あの頃の残滓(2)
「おはようフィル」
「あ、おはようございます」
洗い場に着いたところ、すでに起きて顔を洗っていたフィルの姿があった。
寮と言ったが、この建物は一般的にイメージする寮とは、少し趣が異なる部分がある。
変わらない所で言えば、風呂とトイレが共同だったりはするし、基本は食堂でご飯を食べる。そういう意味では、一人暮らしをしていた頃の俺の家よりは不便かもしれない。
しかし、この建物の大きな特徴として、カクテルの練習ができるカウンターが、地下に設置されているのだ。
自室で練習するのも勿論良いが、店にまで行かずに専用の機材があって、弟子達の面倒を見れる場所があれば良いとは前々から思っていた。
寮として部屋数自体は少なく、部屋もそれぞれが簡素な作りだが、問題はない。日の当たらない地下が寝床として欲しいと言っていた、吸血鬼兄妹の要望にも応えている。
色々とお金は掛かってしまったが、その分は『ある所』から申し出があったのもあり、大きな問題にはならなかった。
というわけで、設立された寮では、現在ヴェルムット家を除いた従業員の大半が生活している。
そんな寮施設の一画。魔法的な処理で水が出てくる蛇口が並んだ洗い場。
そこから零れる水で顔を洗い、柔らかな印象の銀髪を僅かに濡らす少年はフィルオット・キリシュヴァッサー。
朝日が似合いそうな穏やかな印象の美少年だが、彼の本質はむしろ夜に似合う。
なぜなら彼は人間ではなく吸血鬼であり、俺が初めて取った二人の弟子の片割れだからだ。
「今日もいい天気ですね」
「ああ。俺もすっかり、太陽に起こされる体になっちまったもんだ」
朝ゆえの適当な会話もそこそこに、俺も冷たい水で顔を洗った。
横合いからそっとタオルが差し出される。礼を言って受け取ると、「おかまいなく」という返事がスマートに返ってきた。
「随分と手慣れたもんだ」
「いえいえ。このくらい、サリーの世話に比べれば」
俺は素直に感心したのだが、フィルは照れくさそうに謙遜した。
そんな彼の言葉で、俺はもう一人の弟子がこの場に居ないことにも気付いた。
「そういえば、サリーはどうした?」
「あ、えっと、ええ」
俺が少女の名前を口に出すと、フィルは言いにくそうに顔を逸らす。
フィルの双子の妹、俺のもう一人の弟子であるサルティナ・キリシュヴァッサー。
そりゃ、いつも二人一緒に行動しているわけではないが、顔を洗いに来るのに別行動というのもないだろう。
「えっと、彼女は昨日も遅くまで練習をしていたと言いますか」
「つまり寝坊か」
「……まぁ、はい」
「ったく、あいつは……」
いくら言葉を重ねた所で、結論は一つしかないのだ。
この寮では、朝食の時間が決まっている。食事を担当してくれるのは、イージーズの農場の管理者、兼寮の管理者になったコルシカだ。
基本的には、イージーズが持つ畑の世話を任せている彼女だが、その手間も合わせて寮の仕事も笑顔で引き受けてくれている。
せめて、そんな彼女の手間を減らすため時間はきっちり守ろう。というのが、ここに住む者の暗黙の了解になっている筈なのだが。
ご覧の通り、ここに銀髪の少女の姿はない。
「朝食には間に合いそうか?」
「あー、えっと」
「……あいつ、いっつもライに起こして貰ってたもんな」
ヴェルムット家の次女、ライ・ヴェルムット。姉のスイ・ヴェルムットと違ってそういうところできっかりしていた彼女。
俺は基本的には自分で起きていたが、それでもたまに、前日の営業で眠りが深いときは彼女に起こされたものだ。
ヴェルムット家を離れた弊害の、一番大きいところは案外それかもしれない。
「まぁ良いや。朝食までに起きないようだったら起こしてやってくれ」
サリーの世話はフィルに任せて、洗い場から玄関へと足を向ける。
俺の指示を受け取ったフィルが、頷きつつ尋ねた。
「分かりました。──お散歩ですか?」
俺は、そんな質問になんでも無さそうに答えた。
「ああ。ちょっと変な夢見ちゃったから、忘れてくる」
はは、と軽い笑顔を浮かべる。
だが、もしかしたら、ちゃんと笑えていないかもしれない。
フィルは俺の言葉に一瞬だけ目を伏せ、それからにこりと笑顔を浮かべた。
「では、お気をつけて。それとも付いて行きますか?」
「要らないって。心配すんな」
俺は今度こそ、本心から苦笑いを浮かべてフィルにひらひらと手を振った。
季節は夏と秋の間で曖昧だが、青く澄んだ空はハッキリとした秋の空だった。
抜けるような遠い青に、薄い雲がいくらか浮かんでいる。
雲の様子は、日本で見慣れたものとそう違いは無い。いや、普段から若干違いはあるのだが、やや乾燥した気候が、秋の空には似合っていた。
空からゆっくりと視線を下ろして行き、この敷地に思いを馳せる。
寮はこぢんまりとしたアパートのような大きさだ。領主様のお屋敷よりは小さいが、一般的な家庭よりはずっと大きい。
そして、それが収まってなお、この敷地にはまだまだ空きがあった。
これまで、思いつきの度に土地を使って行っても、充分な空きが残っている。
正直に言えば、このスペースをこの先どう活用したら良いのかが見えなかった。
畑を広げるにしたって、イージーズの規模で持つには十分以上の広さがある。そも、食材の大部分は仕入れている訳で、そもそも魔草の栽培実験以上の広さは必要ないのだ。
さりとて、バー部門で必要な材料(主にジュースなど)の生産工場にしても、これ以上の広さは必要ない。今の段階で充分まかない切れている。
更なる大量生産と販路拡大を目指すにしても、それはもう、俺の手から離れた仕事だ。
俺がこの世界に来て、一年半。
次々と目の前に現れる緊急の課題を、あれよあれよとこなしてきた。
そうこうしているうちに、『カクテル』の基礎的な土台部分は、整ってきた。俺がやらなければいけないことが、目に見えて減ってきていた。
必要な分を使ってなお余りあるこの敷地は、そんな俺の心境と重なっても見えた。
目の前の分りやすい道標がなくなってきて、さぁ、これからどうする?
