異変
「お嬢様、朝ですよ。起きてください」
知らない女性の声が、すぐ近くから聞こえてくる。
優しい声だった。
けれど、その声にはどこか怯えのようなものが混じっている。
(お嬢様……?)
その言葉に、俺は妙な引っかかりを覚えた。
薄暗かった部屋に、突然、光が差し込んでくる。
電球やライトのような人工的な明かりではない。
暖かな太陽の光だ。
眩しさに、俺は瞼を開けることすら億劫になる。
ガチャッ。
窓が開く音と同時に、
「チュンチュン」
小鳥の鳴き声が聞こえてきた。
少し肌寒い風が、部屋の中へと入り込んでくる。
(勝手に人の部屋の窓を開けたのは誰だよ)
俺は上半身を起こしながら、文句の一つでも言ってやろうと口を開いた。
「窓をお開けになられたのは、どなたですの?」
……だが。
自分の声ではなく、見知らぬ少女の声が聞こえてきた。
(……ん?)
俺は、思わず首を傾げる。
今、俺が言おうとしたことと、ほとんど同じ内容だ。
ただし、言葉遣いだけが妙に上品だった。
「あら?」
まただ。
俺が言いたかった言葉を、少女が代わりに口にしている。
「セシリアお嬢様、朝食の準備が間もなくできますので、どうかお目覚めください」
先ほどの女性の声が、窓の方から再び聞こえてきた。
日の光にも少しずつ目が慣れてきた。
俺はゆっくりと瞼を開く。
起きたばかりで、まだ焦点が合わない。
辺りはぼんやりと霞んで見えていた。
それでも、時間が経つにつれて少しずつ視界がはっきりしていく。
そして――
(メイド……?)
先ほどから俺に話しかけている女性は、そうとしか言いようのない服装をしていた。
(……なんで俺の部屋にメイドがいるんだ?)
一瞬、そう思った。
だが、よく見てみると、それだけではない。
そもそも、部屋そのものがおかしい。
天蓋付きのベッド。
赤色で統一された壁。
壁にはタペストリーや額縁に入った絵画が飾られている。
さらには天井にまで、一面に絵が描かれていた。
(……なんだ、夢か)
そう結論づけた俺は、もう一度ベッドに身体を倒した。
「……どうやら、夢のようでございますわね」
ほぼ同じタイミングで、少女の声が聞こえてくる。
(この少女とは気が合いそうだな)
そんな冗談を心の中で呟きながら、俺は再び眠りにつこうとした。
しかし――
パタパタパタ。
小走りに近づいてくる足音が聞こえてくる。
足音は俺のすぐ近くで止まった。
そして、
「セシリアお嬢様、どうかお目覚めください」
身体を揺すられる感覚とともに、懇願するような女性の声が聞こえてきた。
その声には、先ほどよりもはっきりと怯えが混じっている。
しばらく揺すられるのを無視していたが、こうも身体を揺らされていては眠ることもできない。
仕方なく、俺は起きることにした。
(自由度の低い夢だな……)
夢に対して悪態をつきながら、俺は上半身を起こす。
「少々、思い通りにいかないことが多い夢ですこと……」
まただ。
俺が思ったこととほぼ同じ内容を、少女の声が口にしている。
(……やっぱり変だな)
そんなことを考えていると、
「今、支度いたしますので、そのままベッドに腰掛けていてください」
メイド姿の女性がそう言った。
言われるがまま、俺は見知らぬ天蓋付きのベッドに腰掛ける。
すると、髪を整えられ、服を着替えさせられ――。
まるで何もかもが当たり前であるかのように、身支度が進められていく。
俺はされるがままになりながら、ぼんやりと部屋を眺めていた。
そんな中、立ち上がった俺には一つだけ気になることがあった。
(……なんか、視点が低くないか?)
