脈(4)
音を収納して、バスマットの感触。
保は、バスタオルで体を拭き始めた。速乾性の高いバスタオルは、よく吸い込む。包み込む物は、体より水分だったりするからか。髪の毛をざっと拭くと、衣服を着ていく。パンツ、ズボン、ロングTシャツ。
首からスポーツタオルを掛けると、保は、バスタオルの行方を聞きに、瞳の居るキッチンへと向かった。勿論、片手にはバスタオルを持ったままでだ。濡れた物を、そのままボストンバッグに入れるには、勇気がいる。あわよくばという考えだった。一つくらい、甘えたい所を甘えても良いだろう。
音に気づいて、瞳は扉の方を見た。お風呂上がりの男性を、この時間帯に見るのは久しぶりである。
「良く、温まりましたか?」
「うん、良いお湯だった。香りが良かったよ。入浴剤も、たまには良いね」
保の答えに、瞳は良かったという表情を作る。この顔ができるかで、恋愛偏差値は、変わるのかもしれない。
「バスタオルはどうしよう?」
保は、バスタオルを見せながら、瞳に聞いてみた。行動を促して欲しかった。そうする事で、甘えられるかもしれない。
「そうですね・・・じゃあ、洗濯機回すんで、洗濯機の中に入れてて下さい」
ここのアパートには、三部屋あるが、隣の部屋は使われていない。一番道路側の部屋には、住人が居るらしいが、何処かに入り浸っていて、一カ月に一回会えば良い方という話だった。どの時間帯に洗濯機を使っても構わないし、気にする必要は無いのである。
保は、返事をすると脱衣所へ行き、洗濯機の蓋を開け、中にバスタオルを入れた。保のバスタオル以外は何も入っていない。そして、脱いだ服を畳んだ。
今はもう乾いている。保は、それを持ってキッチンへと戻った。瞳は、それを見ると聞いた。
「それも、洗いましょうか?」
「いや、良いよ。全部、色物だし。バスタオルは洗って貰うから、それだけで」
「そうですか?分かりました。じゃあ、私、お風呂入って来るんで、机の上ので一杯やってて下さい」
そう言われて、保は、二人用のテーブルを見た。既に、テーブルセッティングされている。
ランチョマットに箸置き。色違いの箸が二膳と桜と白の皿が六枚。裏返されたコップの下には、綿のコースター。
小鉢が一つ、保が座った事がある位置に置かれていた。中には、温キャベツの味噌和えが入っている。湯通しが完璧なのか、綺麗な黄緑色だ。その綺麗なキャベツに、ゆったりからむ山吹色の味噌。塩昆布が、アクセントになっているのか、ちらほら見えた。多分、甘じょっぱいのだろう。
保は、もうこれだけで、支払った分以上の物を手に入れた気分だった。幸せとは、意外と簡単だったりする。
「先に、飲んでも良いの?」
保は、着替えを取りに寝室へ行った瞳に、聴こえる声で聞いた。仲間が、それなりに居る人にとっては、乾杯とは大切な儀式だ。着替えを持って、瞳が現れると笑顔で答える。
「良いですよ。その代わり、零杯目にカウントして下さいね。今日は、沢山飲むんですからね」
「それって、会社のおじさんがとかが言ってたのを、そのまま言ってない?」
「あっ、バレました?」
瞳の動かす口元。アヒル口から舌を出すまでの仕草が可愛いかった。これが自然に出来るのは、悪い事では無い。
「今時、若い女の子で、零杯目にカウントしてなんて、言ってる子は居ないからね。でも、分かった。僕は、お言葉に甘えましょう」
保の答えに、二人の笑い声が、部屋に小さな雰囲気を作る。瞳は、着替えをリビングの座椅子の上に置いた。保が席に着くのを見て、さっき、冷蔵庫から取り出して、テーブルに置いたビールに手を伸ばした。ステイオンタブに指を掛けて開ける。
