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孤得集 ――届かなかった人たち

地下鉄の穴

作者: FU
掲載日:2026/05/10

会社が出社勤務の再開を発表した日、上司は言った。


「コミュニケーション効率を高めるためです」


翌朝九時半、私たちは同じオフィスに座り、それぞれイヤホンをつけ、同じオンライン会議に参加していた。上司の顔は画面に映っている。背景は会社の会議室の白い壁だ。本人は隣の会議室に座っている。全員が同時にイヤホンを外せば、壁の向こうから生の声が聞こえるはずだった。


けれど誰も外さなかった。


皆、たいへんプロフェッショナルだった。


上司は言った。


「現場に戻ったことで、チームのつながりが明らかに強まりました」


私は画面右下の自分の顔を見た。カメラの角度が悪く、ひどく冴えない顔に映っていた。


つながり、というのはたぶん、人が一時間半かけてある建物へ行き、ネットワークを通じて自分がその建物に来ていることを証明することなのだろう。


それ以来、私は毎朝七時十一分に家を出て、七時二十四分に地下鉄の駅に入り、七時二十七分の電車に押し込まれ、八時五十五分に会社へ着き、九時にパソコンを開いてオンライン会議に出た。


時間割はとても精密だった。


精密すぎて、冗談のようだった。


その朝、地下鉄はいつもより混んでいた。


人の波に押されて車内へ入ったとき、左手はまだ鞄のベルトをつかんでいて、右手は肋骨のあたりに押し込められていた。一時的に使用権を失った臓器のようだった。扉が閉まり、アナウンスが流れ、車両が小さく揺れた。全員が同時に左へ傾き、同時にもとの位置へ戻った。その瞬間、私たちは揉まれた布のようだった。かろうじて人間の形を保っているだけで、人間のための空間はもうなかった。


私は一列の座席の前に立っていた。


正面の席には中年の男性が座っていた。目を閉じ、鞄を抱え、たいへん安らかに眠っていた。まるで小さな領土を所有しているようだった。私は彼を観察し、次の駅で目を覚ますのを待った。電車が減速するたび、彼の眉が少し動くと、今だと思った。指が少し緩むたび、歴史が動くと思った。


しかし彼は姿勢を少し変えただけで、眠り続けた。


大人の朝の希望というものは、見知らぬ他人の膝にこれほど完全に託されることがある。


スマホを見たかったが、手を取り出せなかった。たとえ取り出せたとしても、たいした意味はなかっただろう。そこにあるのは、未読メール数件、会議通知二つ、上司からのメッセージ三つ、そして現代人がストレスをどう管理すべきかを教えるニュースの見出しぐらいだ。


仕方なく私は広告を見上げた。


車内上部には紙の広告が一列に並んでいた。やさしく、長い尋問のように。


一枚目の広告は、三か月で英語が話せるようになると言っていた。

二枚目は、あなたの歯はもっと整う価値があると言っていた。

三枚目は、睡眠の質が人生の質を決めると言っていた。

四枚目は、資産形成は早いほどいいと言っていた。

五枚目は、仕事を変えれば人生が変わると言っていた。

六枚目は、疲れは当たり前ではなく、栄養で変えられると言っていた。


どれも丁寧な言い方だった。


けれど全部を合わせると、要するにこう言っている気がした。


あなたはまだ足りない。


英語が足りない。歯並びが足りない。睡眠が足りない。資産が足りない。仕事が足りない。人生が足りない。疲れ方でさえ、科学的にはまだ足りない。


広告とは、善意の形をした侮辱である。


罵りはしない。ただ、あなたはまだ最適化できる、と何度も教えてくる。


その広告群の中に、一か所だけ空白があった。


完全な空白ではない。そこには本来一枚の広告が貼られていたはずなのに、何らかの理由で何も貼られていなかった。なめらかな板面が露出しており、周囲より少し色が薄い。歯が一本抜けたあとの隙間みたいだった。