夢のことを忘れようと、一人で散歩に出たつもりだった。
だが、ここを歩いていると、逆にどんどんと夢の内容を鮮明に思い出してしまう。
人生は常に、俺に向かってその意味を問うている。そう彼女は言っていた。
背後に見えるのは、すでに随分と小さくなった寮だ。郊外にほど近く、大多数の人々からは遠ざかったこの場所にある。
人々との繋がりは、広大な敷地に沿うように続く道。牧歌的な雰囲気の、石造りの道。
少し左に視線をやれば、イベリスが管理している幾多の工場群。牧歌的雰囲気の対極にあるような、酷く近代的な建物の群れ。
右に目を向ければ、夏とは随分と様変わりを始めている、畑の列。道に沿うようにしつつ、それは自由に続いている。
そして前に目を向ければ、どこまでも続くような広大な土地。もちろん、どこかの境でそれはイージーズのものではなくなるわけだが、考える意味もない。
なんの手がかりもなく、すでに必要なものを揃えてなお、目の前にはまだそれだけの『空白』が広がっている。
俺は唐突に目の前が真っ白になった気がして、薄く目を閉じた。
静かに深呼吸をしてから、何度か手を握っては閉じる。
大丈夫だ。俺はちゃんとここに居て、こうして立っている。
そう、頭と心に、繰り返し、送り込んだ。
「よっ総。朝なのに、なに黄昏れてんだよ」
不意に後ろから声がかかった。
慌てて振り返れば、そこには俺と年の近い、もっとも気楽に話せる友人の姿があった。
「ベルガモ。おはよう」
「おう。おはようさん」
俺がにっかりと笑顔で挨拶すれば、ベルガモもにこやかに返す。
僅かに、彼に付いている獣の耳がひくっと動いた。少しだけ、このやり取りを照れくさく感じたのかもしれない。
「で、何してたんだ?」
「何も。ただ、ぼーっと前を見てただけ」
「ふーん」
嘘を吐くことなく、素直に答えていた。ベルガモは俺の返答に生返事しつつ、俺の隣に立つ。
それから、じーっと前を見て、はぁ、と息を吐く。
「俺には、なんにも見えないけど」
「そうだな。俺にも何も見えない」
素直な応対が続く。
ベルガモはすっと俺の顔を見て、ぼそりと言った。
「……何見てたんだよ」
「……何見てたんだろうな」
そんな何も考えていないやり取り。気まずい沈黙が、俺達を包んだ。
それからベルガモは、あからさまな呆れ顔を浮かべた。
「やっぱり、ちょっと変だぞ総。いつもより暗いぞお前」
「……悪い。なんか、ちょっと調子が出なくてな」
暗いと指摘されて、言葉に詰まった。
いくら外側を取り繕ったところで、俺の本性など変わりはしない。
どれだけ対人スキルを磨いても、どれだけ人の気持ちを考えても、どれだけの時間笑顔と触れても。心の底で変わらない部分がある。
今の俺を形成する根っこは、『誰か』に引っ張られないと何もできない、俺のまま……
って。違う!
何を考えているんだ俺は。
気弱になっているからって、今の自分を否定するようなことを考えてどうする。
俺は、立ち止まるために前を見ていたわけじゃないだろうが。
「大丈夫、すぐいつもの俺に戻るからさ」
俺は意識的にニカっと笑みを浮かべた。
ベルガモはそれに少しだけ苦笑いをしてから、元気に返す。
「そいつは良かった。じゃ、そろそろ朝食の時間だから遅れず来いよ。コルシカの朝食だ。冷ましたりしたらぶっ飛ばすぞ」
「それは俺じゃなくサリーに言ってやれ。むしろぶっ飛ばして起こすくらいで良い」
「だな」
軽口を叩き合えば、心のエンジンも動き出す。冗談の口も回ってきた。
もう少しすれば、意識しなくてもいつもの俺に戻れるだろう。
「……じゃ、俺も少しコルシカを手伝ってくらぁ」
「おう」
ベルガモは言って、そそくさと寮へと戻って行った。
さて彼は、どうしてここに来たのだろうか。
……もしかしたら、フィルあたりに俺の話を聞いて、心配で様子を見に来たのかもしれないな。
「……たく。いつまでも女々しい男だな俺は、くそ」
ブンブンと頭を振る。
そして、ふと足元を見た。
前が見えなくても、足を前に出せば人間は歩ける。
足元を見れば、進むべき道はしっかりと続いている。
それで今は、何かが見えるまで進めば良い。
その先にきっと、漠然とした『カクテル』の先がある筈だ。
そうやって何かを先延ばしにしたまま、俺もまた、朝食を取るために寮へと戻ることにした。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
期間が空いてしまったのに、前話の前書きであらすじを入れるのを忘れていました。
追記しましたので、念の為ご報告させていただきます。




