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第19話 フォーマット

「駄目だな、もう使い物にならない」


淡々とそう言って、圭介は紙カップに入ったコーヒーを口に運んだ。

彼ら以外誰も居ない会議室の中、椅子に座って歯噛みした大河内が口を開く。


「使い潰して飽きたら捨てるのか。悪魔め」

「世界医師連盟に掛けあってお前の更迭処分を取り消したのは俺だ。随分な物言いだな」

「頼んだつもりはない」

「いずれにせよ、GDはナンバーIシステムの運用に失敗したお前のことを見逃さないだろう。即急に手を打つべきだと思うがね。殺されるぞ」


圭介は抑揚のない声でそう言って、紙カップをテーブルに置いた。


「まぁ、俺には関係のない話だが」

「……全くだ」

「汀を使いたいなら、無理だな。多少無茶をして『被験者』にダイブさせてみたが、夢傷にやられすぎていて話にならない。もう、再起不能だと言ってもいいな」

「……汀ちゃんのちゃんとした『治療』が必要だ」


押し殺した声で言った大河内を、圭介は冷たい瞳で見下ろした。


「やりたいならやれよ。俺はメリットのないことに協力するほど、お人好しではない」

「お前は……ッ!」


椅子を蹴立てて立ち上がり、大河内は圭介の胸ぐらを掴みあげた。

そして壁に叩きつけ、顔をぶつけんばかりに近づけて睨みつける。


「お前は本当に、私達と同じ人間なのか! おかしいぞ……何か狂っていることに気づかないのか!」

「お前に言われたくはないね」

「汀ちゃんの身柄を引き取る。文句は言わせない」

「文句はないが、今更ブッ壊れたガラクタ一つ手に入れて、何が変わるわけでもないと思うが」

「汀ちゃんはガラクタじゃないぞ……お前に、お前にだけはそんなことを言わせないぞ!」


首を絞めんばかりに力を込めている大河内の手を掴み、圭介は逆に彼を睨みつけた。


「患者を直せなくなった医者は……ミイラ取りがミイラになったあいつは、もうヒロインじゃないんだよ。これ以上汀を使ってみろ。坂月の時を超えるスカイフィッシュが誕生するぞ!」

「坂月君本人から聞いたのか!」


負けじと大声を上げた大河内に、圭介は言葉を飲み込んで沈黙を返した。


「お前と坂月君の精神体がつるんでいることくらい知っている! 汀ちゃんを利用して、何かまた情報を得たな……高畑、私も大概鬼畜だが、お前には恐れいったよ。人間の所業じゃない!」


