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黒衣の守護者  作者: 樽吐
無慈悲な英雄
108/156

(3)

 それから数日間、城内では政務に携わる者達の総入れ替えがなされた。エリアナが長年暮らしてきたアネイダスの街から彼女の家臣はほぼ全員連れてきている。それだけの人数を収容できるだけの飛空船を用意しておいたのだ。彼らは元々城内や王都で暮らしていた者達も多く、身分や立場に従い適当に自分の居場所を決定していった。元々住んでいたダルチェスの家臣達は皆家財道具一式を飛空船に積み込み、各々遠く離れた街に強制的に退去だ。と言っても快適な飛空船であっという間に送り出されるのだから、自分達の足で危険な道のりを進んでいくよりはずっと安全で良心的な扱いだったろう。その先の街での暮らしは保証の限りではないが…。

 全てが落ち着いた頃にはエリアナがダルチェスと面会を果たしたあの日から5日が過ぎていた。そこへようやくエリアナの家族が彼女の前に姿を現した。

 彼女が王の宮殿に入ってもう5日経つというのに今まで彼らは何をしていたのだろうか。本当なら彼女の飛空船が王都に現れた時点で会いに来ても良かったくらいだ。恐らくエリアナが城に攻め込んだとしても失敗に終わると、ダルチェスのように彼女を甘く見ていたのだろう。すぐに追い返されると思っていたら、なんとエリアナはダルチェスを城から追い出すことに成功してしまったというわけだ。だが顔を見せに来なかった件に関してはエリアナとしてもあまり大きな口は叩けない。都合が良くて放っておいたのは彼女も同じだからだ。だが家族の顔を見るとどうしても不快な気分になる。彼らのことを思うと折角の勝利の喜びも半減するというものだ。

 実際、夫のギルドスが娘のイシェイラを連れて張り付いた笑みを浮かべながら近付いてきた時には、思わず吐きそうになった。年下の彼はセレンとは確か同い年だが、今も若い頃の体型を維持しているセレンに比べて彼の(たる)みまくった体型は見るに耐えない。エリアナも他人のことは言えないが、それでも一切愛情のない結婚であるからには今となっては愛想笑いの一つも浮かべられなかった。

 娘のイシェイラに至っては、手の平を返したようにエリアナに抱き付いてきて仲の良い親娘を演出し出した。これまでは“恥ずかしい母親”扱いだったというのにだ。無感情に抱き付いてきた娘の頭を見下ろしていると、セレンが近付いてきてイシェイラに挨拶する。しかし彼女は初めて見るセレンが近衛騎士の服を着ていなかったからか、明らかに蔑むような顔をしてふんぞり返った。セレンが優しげな笑みを浮かべていたのも、彼女を思い上がらせてしまった要因かもしれない。

「あなた、お母様の何かしら? お母様の側には高貴な者しか近寄れないのよ? いくら髪の発色を良くしたって身分の卑しさは変わらないわ。そこをお退()きなさいな」

 エリアナはその言葉を聞いた途端、娘を自分の体から無理矢理引き剥がした。セリノアの一族の話は彼女にも話して聞かせたはずだが、セレンには結び付かなかったのだろうか。それともエリアナから聞かされた話など、そもそも彼女は覚える気もなかったのだろうか。驚いたイシェイラはエリアナを見上げてくる。

「口を慎め、イシェイラ。彼は聖剣の使い手、セレン将軍だ。彼の髪の色は紛れもなく純血種のミレノアル人である証拠。お前のように、薬で発色を良くした訳ではない」

「⁈」

 イシェイラの顔は一瞬で真っ赤になった。まさかエリアナに気付かれているとは思ってもみなかったのだろう。我が娘ながら愚か過ぎて涙が出そうだ。

 髪の色のことは何もイシェイラだけではなく、多くの貴族達ができるだけ自分の髪色を赤みの強い黄色に見せようと苦心している。最近ではなかなか性能の良い薬が出回っていて、エリアナの青みの強い黄色の髪から青みを完全に取り去ることさえできるらしい。だがたとえ見た目を繕ったところで身体能力までがセレンのように向上するわけではない。彼女が欲しいのは見た目ではなく『力』の方だ。それはセレンを幼い時から間近で見てきたからこそ、よりはっきりとした憧れを抱けたのかもしれない。

