母さんと仲良くなって、一緒にくらせるようにがんばろう」

 「15歳」と具体的な期限を言われたのは初めてだが、実はこういう施設の先生はみな同じことを言う。上の方から、こう言うように言われているのではないかという気がしてきた。そのため、先生たちが自分にやさしいのは、仕事だからそうしているだけの気もしてきた。彼女が施設の中で孤立しているのをほったらかしにしていることも、「これ以上あたしにかかわりたくないからじゃないか」とも思うようになっている。だから母親のところにもどそうとしているのか。彼女の母親は、娘に対する暴行と傷害のために逮捕されたが、起訴猶予になり今もあの家にいる。

「今度もどったら、あたし殺されるよ」

 逮捕されたことによってますます娘を憎むようになった母親なのだ。

「そんなことを言って…。あなたはいままで本当にお母さんと対決したことはないでしょう?」

 だから、対決したら殺されるんだって。

 このままここにいたら、いつか母親のもとに返される。それくらいなら…。彼女はついに、自立支援施設からも脱走した。

 

普通の女の子よりもはるかにませているとはいえ、まだ十四歳になったばかりの少女が、ここまで筋道を立てて説明したわけではない。彼女の話が弘美の気持ちを動かすことはなかった。

 弘美もまた、厳しい父親に育てられた娘である。彼女が高校を卒業してすぐに就職したのも、父親の「勉強しない奴を大学に行かせる必要はない」という信念からだった。兄二人は大学に行かせてもらった。きょうだいの中で自分ひとりが高卒なのだ。そんな弘美にはこの少女の話は「甘え」としか思えなかった。

「ワケわかんないけど殴られた」

 おまえがわかっていないだけで、親が子どもを殴るのにはちゃんとしたわけがあるんだよ。

「おまえは自分が世の中でいちばん不幸だと思っているかもしれないけど、この世には飢餓のせいで死んでいく子どもや、障がいがあって体もろくに動かせないような子どもがいくらでもいるんだよ!」

「だからって、あたしが幸せにな気持ちになるわけじゃないし」

「だから! それが甘えなんだよ!」

「ごはんを貰えないことなんかしょっちゅうだったし」

 わたしだって、反省のために「おまえはもう飯を食わなくていい!」と言われて空腹のまますごしたことがある。

「大事なものを目の前で壊されたこともあるし」

 おもちゃを片付けずにおいて捨てられたこともある。厳しいけれどこれも躾だったと今なら思う。

「いろいろ壊されたけど、いちばんショックだったのはユーリかな」

 人形の名前だろうか。


「生後五ヶ月の子猫」


 ………ここで弘美は、目の前の少女が体験してきたことが、自分の体験とは全く別のものだと初めて理解した。

 つかんでいた手を放した。

 少女は、窺うような目でこちらを見ている。

「あなたが寸借詐欺をしたという証拠は別にないし、それを確認するためにはさっきの『さくら』という子の話と照らし合わせなきゃならないけれど、彼女を呼び出すのはもはや不可能だ。だから…、行っていいよ」

「えっ…ほんと。ありがとう」

 少女はさっきの生意気そうな態度とは打って変わって、へこへこと卑屈そうにお辞儀をすると、小走りに去っていた。

 キャリーバッグをごろごろ転がしながら慌てて走って行く少女の姿が見えなくなっても、弘美の中の「これでよかったんだろうか」という気持ちは消えなかった。



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