そこでガラリと会議室のドアが開き、カルテを持ったジュリアが顔をのぞかせた。

彼女は掴み合っている大河内と圭介を見ると、慌ててカルテをテーブルに投げ出し、駆け寄ってきた。


「何をしているのですか! あなた達は冷静に話し合いができないのですか!」


悲鳴のような声を上げて、彼女は無理矢理に二人を引き離した。

肩で荒く息をしている大河内とは違い、圭介はズルズルと壁にもたれかかったまま座り込んだ。

そして疲れたように息を吐いて、頭を抑える。


「ドクアー高畑!」


真っ青な顔をしている圭介を覗きこんで、ジュリアが青ざめる。


「頭が……」

「興奮したせいだわ。今GMDを投与するから……」


ジュリアがポケットから注射器を出して針にかかっていたキャップを抜き取る。

大河内はそれを淡々とした瞳で見下ろし


「ふん、失敗作め……」


と吐き捨てた。

それを聞いたジュリアが弾かれたように振り返り、大声を上げる。


「……聞き捨てなりませんね。人間を人間とも思っていないのは、あなたの方ではないのですか!」

「話を聞いていたな。エドシニア女史。いや、『アンリエッタ・パーカー』と呼んだほうがいいかな」


アンリエッタと呼ばれて、ジュリアが硬直して注射器を床に取り落とす。

コロコロと転がった金色の液体が入った注射器を拾い上げ、手で弄んでテーブルの上に置き、大河内は不気味な笑みを発して続けた。


「図星か。やはりあなたで間違いはなかったようだ」

「あ……あなたは、どこまで知っているのですか……?」


怯えたように呟いたジュリアに、大河内は嘲るように言った。


「あなたが想像しうるほぼ全てのことは」

「これ以上お前と話すことは何もない。汀が欲しいんなら、くれてやるよ。だから俺の目の前から今すぐ消えろ……!」


圭介が頭を抑えながら吐き捨てる。

大河内はニィ、と口の端を歪めると、きびすを返して二人に背を向けた。


「絶対に、後悔させてやる」


大河内の呻くような呟きを受け、圭介はかすれた声でそれに返した。


「やってみろ」



汀は弱々しく呻いて目を開いた。

辺りは薄暗く、部屋の窓にかかったカーテンから、夕焼けの赤い光が漏れている。


ここはどこだろう……そう思った汀の目に、隣に置かれた椅子に腰掛け、腕組みをしてコクリコクリと頭を揺らしている大河内の姿が映った。

大河内せんせ、と声を上げようとして汀は喉に挿入されたカテーテルにえづき、そのまま猛烈な嘔吐感に、その場で硬直して呻いた。

彼女の呻き声に気づき、大河内が目を開けて慌てて脇の計器を見る。


「汀ちゃん、目が覚めたのか? 今カテーテルを抜いてもらうからな。もうちょっとの辛抱だ」


耳元でそう言われ、汀は痛みと混乱でボロボロと涙を零しながら、必死に点滴が無数に刺された手を伸ばし、大河内の服を掴んだ。

大河内はその手を握り返し、壁のインターホンのボタンを押して口を開いた。


「高畑君の目が覚めた。至急、治療班を回してください」



医師達によるテキパキとした処置が済み、汀はとりあえず鼻と喉のカテーテルから開放されて息をついた。

まだ喉に何かが刺さっているような感じがする。


しかし、体中に点滴が刺されて身動きを取ることも出来ない。

夢傷による体の痛みも増していた。

喋ろうとして、かすれたしゃがれ声が出た。


「私……」


そのまま小さく咳をして、汀は隣に腰を下ろして、カルテに何事かを書き込んでいる大河内を見た。


「どうしたの……?」

「治療中にガーディアンにやられて意識を失ったと聞いている……よし。これで大丈夫だ」


大河内はニッコリと笑って、さり気なく汀の点滴の一つに金色の液体が入った注射器を刺して流し込んだ。

汀は苦しそうにまた咳をしてから、すがるように大河内に聞いた。


「私……成功したの……? 治療に……」

「ああ。君のおかげで私の更迭処分は取り消された。ありがとう」


大河内が手を伸ばして汀の頭を撫でる。

途端に安心したような顔になった汀に、しかし大河内は声を低くして続けた。


「だが……これっきり、あんなことはやめるんだ。君のしたことは、テロリストと変わらないよ」

「せんせが……いない世界なんて……壊れちゃえばいいんだ……」


汀はかすれた声でそう返して、また小さく咳をした。


「滅多なことを言うものじゃない……」


困ったような顔をして、大河内は息を吐いた。


「まぁ、とにかく無事でよかった。まだ助かったとは言えないが……」

「圭介……は?」


そう聞かれ、大河内は息を止めて汀から視線を逸らした。

そして吐き捨てるように言う。


「あいつのことは忘れるんだ」

「……?」

「これから、君は、私と普通の女の子として生きていこう」


きょとんとして顔を見上げた汀に、彼はぎこちなく微笑んで続けた。


「これから、ずっと一緒だ。もうダイブする必要も、傷つく必要もない。私が君のこれからの仕事も世話をしよう。そうだな……マインドスイーパーを育てるアドバイザーなんてどうかな?」


立ち上がって冷蔵庫からコーヒー缶を取り出し、大河内はやけに明るく言った。


「君の特A級免許は取り消されることはない。赤十字にこれから入ることになるが……言ってしまえば、何もしなくても君には保証が下りる。それだけで、無駄遣いをしなければ生活をしていくことだって十分可能だ」

「せんせ……?」

「心の整理がつかなければ、しばらくの間、旅行をしてもいいかもしれないな。うん、そうだ。そうしよう。医師連盟に君のための補助チームを作らせよう。汀ちゃんは東京から出るのは始めてかい? 沖縄はお勧めだぞ」

「……せんせ……?」


怪訝そうにもう一度問いかけられ、大河内は言葉を止めて汀のことを見下ろした。


「ん?」

「……圭介は?」


同じことを問いかけられ、大河内はつらそうに表情を歪めて、しばらく考え込んだ。

そして決心がついたかのように何度か頷いてから、椅子に腰を掛ける。


「……よく聞いてくれ。高畑は、君の身柄を私に引き渡した。聡い君なら、その意味が分かるな?」

「……?」


意味が分からなかったのか首を傾げた汀に、大河内は静かに言った。


「あいつは、君の力を使い多数のマインドスイープで治療を行なってきた。そしていざ、君の運用が困難になった時、君を捨てた」

「…………え?」

「別のマインドスイーパーを育てるそうだ。君は、高畑に医者として再起不能と判断された」


淡々とした大河内の声を聞いて、汀はしばらくの間目を丸くしていたが、やがて持ち上げかけていた上半身をベッドに戻し、息を吐いた。

予想とは異なった汀の反応に、大河内は怪訝そうにその顔を覗きこんだ。


「汀ちゃん?」

「圭介が……そう言ったの?」

「いや……直接は言っていなかったが。おおよそ、その通りのことは」

「ふふ……」


どこか暗い安穏とした笑みを発し、汀は大河内のことを見上げた。


「圭介は……私から離れられないよ……」

「……どういうことだい?」

「どれだけ……表向き捨てたつもりでも、圭介はもう……私のことを完全に捨てることは出来ないよ……」

「…………」


汀のどこかおかしいネジが外れたような言動と表情に、大河内は言葉を止めて視線を逸らした。

そしてポツリと呟く。


「君が、赤十字の『実験』の生き残りだからかい?」


汀はそれを聞いて笑みを止めて言った。


「……うん」

「君のことは調べさせてもらった。不快に思ったなら、すまない。でも、私としてはどうしても高畑のことを知る必要があった」

「…………」

「君は、元々は機関が養成した特殊なマインドスイーパーだ。そうだな? 本名は網原汀あみはらなぎさと言う……『実験』の副作用で、記憶障害が起こっていたらしいが、思い出したかな?」