「いかがでしょうか?」
身支度を終えたメイドが、俺の前に姿見を運んできた。
「こちらをご覧くださいませ」
そう言われ、俺は何気なく鏡へ視線を向ける。
そして――。
思わず、言葉を失った。
鏡に映っていたのは、見慣れた自分の姿ではなかった。
黒い革靴。
白い靴下。
そして、赤色の学生服にスカート。
顔立ちは整っていて、大きな瞳はぱっちりとした二重。
すっと通った鼻筋が、どこか凛とした印象を与えている。
髪も、瞳も金色。
そして何より目を引くのが、左右に分かれた二つの巻き髪だった。
まるでドリルのように、くるくると巻かれている。
(な、なんだよ……これ……)
俺は鏡に映った少女から目を離せなかった。
「な、何が起こっていますの……?」
思わず口から漏れた言葉は、やはり俺の声ではなかった。
少女の声。
しかも、妙に上品なお嬢様言葉。
鏡の中の少女が、その言葉を口にしている。
「も、申し訳ございません!」
その瞬間、メイドが慌てて頭を下げた。
「お気に召さないようでしたら、すぐにやり直させていただきます!」
(いや、そういう問題じゃない!)
俺は心の中で叫んだ。
だが、目の前で恐縮しきっているメイドに、それを説明している余裕などない。
「いいえ、容姿は完璧ですの。あまりにも美しすぎたので、驚いただけですわ」
とりあえず、適当に誤魔化しておくことにした。
(こんな姿で会社に行ったら……)
そこまで考えて、俺は慌てて思考を切り替える。
(……じゃなくて! どうなってるんだ、これ!?)
俺は姿見を両手で掴み、鏡に映る自分の顔を改めて覗き込んだ。
どう見ても知らない少女だ。
いや。
正確には――俺自身のはずなのに、俺ではない。
髪も、目も、顔も。
何もかもが違う。
「いえ、お嬢様が元々お美しいだけでございます。私は、いつもお嬢様がおっしゃる通りに仕事をいたしたまでです」
隣では、メイドがなぜか慌てた様子で弁明している。
(……ちょっと静かにしてくれないかな?)
俺はそんなメイドの言葉も聞き流しながら、必死に考える。
なぜ、こんなことになっている?
夢なのか?
それとも、何か別の理由があるのか?
しかし、いくら考えても、原因も妙案も浮かんでこない。
その時――。
くぅ~。
静かな部屋に、可愛らしい音が響いた。
(……腹減った)
俺は自分の腹を見下ろす。
胸に阻まれて見えなかった……
すると、メイドがすぐに反応した。
「お腹が空かれたのでございますね! すぐにご案内いたします。申し訳ございません!」
そう言うと、メイドは慌てたように扉へ向かって小走りに駆けていった。
(謝るのが趣味なのか……?)
俺はその後を歩いて追いかける。
そして、今後のことを考えながら小さく息を吐いた。
(……とりあえず、ご飯があるなら食べながら考えるか)
と、お気楽に考えていた。
「ささ、こちらです」
メイドに促されるまま、俺は部屋を出た。
そして、扉の向こうに広がっていた光景を見て、思わず息を呑む。
絢爛豪華。
その言葉が、これほど似合う場所もないだろう。
床一面には、真っ赤なレッドカーペット。
壁には、家族三人の肖像画が飾られている。
天井には青空と白い雲が描かれ、その中央からは巨大なシャンデリアが吊り下げられていた。
さらに、大階段の下には用途すら分からないほど広々とした空間が広がっている。
大階段は途中で左右に分かれており、その中央には広大な吹き抜けまで設けられていた。
(……いかにも、名門貴族の屋敷って感じだな)
思わず感心しながら、俺は辺りを隅々まで眺めていく。
こんな場所を実際に見る機会なんて、そうそうない。
夢だと分かっているからこそ、俺は妙に楽しみながらメイドの後をついていった。
そして、下階へ降りるために階段へ足を踏み出した、その瞬間――。
ふっ。
身体が前へ持っていかれる。
(……ん?)
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
次の瞬間。
(まずい!)
そう思った時には、もう遅かった。
「キャー!」
俺は悲鳴を上げながら、
ゴロゴロゴロッ!
と、勢いよく階段を転がり落ちていく。
この身体は自分の足元が見えにくい。
その身体的な欠点が、ここにきて牙を剥いた。
そして――。
ドサッ!
