【カルーア・ミルク】(2)
フィルは慣れた手つきでその一杯に取りかかっていた。
だが、俺は実のところ、彼のよどみない動きに驚いてもいた。
俺がフィルに『カルーア』を飲ませたのは一度だけ。しかも【カルーア・ミルク】というカクテルは、名前だけしか教えたことがないのだ。
つまり、今の段階でフィルは出来上がるカクテルを飲んだ事はおろか、作ったことすら無い筈なのである。
だというのに、彼は確信を持った動きでテキパキと作業を進めている。
用意したグラスはタンブラー……標準的なサイズのグラスを一つ用意して清潔な布で軽く拭く。
それからしゃがみ込み、冷凍庫から氷を、冷蔵庫から牛乳を取り出した。
そしてボトル棚の下のストッカーを開け、まだ試作段階である褐色の瓶を選び出した。
グラスを左手で持ち、右手に持ったトングで器用に氷を詰める。
それが済めば、手のひらで回すように褐色瓶のコルクを開ける。メジャーカップへと瓶の口を向ければ、トロトロとした黒い液体が緩やかに注がれていった。
分量は……40mlってところか。その辺りは冒険を控えたらしいが、中々に良いセンスをしているとも思う。
フィルは使い終わったメジャーカップを、水を張ったグラスへと戻さず、洗い場へと送る。それも正しい。
カクテルを作る際に使う器具であるメジャーカップやバースプーンは、毎回洗浄するのではなく水を張った入れ物に戻し、軽く濯ぐような感じで洗う。
もちろん完璧を目指すならば毎度洗うべき(共洗いでもすればなお完璧かもしれない)だが、それでは時間が掛かり過ぎる。
ある程度使うか、外に出していたことで水が温まって来てしまったら、その都度水を入れ替える形で状態を保つのが、営業中のやり方だ。
その場合でも、欲を言えばリキュール系とスピリッツ系に使うメジャーカップを分けたりすることで、極力影響を抑えるなどの注意を払う。
しかし、例外も存在する。
その例外の一つは、糖度が高く水でゆすぐ程度では十分に綺麗にすることが出来ない材料を使った場合だ。
そして『カルーア』は、この例外に当てはまる。
トロリとした液体は簡単に水で落ちることはない。よしんば落ちたとしても、それほど甘い液体は水に与える影響も強い。
ゆすぐための水に分かりやすい味が付いた段階で、その水はもう使い物にはならない。
だから『カルーア』を使った場合は、即座に洗い場に送り、十分に洗う必要がある。
そしてそれは『ミルク』でも同じ事が言える。
フィルは『カルーア』を注いだグラスに、ミルクをアップする。焦げ茶色の液体に真っ白い液体が足され、それをバースプーンでかき混ぜてやれば、見る見るうちに液体は白濁とした薄い茶色へと早変わりだ。
軽く味を見たあと、かき混ぜたバースプーンもフィルは洗い場へ。
牛乳そのものは水で洗い流せないことはないが、牛乳を飲んだあとのコップを洗うとき、水はどうなるかをイメージしてほしい。知っていれば、牛乳を扱った器具をしっかりと洗浄する意味も理解できるだろう。
そして完成したカクテルを、フィルはクレーベルの前に差し出した。
クレーベルはやや表情を引き攣らせたままフィルを見るが、フィルは自信に満ちたニコニコ笑顔で言う。
「【カルーア・ミルク】です。コーヒーの風味を牛乳の柔らかさで包んだ、オススメのカクテルですよ」
逃げ場はない。
そう、クレーベルは悟った風に、一度目を閉じていた。
──────
クレーベルの前に差し出されたグラスには、乳白色というにはほんの少し茶色がかった液体が満ちていた。
先程目の前の彼が言ったことを信じるのならば、この中身は『苦いコーヒー』と『柔らかな牛乳』の混ざり合った飲み物ということになる。
先程は見栄を張って言ってしまったが、クレーベルは苦い飲み物が嫌いだった。
紅茶ならまだ我慢できる。しかしコーヒーになるともはや我慢の域を越える。
液体の色を見れば牛乳の割合が多いことは分かるが、それでも少量注がれていた黒色の液体が、不気味だった。
