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黒衣の守護者  作者: 樽吐
“英雄”と呼ばれし者
18/156

(4)

 セレンを連れ出したベリルはしばらく苛立ったように先に立って歩いていた。どこへ行くのかと思えば城内部にある彼女の執務室だ。

「…困った奴だな…。あんな嘘を平然と並べ立てて…」

 部屋に入るなりベリルは呆れながらも自分の椅子に腰掛ける。

「ですがあの場はああでも言っておかなければ収拾が付かなかったと思いますが?」

「わかっている。私も…お前の正体について設定を考えておかなかったのが悪かった」

 お互い役目上嘘は()き慣れている。だがその割にベリルはセレンが周りに悪く思われるのを随分と嫌がっているように見えた。

「闇討ちされたところで殺されるような失態は犯しませんよ?」

 昔はそれこそ四六時中命を狙われていたのだ。この時代でも多少危険な目に遭ったところで切り抜ける自信はある。

「それもわかっている! いちいち念を押すな!」

 ベリルは何故か妙に苛立っていた。どうしたのかと尋ねてみれば、彼女も自分が普通の心理状態でないことを理解したようだ。突然肩を落とした。

「すまないな…。お前を見ると…どうしても息子を思い出してしまうものでな…」

「?……御息女ではなく?」

 確かベリルに息子はいないはずだ。どういうことだろうかと考え込んでいるとベリルは話してくれた。彼女が初めて産んだ子供は男の子だったのだそうだ。

「私といえども2人の娘が無事に産まれてくるまでには何度も子供に死なれている…。死産だったあの子は…生きていればちょうどお前くらいの年齢だ」

 セレンの一族は血が濃いせいか、親兄弟の顔がとてもよく似ている。セレンはベリルの弟達の若い頃にもよく似ていて、どうしても自分の息子を重ね合わせて見てしまうらしい。

「私は…母を知りません。生まれてすぐに亡くなってしまいましたから」

 セレンの母は物静かで優しい女性だったと言うからベリルとは少し印象が違う。だが母が生きていれば彼女のようにこうしてセレンのために周りに怒りを感じてくれたりしたのだろうかとは思った。

「お前の母は…一族の外から嫁いできたのか?」

「はい…」

「そうか。…ならば長生きは難しかっただろう。弟達も妻には早く先立たれているからな」

 セレンの一族は男であれば大体妻に先立たれる。過去には妻の命を守るために子供を諦めたという者もいたそうだ。セレンももう随分と前に家族を持つことは諦めていた。

「先程ガレスの国境警備の者から悪い知らせも受けていてな…。どうにも取り乱してしまった」

 ベリルは経験豊富な諜報部隊騎士だ。だがそんな彼女でも色々悪いことが重なれば苛立ちもするようだ。

「悪い知らせとは?」

「ガレス城周辺に魔物が集められているそうだ。何か…悪いことの前触れでなければよいのだがな」

「……」

 セレンは一瞬言葉を失った。もうガレスはミレノアルへの攻撃準備を始めていると言うのか。まだ猶予はあると思っていたが、その記憶は誤りだったようだ。

 思えばセレンはアルゴスの娘であるデルフィラを“奪い”、ネメアを“傷付けた”のだ。それはアルゴスの怒りを買うには十分な理由になる。だとしたらこれから起こるネメアの一斉攻撃はセレンが呼び込んだ災厄だということになるのだ。

「…ベリル様」

「どうした? この先のことで何か思い当たることでもあるのか?」

 ベリルは顔色を変えたセレンに何か嫌な予感を感じたのだろう。神妙な様子で尋ねてくる。

「王都の人々を即刻避難させてください…。エルベ山の麓なら避難場所として適しています。もう…時間はあまりありません!」

「おい、セレン…」

 乗り出すようにしてとんでもないことを言い始めたセレンにベリルはただ驚き戸惑っている。しかしセレンは追い詰められたように一方的に話し続ける。自分でも言葉が止められなくなっていた。

「いつになるかは私もはっきりとは知りません。ですが今から恐らく数日の内にアルゴス王がネメアを率いてこの王都にやってきます。昨日のネメアの襲撃とは比較になりません。ショノアとデルフィラの2人が街を守ったとしてもアルゴスの妨害が入ります。被害は甚大になります!」

