『帰れなかった息子の上着を裂いて』
山あいの村では、冬の戸締まりが早い。
雪が深いからではない。
吹雪の夜の雪は、音を食べるからだ。
足音も、呼ぶ声も、泣き声さえ白く沈める。
家まであと少しのところで道を失い、そのまま朝まで見つからなかった者もいる。
だから村の者は、日が山に触れる前に戸を閉めた。
冬の夜道を、皆おそれていた。
けれど、そんな村でひとりだけ、日暮れになるたび外へ出る老婆がいた。
サラ婆さんだった。
村外れの分かれ道。
森へ入る細道と、崖沿いの帰り道が交わる場所に、小さなランタンを置く。
雪の日も、風の日も、それだけは欠かさなかった。
「まだやってるのか」
誰かが言う。
「五年だぞ。もう帰ってくるわけないだろうに」
狩人のガドは、そう言って吐き捨てた。
「油だってタダじゃねえ。冬は何でも減りが早い」
サラ婆さんは返事をしなかった。
ただ、火がまっすぐ立つまで、指先で静かに芯を整えた。
その火を見るたび、アレンは六年前の夜を思い出した。
妹のリナが熱を出した夜だ。
アレンは薬師の家まで走り、薬を受け取り、吹きはじめた雪の中を急いで戻った。
だが途中で、家の灯りを見失った。
道の杭は埋もれ、目印の石も消え、気づけば家と反対の斜面を下っていた。
リナは、家まであと半町もない場所で死んだ。
それからというもの、アレンは冬になるたび道を見て回った。
傾いた杭を打ち直し、壊れた標識を結び直し、雪に埋もれやすい石をどける。
剣も弓も持たず、そんなことばかりしているから、村の者にはよく笑われた。
笑われても、手は止まらなかった。
止めたら、またあの斜面へ戻る気がした。
ある夕暮れ、風にあおられてサラ婆さんのランタンが石に当たり、ガラスが割れた。
アレンは駆け寄って受け止めた。
「うちで直します」
「悪いねえ」
火を落としたランタンは、手の中でもまだぬるかった。
工房へ持ち帰り、割れたガラスを外し、芯を替えようとして、アレンは指を止めた。
麻布じゃない。
細く裂かれ、何度も油を吸って硬くなった、藍色の布だった。
見覚えがあった。
冬のあいだ、トーマがいつも着ていた厚手の上着の裏地だ。
翌日、直したランタンを返しに行ったアレンは、思わず口にしていた。
「この芯……」
サラ婆さんは、少しだけ目を細めた。
「ああ。トーマの上着だよ」
アレンは言葉をなくした。
トーマは、サラ婆さんのひとり息子だった。
五年前の吹雪で行方不明になり、春の雪解けのころ、崖下の窪みで見つかった。
小さな旅人の子を抱くようにして、冷たくなっていたと聞いている。
「……どうして、そんなものを」
サラ婆さんは、いつもの分かれ道を見た。
「待ってるからじゃないよ」
静かな声だった。
「待ってても、帰る子は帰るし、帰らない子は帰らない」
白い息が、暮れかけた道にほどける。
「あの子の時、ここに火があったらって、何度も思ったんだよ」
しわの深い指が、ランタンの持ち手をそっと撫でた。
「だから置いてる。ただ、それだけさ」
少し黙ってから、サラ婆さんは言った。
「上着は、冬が来るたび少しずつ裏を裂いて芯にしてる。でもね」
そこで、初めて声がかすかに揺れた。
「胸に近かったところだけは、どうしても裂けなくてね」
その夜、工房の隅で、アレンは自分の手を見た。
六年前、薬を握っていた手だ。
翌朝、アレンは村外れへ出た。
分かれ道から崖道まで、簡易の灯り台を四つ増やした。
立派なものではなかった。
杭を深く打ち、風除けをつけ、小さな火皿を乗せただけだ。
「そんなもん、吹雪いたら見えやしねえよ」
またガドが言った。
「油まで食う。お前は昔からそうだ。役に立つかどうかより、自分の腹のために動く」
杭を打つ音が止まった。
アレンは一度だけガドを見た。
「そうです」
ガドが眉をひそめる。
アレンは槌を握り直した。
「俺は、もうあそこに置いていきたくないんです」
「何を言ってる」
「家まであと少しのところで、消えるのを」
ガドは鼻を鳴らしたが、何も返さなかった。
杭が、深く土に入った。
その三日後、この冬いちばんの吹雪が来た。