「セレン将軍って…あの黒将軍のこと? 嫌だわお母様、そんな悪者を側近くに置いたりしたら他の貴族達が黙っていない」

「黙れ!」

 エリアナは思わず娘の頬を()っていた。今日は普通のドレスを身に付けていたため大した力はない。ミレノアル人の血が一応王族の中では濃い方のイシェイラは別に痛くもなかっただろうが、心理的に受けた衝撃はかなりのものだったようだ。

「お母…様…?」

 甘やかされて育った彼女は勿論手を上げられたことなど一度もない。叱られたことさえないのだ。そんな彼女が母親に訳もわからず突然打たれた。イシェイラの目にみるみる涙が溜まっていく。

「エリアナ…、今のはいくら何でも…」

 泣き出した娘を見かねて父親が彼女を抱きしめ慰める。その様子が更にエリアナの怒りに拍車をかける。

「2人とも今すぐこの部屋から出て行け。さもなくばセレンへの侮辱罪で投獄する。しばらく私にその顔を見せるな…!」

「⁈」

 とにかく心の中に湧いた嫌悪感が凄まじかった。セレンはエリアナにはもう子供がいるのだから世継ぎ問題は解決していると言ったが、この娘を後継者になぞ決して選びたくはない。息子も同様だ。彼は両親には無視されてきた存在だが、なかなかにミレノアル人の血は濃い。そのため周りの貴族達が放っておかず、今はそれなりに厄介な性格に育っているというのだ。ダルチェスの息子達も同じようなものだと聞いたことがある。王族にはそれこそ後継者に選びたい人間などどこにもいないのだ。

 いや、1人だけ見込みのある人間がいる。ユーラッドの娘のファランだ。彼女は今までエリアナを怒らせたことがほとんどなく、しかもアルカイスト人よりも下に見られているプラニッツ人の血を濃く受け継いでいる。人望も申し分なく、父親に似て頭の回転も早い。彼女をなんとか自分の養女にして後継に据えることができれば安心だ。最近では彼女を直接王にしてしまおうという動きも世間ではあるという。だとしたら彼女を自分の後継に指名しておけば、その不届きな動きも抑えることができて一石二鳥だろう。

 2人は何とかエリアナの機嫌を取り直そうと粘っていたようだが、彼女の連れている鉄の豹が威嚇するように牙を剥けばさすがに怯えてそそくさと出て行った。彼らがいなくなると部屋には何とも言えない沈黙が流れる。周りにはそれこそ大勢の騎士や貴族達が控えているが、穏やかではないエリアナの家族関係を見せられて、どう反応したものかと戸惑っているようだ。

「…エリアナ様、私が声を掛けたばかりに…。申し訳ございません」

 セレンが殊勝にも謝罪してくる。彼は何も悪くないというのに、エリアナが気分を悪くしたきっかけを与えてしまったと言って謝ってくれたのだ。

「気にすることはない…。私の家ではいつもあんなものだ。立場は完全に逆転しているがな…」

 彼女が笑いかけると、セレンは安心したのか表情を緩めた。それに伴い周りの空気も少し和らいだような気がする。

「権力とは本当に恐ろしいものだな…。人の気持ちを容易く変える」

 ブラドという後ろ盾を失ったダルチェスは一日で家臣の裏切りに会い失脚した。そしてセレンを手に入れたエリアナには誰もが(かしず)き服従する。人の心のなんと弱いことか。思わず口から漏れ出た不満の言葉をセレンは静かに聞いている。

