第1話 ゴブリンから始まる死に戻り転生
死ぬ直前のことは、妙にはっきり覚えている。
駅のホームだった。
夕方の帰宅ラッシュで、人の肩と肩がぶつかり合っていた。誰かのイヤホンから漏れる音。電車の到着を知らせるアナウンス。湿ったコンクリートの匂い。
それから、背中に軽い衝撃。
押された、と思った時には、もう足の下に地面がなかった。
目の前に、白い光が迫っていた。
悲鳴。
ブレーキ音。
骨が砕ける音。
最後に思ったのは、どうして俺なんだ、だった。
次に目を開けた時、俺は土の上に倒れていた。
まず、臭かった。
鼻の奥を腐った肉でこすられたみたいな臭いだった。湿った土。獣の体臭。血。古い排泄物。全部が混ざって、洞窟の奥で腐っていた。
「う……」
そう言ったつもりだった。
けれど、喉から出たのは、人間の声ではなかった。
「ギ、ィ……?」
自分の声に、体が固まった。
喉が変だ。
口の中が変だ。
舌が短く、歯が尖っている。
俺は震えながら、自分の手を見た。
小さい。
細い。
汚い。
そして、緑色だった。
「……は?」
いや、声にならない。
口から漏れたのは、また別の鳴き声だけだった。
「ギィ……ギィ?」
俺は這うようにして近くの水たまりへ向かった。
洞窟の天井から落ちた水が、岩のくぼみに溜まっていた。泥で濁っていたが、それでも自分の顔を見るには十分だった。
水面に映っていたのは、化け物だった。
尖った耳。
濁った黄色い目。
潰れた鼻。
裂けた口。
小さな牙。
痩せて、骨ばって、裸同然の醜い体。
ゴブリン。
ゲームや漫画で、最初に倒される雑魚。
勇者が剣の試し斬りにするような、最弱の魔物。
それが、俺だった。
「ギ、ギィィ……」
笑おうとしたのか、泣こうとしたのか、自分でも分からなかった。
ただ、膝から力が抜けた。
死んだ。
俺はたぶん、駅で死んだ。
なのに、なぜか異世界みたいな場所で目覚めて、よりによってゴブリンになっている。
人間じゃない。
勇者じゃない。
王子でも、貴族でも、チート持ちの冒険者でもない。
ゴブリンだ。
誰かに見つかれば、討伐される側。
誰かの経験値になる側。
ふざけるな。
そう思った瞬間、洞窟の奥から悲鳴が聞こえた。
「ギャッ!」
俺は肩を跳ねさせた。
続いて、湿った音。
何かが斬られる音だった。
肉が裂けて、骨に刃が当たる、嫌な音。
また悲鳴。
また音。
今度は近い。
洞窟の奥で、何かが殺されている。
俺は反射的に立ち上がろうとした。
だが、足がもつれた。
体が軽すぎる。
力がない。
人間だった頃の感覚で動こうとしても、思うように動かない。腕は短く、脚は細い。爪は割れ、足の裏は冷たい泥に沈んでいた。
「おい、こっちにもいたぞ」
人間の声がした。
俺の心臓が、潰れそうなほど跳ねた。
洞窟の入口側から、光が差し込んでくる。
松明の赤い光じゃない。
もっと白い。
綺麗で、まっすぐで、見ているだけで目が痛くなるような光。
そこに立っていたのは、鎧を着た青年だった。
金の髪。
青い瞳。
白いマント。
腰には銀色の剣。
その後ろには、杖を持った女、弓を構えた男、白い法衣の少女がいる。
俺は、その姿を見た瞬間に理解した。
勇者一行。
物語なら、世界を救う側。
魔王を倒し、民を守り、悪を討つ側。
その勇者が、俺を見て笑った。
「小さいな。子供のゴブリンか」
俺は震えた。
違う。
違うんだ。
俺はゴブリンじゃない。
中身は人間だ。
日本人だ。
昨日まで、駅で電車を待っていた普通の人間なんだ。
そう言おうとした。
だが、喉から出たのは、濁った鳴き声だけだった。
「ギィ! ギィィ!」
俺は両手を上げた。
降参のつもりだった。
必死に首を横に振った。
殺さないでくれ。
俺は敵じゃない。
まだ何もしていない。
この世界のことも分からない。
ただ、目が覚めたらここにいただけなんだ。
勇者は一歩近づいた。
「怯えてるな」
後ろの女が、鼻で笑った。
「当たり前でしょ。魔物だもの。命乞いの真似くらいするわよ」
「油断するなよ。小さくてもゴブリンだ。放っておけば人里を襲う」
弓の男がそう言った。
法衣の少女は、胸の前で手を組んでいる。
「どうか、次は清き命に生まれますように」
祈るな。
勝手に祈るな。
俺はまだ死にたくない。
清き命って何だ。
俺は今、ここで、生きている。
必死に生きようとしている。
それなのに、こいつらの中ではもう終わっている。
ゴブリンだから。
魔物だから。
殺していいものだから。
「悪いな」
勇者が剣を抜いた。
銀色の刃が、白い光を受けて輝いた。
「これも討伐依頼なんだ」
俺は後ずさった。
背中が岩壁に当たる。