夕方から風がうなり、夜には戸板が軋んだ。
誰も外へ出ようとしない中、戸を叩く音が村じゅうに響いた。
ガドだった。
血の気の引いた顔で、叫ぶように言った。
「妻と娘が、まだ戻ってねえ!」
娘が熱を出し、薬師の家へ行っていたのだという。
誰も動けなかった。
外へ出れば、自分まで道を失う。
それがこの村の冬だった。
アレンの中で、六年前の夜が開いた。
薬。
吹雪。
帰り道。
見えない家。
気づけば、彼は厚い上着を掴んでいた。
「行くのか!」
「灯りのあるところまでなら探せます」
「無茶だ!」
ガドがアレンの腕を掴んだ。
狩人の手だった。
けれど、その指は震えていた。
「頼む……見つけてくれ」
そのとき、村外れから慌ただしい足音がした。
サラ婆さんだった。
腕の中に、畳んだ藍色の布を抱えている。
トーマの上着だった。
「一番奥の灯り台、まだ芯が足りないだろう」
アレンは息を呑んだ。
「それは――」
「胸のところだよ」
サラ婆さんは布を見た。
ほんの一瞬だけ、指が止まった。
ほんの一瞬だけだった。
次の瞬間には、皺だらけの両手で、その布をまっすぐ裂いていた。
布の裂ける音が、吹雪の前の暗さの中でやけに大きく聞こえた。
「今夜帰る子のためだ」
サラ婆さんは裂いた布を灯り台へ差し込み、自分の手で火を入れた。
青みがかった小さな火が、風の中で細く立った。
「行きな、アレン」
戸を開けた瞬間、風が顔を殴った。
目を開けているのもつらい。
けれど村外れまで出ると、一つ目の灯りが見えた。
小さい火だった。
吹雪の白の中で、それでも消えずに揺れている。
その先に、もう一つ。
さらに先に、また一つ。
いちばん奥には、さっき灯したばかりの藍色の火があった。
火が、道になっていた。
アレンは歯を食いしばって進んだ。
灯りから灯りへ。
白の中に浮く小さな火だけを追う。
いちばん奥の灯りの先で、雪に埋もれかけた影がうずくまっていた。
ガドの妻が、娘を抱いている。
娘はぐったりしていた。
母の唇は青く、片足を引きずっていた。
「明かりが……見えたから……」
声は途中で途切れた。
「歩けますか」
女は首を振った。
アレンは娘を背負い、女の肩を支えた。
一人なら走れた。
二人抱えては走れない。
風が押し戻してくる。
灯りは近いのに、足が前へ出ない。
背の娘が軽かった。
「次の火まででいい」
アレンは女の肩を引き寄せた。
「そこまで行けば、また次が見えます」
灯りから灯りへ。
ひとつ越えるたび、もうひとつが見えた。
それだけを信じて進んだ。
村へ戻るころには、アレンの頬も指先も感覚がなかった。
戸口という戸口に人が立っていた。
ガドが最初に駆け寄ってきた。
妻の顔を見て、娘の顔を見て、その場に膝をついた。
何か言おうとして、言えなかった。
ただ、娘の肩に触れた手を離せなかった。
サラ婆さんは家の前で、最後のランタンを抱えて待っていた。
アレンの背から降ろされた娘を見て、肩から力を抜くように息を吐いた。
「よかったねえ、トーマ」
その夜のうちに、ガドの妻の足の指は二本、駄目になった。
死ななかった代わりに、春が来ても少し足を引くようになった。
だから翌朝、いちばん早く外へ出たのはガドだった。
折れた杭を立て直し、倒れた灯り台を起こし、雪に埋もれた道筋を掘り返す。
あのとき笑っていた口は閉じたまま、黙々と土を掘った。
昼にはほかの村人も出てきた。
誰に言われるでもなく、火皿を増やし、風除けを継ぎ足し、道の先まで灯り台を伸ばした。
ひとつだった火は、三つになり、五つになり、やがて七つになった。
春が来る少し前、サラ婆さんは静かに息を引き取った。
雪解けの始まる夕暮れ、アレンは村外れの分かれ道に立った。
七つの灯り台に、順番に火を入れていく。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
いちばん奥の火が、遅れて細く立った。
アレンはしばらく、それを見ていた。
灯りの先のぬかるみに、小さな足跡が二つと、少し浅い片足の跡が並んでいた。