「私のことも…いつか心変わりするとお考えですか?」

 しばらくすると彼がふとそんなことを言ってきた。彼なりの反論なのだろうか、エリアナは思わずハッとして顔を上げる。

「馬鹿な…! お前は私に全てを与えてくれた。今の私はお前の存在あってこそだ…!」

 彼の場合は裏切られるというよりもいつか愛想を尽かされて捨てられるのではないかと、そちらの方が余程心配だった。セレンはエリアナのことを好きだと言ってくれている。だが彼を自分に縛る術は何もない。望まぬ夫との間には可愛くもない子供達がいるというのに、セレンとの間には何もないのだ。

 エリアナは牢獄でのダルチェスの姿を見て、血の制約の効果も疑い始めていた。あの魔法のおかげで王族は彼の揺るぎない忠誠を得ることができると考えられてきたが、もし違うとしたら彼は本当に自由になってしまう。自由になった彼が、それでもエリアナを選んでくれるというのだろうか。彼女はそれほど女性としての自分に自信があるわけではない。手に入らないと諦めていた時には何もかもが平気だったというのに、今はとにかくセレンを失うことが恐ろしくて仕方がなくなってきてしまった。

「お前の忠誠を疑う理由など何もない。…そうだ。お前は決して私を裏切らない…」

 自分に言い聞かせるようにしてエリアナは呟いた。早急に何か彼とエリアナとを結ぶ絆のようなものを考え出さなければならない。愛情だけでは心許ない。血の制約のように彼がエリアナの側を離れられなくなるような何かが必要だ。そんなことを考え始めた矢先のことだった。突然1人の兵士が部屋に駆け込んでくる。

「何事だ?」

 新しくセレンが任命した近衛騎士隊長が、慌ただしく乱入してきたその兵士を咎めるようにして理由を尋ねた。すると兵士はすぐに非礼を詫びて恐ろしい報告を口にする。

「ネメアがこの王都に向かってきております!」

「何だと⁈」

 エリアナは思わず声を上げていた。ブラドが姿を消してたった数日でネメアが襲来するなどと、デルフィラはこの城で起きたことを全て何処かから監視しているのだろうか。それともブラドとの縁はとうに切れていて、ネメアが襲ってくると知っていたからこそ彼は逃げ出したのか。いずれにしても今から王都は15年前のようにネメアに襲われるようになる。それを暗示させるような事態だ。

「向かってきているのは何体ですか?」

 落ち着いたセレンの声が部屋に響く。周りはすっかり騒然となっていたが、彼の声に一瞬で静けさを取り戻した。

「…1体です」

 緊張した面持ちで答える兵士に、セレンは更にネメアの大きさも尋ねた。

「城下にある富豪達の家くらいはあります。そんな大きさの怪物であれば、もっと早くに見つけられたはずですが…」

「ネメアの移動速度は魔法生物の中で一番だという話です。その大きさのものなら知能も高かったでしょうから身を隠しながら近付いてきたのかもしれません」

「⁈…そ、そんな…」

 身分の低い兵士達は王都にいた者達をそのままの役目で置いてあるが、まだ若いその兵士はあまりネメアの恐ろしさを知らないようだ。この地ではブラドがデルフィラと取り交わした密約のおかげでここ10年ほどネメアが襲撃してきていないというから、無理もない話なのかもしれない。

「エリアナ殿下…」

「……」

 セレンが自分への命令を待つように彼女の方を向く。エリアナとしては頷くしか仕方がなかった。ネメアを抑えられるのはこの世でセレン唯一人。たとえ危険だとわかっていても彼を送り込む以外に王都を救う手立ては何も無いのだ。

 一瞬エリアナを労るような笑みを浮かべると、セレンはすぐに部屋を出て行った。若い騎士や兵士、貴族達までがその様子に希望の表情を浮かべて彼の後を追う。今まで間近で見ることの敵わなかった彼の戦いぶりをその目で見届けようとでもいうのだろうか。だが実際にはそんな生易しい戦いではないのだ。エリアナは両手を握りしめると近くにあった椅子に腰掛けた。そうでもしないとセレンを引き留めに走り出してしまいそうだったのだ。