 まだ聖剣のことは何もわかっていない。頼みの綱の『聖剣の使い手リーン』もいない。それなのに事態は情け容赦なく進んでいくのだ。一体今のミレノアルを誰が守り切れると言うのか。

「何だと…? それは…未来でそう伝わっているということか?」

「…そうです」

 ベリルの驚きは当然のことだ。この時代で初めてネメアが現れたのは3年前。アルゴスに率いられたネメアだったが、その時はミレノアルを脅かしに来ただけだと言っていい。散々ネメアを暴れさせて、気が済んだら勝手に引き上げていった。だが今回は違う。アルゴスは本気でミレノアルを潰しにかかるだろう。

 記録では聖剣の力によってネメア達は退けられたとされている。しかし街への被害は依然として大きかった。死傷者の数もなぜか記載は無かったが、一体何が起きるのか今の時点ではセレンにも予想が付かないのだ。

「残念ながら今の私にネメアを退ける力はありません。この国を…私は守り切れないのです…。ですからせめて陛下だけでも…!」

 この時代の王はセレンの慕うミレノアル王ジョルダニアの若い頃とよく似ている。だからこそセレンはあの王を失いたくなかった。二度もガレスの王に大事な王を奪われてなるものかと必死になっていた。

「待てセレン…、それはおよそできぬ相談だ。我らは敵わぬとわかっていても王都を最後まで守らねばならんのだ。そうなれば…陛下も共に残ると言われることだろう」

 ベリルは諭すように静かに語りかけてくる。しかしセレンは納得しなかった。今回のことは明らかにセレンがこの地に入ったことが原因だ。しかも諸悪の根源である自分はまだネメアを倒すことができないでいる。

「私のために陛下は…、私の時代のミレノアル王が私を優遇したばかりに…ミレノアルは(わざわい)に見舞われた。陛下は殺されたのです…! このままではこの時代の王も同じ運命を辿ることになってしまいます…!」

「…セレン…」

 彼はずっと恐れていた。王がセレンを将軍に推挙したその時からずっと、自分の一族にまつわる呪いがミレノアルを、そして王を破滅に追いやるのではないかと。未来ではその恐れが現実のものとなってしまったのだ。それなのに今度は自分が引き込んだ災厄のために、この時代の王までが危険な目に遭ってしまう。

「私は…誰も守れません…!」

「もういい、よくわかった…。お前がこの時代のミレノアルのことで責任を感じる必要はない。それは私が押し付けてしまったことだ」

 台に両手を付いたまま顔を伏せるセレンの肩をベリルは宥めるように撫でる。それでもセレンはただ自分に対する悔しさに手を握りしめていた。

「陛下と住人達のことはもう気にするな。私が何とかする」

「…あなた方騎士団も王都から出てください。ネメアとアルゴス王は私1人で対処します」

 ベリルもそして今日訓練場で手合わせした騎士達も、誰1人自分のために死んでほしくはない。皆気の良い人間ばかりだ。しかしそれを聞いたベリルは怒りの表情でセレンに詰め寄った。

「お前1人を危険な場所に置いていけと言うのか⁈ それこそ了承できん!」

「あなた方がいても何の助けにもならない! これ以上、私に他人の命を負わせないでください…!」

「!……」

 それは彼の本音だった。体面や気遣いなど本当に必要なかった。孤独な戦いなどセレンはとうに慣れている。一瞬ネメアの気を逸らすために攻撃に加わり、そのために襲われて死んでいった多くの部下達。その一瞬のために命を落とすくらいなら、自分が攻撃を受けた方が何倍も気が楽だった。

 顔を上げ、ベリルの目を凝視するセレンから彼女はやがて根負けしたように目を逸らす。

「……すまなかった。確かに…お前の言う通りだ」

 彼女は悔しげに唇を噛み締める。その姿にセレンの胸も痛んだ。

「私の方こそ…あなたにこのような不名誉なお願いしかできず…申し訳ありません」

 セレンにネメアを倒す力があったなら騎士団と共に戦うこともできただろう。だが次の戦いはセレン自身もどうなるかわからない。彼が倒された場合、もし騎士団が共にいれば彼らは間違いなく壊滅させられる。それは間違いないのだ。