冷たい。
逃げ場はない。
勇者が剣を振り上げる。
やめろ。
やめてくれ。
まだ何もしていない。
俺は誰も殺していない。
誰も襲っていない。
ただ、ここで目を覚ましただけだ。
「ギィィィィ!」
叫んだ。
命乞いだった。
怒りだった。
恐怖だった。
けれど、勇者には届かなかった。
剣が振り下ろされる。
銀の線が、視界を斜めに裂いた。
熱い、と思った。
次の瞬間、痛みが遅れてきた。
首から胸にかけて、体が開いたような感覚。
息ができない。
血が喉に詰まる。
俺は土の上に倒れた。
見上げると、勇者が剣についた血を振っていた。
「終わりだ」
「耳を持っていけば証明になるわね」
魔法使いの女が言った。
「小さい耳でも数には入るだろ」
弓の男が笑った。
法衣の少女は、俺を見下ろしていた。
慈悲深そうな顔だった。
それが一番、腹が立った。
ふざけるな。
俺は、依頼の数じゃない。
素材じゃない。
経験値じゃない。
正義の踏み台じゃない。
お前たちの都合で生まれて、お前たちの都合で殺される命じゃない。
口は動かなかった。
手も動かなかった。
体から、熱が抜けていく。
暗闇が視界の端から広がってくる。
死ぬ。
また死ぬ。
駅で死んで、ゴブリンになって、今度は勇者に殺される。
なんだよ、それ。
俺の人生は、そんなに軽いのか。
その時だった。
頭の中で、声が響いた。
《死亡を確認しました》
誰の声でもなかった。
男でも女でもない。
冷たく、無機質で、感情のない声。
《死因を解析します》
《死因:斬撃》
《加害個体:人族/勇者適性保持者》
《損傷部位:頸部、胸部、肺》
《生命活動停止》
何だ、これは。
俺は死んだはずだ。
なのに、意識だけが暗闇の中に浮かんでいる。
《固有権能を起動します》
《名称未設定》
《効果一:死因耐性》
《死亡原因となった攻撃、属性、状態異常、環境要因に対する耐性を獲得します》
《斬撃耐性・微を獲得しました》
《勇者因子を記録しました》
《効果二:輪廻変異》
《死亡後、過去に転生した種族を除外し、別種の魔物へ再転生します》
《過去転生種族:ゴブリン》
《ゴブリンへの再転生は不可》
暗闇の中で、俺は理解した。
死に戻り。
いや、違う。
同じ場所に戻るわけじゃない。
同じ体に戻るわけでもない。
死ぬたびに、別の魔物になる。
そして、死んだ原因への耐性を得る。
同じ死に方は、もうできない。
《次回転生種族を抽選します》
やめろ。
待て。
俺はまだ、何も選んでいない。
勇者に復讐すると決める時間すらなかった。
なのに、声は淡々と続いた。
《抽選完了》
《次回転生種族:スライム》
スライム。
ゴブリンより弱いんじゃないのか、それ。
そう思った瞬間、俺の意識は闇に引きずり込まれた。
次に目を覚ました時、俺には手がなかった。
足もなかった。
声も出なかった。
ただ、冷たい地面にべたりと広がっている感覚だけがあった。
視界は低い。
世界が歪んでいる。
体が水みたいに震えている。
俺は、自分が何になったのか理解した。
スライムだ。
洞窟の端。
割れた壺の陰。
そこに、俺はいた。
遠くで、人間たちの声がする。
「ゴブリンの巣は片付いたな」
「あとは奥を確認して終わりだ」
「雑魚ばかりで助かったわ」
勇者の声も聞こえた。
俺を殺した声。
俺を見下ろしていた声。
体の奥で、何かが煮えた。
スライムの体に血はない。
心臓もない。
なのに、怒りだけはあった。
忘れない。
あの剣を。
あの目を。
あの言葉を。
これも討伐依頼なんだ、だと。
俺は、ぐにゃりと体を震わせた。
今の俺は弱い。
剣も握れない。
走ることもできない。
叫ぶことすらできない。
だが、ひとつだけ分かる。
俺はもう、あの剣で同じようには死なない。
勇者。
お前は知らない。
お前が今殺したゴブリンが、まだここにいることを。
お前の足元で、別の魔物になって、お前の声を聞いていることを。
俺は、ゆっくりと暗がりへ這った。
逃げるためじゃない。
覚えるためだ。
生き残るためだ。
そして、いつか殺すためだ。
俺はもう、経験値じゃない。
俺はもう、同じ殺され方をしない。
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現在のステータス
名前:未設定
現在種族:スライム
過去転生種族:ゴブリン
転生回数:2回目
死亡回数:1回
前回死因:勇者による斬撃
獲得耐性:斬撃耐性・微
記録済み敵性個体:勇者適性保持者
固有権能:《輪廻変異》《死因耐性》
現在目標:勇者一行から逃げ延び、スライムの身体で生存方法を覚える




