答える。答えない。答えたくは――
二人が出会ったばかりのあの頃。
祐治の母親は、他国の学会にも呼ばれるほどの学者であった。講演の依頼はひっきりなしに舞い込み、年中様々な国を巡っていた。ある意味、研究ができるなら山奥のおんぼろ屋敷に何年も籠りきりになれる大悟とはお似合いの人種であろう。
雪の母親は城山病院に入院していた。ごくたまに調子がいい日に限って、自宅に戻ってきていたくらいだった。修介はおんぼろ屋敷と城山病院を頻繁に往復して、幼い娘と妻の面倒も見ていたのだ。
祐治の母親の多忙ぶりは、夫の作った研究所の資金を集めるためでもあったのだろう。雪の母親の方はというと、結婚よりも前から難病を患っていた。自分に付き合うだけでなく、雪に友人をつくってほしいと妻が望んだこともあり、雪のみが修介の元へ向かったのだ。
だから祐治と雪は、それぞれの父親との二人暮らしだった。とはいえどちらも研究を理由にして自宅にはなかなか帰ってこない。今時の家事は子供がボタン一つでなんとでもなるため、生活で不便はなかった。だからほぼ一人暮らしでも、特に問題は起きることなく二人は成長した。
だがそれにしても、祐治と雪は父親たちと親子らしいやり取りをしなかった。たまに山で遊んでいる時や自宅で、二人の父親たちと交わすような言葉というと――
雪、どうして祐治くんからそんな遠いところにいるんだ! そこにいたら祐治くんに何もしてあげられないだろう!
宮元雪はどうだ。ちゃんとお前の言うことを聞いているのか?
雪がケガをしている? 今はまだ受け身の練習を始めたばかりでね、ケガが多いんだ。でもこの研究が終わるまでには、しっかりと祐治くんを守れるだけの技術をマスターさせるから。
授業参観は母親にパスコードを伝えてある。あいつは今イギリスにいるらしいから、向こうから動画で見るだろう。電波状態も安定している場所だから問題ない。俺は忙しいんだ。あとはあいつに言え。
雪を気に入ってくれてよかったよ! ほら雪、これからも祐治くんのために頑張るんだぞ!
何が婚約者だ! 宮元雪の動きは今のところ不調はない。修介も調子のいいことを言ったものだが、お前まで婚約など……お前はあの娘に世話を焼かれて、好かれているとでも浮かれているのか。バカバカしい……。
――少なくとも祐治は二人の父親たちの、我が子を思いやる発言を聞いたことがない。何かあれば雪を叱責する修介と、まるで観察するかのように雪を無感動に見るだけの大悟に、何か親らしい気持ちを期待することはなくなっていた。
雪とはそうではなかった。
始まりは父親たちが雪におかしな役割を課したことで、そこには戸惑いもあった。それでも十年も経った今、祐治は雪が好きで、そして雪もきっと、多少は祐治をよく思ってくれているはずだと祐治は少し自惚れる気持ちがある。
どんな思惑の下であれ、知り合って共に過ごして、好いてきっと好かれているのだろうと。きっと――
――でも、もしも。
雪がこれまで祐治のためになるように動いてきたのは一体どういうことなのか、本当のことを祐治が知ったら。
……知ってしまったら、もしも雪を見る目が変わってしまったら、そうなってしまったら。
(もし、そうなったら……)
考えるのが怖かった。
(……私は、一体何になるの……?)
雪はずっと不安だった。
『祐治の望み通りに行動せよ』
雪は自然とそう思ってしまう。祐治に答えを求められれば、雪は「答えなければならない」という気持ちを抱く。そしてそれが雪が今も大悟にとって無視できない存在である理由。
だが、「答えてはいけない」とも思う。なぜなら、この疑問だけは大悟によって、祐治への情報の開示が禁止されているという特殊なものなのだ。
だからなのだ。じっと雪の返事を待っている祐治に何も答えないのは、矛盾した命令のせいだ。
自らの「答えたくない」という気持ちが、「答えてはいけない」という義務感よりも強く雪を動かしているわけでは、きっと、ない。
いつでも、祐治のそばにいる価値のある存在として冷静に振る舞ってきた。婚約を認めたくない大悟でも、何も理由なく雪を祐治の婚約者から降ろすことができないほどに。婚約がなくなれば「何事だ」と周囲に怪しまれるほどの有名さを。
それほど完璧に、非の打ち所のない評判を得た。
そうなるよう努力したのは、求められたから応えるべきだと思ったのであって、雪が祐治のそばから引き離されないようにという思惑なんてほんの少しもなかった。……はずだと、雪は思う。
だから、雪は祐治に言いたくなかった。
祐治が雪へ抱く想いがどれほどまっすぐでも、雪の行動はそれに応えるためのものではない。そう見える行動のように思ったのだとしても、それは気のせいだと。ただ雪の振る舞いは「命令」に反しない――だが含まれてもいない――ものであるだけだ、とは言いたくなかったのだ。
ただ、雪と祐治の関係は「命令」によって始まった。雪にとって、その存在を無視して祐治とのことを考えるには、あまりにも重すぎた。
祐治に恋しているわけではない、自分は祐治と同じ気持ちだからではない――それが、雪にとっての真実だった。