「その戦いで…リーンが生き延びたのは確かなのだな?」

 ベリルはセレンの心の中を見透かすように見つめてくる。

「ミレノアルをネメアの攻撃から救い、滅亡から救ったのはリーンだと記録されています」

 これはあくまで歴史書の記録だ。今となってはそれを記された通りに受け取っていいものかはわからない。セレンはもう歴史書の言葉を何一つ信じられなくなっていた。確かなことはこの戦いでミレノアルは滅亡しなかった。それだけだ。

「ならばお前も生き延びるということだな?」

「……はい、恐らくは」

 彼女の期待通り、リーンを名乗るセレン本人がミレノアルを救うのだと彼自身も信じたい。だが既に本物のリーンは死んでいるのだ。この先もその名がセレンと同一人物であることを指すかどうかはわからない。

「わかった。お前はもう何も気にするな…。せめてお前の望む通りの状況を作るくらい、私がやり遂げねばな。何よりお前は私の子孫…いや、自慢の息子なのだからな…」

「……」

 ベリルのその言葉はセレンの心に不思議と温かく染み入った。セレンにもう親族は誰1人残っていない。17歳の時に父を病で亡くし、20歳の時に唯一の親族だった祖父が隠居先の地で起きた騒動を鎮めた際に事故死した。その時からずっと1人だ。確かに王のことは父親のように慕っていて可愛がられてもいた。マリウスとも若い頃は家族ぐるみの付き合いをさせてもらっていて、寂しさを感じたことはない。だがそれでも同じ一族である彼女に対する親近感はまた格別だったのかもしれない。

「必ず…生き延びます」

 そうしなければと心から感じた。騎士の役目や使命感からではなく、ベリルやデルフィラ、ショノアを悲しませないためにも自分は生き延びなければならない。いや、何より“生き延びたい”とその時ばかりは強く思った。

「まだ奴らが攻めてくるまでには時間がある。私にできることなら何でもしよう」

「感謝致します」

 ベリルはセレンの肩を握り、力強く頷く。セレンは今までにない安心感に、この時代にベリルという存在がいたことに深く感謝した。



 それから陽の沈む直前辺りにショノアとデルフィラが帰ってきた。彼らはどこかでセレンの居場所を聞き出してきたのか、ネメアの一部が保管してある研究室に現れたのだ。

「ど、どうしました? まさかネメアが暴れたのですか⁈」

 セレンは彼らの姿を見ると慌てて駆け寄っていく。2人があまりにも砂埃まみれで服もボロボロ、更にはショノアがかなり疲れ切った様子だったからだろう。

「…ああ、別に心配ない。ちょっと…頑張り過ぎただけだ」

 どこも怪我はないかと死にそうな顔でセレンが尋ねてくるものだから、ショノアは苦笑するしかないようだ。ベリルから見ても彼らに大した怪我はない。セレンはどうにも他人を過保護に扱う傾向にあるようだ。

 しかしショノアはいつ見ても大人びた子供だ。口調はもちろんだが、振る舞いや考え方までが見た目の子供らしさを完全に裏切ってくる。実は若返りの魔法などで見た目を変えているだけで、実年齢はかなり上だと聞かされてもきっと彼女は驚かないだろう。

「ネメアを生け捕りにしたと聞いていたが、どうだった? 上手く放せたのか?」

 ベリルはわずかな期待を込めてショノアに尋ねた。セレンと話した後、再びベリルは彼を伴いこの研究室に戻ってきていたのだが、ショノアの異空間にネメアが捕らえられているとはつい先程聞いたばかりだ。しかしショノアはベリルの質問に複雑そうな表情を浮かべた。

「あのネメア…、何故かいなくなっていたんだ。どうやって逃げ出したのかはわからないが、結構早い時期に異空間から姿を消してる…」

「ネメアには、そういう魔法の力もあるということか?」

 ネメアのことはまだよく解明されていない。確認するようにショノアに尋ねれば、代わりにセレンが答えてくる。

「いいえ、恐らくそれは違うでしょう…。ネメアはむしろ体の造りこそ魔法の力が多く含まれていますが、そういう魔物はミレノアル人と同様に魔法は使えないものです。それに私も今までそのようにネメアが魔法を使っているのを見たことはありません。だとしたら力尽くで空間を破ったか…」