カシュッ。
保にとっては、始まりの合図だ。長くなるのか、短くなるのか、今はわからない。
「注いでくれるの?」
保が、逆さになっているグラスを手に取る。足長猫の絵柄が、何と無く、お洒落である。
「一杯目ですからね」
瞳は、保のグラスにビールを注ぎながら言う。グラス越しに、気泡が上るのが見えては消えていく。グラスの縁に、白い泡が到達した。
「ありがとう」
保の言葉に、瞳は向日葵の笑顔で返す。着替えを持って、いってきますのジェスチャーをすると、脱衣所の方へと消えた。
早めに移動するのは、保が飲みやすいようにでもあるし、早く作業を終わらせる為でもある。やはり、短気であろう。効率的な短気、と言った方が良いだろうか。しかし、短気を、他人に押し付けるような事はしていない。瞳が、テキパキに見え、嫌味を感じない理由だ。待つ事の出来るテキパキさが、世の中で一番必要な能力かもしれない。
瞳は、脱衣所に来ると、三段の棚の一番上に着替えを置いて、服を脱ぎ始めた。日陰で育ったみたいな白百合の素肌に、軽く引き締まった腰回り。深めに谷間の出来る胸は、まだ下着に包まれている。
瞳はいつもの様に、服を脱ぎながら、明日洗う用と今から洗う用で衣服を分けていく。男性より女性の方が、状況に対して肝が座っている。保のバスタオルのタグのチェックも忘れなかったからだ。普通なら、一人の時間であり、現状の先の事を考えて、色々と散漫になってしまう物である。
瞳が確認した保のバスタオルは、昔のままの表記のタグであった。衣服に表記されているマークは、新しい物から、世界基準に変わっている。そのうち、これを利用したミステリーが出てくるかもしれない。
瞳は、洗濯ネットに下着を入れた。保のバスタオルは、瞳の下着やTシャツと一緒に洗っても大丈夫だったようだ。もしかしたら、どうせ洗うのならという気持ちがあるのか。効率的ではある。保も、下着が一緒でも気にはしないだろう。洗って貰う立場なのだから、気にしてはならないのだ。
一通り終わると、瞳は浴室へ行った。まだ、洗濯機のスイッチは入っていない。後で、洗う物が増えるからであろう。浴槽の蓋を開けると、お湯が綺麗に使ってある事に、瞳は満足した。瞳が、この様に思うのは、源さんが下手だった所為もある。何回か、お湯を抜く羽目なったからだ。
掛け湯をした後、浴槽に浸かる。体を伸ばすと、瞳は少し物思いにふけるのだが、暫くして、両頬をパチンと叩いた。指で、無理矢理に口角を上げて、笑顔を作る。スイッチが落ちそうな時の瞳の対処法だった。瞳は、たまに、何かをしている途中で、スイッチが切れる様に何もしたくなくなる。
「よし」
声と共に、瞳は浴槽をあがる。薄っすらと肌の色が変わっていた。
シャワーを出すと、シャンプーを手に取り、髪を洗い始める。鼻歌付きであった。上手く、気分が変えられた様だ。
頭の中は、美味しい物に切り変わる。これから作る料理と、もう作った料理が、その中に置かれていく。味付けを、少し変えてみようかとも考えながら、手が、いつもの作業をしている。水音の明るい時間であり、少しフワフワする時間でもあった。
保は、瞳がタタタと脱衣所へ行った後、注いで貰った一杯目を飲んだ。気泡が、喉元で抵抗せずに入っていくから、飲みながら気持ちが良い。
グラスの八割を、一回で無くしてしまった。手酌でグラスを満タンにすると、キャベツの味噌和えに箸を伸ばす。
一口分、口へと運んだ。シャキシャキとした口の中の音と、たまに、昆布のコリコリのリズムがやってくる。キャベツを、しっかりと水切りしているので、水っぽさも少ない。葉の柔らかい部分だけじゃ無く、固い部分も使っているので、それらの食感の違いも美味しい。角切りにしたチーズまで入っている。味噌とチーズは相性が良い。
