踏み込みの深さ
俺と弟子達が領主様の屋敷を出たのは、いつもの閉店時間のずっと前だった。
時間にすればまだ二十二時になるかというところ。イージーズのバー部門ではポーション飲みたちが盛り上がってくる時間である。
屋敷の外に出れば、冬の気温がぞぞっと服の隙間から入り込んできて身体を凍えさせる。
ただ、澄んだ空気はいつも以上に夜空を綺麗に見せていた。
「……月、綺麗だな」
俺は誰にでもなく、小さくそう呟いた。
両隣に付いている双子は、そろって俺の呟きの意味を問う。
「どうしたんですか、急に」
「冬の空が綺麗なのは、認めますけど」
二人に、この意味が通じないことは分かっていた。
その反応は、やっぱり俺はこの世界とは別の世界から来たのだということを、否が応でも思い出される。
もっとも、俺自身がその言葉の意味を知ったのは、この世界に来てからだったが。
「なんでもない。ただ、どうしたもんかな、と思ってな」
頭の中で俺は、スイやライ、オヤジさんになんて尋ねれば良いのか。いや、そもそも尋ねるべきなのかを、グルグルと考え続けていた。
ベルモットのヒントは、ヴェルムット家にある。
洒落たつもりは無いが、現状はそう考えざるを得ない。
何度、この世界で灯台下暗しを味わったのかは忘れたが、その中でも最大級だ。
ただ、その話をどう切り出したものかと、迷っているのだった。
「……確かに難しそうですよね。その。皆さん、あまり亡くなったお母さんのことを話したがりませんから。出来るなら、そっとしておいてあげたいです」
フィルは俺が何を考えているのかを、ストレートに理解してくれた。
今まで、俺は彼らの母親のことをあえて聞いてこなかった。そんなことをしなくても、上手くやっていけていた。
そして、いつか時が来たら自然と、教えてくれるかもしれないと、思っていた。
だが今日、気付いてしまった。
ベルモットへの近道が、その『触れて欲しくない部分』かもしれない、と。
俺は、少し奥歯を噛みながら、もう一度空を見た。
そうしていると、今度は反対側の隣から少女の声がする。
「でも、踏み込まないと何も始まらないわ。それとも総さんは、あなたがそんなにも求めている『カクテル』の追及を、お止めになるおつもりですの?」
フィルに続いて、サリーもまた、俺の迷いを的確に言い表した。
できることなら、つつきたくはない。そっとしておいてあげたい。
そう思う『人を優先するバーテンダー』の俺と同時に、もう一人の俺が居る。
なんとしてでも、カクテルの為に進んでいきたい。その先にある答えに辿り着きたい。
そう思う『酒を優先するバーテンダー』……いや『酒を優先する夕霧総』としての俺だ。
今までは、その二つは並び立っていた。
人を優先するための酒を、その酒を美味しくするために人を。
その二つは、目の前の人を楽しませるという目的で、相反することはない。
だが、今の状況は、初めてそれがぶつかってしまったのかもしれない。
人を優先すれば、もしかしたらすぐ側に来ている、ベルモットは遠ざかる。
ベルモットを優先すれば、確実じゃなくても、ヴェルムット家の人々を傷付ける。
もちろん、考え過ぎと言えばそれまでだが、それでも、悩まずにはいられない。
自分の為に他者を傷付ける。それを俺は、肯定してしまって良いのだろうか。
「……月か」
悩んだ挙句、俺はもう一度夜空を見上げた。
恐らくもう二度と戻ることはないだろう、地球を思う。
この世界で、自分を生かしてくれたヴェルムット家の人々を思う。
今まで、ほんの一年も経たない中で繋いできた絆を思う。
それを壊してしまうかもしれない、そう思うと心が痛む。
そう考えれば、いずれベルモットに辿り着くだろうとゆっくり研究すれば良い、そういう結論には辿り着く。
なのに。
そう思えば、今度は心臓が、わずかにモヤモヤとした疼きを返す。
唐突に、一人の女性のことを思い出す。
真っ白い髪の毛をした、酷く見知った顔をした彼女の言葉を思い出す。
『『第五属性』を、そして『カクテル』を追って。その先で、もう一度、会おうね?』
別れ際に、強く俺に刻まれた言葉。
俺が今、求めている答えに続く、道筋のような言葉。
その言葉が、人を優先するべきだとする俺の意志に、チクチクと不満を投げかける。
お前は、本当にそれで良いのか、と。
「あー。ほんと、月だなぁ」
答えも、返事も求めず、俺はまたそうぼやいた。
俺はいつから、こうも人の感情を、気にするようになったんだろうか。
これもまた、かつての記憶が戻ってきた功罪ってやつか。
「二人は、どう思う?」
俺は堂々巡りの思考を一時打ち切って、二人に尋ねてみた。
二人は揃って困った顔をしたあとに、一拍置いて、同じタイミングで答えた。
「気になるなら触れないべきです」
「気になるなら聞くべきよ」
前者はフィル、後者はサリーの意見である。
こんなところでも、仲良く正反対な二人であった。
「サリー。聞いたところで確実に成果に繋がるわけでもないのに、悪戯に人の心を掻き乱すようなことは、するべきじゃないと思うんだ」
「いいえフィル。うだうだと気を使って、ぐじぐじ悩むくらいなら、さっさと聞いてしまうべきなのよ。それでこじれる関係なら、最初からそんなものってことよ」
二人はお互いで睨み合いつつ、持論を語る。
聞くのが本当にベルモットに繋がる保証はないし、聞く事で必ず家族の心を掻き乱すとも限らない。
どちらかを選択して答えが出るまで、正解などは分からないのだ。