ゆっくりと語りかけられ、汀は小さく頷いた。


「だが、しかし君は自殺病のウィルスに感染してしまった。そこで君の治療を担当したのが、君が夢の世界で対面したナンバーIシステムの元、松坂真矢と高畑だ。二人は君のスカイフィッシュにやられ、治療をすることはできたが松坂女史は死亡、高畑はシナプスに大きな傷を負った」

「……だから圭介は、私にダイブをさせて、あの時の償いを……松坂先生の死を、償わせようとしてるの……」


汀は小さく咳をしてもぞもぞと体を動かした。

そして息をついてから目を瞑る。


「治療の過程で……私は過去の記憶を全部無くした。圭介は、松坂先生を取り戻そうとしてる……私はよく分からないけど、誰かがそれに関与してる。複数ね……」

「そのうちの一つの勢力が、私が所属している秘密機関GDだ」


大河内は弄んでいたコーヒー缶のプルタブを開けると、中身を口に流し込んだ。


「ただ、GDの内部でも少々揉めていてね……私とは別に動いている者もいる」

「……GDの目的は、ナンバーIシステムの、いえ……マインドスイーパーなしで、システムで自殺病の治療をできる環境の確立ね……」

「…………」

「テロリストは赤十字を攻撃してたけど……本当の目的は、GDが目的にしてるシステムの破壊……その理由は、多分復讐……」

「ああ。テロリストグループは、機関に育てられたマインドスイーパーの集まりだ。自分達を使い捨てにした医療機関への憎しみが、彼らを動かしていると思っていいだろう」


大河内はそう言うと、缶をテーブルに置いた。


「汀ちゃん、そこまで分かっているのなら……悪いことは言わない。全てを忘れて、現場から退くんだ。専属医が君のことを手放した今しか、君を『システムに適合しなかった』と報告できるチャンスがない」


彼はそう断言して、汀の隣の椅子に腰を下ろした。

そして手を伸ばして、痩せて乾燥しきった汀の手を握る。


「……私は、GDの目的を達するために、ナンバーIシステムの復活を任務にしてる。君をそれに使おうと思っていた。すまない。私にも事情があってね……テロリストと方法は違えど、そうすることが赤十字への復讐になると思っていた」

「…………」


汀はニッコリと笑って、かすれた声で言った。


「せんせが望むなら……私は、システムでも構わない……」

「そんなことを言わないでくれ……」


大河内は汀の上半身をゆっくりと起こすと、自分よりも一回り以上小さなその体を抱きしめた。


そしてしばらくの間歯ぎしりするように唇を噛み締めていた。

汀は点滴だらけの手を大河内の背中に回し、静かにさすった。


「……私に、そんなことを言っては駄目だ……私は君を殺すために派遣されたんだぞ……」

「…………」

「人間のシステム化だ……元になった人間は、生きていてはいけないんだよ……」


彼の声が尻すぼみになって消える。

汀は微笑みながらそれに返した。


「せんせが……そう言うなら、私、それでいいよ……」

「駄目なんだ。汀ちゃん……それじゃいけないんだよ」

「どうして? ……せんせは、私のこと嫌いになったの……?」

「違う。私は君のことが……」


言いかけ、大河内は言葉を止めた。

そして汀の体を離して、そっとベッドに寝かせる。


「……いや、いいんだ。汀ちゃん、『命令』なら聞いてくれるか? もう高畑に関わるのはやめよう」

「……うぅん。私は……人を助けるよ……」


か細いがしっかりとした声を聞いて、大河内は僅かに声を荒げた。


「……汀ちゃん。それは『実験』で君の脳に刷り込まれた情報に過ぎない。君にインプラントされた意識の断片だ。君が頑なに人を助けなければならないという意識を持ち続けているのは、初期のマインドスイーパーの脳の奥に、人工的に埋め込まれた断片意識のシグナルなんだ。君達は、意識下の『命令』を実行し続けなければノルアドレナリンの分泌量が増加して、不快感を得るようになっている」

「…………」

「しかしそれは投薬で治療できる。君が今負っている夢傷もそうだ。全て治療できるんだ。君の体の麻痺だって治るかもしれない。普通の治療を受けて、精神と、体の状態を普通に戻せればの話だが……」