その板の中央に、黒い小さな穴があった。


それは私の正面にあった。


私はそれを見た。


それも私を見ていた。


もちろん、穴は人を見ない。ただ黒く空いているだけだ。けれど人が多すぎ、手も動かせず、スマホも見られず、見知らぬ男の膝が難攻不落の領土と化しているとき、黒い小さな穴はたやすく特別な地位を得る。


何より、その穴は私に何も売りつけてこなかった。


英語を学べとも言わない。歯を矯正しろとも言わない。投資を始めろとも、転職しろとも、睡眠が運命を決めるとも、疲れは一本の栄養ドリンクで解決できるとも言わなかった。


ただの穴だった。


車内で唯一、それだけが私に「もっと良くなれ」と要求しなかった。


私は急に、その穴に少し好感を持った。


もしかすると、この穴は広告システムの失敗なのかもしれない。どこかの会社の予算が通らなかったのか、代理店が更新を忘れたのか、担当者が退職前に引き継ぎをしなかったのか。資本の川が車内を流れ、ここだけ一滴漏れたのだ。


広告会社がこれを発見したら、会議を開くだろうか。


資料のタイトルは、『地下鉄車両内 空き広告枠活用率向上施策』だろう。第一ページには、現状、穴周辺の視覚資源が十分に収益化されていない、と書かれる。第二ページには、穴には一定の注視誘引力があり、インタラクティブなブランド接点として開発可能、と書かれる。第三ページには、穴を「都市生活者の精神的出口」と定義し、感情マーケティングを展開することを提案、と書かれる。


会議の声まで想像できた。


「この穴、ポテンシャルありますね」


「若者って今、空白が好きなんですよ」


「空であること自体がコンテンツです」


「凝視に課金できませんかね」


電車がまた揺れた。


眠っていた中年男性がついに目を開けた。私は緊張した。彼はドアを見て、駅名を見て、そして再び目を閉じた。


私は心の中で彼に言った。


あなたの人生には、本当にどこにも行く場所がないのか。


そして、その言葉はむしろ自分に向けるべきものだと気づいた。


穴はまだそこにあった。


会社にも多くの穴がある、と私は考え始めた。


責任の穴。予算の穴。プロセスの穴。議事録の穴。大事な問題に話が及ぶたび、誰かが「これは後で見ましょう」と言う。すると問題は穴に落ちる。プロジェクトが失敗するたび、皆が「コミュニケーションに一部課題がありました」と言う。すると責任も穴に落ちる。誰かが辞めるたび、上司は「個人のキャリア選択ですので尊重します」と言う。すると空いた席もまた穴になり、次の広告が貼られるのを待つ。


会社が最も得意なのは、問題を解決することではない。


穴に名前をつけることだ。


リソース調整。

組織最適化。

業務プロセス再構築。

連携強化。

エンゲージメント向上。


そういう言葉は薄くきれいな紙のようで、黒い穴の上に何枚も貼られていく。紙は薄く、穴は深い。


私は地下鉄の穴を見つめながら、ふと思った。


これは普通の穴ではないのかもしれない。


カメラかもしれない。


地下鉄会社はそこから乗客の精神状態を観察している。誰が広告を見るか、誰がスマホを見るか、誰が美人を見るか、誰が目を閉じて眠るか、そして誰が私のように穴を三分以上見つめるか。システムは自動的にタグをつける。男性、会社員、情緒低下の疑い、広告抵抗性あり、穴への異常な執着。


広告会社も見ているのかもしれない。


私は英会話も歯列矯正も資産運用も見ず、穴だけを見た。そのデータに基づき、彼らは新しい広告を出すだろう。広告に説得されたくない人のための広告。画面の中央には何もなく、下に小さくこう書かれている。


