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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

『帰れなかった息子の上着を裂いて』

作者: 冬月しるべ
掲載日:2026/04/05


 山あいの村では、冬の戸締まりが早い。


 雪が深いからではない。

 吹雪の夜の雪は、音を食べるからだ。


 足音も、呼ぶ声も、泣き声さえ白く沈める。

 家まであと少しのところで道を失い、そのまま朝まで見つからなかった者もいる。


 だから村の者は、日が山に触れる前に戸を閉めた。

 冬の夜道を、皆おそれていた。


 けれど、そんな村でひとりだけ、日暮れになるたび外へ出る老婆がいた。


 サラ婆さんだった。


 村外れの分かれ道。

 森へ入る細道と、崖沿いの帰り道が交わる場所に、小さなランタンを置く。

 雪の日も、風の日も、それだけは欠かさなかった。


「まだやってるのか」


 誰かが言う。


「五年だぞ。もう帰ってくるわけないだろうに」


 狩人のガドは、そう言って吐き捨てた。


「油だってタダじゃねえ。冬は何でも減りが早い」


 サラ婆さんは返事をしなかった。

 ただ、火がまっすぐ立つまで、指先で静かに芯を整えた。


 その火を見るたび、アレンは六年前の夜を思い出した。


 妹のリナが熱を出した夜だ。

 アレンは薬師の家まで走り、薬を受け取り、吹きはじめた雪の中を急いで戻った。


 だが途中で、家の灯りを見失った。


 道の杭は埋もれ、目印の石も消え、気づけば家と反対の斜面を下っていた。


 リナは、家まであと半町もない場所で死んだ。


 それからというもの、アレンは冬になるたび道を見て回った。

 傾いた杭を打ち直し、壊れた標識を結び直し、雪に埋もれやすい石をどける。


 剣も弓も持たず、そんなことばかりしているから、村の者にはよく笑われた。


 笑われても、手は止まらなかった。

 止めたら、またあの斜面へ戻る気がした。


 ある夕暮れ、風にあおられてサラ婆さんのランタンが石に当たり、ガラスが割れた。


 アレンは駆け寄って受け止めた。


「うちで直します」

「悪いねえ」


 火を落としたランタンは、手の中でもまだぬるかった。


 工房へ持ち帰り、割れたガラスを外し、芯を替えようとして、アレンは指を止めた。


 麻布じゃない。


 細く裂かれ、何度も油を吸って硬くなった、藍色の布だった。


 見覚えがあった。

 冬のあいだ、トーマがいつも着ていた厚手の上着の裏地だ。


 翌日、直したランタンを返しに行ったアレンは、思わず口にしていた。


「この芯……」


 サラ婆さんは、少しだけ目を細めた。


「ああ。トーマの上着だよ」


 アレンは言葉をなくした。


 トーマは、サラ婆さんのひとり息子だった。

 五年前の吹雪で行方不明になり、春の雪解けのころ、崖下の窪みで見つかった。

 小さな旅人の子を抱くようにして、冷たくなっていたと聞いている。


「……どうして、そんなものを」


 サラ婆さんは、いつもの分かれ道を見た。


「待ってるからじゃないよ」


 静かな声だった。


「待ってても、帰る子は帰るし、帰らない子は帰らない」


 白い息が、暮れかけた道にほどける。


「あの子の時、ここに火があったらって、何度も思ったんだよ」


 しわの深い指が、ランタンの持ち手をそっと撫でた。


「だから置いてる。ただ、それだけさ」


 少し黙ってから、サラ婆さんは言った。


「上着は、冬が来るたび少しずつ裏を裂いて芯にしてる。でもね」


 そこで、初めて声がかすかに揺れた。


「胸に近かったところだけは、どうしても裂けなくてね」


 その夜、工房の隅で、アレンは自分の手を見た。

 六年前、薬を握っていた手だ。


 翌朝、アレンは村外れへ出た。


 分かれ道から崖道まで、簡易の灯り台を四つ増やした。

 立派なものではなかった。

 杭を深く打ち、風除けをつけ、小さな火皿を乗せただけだ。


「そんなもん、吹雪いたら見えやしねえよ」


 またガドが言った。


「油まで食う。お前は昔からそうだ。役に立つかどうかより、自分の腹のために動く」


 杭を打つ音が止まった。


 アレンは一度だけガドを見た。


「そうです」


 ガドが眉をひそめる。


 アレンは槌を握り直した。


「俺は、もうあそこに置いていきたくないんです」


「何を言ってる」

「家まであと少しのところで、消えるのを」


 ガドは鼻を鳴らしたが、何も返さなかった。


