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濁流

男は目を閉じた。思考を整えようとした。だが、何を考えるべきなのか、その順序さえ定まらなかった。

これは一人で抱えるべき情報ではない。そのことは分かっていた。にもかかわらず、彼はすぐに上位系統へ回すことができなかった。

共有すべきだ。報告すべきだ。記録を保全し、検証に回し、複数の目で確かめるべきだ。そんなことは最初から分かっている。

だが、それでも躊躇いがあった。

「他世界の滅亡」――その一語で分類され、整列され、優先順位を付けられ、やがて巨大な体系の中の一項目として処理されてしまうことが、彼にはひどく恐ろしかったのだ。

男は眉間を摘み深く目を閉じてから再び再生ボタンを押した。


『ここで英雄が現れるのです最初に名が知られたのは、七年前の広域複合震災の時でした』唐突に案内は言った。



案内人の声は、どこか遠くを見ていた。

讃えているのではない。

だが、あの男が何者であったかを正確に伝えようとする誠実さが、その様子にはあった。


大陸東縁を縦断した大断層破砕によって、沿岸都市群は同時多発的に機能を失った。

地上輸送網は寸断され、海上施設は漂流し、広域送電基幹路は連鎖停止を起こした。

都市は崩れなかった。

だが、都市を都市たらしめていた神経だけが、まとめて焼き切れた。


人々が最初に失ったのは灯りではない。

順序だった生活という感覚そのものだった。


通信が不安定になり、誘導表示は消え、補助知能群は優先順位の競合で停止と再起動を繰り返した。

避難命令は地域ごとに矛盾し、上位制御は過負荷で応答遅延を起こし、現場では「待機」と「退避」と「その場で保護」が同時に出される有様だった。


誰もが正しい判断をしようとしていた。

だからこそ、全体が少しずつ壊れていった。


その時、彼はまだ何者でもなかった。

統合防災運用局に属する、ひとりの現場調整官にすぎない。

名前を知る者は少なく、階級も高くなかった。


だが、彼は止まらなかった。


中央からの命令が遅れるなら、待たなかった。

補助知能が停止するなら、手動系へ切り替えた。

誘導路が閉じるなら、地図を捨てて現地の人間から道を聞いた。

送電制御網が死んでいるなら、生きている線を探し、最低限の医療区画と避難拠点だけでも繋ぎ直した。


彼は、全体最適を語る人間ではなかった。

目の前の混乱を、一歩だけでも前へ進める人間だった。


三日目の夜、東部第九避難回廊が完全閉塞した時、彼は上からの再承認を待たず、停止していた港湾補助機群を手動再編し、海上輸送路を即席の避難導線へ変えた。

その判断で何千人が助かったのか、後に正確な数字は出なかった。

だが、あの夜、暗い海面の上を連なって動いた補助灯の列を見た者たちは、皆おなじことを言ったという。


――あの人が通した道だ。


それが最初だった。


次に彼の名が広く知られたのは、二年後の超大型台風群災害である。


大気海流制御網の計算をすり抜けた異常気象は、沿岸都市帯を同時に叩いた。

高潮、防潮壁越流、河川逆流、通信塔倒壊、物資搬送不能。

被災そのものよりも、その後に来る都市機能の遅延死が深刻だった。


その時も、彼は中央司令室にはいなかった。

最も被害の重い沿岸域にいた。


補助知能群はまだ生きていた。

だが、生きているだけでは足りない。

彼らは命令待機に長けていても、瓦礫の向こうの泣き声までは判断しない。

優先順位は決められていても、目の前で凍えている子どもの体温までは計算に入れない。


彼は補助知能群の運用権限を現場側へ引き寄せ、輸送用、測量用、医療補助用の個体群を一時的に再編した。

本来なら複数部局の承認が必要な越権だった。

だが、その越権で救われた避難区画がいくつあったのか、誰も数え切れなかった。


彼は英雄的な演説をしない。

決め台詞もない。

ただ、崩れかけた系統の中に入り込み、切れた回線を繋ぎ、人の動線と機械の動線を無理やり噛み合わせ、少しずつでも“機能する状態”へ戻していく。


『誰かが彼を見て、こう言いました』


案内人の声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


『あの男は、危機のたびに帰ってくる、と』


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