あなたはついに、欲望を持つことにも疲れました。QRコードを読み取り、割引クーポンを受け取ってください。


私は思わず笑いそうになった。


隣の若いスーツ姿の男性が、一センチだけ横にずれた。


その一センチで、少し正気に戻った。地下鉄の中で最もよく見られる礼儀とは、可能な範囲で他人に触れないことだ。最もよく見られる恐怖とは、一センチ余計に動くことだ。


穴はカメラではないかもしれない。通気口かもしれない。点検口かもしれない。ネジを外したあとに残った穴かもしれない。あるいは、何でもないのかもしれない。


けれど毎日、自分のしていることに意味を感じられない人間は、つい一つの穴に意味を作りたくなる。


昔の私はそうではなかった。


子どものころ、宇宙人が好きだった。


宇宙やUFOについての本をたくさん買った。本に載っている写真はどれもぼやけていた。ぼやけているほど信じられた。はっきりしているものは現実に属していて、ぼやけているものだけが、別の場所に属する余地を持っていた。あのころ私はよくベランダに立って空を見上げ、遠い星の生命体が地球を観察しているところを想像した。彼らには巨大な目があり、銀色の宇宙船があり、人間の数学の宿題や受験制度を理解できないのだ。


私が宇宙人を好きだったのは、本当に宇宙が分かっていたからではない。


世界がこれだけで終わるはずがないと思っていたからだ。


試験、順位、就職、残業、家賃、健康診断、ローン、会議、報告、また会議。それだけであっていいはずがない。宇宙はもっと広く、人生はもっと幅があるべきで、人は朝八時十二分に地下鉄の席が取れなかったくらいで見知らぬ中年男性を恨むように生きるべきではない。


若いころ、宇宙人は出口を意味していた。


今、私は穴の中に宇宙人がいるかもしれないと疑っている。けれどそれは、連れ去られたいからではない。責任を取ってくれるものが欲しいからだ。誰かが、このすべてに責任を持つべきなのだ。会社は責任を取らない。上司も、制度も、広告も、眠っている中年男性も責任を取らない。なら宇宙人に取ってもらうしかない。


私は彼らが穴の向こうで宇宙会議を開いているところを想像した。


「地球文明観察報告、第七万八千四百二十一号サンプル。都市部男性、会社員。毎日通勤に三時間近くを費やす。業務内容の大半はリモートで遂行可能だが、固定された建築物内でノートパソコンを使用することを義務づけられている」


「当該文明に理性は認められるか」


「証拠不十分」


「接触を推奨するか」


「推奨しない。彼らはオンライン会議を発明しながら、なお互いの出席を求めている」


宇宙人は沈黙した。


彼らは地球を侵略したくないわけではないのかもしれない。ただ一度、朝の満員電車を見て、もうその必要はないと思ったのだ。


電車が次の駅に入った。


ドアが開き、人が流れ出て、また流れ込んできた。降りようとする人と乗ろうとする人が入口で短く交戦し、最終的に全員が少しずつ苦しくなる形で決着した。アナウンスは、混雑時の乗車マナーを守るようやさしく呼びかけていた。まるで混雑が、乗客たちが共同で選んだ娯楽であるかのような声だった。


私はまた、あの穴を見た。


さっきより黒く見えた。


あるいは、私が長く見すぎたのかもしれない。


穴は別の場所へ通じているのではなく、自分の身体の中の、とうに使われなくなった部屋へ通じているのではないかと思い始めた。そこには多くのものが積まれている。子どものころに描いたUFO、高校時代に書きかけで終わった小説、大学時代に「俺は絶対、ああいう会社員にはならない」と言った大げさな決意、初任給で買ったシャツ、初めて深夜まで残業したときの「これは一時的なものだ」という無邪気さ。


一時的、という言葉は危険だ。


一時的な残業。一時的な我慢。一時的な通勤。一時的に好きではない場所に住む。一時的に好きではない自分になる。一時的が長く続くと、それは経歴になる。経歴が長く続くと、自己紹介になる。