 気遣うように近寄ってきた鉄の豹の頭を彼女は撫でる。そうしてどうにか心を鎮めようと努めるが、それでも不安は泉のように湧き出してくる一方だ。彼は無事に再びここに戻ってくるだろうか。以前のように傷だらけになってしまうのか。もし死んでしまったらどうしよう。不安がまた新しい不安を呼び、胸が締め付けられるように痛い。しかしそんな彼女の視界に、呆然と立ち尽くす残りの騎士達の姿が目に入ってきた。

「お前達…何をぼんやりしている…? さっさとセレンを援護しに行かぬか!」

 自分がこんなにも苦しんでいるというのに、何も察せずに安全なこの部屋に居座ろうとする彼らが無性に腹立たしい。

「…し、しかしネメアに対して我々にできることなど…」

 行っても無駄だと騎士達は反論する。確かに若い頃の彼はいつも一人で戦っていたという話だが、それは昔の話だ。今は彼も若くはない。当時と同じ力があるわけではないのだ。同じ扱いで良いはずはない。

「無くとも行け! できることなど自分で考えろ! もしセレンの身に何かあったら…その時はお前達全員ただでは済まさぬぞ!」

「⁈……」

 エリアナの怒りの命令に騎士達は一気に顔を青ざめさせて部屋を飛び出していった。彼らが駆け付けたところで何の助けにもならないことなどエリアナも承知の上だ。それでもセレンの盾になることくらいはできるだろう。それで何人が犠牲になろうと構うものか。セレンさえ生きていてくれればそれで良い。他の者達など元々生きていても権力次第で誰にでも付くような信用ならない人間ばかりなのだから。

 結局気が付くとその場に残ったのは扉のすぐ側に控える使用人1人だけになっていた。他は皆エリアナの怒りを恐れて部屋を出て行っている。小言を言ってくるような人間もいなくなったので、エリアナは窓際に近付きそこからネメアの姿が見えないかと覗いてみた。しかし残念ながらこの窓は城の奥側に向いていて、それらしい姿は全く見当たらない。逆側の城下街の見える方角なら或いは飛んでくるネメアが見えたのかもしれない。

 部屋の中は静かで、外の廊下を行き交う足音さえ響いてはこない。皆エリアナの言い付け通りに外に出払ってしまったのだろう。このまま1人でいると、もしかしたら今のネメア襲来の報せは誤報で本当は何も起こってはいないのではないだろうか。そして何も知らずにいるエリアナを外にいる貴族達は笑いものにしているのではないのか。そんな馬鹿げた想像まで湧いてきそうになる。彼女はわずかに苛立ちながら部屋を出ると、目の前にある廊下の大きな窓を張り付くようにして覗き込んだ。

 彼女のいる4階から見下ろせばこの建物から真っ直ぐ先、美しい石畳を一人歩いていく後ろ姿が見える。その姿は既にかなり小さくなってしまって、目印のように輝く髪がそれをセレンだと教えてくれるのみだ。そして彼の後を追うように多くの騎士達が走り出していく。彼らは皆近衛騎士であるからには乗る物も普通の馬だ。そんな陸地に縛り付けられたような人間達で空飛ぶ怪物に何ができると言うのか。自分で命じておきながら、エリアナは彼らの心許なさにため息が漏れそうになる。

 空に目を向ければ点のように小さな黒いものが飛んでいて、それは見る間に大きくなってくる。確かに物凄い速さで飛んでいるようだ。その速度に彼女は恐れをなして窓から後退ってしまった。とにかく恐ろしくて再び元いた部屋に戻ると、外から何も見えないよう使用人に命じて窓に取り付けられた分厚い布の幕を下ろさせる。

 デルフィラと戦うということはこういうことなのだと、エリアナはたった今実感していた。あのネメアは城下を荒らし、城にまで襲いかかってくるかもしれない。セレンは懸命に戦い押し留めてくれるだろうが、彼が倒されてしまったらもうネメアを止める方法は何も残されていないのだ。そうなったら自分はどうしたらいいのか。