そして何より、クレーベルには『酒』を嗜む習慣がない。
頭に浮かぶのは、一度舐めたことがある『エール』の我慢し難い苦みだ。
仮にあれの苦さと同等の苦さが、先程の黒い液体にあるとすれば……牛乳をいくら混ぜたところで、美味しい飲み物へと変化するとはとても思えない。
「どうぞお客様。あなたにピッタリだと思いますので」
グラスを前にして逡巡しているクレーベルに、フィルは穏やかに声をかける。
それを聞いて、クレーベルは気丈に顔を上げる。
「わ、分かっておりますわフィル様。ですがもうしばし、あなた様が私の為に作って下さったという、感動に浸らせて頂けないでしょうか」
目の前の銀髪の青年に笑顔を見せつつ、クレーベルの背に冷や汗がじりじりと滲む。
周りからの目がある以上、いつまでもこうしてはいられない。
「で、では、頂きますわ」
クレーベルは覚悟を決めると、グラスを口元まで運んだ。
グラスから香ってくるのは、少し焦げ臭いような、独特の苦みを感じさせるコーヒーの香り。
彼女は無意識に目を閉じ、舌先で舐めるように液体に口をつけた。
「……あ」
驚いた。舌に広がったその『甘味』に。
思わず声が出たのは、想像と違った味に反射的な反応をしてしまったからだ。
「どうかいたしましたか?」
「い、いえ」
目の前のバーテンダーが穏やかな笑みを浮かべているのを感じつつ、クレーベルはもう一度、しっかりとその液体を口に含んだ。
良く冷やされた牛乳の柔らかさが舌を包み込む。その白いベールの上をコーヒーの風味が転がりながら広がっていく。
その味に、コーヒーらしいコクの深さと共に驚くほどの甘さがあった。
コーヒーにいくら砂糖を入れたところで、こうはならない。
牛乳でも同じだ。
しかしこの甘さはどうだろう。
牛乳に少しコーヒーを混ぜ、そこに品もなく砂糖を溶かし込んだようだ。
そんなもの、到底美味しいとは思えない。
であるはずなのに、緩やかに流れていく甘みが、クレーベルの舌から心までを魅了する。
口一杯に広がったコーヒーの魔法は、喉を通り過ぎて口の中からお腹の奥にまで浸透する。
コーヒーの何が美味しいのか理解できなかったはずの彼女が、今は牛乳にはない味わい深さを心から歓迎していた。
ふんわりとなめらかで、驚くほど甘くて、それでいてとても香しい。
もう一口、もう一口。クレーベルのまっさらだった心に、薄茶色のコーヒー体験が、ゆっくりと染み渡っていく。
コーヒーというものは、きっとそうなのだろう。
決して苦いだけではなく、さりとて酸っぱいだけでもない。
舌の中の味蕾を官能的に揺さぶるような、味の洪水に呑み込まれる心地よさが、コーヒーの奥深さではないのだろうか。
そんな感想を、クレーベルは魔法のようなカクテルに導かれながら得たのだった。
気付いたら、ゴクゴクと凄い勢いでその一杯を飲み干してしまっていた。
ほう、と甘い余韻を吐き出す。自然と頬が綻んでいる。
その子供らしい仕草を自覚し、思わず頬に手を当てたところで、目の前の青年がニコニコとクレーベルを見つめていることに気付いた。
「いかがでしょう? 少々、苦すぎたかも、しれません。なにぶんまだ、試作段階なもので……」
クレーベルの感想を待つ銀髪の青年は、そう言って軽くウィンクをした。
その青年が、自分のためにこの一杯を用意してくれた、という意味が分かった。
彼は、自分を庇ってくれたのだ。
見栄を張った自分が、恥をかかないで済むようにしてくれたのだ。
それを自覚した途端、嬉しさと、自分の子供らしさを同時に感じる。
酷い羞恥心をかき立てられながら、それでもクレーベルは答えた。
「……そうですわね。確かに少々苦いかもしれませんが、私には丁度良い味でございますわ。心から、感謝致します」
「恐縮です」
彼の厚意を感じたら、それを無駄にすることこそが失礼というものだ。
見栄を張ったのなら、最後まで張り通してみせる。
それこそが、王子様へのせめてもの恩返しだと、思った。