「…………」

「それを聞いても、同じことが言えるかい?」


汀はしばらく考え込んでいたが、やがて小さな声で聞いた。


「せんせは……私が病気だっていうの?」

「そうだ、君は病人だ」


断言して、大河内は息をついた。


「夢傷の重症患者でもある。このままでは、君は……」


少し言い淀んでから、彼は意を決したように言った。


「君は間違いなく、スカイフィッシュになってしまう」

「…………」

「高畑は、おそらく『だから』君のことを手放した。危険性が高すぎる。私も、君にはすまないがそう思う」

「私が……夢の世界で、悪夢のもとになってしまうって、そう思うの?」

「……確証はないが、高畑の態度を見ていて想像がついた。あいつは、坂月君……君の夢に出てくるスカイフィッシュが、元は人間だったことを知ってる。おそらく変質の現場を見ているんだ」


汀は息をついて、ベッドに体を預けた。

そして大河内から視線を外してもぞもぞと体を動かし、彼と反対側に首を向ける。


「……ちょっと寝る。寝ていい?」

「…………分かった。薬を投与するよ。そして、君の夢の中に、一人ダイブさせたい人がいる」

「私の夢の中になんて……入ってこない方がいいよ……」

「『精神外科医』を呼んでいる。ソフィーが君の夢傷の手当をしてくれたそうだが、もっと専門的な治療が必要だと私は思う。現に、君は今存在しない傷の痛みで、体を動かす事もできないはずだ」

「精神外科……?」


聞きなれない言葉を繰り返し、汀はハッとした。

そして押し殺した声で言う。


「……GDの人?」

「そうだ。夢傷治療の専門家を呼んでる。悪い人ではない。保証するよ」

「……せんせがそう言うなら、信じる……」


汀はニッコリと笑おうとして失敗し、痛みに顔を歪めた。


「いいよ、でも小白も連れてきてね……」



燃え盛る家の中、汀はグッタリと血まみれの包帯まみれの姿で座り込んでいた。

足を投げ出し、もはや動くことも出来ないといった状態でか細く息をしている。


その周りを、白い子猫が困ったように歩き回っていた。

耳につけたヘッドセットから、大河内の声がする。


『汀ちゃん、周りはどうだい? GMDが投与されているから、スカイフィッシュは現れないはずだ』

「…………」

『汀ちゃん?』


返事もできない汀の様子に、大河内がわずかに焦った声を発する。


『無理して返事をしなくていい。もう少しで到着する。それまで……』

「もう到着してるよ。なるほど……」


柔らかい声が頭の上から投げかけられた。

汀は充血した目をやっとの思いで開き、上に向けた。


白衣を着た背の高い男性がそこに立っていた。

艶のかかった白髪だった。

女性のように後頭部で、長い髪を一つに結っている。

ニコニコとした笑顔を浮かべた、気さくそうな青年だった。


日本人ではない。

瞳が青いことから、おそらくフィンランドなどの日照量の少ない地域の人間であることが伺えた。

髪は、もしかしたら染めているのかもしれない。


「これはひどいな……」


白衣の胸ポケットからメガネを取り出して目にかけると、青年は汀の前にしゃがみこんだ。


「ドクター大河内。今すぐにオペが必要だ。緊急レベルAプラスと判断する。重度5の患者を、よくここまで放っておいたものだ」


青年はニコニコとした表情のまま、右手を上げてパチンと指を鳴らした。

途端、燃える家の中に手術台が出現した。


何かを変質させているわけでもない。

何もない空間から突然手術台が現れたのだ。

目をむいた汀を抱き上げ、青年は彼女を手術台の上に寝かせた。


「驚いた? 最新のイメージ転送システムを使ってるんだ。僕の能力じゃないよ」

「どう……いうこと?」

「サーバー上に、夢世界であらかじめ構築しておいた道具を保存しておく技術だよ。こんなこともできる」


パン、と青年が手を叩いた次の瞬間、汀達は燃え盛さかる家ではなく、白いリノリウムの床が光る手術室の中にいた。


「え……?」

「言い遅れた。僕の名前はマティアス。今やったのは、サーバーにアップロードしておいた手術室のイメージをそっくりそのまま、この夢の中にダウンロードした」


そう言うと、マティアスと名乗った彼は汀の腕をアルコールが染み込んだ脱脂綿で拭き、おそらく麻酔薬だと思われる薬を、問答無用で注入した。


「余計な手間を省くためにも、君には意識を失って、特殊なレム睡眠に入ってもらうことにする」

「…………」


猛烈な眠気が汀を襲う。


「大丈夫。次に目をさます頃には、多少荒療治だけど、傷はきちんと治ってる。もう痛い思いをしなくてもいいんだよ」


マティアスはニッコリと笑うと、台に乗っていたメスを手にとった。


「痛くも痒くもないと思うけど……まだ意識があるかな?」


目を閉じた汀のまぶたを指先で上げ、彼女が意識を失ったことを確認して、彼は言った。


「ミギワさんの意識がなくなった。時間軸をいじる。ドクター大河内。これから十五分ほど、実時間で連絡が途絶えるから」

『分かった……マティアス、闇医者の君に頼むんだ。彼女を治してやってくれ……』

「精神の『修理』はお手の物だから、心配することはないよ」


奇妙な笑顔のまま、青年は汀の包帯をハサミで切った。

痛々しく縫われた傷口が顕になる。

そこでマティアスは、足元をウロウロしている子猫を見下ろして、口を開いた。


「少し待っていてくれないか? 君の主人が死にかけてる」

『マティアス……』

「何だい? そろそろ時間軸の操作に移行したいんだけど……」

『お前が……いや、GDが何の対価もなしに汀ちゃんの治療に手を貸すとは思えない。聞いておきたい。何が目的だ?』

 