俺は見事に大階段を転がり落ち、吹き抜けの下まで落下した。
「痛いですわ……」
床に倒れ込んだまま、思わず呟く。
幸い、大きな怪我はなさそうだ。
だが、自分の身体の扱いにくさには、さすがに困ってしまう。
俺は痛む身体を庇いながら、ゆっくりと上半身を起こした。
「お嬢様! 大丈夫でございますか!?」
すると、メイドが慌てた様子で階段を駆け下りてくる。
そして俺の前までやってくると、両手を差し出した。
「感謝いたしますわ」
俺はその手を掴み、引き起こしてもらう。
立ち上がった俺は、呑気に服についた埃を手で払い落とした。
すると、
「大変申し訳ございません! 私がお嬢様をお受け止めできなかったばかりに……。本当に申し訳ございません!」
メイドが恐縮した様子で、何度も何度も頭を下げ始めた。
(……なんで、こんなに必死なんだ?)
俺は、その様子に違和感を覚える。
階段から落ちたのは俺の不注意だ。
メイドが謝るようなことではない。
だからこそ、俺はそう伝えることにした。
「わたくしの不注意ですわ。ですから、そう何度も謝らないでくださいまし」
「いえ! 決してそのようなことはございません! 私のミスでございます!」
しかし、メイドは一歩も引こうとしない。
まるで俺に怒られることを恐れているかのように、赤べこのように何度も何度も頭を下げ続けている。
(……これじゃ、埒が明かないな)
俺は小さくため息をついた。
そして、話題を変えることにする。
「そんなことよりも、お腹が空きましたわ。エスコートの続きをお願いできませんこと?」
「は、はい! ただいま!」
メイドはビクッと身体を震わせた。
だが、すぐに気を取り直すと、再び俺を案内し始める。
俺も、その後に続いて歩き始めた。
今度は階段の手すりを、しっかりと握り締めながら。
「ささ、どうぞ」
なんとか無事に食堂らしき場所へたどり着いた俺は、メイドに案内されるまま席へと腰を下ろした。
(……本当にすごいな)
思わず感心しながら、俺は辺りを見回す。
何人も座れそうなほど長い木製のテーブル。
無駄に背もたれの高い椅子。
真っ白なテーブルクロス。
その上には、銀製の食器や燭台が並べられている。
部屋の奥には大きな暖炉。
壁にはタペストリーや家紋、肖像画などが飾られている。
大きな窓からは暖かな日の光が差し込み、天井からは豪華なシャンデリアが吊り下げられていた。
(……まさに貴族の食堂って感じだな)
俺が物珍しそうに辺りを眺めていると、
「お待たせいたしました」
先ほどのメイドが食事を運んできた。
そして、手慣れた動作で次々と料理をテーブルへ並べていく。
パン。
チーズ。
ゆで卵。
色とりどりのフルーツ。
一人分にしては、明らかに多い。
「ありがとうございます」
配膳が終わったところで、俺はメイドに礼を言った。
すると――。
(……あ)
重大なことに気がついた。
(そういえば、この世界の食事の作法とか全然知らないぞ……)
箸を使うのか。
ナイフとフォークなのか。
そもそも、どの料理から手をつければいいのか。
何一つ分からない。
そんなことを考えていると、
「それでは、失礼いたします」
メイドがそそくさとこの場を離れようとする。
(……そうだ)
俺は、ふと思いついた。
(この人を見ながら覚えればいいか)
そう気軽に考えた俺は、メイドを呼び止める。
「お待ちになられて」
「はい!」
メイドはビクッと身体を震わせると、背筋をピンと伸ばした。
そして、その場で硬直する。
やがて、おそるおそる振り返ると、
「な、何か粗相をしてしまいましたか……?」
今にも泣き出しそうな、不安げな表情を浮かべていた。
(……うーん)
俺は、その反応を見て考える。
(もしかして、俺……というか、セシリアって娘は、結構パワハラ気質だったのか?)