私は誰か。


私は某社某部門某プロジェクト担当者の一人です。関係者と連携し、関連事項を推進し、成果物を期限内に納品する役割を担っています。


とても完全な文章だった。


完全すぎて、人間の言葉ではなかった。


もし宇宙人が本当に穴から私を観察しているなら、彼らは私に名前をつけるだろうか。履歴書の名前でも、メール署名の名前でもない、もっと正確な名前を。


たとえば、毎日自分の人生を乗り過ごす人。


その考えが浮かんだ瞬間、地下鉄が急に静かになった。


完全な静寂ではない。車輪は鳴っているし、空調も吹いているし、アナウンスも流れている。ただ、圧迫感が消えていた。下を見ると、周りに人が少なくなっていた。さっき眠っていた中年男性もいない。座席が空いていた。


私は座っていなかった。


ドア上の路線図を見た。


終点だった。


私は乗り過ごしていた。


一駅でも二駅でもない。


終点まで来ていた。


その場に立った私は、システムに返送された荷物のようだった。


ドアが開いた。乗客が順に降りていく。清掃員が箒を持ってドアのそばで待っていた。彼女は私を一目見た。その目に責める色はなく、ただ慣れがあった。きっと毎日、私のような人が何人かいるのだ。穴や広告や思い出や疲れに連れられて、終点まで来てしまう人が。


近づいて見ると、それは思っていたより小さく、そして汚れていた。横には小さな説明が貼られていた。


広告板固定孔。機器ではありません。


私はその文字を見た。


機器ではありません。


カメラではなかった。通気口でもなかった。宇宙文明の観察窓でもなかった。都市生活者の精神的出口でもなかった。会社制度の隠喩でも、宇宙からの暗号でもなかった。


そもそも本当に役に立つ穴ですらなかった。


広告板を外したあとに残った固定孔。


それだけだった。


私は電車を降りた。


終点のホームは、思っていたより広かった。人は少なく、照明は明るかった。車内の穴はガラス越しにまだ見えたが、さっきのような神秘性はもうなかった。


失望するべきだった。


けれど、しなかった。


むしろ少し楽になった。


この数年、私はすべてのものに意味がなければならないことに疲れていた。会議には成果が必要で、会話には結論が必要で、感情は管理されなければならず、休息は効率向上のためで、趣味は副業につながるべきで、痛みは成長に変換されるべきだった。空白の時間でさえ、自己投資と呼ばれなければならない。


けれどこの穴は、何でもなかった。


価値を提供しない。

問題を解決しない。

人生を最適化しない。

競争力を高めない。


ただそこに空いている。


黒く、埋められず、売られもせずに。


終点のホームに立って、ようやく私はポケットからスマホを取り出した。


通知が次々と表示された。


上司:

「もう出社していますか?」


上司:

「九時の会議、始まっています」


上司:

「先にオンラインで入ってください」


上司:

「皆さん待っています」


さらに一分後。


上司:

「現在位置が会社付近ではないように表示されていますが、システムの誤りでしょうか」


私はその文を見つめた。


システムの誤り。


急に返信したくなった。いいえ、システムはようやく正確になりました。私は確かに会社付近にいません。原定の人生の近くにすらいません、と。


でも、そうは書かなかった。


私はホームのベンチに座った。金属のベンチは少し冷たかった。向かいの壁にも広告が貼られていた。三十日で効率的な人生を作る方法。私はそれを避け、床を見た。床にはガムの跡の黒いしみがあった。穴より平たく、少し色が薄い。それもたぶん、役に立たない。


メールアプリを開き、新規メールを作成した。


宛先は上司と人事。


件名には最初、こう書いた。


今後の勤務について


しばらく見て、消した。


退職のご連絡


またしばらく見た。


本文の最初に、私は書いた。


「一身上の都合により、慎重に検討した結果……」


慎重に検討。


私は笑った。


慎重に検討などしていない。穴を見つめ、七駅を乗り過ごし、家からでも参加できるオンライン会議を欠席し、終点でその穴が何でもないと知っただけだ。


けれど人生の本当に大事な決断は、会社のフローのように根拠や承認や代替案を備えているわけではない。むしろ、ある朝突然、自分が何年も降りていないことに気づくようなものだ。