マティアスはそこで手を止め、大河内には見えていないながらも、通話向こうの彼が言葉を止めるほどの異様な雰囲気を発し、口が裂けるのではないか、という奇妙な表情で笑った。

 

「いい心がけだよドクター。日本人はそこら辺の大事なところを曖昧にしたがるから困る」

『話をはぐらかさないでくれ。時間がない』

「これが欲しかったんだ」


青年はそう言って、汀のポケットに手を突っ込んでビー玉ほどの核を取り出した。

それは汀に傷を負わせたテロリスト、忠信の精神中核だった。

 

「テロリストの精神中核。この子の夢の中にダイブしないと手に入らないものだからね。悪いけどもらっていく」

『…………』

「この子に異様に信用されているあなたの協力がなければ回収できなかった。礼を言うよ」

 

忠信の精神中核をポケットに仕舞い、代わりに同じ色のビー玉をテーブルの上からつまみ上げ、汀のポケットに入れてからマティアスは続けた。

 

「あぁ、それと……」

『ナンバーIシステムの稼働失敗の件、本部はえらいお怒りだ。後ろに気をつけたほうがいい。僕が、この精神中核を本部に届けるまでの間ね。少なくとも寝てはいけない』

『言われなくても……』

「無駄話をしている隙がない。それじゃ」


一方的に通信を切り、マティアスは手術用の白衣、帽子とマスクを着用した。


「オペを開始しますか」



「ん……」

 

小さく呻いて、なぎさは目を開いた。

 

「あれ……?」

 

呟いて右腕を上げる。

シーツの下で、やせ細った腕が痛みも何もなく、緩慢に動いた。

 

「動く……」

 

薄暗い病室。

ベッドを囲むカーテンの向こう側に、人影が二つ見える。

体の痛みは嘘のように消えていた。


まだ息が苦しく、脳のどこかが麻痺している感覚はあるが、

何か大事なことから切り離されてしまったような。

そんな違和感を感じるものの、痛みはない。


切り離された……?


思い出せない。

夢の中で誰かに会った気がするけど……。

それに、ここ数日……。

私は何をしていて、そしてどうしてここにいるのだろう……?


私は確か、ひどい怪我をしていて……。

で、ここにいる。


何か忘れているような気がするのだが、思い出せない。

咳をしたところで、人影が動いた。

カーテンが開いて、憔悴した顔の大河内が中を覗き込む。

 

なぎさちゃん! 大丈夫かい?」


いの一番に聞かれて、なぎさは息をついて大河内に対してにっこりと笑ってみせた。


「うん……体、痛くないよ……」


それを聞いて大河内は一瞬、とてもつらそうな、曖昧な表情を浮かべた。

しかしそれをすぐに引っ込め、なぎさが気づくよりも早く口を開く。


「良かった……マインドスイープの治療中、重症を負ってここに運び込まれたんだ」


彼はそう言って、カーテンの向こうの人影に目配せをした。

煙草の煙。

病室で、煙草……?


なぎさがまた咳をする。

煙草を吸っていたと思われる人影は、息を長く吐くと革靴のかかとを鳴らして病室を出て行った。


「誰かいたの……?」


大河内に問いかけると、彼は換気扇のスイッチを入れてから汀に対し、言葉を濁した。


「ん……ああ。ちょっとした知り合いだよ。なぎさちゃんが知らない人だ」

「そう……」

「ところで、久しぶりに意識を取り戻したと思うから、二、三質問させてもらってもいいかな?」

「ん、いいよ」

「ありがとう」


大河内は彼女の隣に腰を下ろし、頭を優しく撫でた。

そして口を開く。


「高畑圭介という名前に心当たりは?」

「高畑……圭介?」


怪訝そうに首を傾げ、なぎさは繰り返した後言った。


「患者さん?」

「…………ああ、そうだ。覚えてないならいいんだ」

「覚えてない……」


大河内はニコニコとした表情のまま、続けた。


「君の名前は?」

「大河内……なぎさ……」

「そうだ、あとひとつ」

「…………」

「君は、ダイブを続けたいと思う?」


大河内の質問に対し、彼女は首を振った。


「うぅん……」

「…………そうか」

「もういいよ……もうたくさんだと思う……」

「そう思うなら、それでいい。ほら」


異様な彼女の様子を全く気にすることなく、大河内は手元のキャリーケースを開けて中から子猫を取り出した。


「ええと……」


覚えてる。

この猫は、私の猫だ。

でも、名前……。

名前が、思い出せない。

固まったなぎさに、大河内は猫を渡してから言った。


「小白だよ。君のことをずっと心配してた」

「こはく……? うん、そうだったね。ありがとう……」


彼女はゴロゴロと喉を鳴らして擦り寄る小白を撫でてから、大河内に言った。


「ね、私達、いつお家に帰るの?」

「精密検査が終わってからだね。明後日には病院を出れると思う」

「うん」


ニッコリと微笑んで、汀は頷いた。


「楽しみだなー……旅行」


小さく呟いたその瞳には、数時間前まで人を助けると言っていた決意の色は欠片も見えなかった。


歳相応の無邪気な顔。

大河内は、自分の苗字を名乗った彼女の頭を撫でて、しばらく口をつぐんでいた。


「どうしたの?」

「…………」

「パパ?」

「…………」


パパ、そう呼ばれて大河内は一瞬目を見開いた。

そして唾を飲み込んでから、かすれた声を発する。

 