保は、一品が丁寧に作られているのに驚いた。居酒屋で、お通しとして出てきたら、お代わりを貰いたいくらいだった。
もう一口食べると、ビールを二回、喉を鳴らして飲んだ。風呂上がりの後の時間としては、最高ランクに入るだろう。保は、食事が楽しみになりながら、瞳を待っている。
スマートフォンと小鉢とビール。
待ち時間が待ち時間とはならない、今の保の三種の神器になっている。
保の髪は、その短さに比例して、今は少しだけ湿っているだけになっている。もう、スポーツタオルは要らない。小鉢の底が見える。ビールは、グラスの三分の一の量だけになった。スマートフォンも、今の状態では、友達として無視していたい。
保は、時計を見る。午後7時55分だ。女性は風呂が長い人が多い。人によっては、サッカーの試合並みである。
カタカタ。
脱衣所の方で音が鳴った。風呂は終わったようだが、風呂上がり後の時間が、女性にとっては大切でもある。8時半は過ぎるかなと、保は思ったが、目標であって、別段、守らなければならない訳では無い。
カチャ、カチャ。
しばらくして、瞳が戻ってきた。湯上りの女性は、いつ見ても、何か、気恥ずかしい。
瞳は、薄桃色のルームウェアを着ていた。膝までのショートパンツ。上着は七分袖で、前をジッパーでしめるタイプ。頭には、同じ薄桃色のタオルキャップを被っている。ノーメイクで火照っている顔が、幼く見えたり、大人っぽく見えたり、どっちつかずだから愛おしくなりそうだった。
「もう少し、待ってて下さいね」
リビングの座卓に卓上鏡を置いて、瞳が、保の方へ振り返って言う。いつもそこで、ケアをしているのだろう。取り出した青色の化粧水のボトルが、座卓の上に見える。
「あっ、冷蔵庫から、もうできているのを、出して貰っても良いですか?」
もう一度、瞳が振り返った。手が、頬や額で忙しなく動いている。
「もちろん。缶は、洗って伏せとけば良い?」
「そうですね」
今度は後頭部で、瞳は返事をした。空になった缶を持って、保がキッチンへ行く。水を出して、缶を軽く洗うと、流し台の隅に逆さにして置いた。スポーツタオルで手を拭くと、保は冷蔵庫を開ける。
中はしっかり整理されており、初めてこの冷蔵庫を開けたとしても、何処に何があるか、一目瞭然だった。保は、ポテトサラダと大根サラダを手に取ると、冷蔵庫を足で軽く閉めた。二人用のテーブルに置くと、また、冷蔵庫へ取りに行った。
次は、サーモンと玉葱のカルパッチョを片手に持つと、今度は、空いた手で冷蔵庫を閉める。その皿を二人用のテーブルに置くと、それぞれに被せてあるラップを外した。ゴミ箱へ捨てると、保は瞳を見た。丁度、腕にボディクリームを塗っている。見られているのに気がついたのか、瞳と保は目があった。
「三皿で良かったかな?」
先に、保が聞いた。ボディクリームを塗った瞳の手足は、部屋の明かりでほんのり光っている。
「良いですよ。先に、乾杯しましょうか?」
「うん、そうだね」
保は同意した。瞳は立ち上がると、キッチンの方へ歩いて行く。目の前を通り過ぎた瞳から、ボディクリームの優しい匂いと、シャンプーを含んだ女性の香りがした。
保は、その香りの糸に引っ張られる様に、瞳の後を追う。ビールのお代わりが欲しい事は、ちゃんと小脇に抱えながらである。瞳はそれが分かっていたのか、保に缶ビールを二本持たせ、自分は大根サラダに掛ける用の市販品である、たらこが混ざったマヨネーズを持って行く。
