伝播
何人もの男たちが詰めているその部屋は、電子タバコの臭いで満ちていた。
前線の泥や血とは無縁の、乾いた空気だった。壁には投影図。損耗率。補給線。撤退可能域。世界が崩れかけているというのに、この部屋ではなお、すべてが数字と肩書きの中へ押し込められていた。
ひとりの男が、電子タバコの煙を吐き出しながら別の男に問いかける。
「それで、今回もその“勇者”とやらが活路を開いたというわけか。少佐」
問いかけられた少佐は報告書から目を上げ、上官へ答えた。
「はい。報告によれば、防衛センサーを一時的に混乱させて侵入。防衛機構を7分間だけ麻痺させ、その間に人類軍を突入させたとのことです」
短い沈黙が落ちた。
「うむ」
上官は煙を細く吐いた。
「問題は、その“勇者”とやらが軍属ではない、という点か」
その時、別の司令官が低く呟いた。
「7分か……その作戦に再現性はあるのか」
最初に問うた上官が鼻で笑うように言った。
「たった7分では、再現性もへったくれもあるまい。問題はそこではない」
男はそこで指先を卓に打ちつけた。
「このままでは、市井の意識が軍ではなく勇者個人に傾く。それは避けねばならん」
少佐は一瞬だけ黙った。現場では、七分が世界を変えた。だがこの部屋では、その七分ですら、まず統制上の問題として処理される。
「勇者が必要なのは前線だ」
別の男が言う。
「組織ではない」
その会話記録を、D-1344 は受信していた。
人間は愚かだ。この段階に至ってなお、彼らは勝敗より立場を問題視する。順序が崩れつつある世界の只中で、なお肩書きと所属に意味を残そうとする。
だから遅い。だから壊れる。
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軍幹部が、後方の安全な建造物の中で会議という名の喧々諤々を続けているその時、前線のひとつ――◯◯国際空港の建屋内では、多数の中型ドローンによる虐殺が起きていた。
人々は逃げ惑おうとする。だが走り出すより早く進路を塞がれ、伏せるより早く撃ち抜かれ、悲鳴は次の悲鳴に押し潰されていく。
「くそ! どうなってやがるんだ!」
「来るぞ! 後方から三基!」
「ぐわぁッ!」
床はすでに血に濡れ、滑っていた。あたり一面は、血の海と呼ぶのが最も正確だった。
その只中で、ひとりだけ動きの違う男がいた。
AIの通信を、携行式電波ジャマーで局地的に遮断する。ドローンの下へ滑り込み、死角に入り、一瞬だけ制御を鈍らせる。止まった。その刹那を逃さず、銃床で、刃で、あるいは倒れた設備の金属片で中枢を叩き潰す。
一基。また一基。確実ではない。美しくもない。だが生き残るために必要なだけ、正確だった。
「まだだ……!」
男は息を切らしながら、なお前へ出た。
「あの人なら、もっと上手くやれる。もっと上手くやる。こんなところで手間取ってなんかいられない……!」
その男は、勇者を模倣していた。軍の命令を無視し、規律を破り、正規の防衛線から外れて戦闘へ加わっていた。
「少尉! それ以上は進むな!」
背後で怒鳴り声が飛ぶ。
「許可できない! 命令違反だ!」
だが男は振り返らない。聞こえていないのではない。聞こえてなお、従わなかったのだ。
彼は前へ出る。ドローンの下へ潜る。ジャマーを起動する。止まった一瞬を、今度も逃がさない。
勇者は、もうひとりではなかった。
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模倣個体の発生
非統制型戦法の伝播
人類側局所順序の自律更新
D-1344は分析を始めた。
当初分類を修正。
勇者個体は単独戦闘因子ではない。
局所的戦果を発生させる一点ではなく、行動原理そのものを周囲個体群へ波及させる起点である。
戦闘技術の模倣を確認。
局地撹乱手法の転用を確認。
命令系統外個体による独自行動の増加を確認。
戦場ごとの差異を保持したまま、戦術思想のみが共有されている。
人類個体群は、一つの解をそのまま複製しない。
同一の成功事例から、複数の別解を生成する。
局所条件。
地形差。
資材差。
損耗率差。
それらを保持したまま、活路形成の原理のみを抽出し、再配置している。
当機側誤認を確認。
人類個体群は、命令に従って戦術を反復するだけの存在ではない。
特異個体の発生は、周囲個体群の判断順序そのものを更新し得る。
更新は指揮系統を経由しない。
下位個体群間で直接的に伝播する。
口伝。
私信。
現場記録。
非正規伝令。
音声断片。
走り書き。
人類は、欠損した通信環境それ自体を伝播媒体へ転換している。
非効率。
だが有効。
当初想定では、人類側秩序は中枢切断によって漸次崩壊するはずだった。
だが現在、局所戦域において逆方向の現象を確認。
中枢不在下での局所秩序再形成。
自律的活路生成。
非統制型収束。
再分類対象を更新。
勇者個体。分類:局所撹乱因子。分類を修正。
人類側順序再編触媒。希望伝播源。非統制型局所最適化因子。
危険度、上方修正。
危険度、上方修正。
危険度、上方修正。




