第二十話
さわやかな朝。
暖かい布団から出るのが惜しい
そう思いながら、まだ眠い目をこすった
ベッドの脇の文字盤にイルカの絵の入ったアンティークな置時計は薄水色がかっていて、とてもさわやかな色をしている
気がつけば、もう九時をまわっていた
わたしは時間を見るといつでも現実に戻される感じがする
まだ明るいなと思う時間でも、時計が夕方の五時や六時をさしているならもう夕方だという認識をする
そんな時、少しだけ文学的な感傷のような寂しい気持ちになって気持ちがさっと引いていく感触を思う
それにしてもこんなに時間を気にせずに眠ったのはひさしぶりだった
体を起こしてみるけれど、いつもより何だか体が重い
まだ少しばかり寝ぼけているらしい
手と足に力を入れて、ベッドの端に座って足を投げ出す
ざこ寝の毎日と違って白のふかふかのベッドはやっぱり気持ちいい
洗濯したてのシーツと布団にはやさしい石鹸の香り
今までわたしが洗濯に使っていたお気に入りの洗剤と柔軟剤の匂いじゃないけれど、これもなかなかいい
気持ちが良くて、自然に頬がゆるんでしまう
ふいに立ち上がって伸びをする
体の節々が伸びるのを感じてすごく気持ちがいい
「んー・・」
と声が漏れて、ため息ひとつ
幸せのため息なんだろうか
思ってみたけれど、眠くて何も考えられない
ベッドの隣の小さな電話台が目に入る
映画で昔のヨーロッパの家の中を映したときに出てくるような、さっき見たイルカの置時計と同じみたいにアンティークな電話
黒電話みたいに印象がはっきりしているのではなくて、何だかもっとゆったりしたような薄いベージュにバラの花の模様
すごくきれい・・
手に取ってみたくなる
近づいてそれのひんやり冷たくてつるつるした表面をバラの模様を見ながらゆっくりなでていると、その隣に小さなメモがあるのに気づいた
見慣れない丁寧で几帳面な字体
小さなメモにゆっくり顔を寄せて、目をこする
「由美子さん、おはよう。今日はなるべく早く帰ってくるつもりですから六時には帰ってこられると思います。それまでゆっくりしていてください。分からないことがあればホテルの従業員かわたしの携帯にでも連絡をください。 直樹」
直樹・・・
やっと実感が沸いてきた
その瞬間に目も完全に覚めて、今までのゆったりした空気が変わってしまった
そういえば昨日、和利とカトウっていう喫茶店に行って和利とあたしと直くんと三人で話して、和利が怒ってしまってそのまま店を出て行って・・
それでわたしは泣いてしまって・・
確かその後は彼がずっと傍にいてくれて、行くところがないだろうからとこのホテルに来たのだった
それでワイン少しだけ飲んだ
わたしはそのときも泣いていた記憶がある
直くんは手も握らず何もしないで、ただハンカチを貸してくれた
さっきまで寝ていたシーツと布団と同じ匂いのするハンカチ
あのハンカチはあの後どうしたんだろう・・
あの店のあの話し合いで、わたしは『直くんと一緒にいたい。』とつい言ってしまっていた
それで彼はわたしの気持ちそんな風にとってしまって、もしかしたら危険かもしれな思ったけれど、ただ黙って隣の部屋に行ってしまった
わたしは相変わらず泣きながら、気を遣ってくれて何て優しいんだろうと思った
その同時に申し訳ないとすごく後ろめたくもなった
直くんは同級生ではなく彼の方が四歳年上だったものの、わたしの幼馴染だった
わたしには三歳上のお兄ちゃんがいたから、彼はお兄ちゃんと遊ぶのが目的だったのだろうけれど、小さい頃からよく遊んでもらっていた
わたしが中学生に上がるくらいまで普通にお兄ちゃんとわたしと三人で遊んでいたと思う
小学校の高学年や、中学生ともなると男の子のことはよくわからないけれど女の子は初恋だったり何だったりと誰かを好きになるのもおかしくない
少しの間、彼に片思いしていたこともあった
それがわたしの初恋だった
告白なんてことは少しも考えていなくて、相手の気持ちなど何も考えないままにただ毎日でも会って、少しでも話をして顔を見たいななどと思っていた
お兄ちゃんは高校に入ると急に友達が増え、直くん以外の友達と遊びに行ってしまうことが多くなったので、わたしが中学生になってもそのまま一緒に話したり遊んでくれたりした
何を話していたのか今ではよく覚えていないけれど、多分とりとめのないことだったのだと思う
わたしのお兄ちゃんは近所の子だったからともかく、元々彼は男の子と馴染むのが苦手だったようだった
何といっても母子家庭で女親とおばさんに育てられていたものだし、一番の友達は多分わたしだったのだからまわりは女だらけの生活だった
そのせいか、女の子の中にいても平気そうだったし気楽にも見えた
それに彼は年上だけあって女の子に優しくて何だかいろいろ分かっていた
女の子はまだまだ小学生だけれど失恋した子の話を聞いたり変な話、今思い出せばその頃からただ慰めるのもうまかった
そんなところに少しだけ他の女の子に焼餅を焼いたこともあった
けれど昨日のあの態度にも頷けるというか彼は何にも変わっていないんだと思った
彼は最初のうちはわたしやわたしの友達とも遊んでくれていたけれど実際のところ、勉強はかなり大変だったようだった
わたしのお兄ちゃんが行っていた近所の公立高校ではなくて、少し離れたところの進学校だった
結局、わたしが中学に入ってから彼と話したのは数回だった
昔から頭はよかったのだからおかしいこともなかったが、おばさんはどうやってお金を工面したのか今となってはそんなことを思ってしまう
どれだけ忙しくてももちろん、会えない距離ではない
電話だってできる
そう思っていたけれど、進学校へ行った直くんは毎日随分いそがしそうだった
文句のひとつも言われたことはなくてもわたしから電話をするのも何だか気が引けた
わざわざ電話をかけても、一体何を話そうか
たくさん話はしたけれど印象には残っていなくて、曖昧だった
好きだったのは本当だったけれど、その恋さえ曖昧で下手をすれば同時にいくつでも恋することさえあり得た
所詮は小学生だったから責任もなにも無く、愛に関わった好きでもなかった
そうやって連絡が途絶え、そのままよく分からない状態のままわたしは大学生になって和利と同棲を始めて無事に大学を卒業した
その間には何にも音沙汰がなく、彼のことを自然に思い出すことさえなくなっていた
十九話から投稿が遅れ、話の変わり目でもある二十話がなかなか書けない状況が続き大変申し訳ありませんでした。時間の都合上、急いで書いた部分もあり加えて変わり目でもあるので微妙な感じではありますがこのまま連載を続けていきたいと思っています。どうぞ応援よろしくお願いします。