缶ビールが二本、二人用のテーブルに乗り、お互い椅子に座る。
カシュ。
「じゃあ、注ぐね」
保が、瞳を促す。瞳が、逆さに置かれたグラスを手に取ると、保の方へ向けた。
「はい、ありがとうございます」
嬉しそうな顔の瞳。縁まで白い泡がくると、瞳はグラスを置き、ビールを開けた。
カシュ。
「二回目、ありがとう」
二人で笑う。グラスの気泡が、二人の時間を守っているみたいだった。
「はい、乾杯しましょう」
「何に乾杯?」
保が聞いた。社会人になると、たまにこの様な会話を耳にする事があるのだが、場合によっては世界一どうでもいい会話である。
「在り来たりですけど、今日の出会いに」
瞳は、少し言葉選びに困ったが、向日葵の雰囲気で、素直にそう答えた。
「うん。本当に、そうだね」
そう答えながら、こんなに可愛い在り来たりは他には無いと、保は思った。
「乾杯」
「乾杯」
カッ、カチン。
二人が、グラスを鳴らした。瞳は、喉を鳴らして、一気に飲み干していく。多分、そういう飲み方の飲み会が多かったのだろう。二回ほど喉を鳴らした保は、暫く、それを見ていた。豪快な女性は、見ていて気持ちが良い。
「やるねぇ」
保は、口から出た。酒の量を多く飲めても、何か偉いわけでは無いのだが、酒豪と呼ばれる人が居ると、何故か褒め言葉が頭の中に作られる。瞳が飲める方である事を、何と無く、保は察知した。瞳は、一気に飲み干した後、特有の息を出すと軽く笑う。保は、瞳に二杯目を注いであげると、瞳はそれを二口飲んで席を立った。グラスは持ったままだ。
「ウィンナーを焼いて、煮物を温めてきますね」
「飲みながら作るタイプなの?何処かのタレントさんみたいだね」
保が言うと、瞳は悪戯っ子ぽく笑って、エプロンを着けた。
「一回、やって見たかったんですよね。味付けは、大雑把になるとは思いますけど、許して下さいね」
キッチンの方から、瞳が両手を合わせる。今度は保が笑った。
その笑い声を聞きながら、瞳は煮物の鍋を温め始める。大根と牛肉の細切れの煮物。味付けには、白だしを使っている。
カン。
何処かに当てたフライパンの音。瞳は、左のコンロに、取り出したフライパンを乗せる。油を垂らして、フライパンを温め始めた。少しすると、パチパチと音が鳴るだろう。その間、瞳は皿を用意した。ついでに、保の零杯目の空き缶をゴミ箱に捨てる。煮物の様子を見る。もう少しだった。温めるのに、煮立て過ぎるのは良くない。
パチパチ。
フライパンが教えてくれる。瞳は、冷蔵庫から取り出したウィンナーを全部入れた。十本はある。そして、ここでビールを飲んだ。
ジュー、ジュー。
フライパンの音が変わる。4分くらい焼けば、皿に乗せられるだろう。保は、瞳の姿を見ながら、やり慣れている子だなと思った。作業時間が、止まらずに流れている。やり慣れていない人は、一つの作業で、時間がぶつ切りになって見えるのだ。料理をしない保にも、瞳の時間の動き方が綺麗に感じられている。実際、瞳はどんな場面でも、時間の使い方が上手い。仕事でも、それは発揮されている。
煮物の鍋が、小さくグラグラし始めた。フライパンの火を小さくして、煮物を皿に装う。キッチンの作業台に装った皿をのせると、ビールを飲んでグラスを空にした。瞳は、煮物と空のグラスを二人用のテーブルまで持って行くと、保にお代わりを催促した。
「もう、一缶終わりだよ。飲むね」
保は、注ぎながら言った。瞳は軽い返事をすると、一口、ビールを飲んで、グラスを持ったままキッチンへ戻る。グラスを作業台に置くと、火を強くして、フライパンを軽く揺すった。ウィンナーの半分は色が変わっている。もう半分を、焼きあげれば出来上がりだ。丁寧に、焼けてない方を下にして裏返していく。それが終わると、ビールを飲みながら、保と会話を始めた。
