聖職者めいた男
エキ。聖職者めいた男の名だ。
彼は帝国軍第一調査室の筆頭間諜だった。
尋問、拷問、暗殺。そのいずれにも長けた彼は、これまでに数え切れぬほどの敵方間諜、戦士、兵士の命を奪ってきた。
その夜もまた、潜入してきた敵国スパイ数名を捕らえ、尋問の最中にあった。
そのうちの一人を、エキが担当していた。だがその男の状態は、月並みな言い方をするなら、もはや普通とは言い難かった。血と汗にまみれ、呼吸は浅く、視線も定まらない。それでもなお、自らに不利となる情報だけは一切口にしなかった。
「……ふむ。中々頑丈だな」
エキは静かに呟いた。
命を捨てさせずに、情報だけを拾う。それがどれほど難しいことか、彼はよく知っていた。
自白剤を使う手もある。だが、あれは投与した瞬間に対象を壊してしまう。壊れた口から零れる言葉は多い。多いが、そのぶん信憑性は著しく落ちる。
こういう場合、どうするか。
簡単に言えば、生存本能を刺激するのが一番早い。「まだ助かる」そう錯覚させるのだ。
エキは水差しを取り、男の唇にほんの一滴だけ落とした。それだけで、男の喉が生き物のように震えた。
「安心しろ」エキは穏やかな声で言った。「お前が賢ければ、今夜は死なずに済む」
それは希望ではない。希望の形をした道具だった。
「早く殺せ」
エキを睨みながら男は言った。だがエキはそれを無視し言った。
「人って簡単に死ぬけど、死なせない方法もある。例えばここに神経系の猛毒がある。これを注入すれば喉が灼けるような感覚になり呼吸困難になる。そして目、鼻、耳から血を流しながらぴったり一分ほどで事切れる。だが解毒剤もある。これを一本注入すれば投与前の状態に戻れる。エリクサーとかではないので投与前の傷まで治癒させないのは勘弁してくれ。さあ、君は何回耐えられる?」
何事もなかったように簡単な動作でエキは男にその薬剤を注入した。
喉が焼ける。熱い。痛い。脳が神経に誤った命令を下す。「呼吸しろ!」とイメージしても肺が膨らまない、萎まない。手を喉に当てたくても別の方向にいってしまう。自分の体がイメージ通りに動かない。一言で言えば「恐怖」。
そして意識を手放そうとしたその瞬間、スッと現実に戻させる。
男は目から涙とも血とも言えない液体を流しながら目を覚ました。
「どうだ?私も一度体験したが素晴らしい薬だろう?次はどんな体験ができるかな?」
エキは二本目を男に注入する。
「待っ…」
今度は喉が猛烈に痒い。そしてそれが全身に広がっていく。数万匹の蚊や蚤に刺されたような状態。しかも身体は雁字搦めに縛り上げられたかのように全く動かない。早く一分経て!一分経て!と願っても終わる気配がない。その男にとってこの一分は永遠より長く感じたかもしれない。
そしてやはり命を放り出そうとした瞬間、現実に戻る。
普通の人間なら確実に気が狂うであろう。しかし男も経験を重ねてきたスパイである。それ故壊れない。
エキが三本目を注入しようと動いた時…
「分かった。全て話す。オレは合衆国の人間で、今回帝国上層部数名を洗脳し、帝国内部の破壊。これを目的に派遣された。」
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「なるほど…」
エキはしばらく考え込むフリをし言った。
「他のお仲間との齟齬を確認するのでそのままでいてくれ」
エキは踵を返し部屋を出ていった。
扉が閉まると、尋問室の湿った空気が一枚向こうへ切り離された。
エキは血の匂いの残る廊下を、何事もなかったような足取りで歩いた。
表情は変わらない。
呼吸も乱れない。
だが頭の中では、今しがた吐かせた情報が、すでにいくつもの系統へ切り分けられていた。
合衆国。
洗脳。
上層部数名。
内部破壊。
どれも驚きには値しない。驚くべきは、そこまでされてもなお、帝国の上層が気づいていないことの方だった。
「……腐り方が浅い」
誰に聞かせるでもなく、エキは小さく呟いた。
人は外から壊される前に、内側から綻ぶ。彼はそれを、嫌というほど見てきた。だからこそ今さら怒りもない。ただ、どこを切れば全体が遅れるかを考えるだけだった。
エキは指先で、無意識にダガーの柄を撫でた。刃は今日もよく研がれている。
全員の尋問が終わり、情報は擦り合わされた。そのうちの一人には自白剤が使われたらしい。もっとも、整理された内容はエキが聞き出したものと大差なかった。
合衆国。洗脳。上層部への浸潤。内部破壊。
やはり筋は通っている。
国家というものは、いずれ滅びる。百年以上の平和など存在しない。エキはそれを前提としていた。