 しばらくすると雷でも落ちたのかと思うほどの轟音が鳴り響いた。戦いが始まった…と感じるよりも先に彼女は両耳を手で覆う。エリアナの心の中は今、様々な恐怖で溢れ返り混乱の極みだ。一つ一つに向き合って乗り越える時間などは当然無い。轟音は更に続けざまに鳴り響き、まるで彼女に落ち着く暇など与えるものかと畳み掛けてくるかのようだ。

 耳を塞いだまま彼女はその場に座り込み、頭を伏せる。使用人が心配して駆け寄ってくるが、側にいてほしいのは彼女ではない。しかし側で支えてほしいセレンはここにはおらず、それどころか彼こそが最も恐ろしい場所にいて全ての命運を握っている。彼の命が尽きればミレノアルも、そしてエリアナ自身も全てが終わるのだ。エリアナにはこの物音の一つ一つがセレンに打ち下ろされる鉄槌の音であるかのようにも感じられた。

 そうして永遠にも感じた時間が過ぎ去り、体に感じる物音も振動も止んだ頃、わずかに聞こえる使用人の声によってエリアナは正気を取り戻した。

「…物音が…止んでおります」

「……」

 恐る恐る手を離してみれば、確かに周りはまた異様な静けさに包まれていた。幕を引いたせいで部屋はすっかり暗くなり、静けさを余計に引き立ててくる。

「外の様子は…?」

 掠れる声でそれだけ尋ねれば、使用人は一度離れて部屋の外を見に行った。そして程なく帰ってくる。

「…ここからでは何も…。城下の方角は煙か何かで霞んでしまって…」

 要領を得ないその内容に、エリアナはすぐさま立ち上がると廊下に出た。使用人の言っていた通り、確かに街の方角は霞んで何も見えない。火事らしき黒い煙もいくつか立ち上っているようだが、何にしろよくわからないのだ。少なくともここからでは距離があり過ぎる。

「誰か! これから街の被害状況を確認しに行く! 私の馬を用意せよ!」

 誰に言うでもなく声を上げれば、廊下に面した多くの扉から慌てたように使用人達が飛び出してくる。

「で、殿下…、城下はまだネメアが暴れているかもしれません…。近付くのは危険では…」

「それを確認するために行くのだ」

 彼女の後ろには元いた部屋の中から鉄の豹も出てきていて、難色を示す使用人に牙を剥いている。彼らは慌てて彼女の命令を実行すべく去って行った。

 しかしこの豹は本来護身のために作ったものだが、相手を威圧し従わせるのにも大いに役立つものだ。ただの置物か鉄の塊にしか見えないこの魔法具がまるで生きているように動く様は人に否応なく不気味さを感じさせるらしく、むしろもっと大きな魔法生物達よりもこの豹の方を恐れる人間は多い。満足して鉄の豹の頭を撫でるとエリアナは身支度を整えるべく自室に向かった。


 それからしばらくの後にエリアナは護衛の騎士達と共に城を出た。城門を潜れば酷い土煙でエリアナはすぐにも布で口元を覆う。視界はそろそろ遠くまで見通せるようになってきているが、足下は瓦礫だらけで馬で進むにはかなり難しい有様だ。彼女の馬はある程度背中の角度を水平に保つよう設定してあるので、激しい落差やよろめきがあっても馬術の苦手なエリアナが振り落とされてしまうような事態は起きない。だが周りの騎士達の何人かは既に馬を降りて手綱を引いていた。

 周りを見れば、道の脇に人々が疲れ切ったように座り込み、エリアナが通り過ぎても顔を上げもしない。助けを求める声や、その助けに応じて走る人の群れ。泣き咽ぶ声も多い。その場にいるだけで気の滅入るような光景に、彼女はとにかく足を止めることなく進んだ。立ち止まったが最後、この辛気臭い状況に囚われて出られなくなりそうな気がしたからだ。