「食べないんですか?」
瞳が、保に聞いた。保が、もう出している料理に、手をつけていないのが気になったからだった。瞳には、若干、不機嫌になる項目である。
「あっ、ごめん。前の席が空いてると、食べ難いというか、何というか。それに、キッチンに立ってる女の子見るのも、久しぶりだったし。見てて楽しい様な、懐かしい様なね。テキパキに動いてたから、見てるのも、何か良いなって思ってね」
保が謝る。瞳の不機嫌は、気のせいになった様だ。
瞳は、動き方を褒められるのが好きだった。女性には、それぞれに褒めて欲しい事がある。行動だったり、外見だったり、雰囲気だったりするのだが、付き合いが長くなると、行動の一つ一つや外見の一つ一つなどに変化していく。そんな状況は、男性にとってはトランプ遊びの神経衰弱なのだが。何が、当たりなんだろうか。
「そうなんですね。うん、じゃあ、もうちょっと待ってて下さい」
瞳は、保の何かを、思い出したかのように感じると、ウィンナーを確認した。全体的に色が変わって、丁度食べ頃になっている。火を消すと、細長い皿に盛って、作業台に置く。冷蔵庫からトマトケチャップと粒マスタードを取り出すと、お尻で冷蔵庫を閉めた。ウィンナーの皿を忘れずに持つと、それらを二人用のテーブルに置く。また、冷蔵庫へビールを二缶取りに行くと、椅子に座った。
瞳はすぐに、保の皿を取ると、焼いたばかりのウィンナーを二本のせて渡す。もう一つの皿には、サーモンと玉葱のカルパッチョを装った。同じように自分の皿も装うと、粒マスタードをこんもりと皿に出した。
「じゃあ、食べましょう」
「うん、そうだね。いただきます」
女性と対面で食べるなんて、いつぶりだろうと、手を合わせながら、保は思った。懐かしいという球体に、寂しさのプロミネンスが少しだけ暴れる。気にしても無駄な物なのだが。
保も、粒マスタードを皿に出した後、カルパッチョを、箸で口に運ぼうとしていた。やんわりとした、酢の香りが、鼻へ届く。
「あっ、失敗した」
瞳が、声をあげた。ピリ辛ウィンナーの方に、粒マスタードをたっぷりつけて食べたからだった。
たまに、ちょっとだけ失敗してしまう人が居る。よく見たり、よく聞いたり、注意を払えば出来るだろうにと思ってしまうのだが、どうしても上手くいかないのだ。だが、それが人の個性という物である。その色合いが無くなる方が、人しては寂しい。存在としても、事柄としても。
自分で自分に少しだけイライラしている瞳を見ながら、保は、瞳と話しながらカルパッチョを食べた。しっかりと水にさらしてある玉葱のアクセントと、まろやかな酸味が口に広がる。サーモンの少し強めの脂が、薄くなって、口あたりが丁度良い。カルパッチョが口の中から消えると、保はピリ辛ウィンナーも食べる。ビールの進む辛味具合が、保の好みだった。
スイッチの入った保は、ポテトサラダに大根サラダ、煮物を皿に盛ると口に運ぶ。出された物の全ての味が、保の体にスッと馴染んだ。母親の味を、超えているかもしれないと保は思った。
しばらく、瞳と保は、好きな食べ物の話で盛り上がった。会話の花火で時間が流れていく。相手の事を知る為には、必要な時間が必ずある。それは、意味の無いような内容だったりするのだが、それを引き算する人には、本当に必要な時に、背中を支える人が居なくなっている事の方が多い。
「明日は何します?」