重要なのは、破滅をなくすことではない。それを少しでも遅らせることだ。そのわずかな遅延のために、切るべきものを切り、残すべきものを残す。彼にとって国家とは、その程度のものだった。
擦り合わせられた情報の中で、エキはひとつだけ時刻の一致を見つけた。
夜明け前。第三鐘の直後。中央通信塔。皇都防衛軍への緊急命令偽装。
それが通れば、帝都の守備隊は自ら持ち場を捨てる。捨てた瞬間に弾薬庫が爆ぜ、警備線は内側から裂ける。帝国は敵軍に攻め落とされるのではない。自分で崩れる。
「綺麗な壊し方だ」
エキは書類を閉じた。部下の一人が問うた。
「止めますか」
「全部は無理だ」
エキは即答した。
「本命だけ切る。他は遅らせる」
「それで足りますか」
「今夜は足りる」
その答えには、願望も祈りもなかった。ただ、間に合う形へ世界を切り分ける者の冷たさだけがあった。
第一調査室は三つに割られた。一つは中央通信塔へ向かう班。一つは弾薬庫周辺の監視線を偽装し、異常の発覚を遅らせる班。そして最後の一つは、洗脳された上層部の本命を切るための班だった。
エキは当然のように最後の班を選んだ。
「対象は?」
若い部下が訊いた。エキは資料を一枚だけ抜き、机の上へ置いた。そこに記されていた名を見て、部下の眉がわずかに動いた。
「……この人間ですか」
「そうだ」
「第一調査室の創設時からいる人物です」
「だからだ」
エキは短く答えた。
古い者ほど、壊れる時は深い。立場が高い者ほど、自分が崩落点だとは思わない。そこへ他人の意思が入り込めば、あとは早い。
「説得は?」
「要らない」
「拘束は?」
「間に合わない」
「なら」
「切る」
それで会話は終わった。
夜明け前の帝都は静かだった。静かすぎる夜には、ろくなことが起きない。エキは昔からそう思っていた。
中央行政区へ続く石畳を、彼らは影のように進んだ。警備は厳重なはずだった。だが厳重であることと、健全であることは違う。腐敗した秩序は、見かけだけ整っている。綻びは往々にして、最も守られている場所の内側にある。
対象の執務室前には、護衛が二人いた。どちらも見覚えのある顔だった。かつて同じ食堂で食事をし、同じ報告書へ署名したこともある男たちだった。
一人目は喉を裂いた。声を出す暇もなかった。二人目は振り向きかけたところを、肋の下から心臓まで斜めに貫いた。エキのダガーは、音を立てずによく入った。
「……やはり手入れは大事だな」
誰に聞かせるでもなく、彼は呟いた。
扉を開ける。
部屋の奥で、男が振り向いた。帝国中枢に名を連ねる、老いた高官。そしてかつて、エキに“壊し方”を教えた側の人間でもあった。
「来ると思っていたよ」
男は驚かなかった。その目には恐怖より先に、妙な納得があった。
「なら話は早い」
エキは言った。
「貴方が今夜の崩壊点だ」
男は笑った。疲れたような、乾いた笑いだった。
「帝国はもう古い。少し倒れる順番を早めるだけだ」
「そうかもしれない」
エキは一歩近づいた。
「だが今夜ではない」
男は机に手を置いたまま、ゆっくりと言った。
「お前も分かっているだろう。国家はいずれ滅びる」
「分かっている」
「ならなぜ止める」
エキは少しだけ目を細めた。
「今日壊れるには惜しいからだ」
その答えに、男の笑みがわずかに揺らぐ。
説得はしない。糾弾もしない。許しもない。必要なのは、遅延だけだった。
男の手が机の下へ動く。起動端末。偽命令送信の最終承認。
エキは迷わなかった。
ダガーが一閃する。男の指が飛び、次いで喉が裂けた。血が机の上へ広がる。端末は起動寸前で止まり、薄い電子音だけを残して沈黙した。
男は崩れ落ちながら、血泡混じりに何かを言おうとした。だが言葉にはならなかった。
エキはその顔を見下ろした。
「安心しろ」
それは皮肉ではなかった。ただ昔、自分が誰かに向けて使った言葉を、最後に向けただけだった。
背後で第三鐘が鳴る。
遠く、通信塔の方角で光が走った。別班が動いたのだろう。弾薬庫側も、まだ保っているはずだった。
帝国は救われない。腐敗も消えない。洗脳された者が他に何人いるのかも分からない。
だが、今夜は崩れない。それで十分だった。
エキは血に濡れたダガーを一度だけ見た。そして布で静かに拭った。祈りの文句は忘れても、この手入れだけは忘れたことがなかった。
この帝国内部崩壊計画は、誰に知られることもなく秘密裏に処理された。
そしてしばらく後、エキは勇者という男の噂を聞く。帝国を離れたのは、そのあとだった。




