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公爵閣下の契約妻  作者: 秋津冴
第三章 愛人の役割
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第三十話 ブライトの怒り

 ブライトは怒りを持っていないという。

 すくなくとも、オフィーリナに対しては、そう。


 見知らぬ誰かに妻のせいで罵倒されたり、侮蔑されたら、お前が悪いのだ、としかりつけるのが、これまでオフィーリナの知る男性たちの行いだった。


「相手が俺の妻を持ち出して俺を馬鹿にしたということは、こちらに隙があったということだ。同時に、俺は君に謝罪をしなければならない」

「……どういうこと?」


 もし、友人知人が同じような目に遭えば、同じようにオフィーリナに文句を言いに来るだろう。

 だって彼らはまったく身に覚えのないこと。


 ただ、オフィーリナと関連性があるというだけで、屈辱を覚えたのだから。

 元凶となった誰かに、物に、当たるのは普通のように思えた。


 そして、謝罪とは何だろうか?

 この良縁はここから彼が去ってしまったら、もう二度と彼は訪れてくれないつもりだろうか?


 家同士の結婚、その形だけを維持して、自分はまた孤独の中に生きることになるのだろうか。

 一瞬だけ、そんなつまらないことを考えてしまった。


「ユーリ大使のあのなめくじのような物言いを耳にした時、我慢せずに殴っておけば良かったと後悔している」

「は? 殴る? だめよ、そんなの!」


 彼の人柄に似つかわしくない好戦的な言葉に、思わずびっくりしてしまう。

 会談の席で暴力沙汰なんて、それこそ、後からどんな罪を問われるかもしれないのに。


 大体、大人同士の会話の席で、暴力に訴えるなど稚拙としか思えない。

 滅多に言葉を荒げないブライトがここまで憤慨してくれているのは、一重に自分に対する愛情の深さ故だと、感じられてオフィーリナは張り詰めていた緊張が緩んでしまい、逆にブライトを諫める側になっていた。


「どうして止める? 今からでもいい、思い出したら忌々しくなってきた。あの銀色のなめくじに身の程というものを思い知らせてやる」

「子供じゃないんだから、いい加減にして! もう終わった話でしょ、ブライト」


 きつくしかりつけると、彼は悪戯が見つかった子供の様に、目線を右から左へと移動する。

 どうやら、心の中でははしゃぎすぎた、という感覚はあるようだ。


 しかし、かっこつけではなく言った内容を実行してしまいそうな所が、いかにも物騒に映る。

 会談の場に押しかけて、殴りつけ、もし相手が死にでもしたらそれこと、襲撃犯だ。


「いや、その……な?」

「私のことを想って怒ってくれているのはよく分かりました。でもここから先は私憤になります。犯罪ですよ、ブライト。あなたらしくもない」

「あ、ああ……。分かってるよ、もちろん。冗談だ」


 固めた拳を開くなりして、ブライトはそれまで覇気に満ちていた全身から強張りを解いた。

 緊張感が薄れ室内に張り詰めていた重苦しいものが消え去ってから、オフィーリナはそっと質問する。


「……ねえ」

「なんだい、俺に幻滅したか?」

「ううん。そうじゃないの。やっぱり私が大事だから怒ってくれたの?」

「それは――もちろん、な」


 エレオノーラ様とどっちが大事?

 そう質問したかった。

 彼の心が自分に向いている今なら、この場で奪い取ることもできる気がした。


 魔石彫金技師なんてやっているが、血筋からしても家柄からしても、自分の方が上だ。

 若さだって、美貌だって……自慢になりそうだけれど、エレオノーラに引けは取らないような気がしていた。


 彼の想いをここに繋げ止めて置きたい。

 例え、それがいつか正妻によって打ち砕かれる、悪女のような行いだとしても。


 言葉より唇が、目が、互いの指先がそれに先んじて、行動を開始する。

 もう少しで互いの顔が触れ合うか、というところで暖炉にかけていたポットがピーっ、と音を立てた。


 湯が沸いたのだ。

 汽笛のようなそれに制されて、恋人たちははっと我に返る。


 ブライトは気まずそうに新たに出された紅茶に口をつけ、手帳を取り出すとこれからどうするか予定を確認し始めていた。


 これはしてはいけなかったこと。

 だから誰かが――間の悪いことを知らせる誰かが、止めてくれたのだとオフィーリナは思うことにした。

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