一通り、好きな食べ物の会話が終わった後、瞳が大根サラダを皿に装いながら聞く。今まで喋っていた声色とは一段違う。
「うん?特には、何も予定してないよ。もともと、そういう旅行だし」
「実は明日、妹と買い物行くんですけど、一緒に行きませんか?」
「良いよ。何か、久しぶりかもしれない」
「そうですか、良かった。じゃあ、そういう予定で」
保に楽しそうな顔を見せると、瞳は、スマートフォンで誰かにメッセージを送る。妹に、明日の予定でも送ったのだろう。
「妹さんはいくつ?」
瞳の年齢を考えれば、大分、若いだろうと保は思った。話が合うかも、少しだけ気にし始めている。
「高二ですよ。人見知りしない、元気な子なんで、大丈夫だと思います。私より、ガンガン喋りかけてくると思うんで、負けないで下さいね」
そう言って、瞳は笑うと、ビールを飲み干した。そして、ビールの缶を確認している。全部、空だった。
保は、瞳の話を聞いて、それなら楽だろうと思い、深く考える事をやめた。どっちにしろ、荷物持ちになるだけだ。
瞳は空になった缶を全て持って、流し台に置くと、先に冷蔵庫から缶ビールと酎ハイを出して、二人用のテーブルに置いた。缶ビールは六本目。最後のビールだったから、声を掛けた。
保が頷くと、瞳はさっき置いた空き缶達を洗いに行く。軽く洗って、逆さにして置くという作業が終わると、また椅子に座った。酎ハイを開けて、グラスに注いでいる。
「次からは、日本酒ですか?」
「うん、そうだね。瞳ちゃんもワインにするの?」
瞳の初めてのワインの反応が、保は楽しみだった。どっちに転ぶんだろうか。
「はい。でも、その前に料理しますよ。赤ワインだから、豚肉にも合うと思いますしね」
「めちゃくちゃ食べるなぁ、今日は」
「良いじゃないですか。食べる事は、良い事ですよ。たらこスパゲティもお忘れ無く」
そう言うと、瞳は酎ハイを飲む。新商品だった。
「あっ、これ美味しい。保さんも、飲んで見て下さい」
瞳は保に、自分のグラスを渡してくる。それを受け取ると、保も一口飲んだ。蜜柑の果汁が多いからか、後口が爽やかだった。沢山ある商品の中から、選んで間違いが無い物だと、保は思った。しかも、良い方の意味でだ。所謂、当たり商品である。人気や、売り上げ等は別として。もう一口飲んで、保はグラスを瞳に返した。
「美味しいね。良いね、これ」
保は缶の表示を見ながら、感想を瞳に返す。アルコール濃度は8パーセント。やや高めだったが、飲んでいて、保はあんまり気にならなかった。
「でしょう。結構、グビグビっていける」
瞳は、飲みながら言う。
「でもこれ、グビグビいくと、酔い易いと思うよ」
さっきの表示を、保は瞳に見せる。
「結構、高いんですね。あんまり、感じ無いけどなぁ」
語尾の声色が、可愛いかった。
瞳はグラスの酎ハイを、もう半分以上飲んでいる。二人とも、顔がほんの少しだけ赤いだけで、それ以上の変化は無い。飲める者同士の飲み会の完成である。今日は、ジンも空いてしまうかもしれない。止める者が居ないからだ。
保は、三本目の缶ビールを空にした。次は日本酒である。瞳も、酎ハイを空にした。ビールを三缶、飲んだ後である。
「僕が取ってくるね」
保はそう言うと、冷蔵庫まで行く。瞳も、ちゃんと返事をする。少しだけ、声のキーが高くなったかもしれない。日本酒のビンと酎ハイを一缶取ると、保は冷蔵庫を閉めた。グラスは、そのままで良いだろうと保は思った。日本酒を飲むには邪道だが、今日は、目を瞑る方が良い。
時計は、午後9時40分。
二人きりの飲み会は、これから、素の部分を見せ合う事になるのだろうか。二人とも、笑い声が大きくなっていった。