「ごちそうさまでした。本当に、ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそありがとうございます。おかわりはいかが致します?」
「ぜひ、同じ物を、お願いします」
クレーベルの目の前で、銀髪のバーテンダーはとても嬉しそうに、その端正な顔を緩めて礼をした。
その仕草に、最初から燃え上がっていた筈のクレーベルの恋心は、まったくもってどうしようもないところまで昇ってしまう。
それが生まれて初めて経験している『酔い』のせいなのか、クレーベルにはやはり判断できなかった。
──────
【カルーア・ミルク】を飲んだあと、クレーベルのフィルへの態度は変わった。
それまでは夢物語に浮かれる少女のようだった彼女だが、それから先は慎み深い態度で嬉しげにフィルを眺めていた。
それまでの火花のような勢いが沈静化させ、彼女はじっくりとおかわりを飲み干した。
そして彼女は、思いのほかすぐに店を出て行った。
「またお会いしましょう。本当は商談をすぐにでも進めたいと思っていたのですが、気が変わりました。このお店のこと、もう少し良く知りたいと、今は思います」
「ええ。そうしていただけると助かります」
側に座っていた俺に軽く礼をしてから、彼女は優雅に後ろを向いた。彼女のすぐ後ろには彼女を連れ戻しに来たらしい男が二人ほど控えている。
「そんなに怖い顔をしないで頂戴。お父様にはしっかりと謝ります」
「……本当ですかお嬢?」
「本当です」
クレーベルの殊勝な態度には、男達も困惑している様子だ。
彼女の周りの事情はやっぱり良く知らないが、推測くらいならできる。
彼女は新進気鋭の商会の一人娘。父親に認められたくて焦っている、成人を迎えたばかりの娘が、成功しそうな種を見つけてがむしゃらになってしまった。
それを嗜めた父親と、意地でも認められたい娘。
その結果が、正攻法ではない、今夜のご来店。
……そんな予想は、どうだろうか?
「見送りをしてきます!」
クレーベルは支払いを済ませ、未練もなさそうに店を出て行ってしまった。
フィルは、急に大人しくなったクレーベルを心配していたのか、彼女を店の外まで見送りに出て行った。
「…………なんだろうな」
「何が?」
俺の独り言のような呟きに、スイがこたえた。
まだまだ、水を飲み足りない様子の彼女だが、日常会話くらいの機能は回復しているだろう。
「いや。最初はあんなにフィル様フィル様言ってたのに……途中からぼんやりと眺めるだけってのは……さっきの一杯で、何か冷めるようなことがあったのか?」
俺の疑問はそこだ。
あれだけ押せ押せに思えたクレーベルなのに、途中からフィルと会話しても身を乗り出すようなことがなくなった。
まぁ、そのおかげで俺も彼女を嗜める必要がなくなったのだが、不思議だ。
フィルの対応が失敗だったとは思えない。なぜ、彼女は急にフィルに対する興味をそこまで失ったのだろうか。
「……違うと思うなー」
「わ、やめろ」
そんな俺の感想を聞き、スイは少し目を細めて俺の頬を人差し指で突いてくる。
俺が身を仰け反らせて逃れていると、カウンターの片付けのために外に出て来ていたサリーも、俺を突いてきた。
「……総さんが、いつも言ってることだと思うんだけどなー」
「お前も、やめろっ……て、俺が?」
俺がいつも言っていること……。
なんだろうか。
カクテルのこと、接客のこと、心構えのこと、気遣いのこと……。
「正直、いつもいつも色んなことを言っているせいで、どれだかが分からない」
「ま、仕方ないか」
「総さんだし」
俺がきっぱりと答えると、スイもサリーも落胆した声でそう言った。
だけど、その目の色は少しだけ、異なる気もした。
サリーの目は、俺に期待した分だけ、ガッカリしたような感じ。
だけどスイの目は、それ以上にどこか、俺を心配するような感じに見えた。
……気のせいだろうか?