「……これで、良かったんだよ……」

「……?」

「良かったんだよな……?」

問いかけられ、なぎさは小さく笑った。


「どうしたの、パパ? 何だかいつものパパじゃないみたい……」

「……今日は、一緒にここで病院食を食べようか。明後日からは旅行だぞ。沖縄に行こう」

「うん!」


頷いたなぎさの頭を撫で、大河内は立ち上がってカーテンを開いた。

背を向けたその顔は、唇を強く噛み、今にも押し殺した感情で破裂しそうになっていた。



高畑汀たかはたみぎわを……手放した?」


信じられないような調子で聞かれ、圭介はココア缶のプルタブを開けて中身を口に流しこんでから、息をついて言った。


「ああ。治療中に患者の命を盾に取る行為は、重度Aの危険行為だ。言い逃れは出来ない」

「だからって……あなたにあそこまでボロボロになって協力してた子を、使い捨てるつもりなの!」


掴みかからんばかりに大声を上げたソフィーに、圭介は薄ら笑いを浮かべて言った。


「使い捨てる? 違うな」

「……?」

「あんな便利な道具、そう簡単に無条件で手放すわけはないだろう」


クックと笑って、圭介は缶をテーブルに置いた。

そして片手で醜悪に笑っている顔を隠しながら、不気味に光る目でソフィーを見た。


「……どういうこと? 話がさっぱり見えないわ」

「さしあたっては、約束通りに君の腕の治療を行おう。俺は嘘をつくのは嫌いだからな」

「気になっていたのだけれど……スカイフィッシュに斬られた腕の手術なんて無理よ。あなたにどんなあてがあるのかわからないけれど……」

手術オペなんてしない。君には悪いが、新型システムのモニターになってもらいたい」

「新型……システム?」


聞きなれない不穏な言葉に、ソフィーが色をなす。


「まさか……!」

「察しがいいな。さすが天才だ」


頷いて圭介は椅子に腰を下ろした。

そして青くなったソフィーを見上げる。


「何も精神治療にはナンバーIシステムだけが開発されていたんじゃない。医療技術は日進月歩。様々なものがある。中には、無認可の危険なものもな」

「…………」

「君に受けてもらいたいのは、移植処置だ。精神のな」

「そんな危険な施術を試すと思う?」


押し殺した声でそう返したソフィーに、圭介は鼻で笑ってから答えた。


「受けるさ。君は何としても自由に動く体がほしいはずだ」

「…………」

「腐った精神を切り離して、新しい腕を接合する。理論的には何ら問題がない移植作業だ」

「それが許されるのなら、あなたが一番嫌うロボトミーも許されるはずだわ」

「一緒にしないでほしい。今回は、きちんと施術用に精神構築された腕を、君に『接続』する。成功率は限りなく99%に近い。拒絶反応さえでなければの話だがな」

「…………」


答えることが出来ないソフィーに、小さく笑ってから圭介は言った。


「もう後戻りはできない。俺も、君も。みぎわも、大河内も、もう戻ることは出来ない。ただ、今活動するためには君の腕が足りない。それに、あいつの存在はマイナスにしかならい。だから一時的にリリースした。それだけだ」

「……やっぱりあなたは、あの子をただの道具だとしか思っていないのね……」

「俺だけじゃない。たとえ大河内でさえ、大人は皆自分以外のものは、悲しいかな道具だとしか捉えていない。苦しいことだが、それが大人から見た世界なんだよ。それが分からない君たちは、まだこの世界で生きていく資格を持っていない、人間以下の存在だとしか俺には言えない」


悔しそうに唇を噛んで、ソフィーが黙りこむ。

そして彼女は顔を上げ、圭介に言った。


「……分かったわ。私にも私の事情がある。施術を受ける。どうすればいいの?」

「三日後、君の夢の中に専門のチームをダイブさせて行う。その後、君にはある場所にダイブしてもらいたい」

「……施術直後に動けるかしら……」

「所詮精神の切り貼りだ。現実の傷ではない」

「よく真顔でそんなことが言えるわね……!」

「夢傷それそのものが原因で死んだ人間は存在しないからな」


端的にソフィーにそう返し、圭介は夜の景色を映す東京都の窓の外を見た。


みぎわは必ず俺のところに戻ってくる。それがあいつの贖罪なんだ。あいつは、俺のところに戻らざるをえないカルマを背負ってる。まだあいつは、何一つとして目的を達成していない」


