1:婚約者に逃げられました
婚約者が失踪した。
しかも、愛人と。
『シアは強くて賢い子だから、ひとりでも大丈夫だろう?
だけど、アミスには僕がついていないとだめなんだ』
身勝手な言い分の手紙が一通残された私室から、金目のものはすべて消えていた。
わたし、シンシア・アスコットが、ジェラルド様――ジェラルディン・ユーベル伯爵と婚約したのは、完全に政略結婚のためだった。
ユーベル伯爵領は、オルティア王国でも歴史深い名門だ。だけど、歴史があるということは、古いものも多いということで。様々な施設は老朽化し、昔からの牧羊と農耕だけでは収入を支えることが難しくなり、経営が傾いているという。
伯爵領は国境にも近く、ここが潰れると他国からの干渉を受けやすくなる。特に、今現在冷戦状態にある隣国は、これ幸いとばかりに侵略の足がかりにしてくるだろう。
国王陛下はそれを危惧されたに違いない。まだ二代目の子爵家である、わたしの実家に、伯爵家との婚姻を命じたのだ。
祖父が成り上がりの豪商で、農作物や水産物の商売をもって先代王を大いに助けたために戴いた爵位で、与えられた領地は狭いが豊かそのもの。資金もたっぷりあるから、アスコットの娘が嫁げば、持参金で伯爵領の経営を立て直せると、陛下はお考えになったのだろう。
二代目子爵であるお父様の子は、ふたり。姉とわたし、ふたりとも女である。しかも姉のロザリアお姉様には、婿を迎えて子爵家を存続させるため、幼い頃からすでに婚約者がいる。
お姉様と将来のお義兄様は相思相愛で、毎週恋文を送り合うほどの仲。そんなふたりを引き裂いて、政略結婚に追いやるほど、両親は冷たい人間ではない。相当頭を抱えただろう。
だからわたしは、婚約の話が出た席で、真っ先に椅子から立ち上がり、紅茶がこぼれそうな勢いでテーブルに両手をついて、言い放った。
「わたしが、ユーベル家に嫁ぎます!」
お父様もお母様もお姉様も、それはもうびっくりしたように目をまん丸くして、わたしを見上げた。
「だ、だが、シンシア」
お父様はおろおろ戸惑いながら、とにかくわたしを座らせようと両手を上下に振った。
「いくら若いとはいえ、ユーベル伯爵は二十五歳だという。おまえはまだ十六。まだまだ婚約者を選ぶ自由のあるおまえを、人身御供に捧げるようなものだ」
「そうよ、シンシア」
お母様も不安げに口元に手をやり、説き伏せようとしてくる。
「断っても、ユーベル家に援助金さえお出しすれば、陛下もわかってくださるわ」
「それでは、延々と無心され続けるだけです。わたしが婚約者として伯爵領におもむき、ともに経営を立て直します!」
お父様はよく、『シンシアの、こうと決めたら曲げない頑固さは、おまえのお祖父様に似たな。まあ、あのかたはその頑固さで、一代で財を築き上げたのだが』と笑っていた。その頑固さを、遺憾なく発揮する時が来たのだと思った。
「シア。本当に無理をしないで」
ロザリアお姉様が、今にも涙をあふれさせそうな目で、わたしを見上げた。
「わたくしのために、あなたが犠牲になる必要なんてないのよ」
わたしは本当に、家族に恵まれたと、痛感する瞬間だった。だからこそ、この人たちをこれ以上、悩ませたり悲しませたくないと思った。
「大丈夫よ、お姉様。お姉様はアスコット家を支えてちょうだい。わたしはユーベルから、アスコットの誇りになります」
わたしは不敵に笑えていただろうか。家族がみんな、眉を垂れていたから、ちょっと自信が無かった。