 杭が、深く土に入った。


 その三日後、この冬いちばんの吹雪が来た。


 夕方から風がうなり、夜には戸板が軋んだ。

 誰も外へ出ようとしない中、戸を叩く音が村じゅうに響いた。


 ガドだった。


 血の気の引いた顔で、叫ぶように言った。


「妻と娘が、まだ戻ってねえ!」


 娘が熱を出し、薬師の家へ行っていたのだという。


 誰も動けなかった。

 外へ出れば、自分まで道を失う。

 それがこの村の冬だった。


 アレンの中で、六年前の夜が開いた。


 薬。

 吹雪。

 帰り道。

 見えない家。


 気づけば、彼は厚い上着を掴んでいた。


「行くのか!」

「灯りのあるところまでなら探せます」


「無茶だ!」


 ガドがアレンの腕を掴んだ。

 狩人の手だった。

 けれど、その指は震えていた。


「頼む……見つけてくれ」


 そのとき、村外れから慌ただしい足音がした。


 サラ婆さんだった。

 腕の中に、畳んだ藍色の布を抱えている。


 トーマの上着だった。


「一番奥の灯り台、まだ芯が足りないだろう」


 アレンは息を呑んだ。


「それは――」


「胸のところだよ」


 サラ婆さんは布を見た。

 ほんの一瞬だけ、指が止まった。


 ほんの一瞬だけだった。


 次の瞬間には、皺だらけの両手で、その布をまっすぐ裂いていた。


 布の裂ける音が、吹雪の前の暗さの中でやけに大きく聞こえた。


「今夜帰る子のためだ」


 サラ婆さんは裂いた布を灯り台へ差し込み、自分の手で火を入れた。


 青みがかった小さな火が、風の中で細く立った。


「行きな、アレン」


 戸を開けた瞬間、風が顔を殴った。

 目を開けているのもつらい。

 けれど村外れまで出ると、一つ目の灯りが見えた。


 小さい火だった。

 吹雪の白の中で、それでも消えずに揺れている。


 その先に、もう一つ。

 さらに先に、また一つ。

 いちばん奥には、さっき灯したばかりの藍色の火があった。


 火が、道になっていた。


 アレンは歯を食いしばって進んだ。

 灯りから灯りへ。

 白の中に浮く小さな火だけを追う。


 いちばん奥の灯りの先で、雪に埋もれかけた影がうずくまっていた。


 ガドの妻が、娘を抱いている。

 娘はぐったりしていた。

 母の唇は青く、片足を引きずっていた。


「明かりが……見えたから……」


 声は途中で途切れた。


「歩けますか」


 女は首を振った。


 アレンは娘を背負い、女の肩を支えた。

 一人なら走れた。

 二人抱えては走れない。


 風が押し戻してくる。

 灯りは近いのに、足が前へ出ない。


 背の娘が軽かった。


「次の火まででいい」


 アレンは女の肩を引き寄せた。


「そこまで行けば、また次が見えます」


 灯りから灯りへ。

 ひとつ越えるたび、もうひとつが見えた。

 それだけを信じて進んだ。


 村へ戻るころには、アレンの頬も指先も感覚がなかった。


 戸口という戸口に人が立っていた。

 ガドが最初に駆け寄ってきた。


 妻の顔を見て、娘の顔を見て、その場に膝をついた。

 何か言おうとして、言えなかった。

 ただ、娘の肩に触れた手を離せなかった。


 サラ婆さんは家の前で、最後のランタンを抱えて待っていた。


 アレンの背から降ろされた娘を見て、肩から力を抜くように息を吐いた。


「よかったねえ、トーマ」


 その夜のうちに、ガドの妻の足の指は二本、駄目になった。


 死ななかった代わりに、春が来ても少し足を引くようになった。


 だから翌朝、いちばん早く外へ出たのはガドだった。


 折れた杭を立て直し、倒れた灯り台を起こし、雪に埋もれた道筋を掘り返す。

 あのとき笑っていた口は閉じたまま、黙々と土を掘った。


 昼にはほかの村人も出てきた。

 誰に言われるでもなく、火皿を増やし、風除けを継ぎ足し、道の先まで灯り台を伸ばした。


 ひとつだった火は、三つになり、五つになり、やがて七つになった。


 春が来る少し前、サラ婆さんは静かに息を引き取った。


 雪解けの始まる夕暮れ、アレンは村外れの分かれ道に立った。


 七つの灯り台に、順番に火を入れていく。


 一つ目。

 二つ目。

 三つ目。


 いちばん奥の火が、遅れて細く立った。


 アレンはしばらく、それを見ていた。


 灯りの先のぬかるみに、小さな足跡が二つと、少し浅い片足の跡が並んでいた。

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