 彼女が足早に通り過ぎれば、人々は恨めしげに見送ってくる。街をこんな惨状に変えたのはネメアでありデルフィラであって、彼女ではないというのに何故彼らは親の仇でもあるかのような目で見てくるのだろうか。そもそもネメアはもう去っている。街に入ってから激しい物音などは一切聞こえず静かなものだ。それは紛れもなくセレンの功績であるはずなのに、彼らは一体何が不満だというのか。ひどく不愉快になってため息を吐けば、物陰から1人の女性が飛び出してきた。

「子供を返して…! 私の子供を!」

 血走った目でエリアナを睨み付ける彼女は武器らしきものは何も持っておらず、魔法を放とうとしている様子もない。ただ馬に乗るエリアナの足に掴み掛かろうとしているだけのようだ。騎士がその女性を払い除けると、彼女はあっさり道の脇に転がってしまった。混乱した人間の戯言かと思い、通り過ぎようとすれば、今度は大勢の男性達が周りを取り囲んでくる。

「セレン様を変えたのはあなたですか? あの方は我々のことを一顧だにされませんでした…! 以前は我々の命どころか家のことまで気遣ってくださっていたというのに!」

 前に進み出た1人の老人は怒りに震える声でエリアナにその矛先を向けてくる。要はセレンが自分達のことを守らなかったと不満を漏らしているのだ。そんな言い分などに何故いちいち耳を傾けなければならないのか。

「ネメアはもういない。セレンが追い払ったのであろう? それで十分ではないか。それとも何か? セレンがお前達の命の盾となって死んだ方が良かったとでも?」

「⁈…そ、そんなことは申しておりません…!」

 老人は憤慨して言い返してくる。しかしどれだけ言葉を飾ってみたところで、結局言いたいことは同じだ。ここの人間達は皆セレンは自分達を守るのが当然だと考えている。その考えに少しでも沿わないことを彼がすると、こうして抗議の声を上げるのだ。

 この様子では今頃セレンは困り果てて身動きが取れなくなっているかもしれない。彼は何だかんだ言っても平民達には甘い。エリアナはセレンが事あるごとに平民達の安全を優先し、自分のことは後回しにしているのをよく知っているのだ。

 昔の会議ではいつも決まって平民達の脱出経路や誘導人員のことばかりを議題に上げ、彼は貴族達の護衛に割くべき人員を大幅に減らしてしまっていた。若い頃から既にエリアナは王都から離れて暮らしていたが、父親が存命の頃はそれこそ何度も召集を受けてやむなく会議には参加させられたのだ。王都に住む住民のことなど当時からエリアナにはどうでもよかったが、セレンは本当にいつでも彼らの話ばかり。そうやって甘やかすから彼らはすぐにも不満を漏らすようになったに違いない。

「それで? セレンは今何処にいる?」

 エリアナが尋ねても答える者は誰もいなかったが、何人かがある方向に視線を向けた。視線の先では人が大勢集まっていて、中には近衛騎士の姿も見える。いや、むしろ近衛騎士達と住民達が向かい合い、何かを激しく言い争っているようだ。本当に彼らは言いたい放題だ。厄介な…。

 渋々その人だかりに足を向ければ、どうやらその中にセレンもいることが判明した。人々はセレンに直接不満をぶつけているらしく、何人もの近衛騎士達が懸命に人々を押し留めている。セレンは大した怪我もないようで、彼らの言い分を平然と聞き流しているようだ。

「何故子供達だけでも避難させてくれなかったのですか⁈」

「あなたは家屋に向けてネメアを叩き落とした! 今までそんなことは決してされなかったのに!」

 家族を、友人を返せ。人々は口々にセレンを責め立てていた。彼がネメアを追い返していなければ被害はこんなものでは済まなかったことだろう。それを棚に上げて、もっと被害を抑えられたはずだと人々は自分の言い分ばかりを彼に押し付ける。どうにか彼を救い出してやらなければとエリアナが近付いていくと、ほぼ同時にセレンが近衛騎士達を押し退けて、彼に抗議する人々の前に立った。

