道の交わるところ
渋谷駅の南口を出ると、ハチ公像がすぐ近くにある。しかし、近くにあるとしても、すぐに目にすることができるわけではない。どんな時でも、ものすごい数の人がこの空間に割り込んでいるからだ。
南口を出て左に折れ、ものすごい人垣に割り込んでいき、ずっと駅を左にしたまま進んでいくと、ようやくハチ公前に出る。駅舎を背にして立つとその正面に、あの巨大なスクランブル交差点がある。全国的にも、いや海外でも有名らしい。信号が変わると同時に群衆が一斉に動く。その壮観さは津波のようだ。スクランブル交差点の向こうには円筒形の、特徴的な建物が見える。SHIBUYA109だ。東京の女性ファッションの最先端だ。その右側に「渋谷センター街」の入口がある。飲み屋街ではあるが、それだけではない。全国チェーンの安売り洋服屋があり、いきなり日本舞踊の教室があり、TSUTAYAがあり、それらが何の整合性もなく共存している。渋谷の雑種文化の、まさに象徴のような街だ。
ここに立っていれば、渋谷を象徴する建造物を、一目で見渡すことができる。南口は「シブヤ・イースト」とは対照的な、大都会のまっただ中にいることをだれでもいやおうなく思い知らされる、そんな場所だ。
さくらは今、これで何度目になるだろう、母親とともに渋谷の地に立っていた。
比較的暖かな土地で育ったさくらには、東京の冬でさえひどく寒い。しかしその寒ささえも、さくらには新鮮だった。
寒い空の中程に、目前の巨大な液晶板が幾何学的な模様を映し出している。その隣では、これも人体の数十倍ものパネルが、映画や清涼飲料水の広告を無音で映し出している。周りには、まぶしいほどのネオンが無数に光っている。
そして地上には雑踏の喧噪がいつ果てるともなく続いている。これが東京か。
むろんさくらも現代に生きる少女だ。地方にいても、渋谷にくればこんなものだろうと頭では理解していた。しかし、実際に立つのとは違う。彼女も若い。都会の光景を「文明の堕落だ」とか言い出すような賢しらはない。それよりも華やかな場所に対する憧れがはっきりとある。さくらの目には全てが洗練されていて、おしゃれに見える。四月からはこの都市に住む、毎日渋谷の校舎に通うと思うと、不安とともにある種の興奮が抑えきれない。
今日は、下宿を探すためにここに来ている。あの日無事に受験をし、合格できた彼女は、AO合格の利点を活かすために年内に下宿を決めることにしたのだ。年を越してしまえば、一般受験組も下宿を予約することができる。その前に良い物件を抑えておいた方がいいという母親の意見に従った形だ。
緑は、田園都市線の沿線に住めばいいと行っている。実はさくらの行く大学は本校舎こそ渋谷にあるが、体育の授業だけはたまプラザのグラウンドに通う。渋谷に出るのもたまプラザに行くのも便利だというのがその理由だ。
一方父親の祐助は、なるべく渋谷の校舎に近い方がいいという意見らしい。
今日は決められなかったが、来週の週末には決定するという結論を出して、母とふたりで歩道で信号待ち(スクランブル交差点ではない駅のそばの信号である)をしていたとき、さくらは知った顔を見つけた。
「あの…、あの時の婦警さんですか?」
これだけの人の数だ。彼女が私服を着ていたらわからなかっただろう。しかし彼女はこの渋谷でももっとも目立つ服、つまり婦人警官の制服を着て歩道に立っていた。
婦警は、突然声をかけられて面食らったようだったが、さくらを見て微笑んだ。
「ああ、あの時の…」
「山本さくらです」
「あの時は名前も言えなかったよね。坂本弘美です」
さくらは近くに立っていた母親の袖をひっぱった。
「お母さん、前に話した、入試のときにお世話になった婦警さんだよ」
「巡査の坂本です」
弘美が緑にも挨拶した。
「あの時はお世話になりまして…」
「いいえ。何もしていません」
「まったくこの子はいいように騙されて…。本当にここで一人暮らしなんかできるんだろうかと不安ですよ」
「あたしはあのとき、騙されてなんかいないよ!」
「何言ってるの! 何回も言ったでしょ! 白石小百合なんていうわざとらしい名前の子なんかうちの近所にいたことがなかったって! あんたからお金をだまし取ろうとしてたんだよ!」
「返してもらったもの!」
「返すのが当たり前なんだよ! すいません婦警さん。だけどああいうことが二度とないように、しっかりとりしまってくれなきゃこまりますよ!」
それを聞いて弘美は、なんとも複雑な顔をした。
「たしかにそうです。だけど…、彼女たちがあんなことをしなくてもすむようなシステムが必要でしょうね」
「それはあなたの考えることではないでしょう。あなたのやるべきことは、犯罪をとりしまることです」
「お母さん、婦警さんはあたしのためにいろいろ気を使ってくれたんだよ!」
「いや、いいんです」
「あんたまさか、税金を使って、そういう子も大学に入れてやるべきだとか考えてるの?」
「そういうのもいいと思いますよ」
「それは、親ががんばるしかないでしょう」
弘美がちょっと沈黙した後に言った。
「ああいう子たちの親というのは、たとえお金を持ったとしても、まず子どもに使ったりはしないでしょう。だから親を通してではなく、国なり自治体なりがお金を子どもに直接出せば…」
「あのね、こんなことを見ず知らずの人に言いたくはないけれど、ウチだって決して裕福じゃないんですよ。お父さんだってもうすぐ定年で、この子を東京に出すのは苦しい。家のローンだってある。貯金なんか全然無い。だからこの歳になって、スーパーでレジ打ちなんかしなきゃならない。それでもこの子を東京の大学に入れるのは、この子の夢を叶えるため! わたしだって大学に行きたかったですよ! だけどわたしたちのころは、『女には学問なんか必要ない』『下手に学問なんかあると生意気になって嫁にいけなくなる』とか言われて、わたしより頭の悪かった弟は東京の大学に行かせてもらったのに、私は地元の短大にしかいけませんでした! 幸か不幸かウチにはこの子しかいません。だから、どんなことをしてもこの子には大学に行かせてやりたいんです! 私たちが苦労しているのは、他の誰でもない、この子のためです! なんでそういう親がいない子と、苦労してる親の娘が同じように大学に行けるんですか! おかしいじゃないですか!」
「しかし、それは子ども自身の責任ではないでしょう。大学に行けば、将来高収入の仕事に就く機会が与えられます!」
今度は緑が沈黙した。しかし怒りをこらえたような声で緑が話しだした。
「あんた、いやにその子に肩入れするけど、まさか見逃したんじゃないでしょうね」
弘美が再び沈黙した。
「婦警さん、ちょっと来てください。あなたの上司に抗議しなくちゃならない」
さくらは叫んだ。
「ちょっとお母さん! この婦警さんは私に親切にしてくれて…」
「そんなことは関係がない!」
弘美が言った。
「わかりました。いっしょに来てくださいますか?」
弘美と緑が歩き始め、小走りについていこうとしたさくらに緑が振り返ってぴしゃりと言った。
「あんたはついてこなくていい!」
さくらは驚いて歩みをとめた。
「いい?! あんたはここで待ってなさい! いや、ここじゃ寒いから駅のドトールででもコーヒーでも飲んでなさい! いい? 絶対に知らない人にお金を渡したりするんじゃないよ!」