これまでのメイドの反応を思い返す。
何かあるたびに謝る。
俺が呼び止めただけで怯える。
どう考えても普通ではない。
(まあ、考えても仕方ないか)
俺はそんな疑問をいったん頭の隅へ追いやる。
そして、できるだけ安心させるように笑顔を作った。
向かいの席を指差しながら、
「いえ、一人で食べるには少々量が多いようですので。そちらにお座りになられて、お話でもしながら一緒に食事をしてくださいませんこと?」
「は、はい! 喜んで!」
そう答えると、メイドは慌てて向かいの席へ腰を下ろした。
ただし――。
その顔は、なぜか真っ青だった。
「どうぞ、お気になさらず召し上がってくださいな」
俺は、スッと手を差し出すような仕草で、優雅にメイドへ食事を勧めた。
(……言葉だけじゃなくて、動きまでお嬢様になれるんだな)
自分の意思とは関係なく、身体が自然と上品な仕草をしてくれる。
俺は新たな発見に、ちょっとした感動を覚えた。
すると、
「父よ。あなたのいつくしみに感謝して、この食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心と体を支える糧としてくださいますように」
メイドは両手を合わせ、震えるような小さな声で祈りを始めた。
(……なるほど。食事の前には祈るのか)
俺はメイドの様子をじっと観察する。
そして――。
(こ、こうかな……?)
見様見真似で両手を合わせた。
「父よ。あなたのいつくしみに感謝して、この食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心と体を支える糧としてくださいますように」
小声で祈りを終える。
これで合っているのかは分からない。
だが、少なくともそれらしいことはできたはずだ。
その後も、メイドがパンを取れば俺もパンを取る。
バターを塗れば、俺もバターを塗る。
そして、メイドが食べれば俺も食べる。
(……何だか、芋ころがしみたいだな)
そんなことを考えていると、妙におかしくなってきた。
「ふふっ」
思わず小さく笑ってしまう。
すると、
「あの……何かおかしな点がございましたか……?」
メイドが不安そうに尋ねてきた。
(……まあ、ジーッと見られながら笑われたら、そう思うよな)
少しだけメイドに同情する。
しかし、まさか正直に「食事の作法が分からないので、あなたの真似をしています」などと言うわけにもいかない。
「いえ、何でもありませんわ」
適当に誤魔化してから、別の話題を振る。
「ところで、あなたは仕えて、どれくらいになりますの?」
「私は、モンフォール家に仕えて三年ほどになります」
メイドは食事の手を止め、真面目な表情で答えてくれた。
(……モンフォール家?)
その言葉を聞いて、俺はピンときた。
(つまり、俺はセシリア・モンフォールって名前なのか?)
思わぬところから、新しい情報を手に入れた。
俺はメイドに気づかれないよう、机の下で小さくガッツポーズをする。
「そんなに構えなくてもよろしいですわ。ただの食事中の歓談ですもの。ですから、どうぞお気軽に。食べながらお話しくださいませ」
「は、はい!」
メイドは背筋をピンと伸ばして返事をすると、恐る恐るといった様子でぶどうへ手を伸ばした。
(……だから、そんなに緊張しなくてもいいのに)
俺は苦笑しながら、次の質問をする。
「ところで、本日のわたくしの予定はどうなっていましたか?」
「本日は、王立ルミエール学園の入学式へご参加いただくのが主なご予定となっております。そろそろ、お迎えの方がいらっしゃるかと……」
メイドはそう言いながら、ちらりと食堂の入口へ視線を向けた。
(入学式って、今日なのかよ!?)
この世界について何も知らない。
自分が何者なのかも、ようやく分かり始めたばかり。
それなのに、いきなり学校へ行かなければならないらしい。
(もう少しくらい、この世界のことを勉強してから入学式を迎えたかったな……)
内心で焦り始めた、その時――。
ギィー……。
食堂の扉が開いた。
「セシリアお嬢様、お待たせいたしました。お車のご用意が整いました」
白髪の執事らしき男性が入ってきて、恭しく頭を下げる。
(……行くしかないよな)
あまりにもトントン拍子に話が進んでいくことに、少し戸惑う。
だが、初日から遅刻するわけにもいかない。
俺は食事を切り上げ、椅子から立ち上がった。
そして、執事の方へ向かって歩き出す。
「初日から遅刻するわけにもいきませんわ。行きますわよ」