「俺もその線を疑ってる。あのネメアは異様に大きかった。異空間から出ようとして暴れている内にその更に外側の亜空間に出てしまったのかもしれない」

 セレンの見解にショノアは同意する。2人とも驚くほど魔法のことについては造詣(ぞうけい)が深い。ベリルもミレノアル人の中ではまだ魔法に詳しい方だが、ガレス人であるショノアはさておきセレンの知識は脱帽ものだ。

 セレンはベリルと話した後、この研究室を直に見たいと言ってきたので連れてきたが、正直な話、彼女はセレンがここに来たところで何も得ることはないと考えていた。しかし彼は魔獣造成師のディプス人とも対等に言葉を交わし、かなり専門的な意見で彼らを唸らせてもいた。彼の豊かな発想を聞いているとなんだか将来に希望を抱けそうな気もしてきていたのだ。

「そうか…。生け捕りにできていれば、もう少し研究も深められたかもしれんのにな…」

 残念だと伝えれば、デルフィラが何かを思い付いたようにショノアに話し始める。彼は何かを深く頷いたかと思うと、ベリルやセレンにも話すように促した。

「どうしましたか?」

 セレンが穏やかな顔でデルフィラに尋ねれば、意を決したように彼女は口を開いた。

「…私の兄が言っていた話なのだけど」

 デルフィラは今回ショノアの蔵書から得た知識で、昔兄から聞かされた話が活かせるのではないかと気が付いたと前置きする。

「魔法生物は同じ能力を持つもの同士ならその能力を打ち消すことができる。それは魔法世界において破ることのできない(ことわり)なんですって…」

「つまり…ネメアにネメアをぶつければ倒せる…? そういうことですか?」

 セレンが驚きを持って確認すれば、彼女は黙って頷いた。

「過去のガレスではもっと恐ろしい魔法生物も造成されていた…。それでも同種同士なら彼らは特殊能力を無効にできる。そうやってガレス人は造り上げてしまった恐ろしい魔法生物達を制御してきたの」

 無敵の生物を造り上げることは魔獣造成師としても最高の夢だ。だが反面、そこまでの魔物が誕生し、暴走したらどうなるのか。手に負えない魔法生物が人間を襲い始め、造り主の命令さえ受け付けなくなったとしたらこの世界は滅びてしまう。だからこそ生まれた理なのかもしれない。

「確かに…ミレノアルで造成される魔法生物は大して手を焼くような強力なものはいないからな…。そんな理など知らなくとも我々が退治してきたが…」

 ベリルは感慨深げに頷いた。しかし同種同士をぶつけるにも、ショノアの捕らえたネメアは行方不明だ。

「しかしネメアをどうやって同士討ちさせる? 奴らはあなたの命令を聞くのか?」

「それは無理よ。だからネメアを魔導器にするの。例えば剣にしてしまえばセレンはネメアを倒すことのできる剣を手に入れられるでしょう?」

「!……それは…」

 セレンが思わずデルフィラに詰め寄った。彼女はとても誇らしげだ。セレンの力になれたことが余程嬉しいのだろう。

「けどその案にはいくつか問題がある。まずデルフィラの力がネメアより上であることが必須条件だ。魔法はいつでも力の強いものが弱いものの魔法を無効にできる。だが逆はない。更にもう一つ…。魔導器にするためのネメアには逃げられてしまっている」

 折角の浮かれた雰囲気をぶち壊すようにショノアが割って入ってきた。冷静なことは良いことだが、彼の容赦のない所はむしろ諜報部隊向きだろう。

「それは昨日みたいにまたネメアが襲ってきた時に捕まえれば良いんじゃないかしら? 今度もまた異空間に閉じ込めて…」

 デルフィラは必死で反論するが、その案はどうやら実現することはできなさそうだ。セレンは静かに彼女への礼を口にすると2人の顔をしっかりと見つめた。

「次にネメアが襲ってくる時はアルゴス王も一緒です。ネメアを捕らえることは…もうできません」

「……え?」

 デルフィラの驚いた顔が胸に刺さる。ベリルは彼女がセレンを好きだということにとうに気が付いている。だとしたら彼女もベリルのようにセレンを何があっても守りたいはずだ。そんな彼女がセレンの絶望的な状況を知ったらどう思うのか。