「ほんと、総はどうしてそうなんだろうねー」
「変な哲学みたいに聞こえるな」
悩んでいる俺に、最後にライが通りすがりで声をかけた。
彼女もやはり呆れた表情だが、核心的なことを教えてくれる。
「そんなの、さっきの一杯でフィルのことがもっと好きになっただけじゃん。フィルの迷惑にならないよう、フィルの気持ちを考えるようになっただけだよ」
ポクポクポクと、頭の中でしばらく木魚がなるような時間。
やがてすっと、彼女の対応の変化が、答えと繋がった。
「…………あ、なるほど」
「ほんと。変なところだけ無駄に鈍いんだから」
ライは最後に俺の頭をコツンと一回叩いたあと、仕事に戻っていった。
俺は頭をさすりながら、謎が一つ綺麗に繋がった清々しさを感じていた。
それから、特に大きなトラブルもなく、フィルとサリーの初めての二人営業は終わりを迎えた。
あえて小さな事件を上げると、今日は俺がカウンターに立たないという噂をどこかから聞きつけたギヌラが、店に現れるというものがあった。
本当に素晴らしく学習しない男だが、カウンターに座っている俺に気付いて顔面蒼白になった瞬間だけは面白かった。
もっともその後に、ギヌラの姿を見たラスクイルさんがペロリと舌を出した瞬間から、もの凄く不本意ながらギヌラの逃げる時間を稼ぐことになったので、プラマイでは限りなくマイナスである。
ラスクイルさん自身は、閉店前に頭に角を生やす勢いで来店した、執事であるトリアスに首根っこを掴まれながら帰宅となった。
しかし、支払いに金貨を使うのはやめてくれ。釣りが出せないじゃないか。
そのあとは今日の営業の反省を、フィル、サリー、俺の三人で行った。
二人は少し疲れた表情ではあるが、自信気に言ってくれた。
自分たちはまだまだだが、それでも、俺の留守くらいはどうにか守ってみせると。
その後に、俺がオヤジさんにこってりと絞られるという時間があって。
そして、閉店作業をさっさと終わらせ、オヤジさんにひたすら俺の代わりに謝ってくれていたベルガモに感謝しつつ帰路について。
その途中で、俺は言った。
「あ、すまん。ちょっと店に忘れ物をしたみたいだ」
俺の発言を聞いて、一緒に帰っていたヴェルムット家の面々と、フィル、サリーの二人が呆れた顔をした。
「えー? せっかく閉めたところだったのに、締まらないなー」
「すまんライ。だけど財布を忘れちゃってさ。流石にちょっと心配なんだ」
俺は自分の懐に何も収まっていないのを見せる。オヤジさんは、はぁ、とため息をついたあと、軽く握った手で俺の頭を叩いた。
「まったく、たるんでっぞ」
「ごめんって。先帰ってていいから」
俺は頭を下げ、皆と別れて逆方向へと進む。
家からはそこまで距離はない。しかし、少しだけ酔ってもいる。
軽く酔い覚ましと、空を見上げながら歩いた。
白くて大きな月が、俺を見つめていた。
こんな夜が、少し前にもあった気がした。
あの日は、スイがオヤジさんに怒られていて、俺はフィル、サリーと三人で家に帰っていたのだ。
そのあと、トリアスに襲われ、ラスクイルさんと初対面して、色々と濃い夜になった。
だけど、それだけじゃなかった。
そんな濃い夜の、始まりを告げたのは、
「やぁ。こんばんは」
こんな、良く通る女性の声だった。
「……こんばんは」
「うん。今日も、月が綺麗だね。そうは思わないかな総」
俺を気安く『総』と呼んだ女性を見つめた。
作り物めいた、美しい女性だ。
月明かりに照らされた肌は、信じられないほど白い。目鼻立ちも整っていて、美をかたどった人形のようでもある。
体型もまるで、男の理想を詰め込んだような、見事なプロポーション。
そして、すらりと伸びた白くて長い髪の毛が、目をひく。
「私のことを、覚えているかな? 君は、記憶力が悪いだろう?」
「誰から聞いたそんなこと。俺はこう見えて、職業柄記憶力は良いんだよ」
酷い誤解に少し怒りを募らせつつ、俺はその女の名前を呼んだ。
「こんばんは、トライス」
「うん。こんばんは総。覚えていてくれて感激だよ」
「大袈裟だな」
そう思ったのだが、トライスの喜びかたは自然だった。
作り物めいた笑みを浮かべていると思ったのに、俺が彼女の名前を覚えていたというだけで、とても自然な笑みへと変わってしまうのだ。
「店に来るか? 俺はお前に聞きたいことがあったんだ」
「良いのかい? もう閉店している時間だろう?」
「店主権限で、いつだって開けられるからな」
俺の言葉に、トライスは頷いた。
今日は、まだ、終わらない。
ここまで読んで下さってありがとうございます。
感想返しなどが滞ってしまってすみません。
現在、ネット回線が若干安定しない環境でして、まとまった時間が取れないでいます(言い訳)
明日くらいに家に帰る予定になりましたので、明日以降にまとまった感想返しなど、行わせていただきたく思います。
三章幕間も、もうすぐ、終わります。
※0329 誤字修正しました。