呟くようにそう言った圭介の顔を見て、ソフィーは発しかけていた言葉を止めた。

不気味な表情だった。


視線だけが無機的で、口元が笑っている。

その、どこか壊れたような顔を見て、ソフィーは一つのことを確信していた。


この人は壊れている。

自分とは、違う。



汀の車椅子を押しながら、大河内は多数の医師に囲まれた状態で空港を歩いていた。

医師の周りには、やはり多数のSPがついている。

看護師の女性が、他の人に聞こえないように大河内に耳打ちをした。


「先生、やはりこの子を沖縄まで『隔離』するのは、時期が早いのでは……」

「大丈夫だ。何も問題はない」


短くそう返して、大河内は車椅子の上で、片手で3DSをいじっているなぎさの肩を叩いた。

3DSを膝の上に置いて、耳につけていたイヤホンを外した彼女が大河内を見上げる。


「どうしたの、パパ?」

「そろそろ飛行機に乗るから、ゲームをしまった方が良い」

「わぁ、私飛行機はじめて!」


ニコニコしながらなぎさが近くの看護師に3DSを渡す。


「眠くないかい?」

「大丈夫、たくさん寝てきたから!」


元気にそう言う彼女に、大河内はニッコリと笑いかけて言った。


「そうか。医療機関の特別ファーストクラスだから不便はないと思う。病院のみんなも同席してくれる」

「私とパパの旅行なのに、みんなに悪いね」


そう言ったなぎさに、近くを歩いていた看護師の女性たちがニコニコしながら何かを言う。

大河内は会話をはじめた彼女達から目を離し、どんな要人が飛行機に乗るのかという好奇の視線に囲まれた状況で、周囲に視線を這わせた。


それが、ゲート近くにポケットに手を突っ込んだコート姿の男が立っているのを見て停止する。

大河内は


「すぐ戻るから」


と言って、近くの看護師に車椅子を預け、SPを数人引き連れて男のところに近づいた。

ニット帽を目深に被り、サングラスをかけた男。

白髪だ。

大河内は彼の前に立つと、SP数人に周りを固めるように指示をして、押し殺した声を発した。


「……ここで何をしている、マティアス」


マティアスと呼ばれた「精神外科医」はサングラスをずらして大河内を見て、口の端を歪めて裂けそうに笑ってみせた。


「監視」


端的にそう言ったマティアスの視線が動く。

ハッとした大河内の目に、マティアスの視線の先に、空港に数人同じようなコートにサングラス、白髪の人影があるのが映る。


「北ヨーロッパ赤十字は、高畑……失礼、『大河内汀おおこうちなぎさ』のことを、最重要、危険度AAAの観察対象として認定したんだ。僕は彼女の精神手術を担当した手前、こうして出向いてきたってわけ」


大河内は歯を噛んでマティアスを睨みつけた。


「丁度良かった……お前には言いたいことがあったんだ」

「血圧上がってるな、『パパ』? どうだい、悪い気はしないだろう?」

「私とみぎわちゃんはそういう関係ではない。よくも間違ったインプラントをしてくれたな」

「そういう関係じゃないって……じゃあどういう関係なんだ?」


あくまで軽く、のらりくらりと怒りをかわされ、大河内は額を抑えて息をついた。


「……説明したくはないな。言いたいことはそれだけじゃない。みぎわちゃんの記憶が、マインドスイーパーとしての強制記憶と一緒に、一部かなり欠落してる。いい加減な仕事をしたな!」

「言葉遣いに気をつけなよドクター。誰に対して言っているんだ?」


マティアスはニヤニヤした表情を崩さず、大河内の肩にポンポンと手を置いた。


「彼女の膿んだ精神夢傷の手当ては、完璧に済んだ。何、その周囲の精神真皮ごと切り取ったから、縫合後は記憶の大部分欠落が見受けられるけど、それに相当する分の『都合のいい思い出』はインプラントしておいた。もうあれは、中萱榊なかがやさかきの使っていた道具じゃない。ドクターの、娘だよ。戸籍も書き換えてある」

「私の娘としての思い出を埋め込んだな……何てことを……」

「だから何を憤ってるんだ? ん? もしかしてあの子は……『娘的ポジション』ではないのか? おいおい……」


呆れたように腕組みをして、マティアスは息を吐いた。


「ペドフィルだったのか、あんた」

「冗談を言っている場合ではない。あんなのはみぎわちゃんじゃない!」

「やれやれ……十三歳だぞ。日本人の法律や価値観、趣味嗜好はよく分からないな……変態が多い国だとは聞いていたけど、まさかここまでとは……」

「あれではまるで別の人間だ。完全にフォーマットされてる。ある程度の価値観は残すべきだ」

「具体的には?」

「……具体的と言われても……」


口ごもった大河内の肩をまた叩き、マティアスは言った。


「……ま、僕らは沖縄までしばらくの間、と言っても『ナギサ』ちゃんの監視命令が撤廃されるまで専属医として同行する。GDの意向だから、ドクターの身柄も保証できるよ。その方がドクターとしてもありがたいんじゃないかな」