 セレンが2人にベリルが受けた報告のことを話せば、予想通りにデルフィラの顔がみるみる恐怖に歪んでいく。

「じゃあ…もうあまり時間はない…?」

「そういうことになります。デルフィラには…折角良いお話を聞かせて頂けたのですが…」

 さすがにショノアも今回ばかりは動揺を隠せない様子だ。デルフィラに至っては言葉を発する余裕さえない。ベリルは思わず天を仰いでしまった。

 デルフィラの思い付いた案はショノアの捕らえたネメアがいればかなり期待が持てた。だが彼女がそのことに気が付いた時には既にその機会が失われた後だったのだ。ベリルには全てが僅差で手をすり抜けていってしまったように感じた。

「ベリル様」

 セレンが神妙な顔つきで彼女に向き直る。落胆している場合ではない。こうなってしまった以上、ベリルはセレンの希望を一刻も早く実現しなければならない。それが彼に報いる唯一のことだろう。

「……わかっている。お前はもう何も心配するな…。我々のことは我々だけで何とかできる」

 これ以上セレンに負担をかけるようなことはあってはならない。ベリルにできることはただ、誰もセレンの邪魔にならないよう取り計らうことだけだ。

 デルフィラを見れば、彼女はただ不安そうにベリル達の顔を何度も見回している。しかし彼女にかけるべき言葉をベリルは持ち合わせなかった。結局ベリルはセレンを王都に1人置いていくことしかできないのだから。

 振り切るようにして立ち去れば、セレンがデルフィラを何処かへ連れ出していくのが見える。残されたショノアは立ち去るベリルの後ろ姿をじっと見つめていた。


 ベリルはそのまま将軍イアニスの部屋に向かうと、王に至急の謁見を申し出る。彼とは同期で気安い間柄だが、ベリルの表情を見て事の深刻さを悟ったのだろう。すぐに応じてくれた。

 王の部屋に通されれば王は机に向かい、多くの報告書に目を通している最中だったようだ。しかし2人の姿を見ると、すぐに書類を机に置いた。

「如何した?」

 この王は急逝した父王に代わり若くして即位した。彼は自分の力不足をしっかりと理解しており、昔からベリルや彼女の父の助言を受けて正しい政治を心掛けてきた立派な王だ。

「国境近くに配備中の部下より伝令です。ガレスの城下にネメアやそれ以外の魔物までが集結しつつあると…。恐らくアルゴス王は我が国への攻撃準備を整えているのではないかと思われます」

「…何だと⁈ あの“魔王”がまた攻めてくると言うのか⁈」

 ベリルの報告にまずイアニスが反応した。王はじっと黙ったままベリルを見つめているだけだ。

「3年前の襲撃では相当な被害を受けた…。あのリーンという男の持つ剣は未だネメアを倒すことはできぬのだろう?」

 当時、ミレノアルとガレスははっきりと戦争をしていたわけではなかった。それが突然アルゴスは王都に現れ、夥しい魔物の群れを放ったのだ。王都は見たこともない強力な魔物の襲撃にほとんど反撃もできず、人々は逃げ惑った。その様を彼は大きなネメアの頭上に据え付けた豪奢な椅子に腰掛け、悠然と眺めていたのだ。人間が魔物に引き裂かれ、悲鳴と叫び声が響き渡る中、彼は1人楽しそうに笑っていた。その様子は今でも人々の心に恐怖として刻まれている。騎士団ではそんな彼を、恐怖と侮蔑を込めて『魔王』と呼ぶのだ。

「それに…先程気になる話も耳にした…。あのリーンは魔物に寄生されているそうだな? まさかあの男こそが魔王の送り込んだ先鋒…という可能性はないのだろうな?」

 イアニスは普段はここまでベリルを疑うようなことはしない。彼は王を深く尊敬し、その王の信じるベリルを全面的に信じると決めているからだ。だがそんな彼でも疑心暗鬼に囚われている。それが今のミレノアルの情勢なのだ。

「リーンは…信用に足る男です。理由は申せませんが、私は納得のいくあの者の事情を知っております」

 ベリルは激怒してしまいそうな自分を懸命に抑え、何とかセレンの潔白を証明しようとする。しかし彼の正体を打ち明けられない限り、疑いは完全には晴れない。それはよくわかっていた。