私は本文を消し、書き直した。


「退職することにしました。今後の引き継ぎには誠実に対応いたします。チームにご迷惑をおかけし、申し訳ありません」


短かった。


ようやく一つのことを人間の言葉で言えたみたいに、短かった。


送信した。


音楽は鳴らなかった。日差しが急に私へ落ちてくることもなかった。見知らぬ誰かが肩を叩き、「君は自由になったんだ」と言うこともなかった。スマホが新しい運命を震わせることもなかった。


ただホームのアナウンスが、次の電車がまもなく到着すると告げていた。


私はそこに座り、急に少し怖くなった。


退職したあと、どうするのか。家賃はどうするのか。来月はどうするのか。履歴書の空白はどう説明するのか。親には何と言うのか。友人は何と聞くのか。上司はすぐ電話してくるのか。人事は正式な書類の提出を求めるのか。その正式書類には「広告板固定孔を凝視したことにより退職意向が発生」という欄があるのか。


ないなら、「その他」を選ぶしかない。


人の一生とは、自分にとって最も本当の理由を、何度も「その他」に入れていくことなのかもしれない。


電車が来た。


風がトンネルの奥から先に吹いてきた。窓に映った自分が見えた。スーツはしわになり、髪は少し乱れ、顔色もよくなかった。たった今退職した人と、まだ退職していない人の見た目に、それほど大きな違いはない。


それで少し安心した。


私は英雄になったわけではない。


狂人になったわけでもない。


ただ、一時的に、戻る電車に乗らなかっただけだ。


上司から電話が来た。


画面を見たが、出なかった。


電話は切れ、また鳴った。


それでも出なかった。


三度目に鳴ったとき、私は切った。


そしてスマホをサイレントにした。


顔を上げると、向かいのホームに着いたばかりの車両が見えた。車内上部には広告が整然と並んでいる。英語、歯、睡眠、資産、転職、栄養。それらは次の乗客を辛抱強く待ち、またどこがまだ足りないのかを教えるのだ。


二枚の広告の間に、別の穴が見えた。


同じ穴かもしれない。


どの車両にもあるのかもしれない。


黒く、静かで、用途もなく、約束もなく、改善策もなかった。


私はふと思った。穴は、誰かを救う必要など最初からないのかもしれない。ただ自分を空けているだけだ。その中に何を投げ込むかは、人間の側の問題なのだ。


誰かは疲れを投げ込む。

誰かは陰謀を投げ込む。

誰かは宇宙を投げ込む。

誰かは退職届を投げ込む。


私は立ち上がり、ホームを出口へ向かって歩いた。


終点の外に何があるのか、私は知らなかった。普通の道路があり、数軒のコンビニがあり、灰色のオフィスビルが並び、別のどこかへ向かう路線があるだけかもしれない。外へ出たあと、やはり後悔するかもしれない。明日には履歴書を直し始め、退職をキャリアプランの見直しと言い換え、穴を個人の成長に関する内省と呼ぶかもしれない。


人は、完全に正直でいるのが難しい。


それでも少なくとも今朝、私はオンラインで済む会議のために、あのオフィスへは行かなかった。


階段は長かった。


私は一段ずつ上がった。背後で地下鉄のドアが閉まり、聞き慣れた発車音が鳴った。その音は毎日、人々に入ること、出ること、乗り換えること、到着することを急がせている。


けれど今日は、私を急かさなかった。


あの穴の中に誰かがいて、私を見ているのかは分からない。


もし見ているのなら、これだけは見てほしかった。


私は突然逃げ出したわけではない。


ただ、自分がもっと大きな穴の中に、あまりに長く立っていたことに、ようやく気づいただけなのだ。


その穴を、会社は「ポジション」と呼んだ。


広告は「人生」と呼んだ。


そして私はずっと、それを「一時的」と呼んでいた。


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