「…………」

「……反乱分子は、テロリストとどうも繋がっているらしくてね。ヨーロッパ赤十字は、血眼になって探してる。慎重にならざるをえない背景、ドクターなら理解できるよね? あんたの趣味に合わないっていうなら、アフターサービスで少しくらいは、あの子の性格を弄ってあげるよ」


これ以上喋っても無駄だと自覚したのか、大河内は深い溜息をついて、こちらに向けて手を振っているなぎさを見た。

それに手を振り返した彼に、マティアスは続けた。


「元気に動いてるじゃないか。それとも、あの悪夢の中で血まみれで転がってた方が幸せだったって、ドクターはそう仰るのかな?」

「そういうわけじゃ……」

「じゃ、僕は先に飛行機に乗ってるよ。彼女、だいぶはしゃいでるようだけど気をつけなよ」

「どういう意味だ?」

「……分からないならいいんだ。それじゃ、オキナワで」


ひらひらと手を振って、マティアスがゲートに向かって歩いて行く。

大河内は舌打ちをしてSPに何事かを言い、なぎさの方に足を向けた。



「パパ、すごいよ! 雲の上にいる!」


窓際に座ったなぎさが大声ではしゃいでいる。

大河内は、わずかに憔悴した顔でニッコリと笑ってみせた。


「ああ、そうだな。体は大丈夫かい?」

「うん、何だか最近すごく調子がいいの。私、元気になったかもしれない」

「……そうか」


頷いて、大河内は職員からジュースを受け取ってストローを指し、彼女に手渡した。


「私も長期で休暇届を出した。しばらく沖縄で羽目を外そうか」

「うん!」


頷いたなぎさが息をついて、背もたれに体を預ける。


「眠いなら少し寝てもいいんだよ」

「うん。でももう少し、雲見たい」


窓の外に視線をうつしたなぎさだったが、そこで彼女の動きが止まった。


「あれ……?」


小さく呟いた彼女に、大河内が怪訝そうに聞いた。


「どうした?」

「誰か、私のこと呼んだ?」


周りにいる看護師達を見回して、彼女は首を傾げた。


「男の子の声が聞こえたの。どこかで聞いたことがあるんだけど……空耳かなぁ」


それを聞いて、一瞬停止して大河内は青くなった。


「……何だって?」


眠りにも入っていないのに。

おかしい。

立ち上がりかけた大河内の耳に、ブツリ、という音とともに機長室からのアナウンスが飛び込んできた。


『A390にご搭乗の皆様に告ぐ』

「あ……」


なぎさが顔を上げる。


「この声」

「え……?」


思わず聞き返した大河内は、次の言葉を聞いて息を呑んだ。


『当機は、現時点をもって我々「アスガルド」が占拠した。乗客の皆様に危害を加えることは、なるべくならば避けたい。それゆえ、我々の要求を一度だけ、簡潔にお伝えしたいと思う』

「ハイジャック……!」


押し殺した声で叫んで立ち上がった大河内を嘲るように、少年の声は続けた。


『赤十字の皆さん、乗っているんでしょう? 我々が要求するのは、「ナンバーⅣ」の身柄だ。あなた達が隔離しようとしている女の子を、平和的に受け取りたい』

「ナンバーⅣ……?」


汀が小さく呟いて、不安そうに大河内を見る。


「パパ……何だか怖い……」

「…………」


大河内が無言でなぎさの手を握る。


『ナンバーⅣがこの機内にいることは、既に確認している。赤十字の皆様に要求することは、「無抵抗」だ。どうか無駄な抵抗をしないでほしい』


そこで、ウィィィィ……と、スピーカーから聞いたこともないような音が流れだした。

高圧で鼓膜を震わせ、脳を振動させるような重低音だった。

それを聞いたSPや看護師達、大河内、汀に至るまで、ファーストクラスエリアにいたその場の全員が頭を抑え、ついで襲って来た猛烈な眠気に歯を食いしばる。


『乗客の皆様には、これより眠っていただく。諸君らは人質である。我々アスガルドは、ナンバーⅣの精神中核を要求する。もしも抵抗するのであれば、容赦なく「殺させて」いただく』


眠気に耐え切れず、看護師が一人、二人と倒れていく。


「ダイブの準備だ! なぎさちゃんを守れ!」


SP達に怒鳴り、大河内はガクン、と首を垂れたなぎさの頭にヘッドセットを被せた。


「……ドクター……!」


そこでファーストクラスのドアが開いて、ふらついたマティアスと、数人の白髪の男女が駆け込んできた。

全員ヘッドセットをつけている。


「人質全員を眠らせて……精神中核を連れ去るつもりだ……私もダイブする。テロリストを撃退するぞ……!」


大河内も眠気で震える手でヘッドセットを装着した。

音が段々大きくなっていく。

大河内が眠気で目を閉じ、意識をブラックアウトさせたのと、ヘッドセットをつけたマティアス達もその場に崩れ落ちたのは、ほぼ同時の事だった。

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