「お疑いならば、いっそ彼を1人王都に残して全員退避されては如何でしょう? そうすれば誰も被害を受けなくて済みます」

 セレンが希望したのでなければ誰がこんな勝手な作戦など立てるものか。同じことを誰か他の者に言われたとしたら、ベリルはその相手を叩きのめしていたことだろう。

「それは…了承しかねる…。もしあの男が敵の手先であれば、戦わずして城を明け渡すことにもなりかねん…」

 イアニスはベリルの提案に難色を示した。当然のことだ。ベリルが彼の立場であっても反対したに違いない。しかし彼女の方も退くに退けない理由がある。2人はお互い一歩も退かずに言い合いを続けていたが、それを黙って見ていた王が静かに立ち上がる。

「…城などくれてやればよい」

「⁈」

 それはベリルでも驚くような発言だった。王城は国の象徴。それを奪われることは敗北したのと同じだ。しかし王は揺るぎのない目でベリルとイアニスの顔を見つめていた。

「今明確なことは…我が国が存亡の危機に立たされているということだけだ。そうなれば王たる私は1人でも多く国民を生き延びさせねばならぬ。城や王都は後でいくらでも造り直すことができよう?」

「それはそうですが、しかし…」

 あまりにも思い切りの良い決断に、イアニスはただ戸惑うだけだ。ベリルもここまで早く王が城を出ることを了承するとは思ってもいなかった。

「……リーンには…申し訳のないことだがな…?」

「……」

 ベリルは無意識に王に対して頭を下げていた。セレンを守る力は今のミレノアルには無い。それでも彼は持てる力全てでこの国を守ろうとしている。その思いに報いることができるのは、唯一ミレノアル王だけだったろう。

「私の力が及ばず、一介の騎士1人に国の命運を委ねることになるのは心苦しい限りだ。そなたにも…大事な部下を失わせてしまうことを詫びねばならぬ…」

「…いえ、そのお言葉だけでもう…リーンは報われております」

 できることなら直接王の言葉をセレンに聞かせてやりたかった。そうすれば彼の後悔も少しは晴れたことだろう。今回の一件がセレンの過去の後悔を一層引き立ててしまったことは間違いない。一族の血にまつわる呪いのような謂れが王の命を奪ったと彼はずっと自分を責めてきたのだ。それは一族に生まれた人間ならば誰もが持っている一つの恐怖だ。彼女にはセレンの気持ちがよく理解できる。

「イアニス。即刻総員退避の準備に取り掛かるように。リーン以外、王都に暮らす騎士団も含めた全ての者達を都の外に避難させるよう命じる」

 王の決断は早かった。命令を受けたイアニスは一瞬躊躇したようだったが、思い切るようにして敬礼する。

 彼にしてみれば、王が自ら敗北宣言を口にしたことは将軍たる自分の責任とも受け取れるのだ。簡単に聞き入れられる命令ではなかったことだろう。それでもイアニスは愚直なまでに王の命に異議を申し立てるようなことはしない。彼は心から王を尊敬しているからだ。振り返り、ベリルを見つめるイアニスの顔にはもう迷いはなかった。

「ベリル、ガレスの動きの監視はお前に任せる。事は一刻を争うが…リーンには内密にな?」

「……承知致しております」

 味方を欺くことなど何度となくやってきた。それに今回は隠すまでもなく、置いていかれる本人が望んだことだ。何の苦労もない。だがもし今回の件でセレンの身に何かあったらベリルは本格的に引退を考えてしまうかもしれない。それほど後悔の残る戦いとなるだろう。覚悟していたことだが王の決断が出てしまった今、セレンの絶望的な未来は決定付けられてしまったようなものだ。王の部屋から出た彼女は深くため息を吐いた。

 この3年、アルゴスには良いように弄ばれてきた。対抗し得る手段もなく、ただ逃げることだけがガレスの攻撃から身を守る術だった。そんなミレノアルがようやく攻勢に転じる時が来たのだと、ネメアと戦うセレンを見てベリルはそう希望を持った。だがその期待はあっという間に消え去ってしまったようだ。

 せめてセレンが次の戦いで生き延びられるようにと…ベリルはただそう強く願うしかなかった。


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