 セレンが目の前まで来ると人々の訴えは更に大きくなり、興奮したらしい1人の若者がセレンの服に掴みかかる。その手をセレンは瞬時に振り払うと、その若者の頭を掴んで地面に叩き付けた。

「⁈」

 その様子を目にした人々が凍り付いたように動かなくなる。セレンの周りにいた近衛騎士も、駆け寄ろうとしていたエリアナ達でさえも驚きに足を止めた。

 目の前には頭を地面に叩き付けられ動かなくなった若者。彼の頭の辺りには既に血だまりが広がりつつある。誰かが「人殺し!」と叫び、その悲鳴のような声によって多くの人々は恐慌状態に陥り逃げ出し始めた。

 そんな中、1人の中年の男性が死んで動かなくなったその若者の前で力無く膝を折る。そして未だに側で立ち尽くすセレンを憎悪の目で見上げた。もしかしたら彼はその若者の父親なのかもしれない。

「私がいなければネメアに殺されていた命です。あなた方の命は私が握っているも同じ。お望みならば今すぐに全て殺して差し上げますよ?」

 氷のように冷たい声がその男性に降り落ちる。一瞬怯えたような顔を見せたその男性は、やがて悔しそうに若者を肩に担ぐと立ち去っていった。

 その一部始終を見ていたエリアナはその場から動けなくなっていた。別に1人の平民が目の前で死んだからといって特にどうということはない。相手の若者は彼の服を掴み、明らかな敵意も示していた。振り払った結果、彼の強過ぎる力によって若者の頭蓋が砕かれてしまっただけの話だ。だがそれをしたのが『セレン』だというのが問題だった。

 確かに彼は貴族達を粛清するような情け容赦のない一面を持っている。異世界で過ごした時間が彼を変えたのだとも言っていた。これからは平民に言われ放題に置いておくことはしない。そのためにあの若者を見せしめにしたというのは理解できる。だがこれは本当に『セレン』なのか。

 まだ城の地下牢でダルチェスの指を折るセレンを目撃していなければ、これほどの疑念は湧いてこなかったことだろう。だが血の制約の効果も示さず、平民を見せしめに殺す人間。それはセレン自身の人間性が変化したと考えるよりも、“他人”であると考える方が自然なような気がしてきたのだ。

 だがもしこのセレンが偽物だったとして、正体は一体何者なのか。何を目的としてエリアナに近付いてきたと言うのか。たとえ敵だとしても、この恐ろしい存在をどうやって退けるというのか。どう考えても被害を被るのはエリアナの方だ。頭の中ではダルチェスの嘲笑が聞こえてくるかのようだった。

 だがエリアナは自分の中に生まれた疑念を頭の奥に押しやり、全てのことを無かったことにした。これは本物のセレンだ。彼女がそう信じる限り彼はエリアナの最大にして最強の味方でいてくれるだろう。何より彼が側で支えてくれる、その心地良さをエリアナはもう手放すことなどできなくなっていたのだ。

 彼女は意を決すると止まってしまった馬の足を進めた。名を呼べばセレンは嬉しそうでいて少し困ったような顔で出迎えてくれる。わざわざこんな場所に出向かなくともすぐに城に帰ったというのに。そう言って彼はエリアナを気遣うのだろう。

 このセレンが果たして本物でなかったとしてももう構わない。現時点でこのセレンのすることはエリアナの意思に全く背いていない。むしろ彼女がやりたくてもできなかったことを代わりに実行してくれているくらいだ。彼をセレンではない誰かとして頼りにしたとしても何の問題もないではないか。

 恐ろしい罪悪の闇は彼女のすぐ目の前で口を開けて待っている。それでもこのセレンと一緒なら平気で飛び込んでいけるだろう。その暗闇の中で小さな灯火を2人で囲み、互いの顔さえ見えるならもうそれだけで満足だ。他は何も要らない。

 エリアナは全ての覚悟をここで決めたのだった。


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