俺がふーむ、と更に悩んでいると、どういうわけかフィルとサリーはお互いに睨み合いを続けていた。
「サリー。いつも思っていたけど、君は少しお客さんに近づきすぎる時があるよ。必要以上に近づくよりも、そっと距離を取って一杯をお出しするタイミングがあるんじゃないかな?」
「フィルこそ。いつも思っているけど、お客さんのことを気にしすぎて踏み込みが足りないのよ。そんなんだから、お酒は美味しいけど、話はつまらないとか言われるの」
二人はお互いの言葉を受け、ニコニコと笑顔を浮かべた。しかし、少しだけ頬がヒクヒクしている。
チリチリと、その場の空気が緊張してきているのが、分かった。
「……サリー。君がもし男だったら、許されない失敗はいくらでもあったよ?」
「……フィル。あなたが女だったら、退屈で帰ったお客さんはたくさん居たわね?」
「…………」
「…………」
ついに、隣を歩いていた筈の二人が、足を止めて立ち止まった。
「まてまてまて馬鹿! 喧嘩すんな! お前等が喧嘩したら誰も止められないから!」
俺は焦りつつ二人を止めた。二人はすっと俺へと目を向けてくる。
どちらが正しいと思いますか? そう目で尋ねている。
一触即発の雰囲気をそのままにしながら。
「どっちもまだまだだからな!? フィルはもう少し、アクセルを踏んで良い時はたくさんある! サリーも許されてるだけで、人を不快にしてるときがいっぱいある! どっちもどっちだ!」
ついつい本音を口走ってしまったところ、二人は揃って少し涙目になった。
いかん。今まで基本的には褒めて伸ばす方針でいたのに、方向転換が急すぎた。
「……だから、二人はお互いの良い所をしっかり見て学ぶこと。サリーはフィルの作業を見習うべきだし、フィルはサリーの話し方から学ぶことも多い」
「……はい」
「……はい」
俺の言葉に、二人はやや不満そうにしつつも素直に頷いた。
これで一件落着。
……ん? いったい何の話をしていたんだっけ?
「……とにかく、バランスな、バランス」
結論を出して、俺達は再び歩きだす。
すると、夜空の月が目に入って、俺は何に悩んでいたのかを思い出した。
踏み込むべきか。やめておくべきか。
二人に偉そうなことを言っておいて、自分のことになるとこれだ。
傷つくのが自分なら気にすることもないのに、人になるとこうまで悩むなんて。
「……家族か」
先程、領主様の家でも感じた不可思議な気持ちが甦ってくる。
家族を思うという気持ちは、俺にはやっぱり、ピンと来る感じがない。
それが大切なものだと、想定できても、実感が足りない。
だから俺は、ヴェルムット家の事情に、踏み込んでも良い物か悩むのだ。
それが許されることなのか、悩んでしまうのだ。
「……カクテルの為なら、進むのが正解だろうになぁ」
「……総さんが悩んでるのって新鮮ですね」
隣のフィルが、ぼそりとそんな感想を漏らした。
意図を尋ねるように目線を向ければ、彼はふふ、と少しの笑みを浮かべた。
「だって。営業中はいつだって自信満々で、どんな人にだってピッタリのカクテルを作って、そして悩みなんて何でも聞いちゃうじゃないですか。今回のことだって『みんなを傷付けないし、エルフのことも聞く』なんて結論を、すぐ出しちゃうと思いました」
フィルのあっさりとした答えに、俺は虚を突かれた気分になった。
傷付けないし、ちゃんと聞く。
営業中であれば、あまりにも当たり前の答えである。
なるほど、出来るのなら何の問題もない、シンプルな回答だった。
「確かに。総さんがいつまでも悩んでるのは珍しいわ。とりあえず突っ走ってから、各方面に頭を下げてるほうが、総さんらしいわ」
……色々と無茶はやってきた自覚はあるが。
でも、そうなのかもしれない。
今までは、それが色々な方の迷惑になるかもしれなくても、精一杯やってきた筈だ。
他人にどこまで踏み込んで良いのかは、自分が傷を負いながら、自分で身につけていくしかない。バーでの営業はいつだってそうだ。
特に新人の頃は、分からないことだらけだった。体当たりでぶつかって、先輩に怒られて、お客さんに怒られて、そうやって少しずつ距離を掴んだんだ。
そして今もまた、経験していない分からないことに当たったところなんだ。
それなのに、ヴェルムット家の事情となると、あまりにも尻込みしすぎていた。
家族の重さが分からない、それ以外に理由があったから。
無意識に、ヴェルムット家の人々を、普通以上に大切に思っている気持ちが。
自分の中で心地よい距離を作って、それ以上を拒む臆病な自分自身が。
「……待つだけじゃなくて、自分から歩み寄っていかないと、いけないかもしれないな」
今までは、いずれ時が来たら教えてくれるだろうと思っていた。だけど。
スイやオヤジさんが心にしまっている母親のこと、そこに、俺自身が歩み寄ってもいい時期なのかもしれない。
俺は、うんと頷いて、二人に尋ねた。
「なるべく傷付けないように聞くし、もしなんかがあったら、全力でフォローする。そして、人もカクテルも取る。それが、俺らしい選択、だよな?」
俺の出した結論に、弟子二人は嬉しそうに頷いた。
「僕達も、出来る限り手助けします」
「色々と恩もあるし、仕方ないわね」
決めたあとの足取りは軽かった。
甦ってきた胸の疼きは、そのまましまい込んで、俺は前を見る。
その状態で見上げた夜空は、最初見たときよりもずっと、輝いて見えた。
※0616 誤字修正しました。




