日常に忍び込む変化
翌朝、目を覚ました瞬間に気づいた。
(……胸の音が、昨日より近い)
さらさらという微かな響き。
いつもは遠く水底で鳴るような音だったのに、
今は胸のすぐ裏側で揺れているようだった。
「……セラ」
昨夜、塔の影で名前を呼んだときの光。
触れられた手のひんやりした感触。
その全部がまだ残っていた。
(夢じゃない)
そう思うだけで脈が少し早くなる。
* * *
「おはよーう、死人みたいな顔色のレイル!」
寮の食堂に入ると、アッシュに即座に突っ込まれた。
「そんなにひどいか?」
「ひどい。いや、別に疲れてるだけかもしれんけど……。
でも昨日の塔、ほんと倒れるかと思ったぞ?」
「……まあ、ちょっとね」
「ちょっとのレベルじゃなかったけどなぁ」
アッシュは心配そうに眉を寄せた。
(心配されるの、ありがたい……けど)
セラのことは言えない。
言ったところで理解されるとは思えない。
「それとさ」
アッシュはパンをかじりながら続けた。
「お前の胸のあたり……なんか、光ってなかったか?昨日」
(……っ)
思わず背筋が伸びた。
「いや、気のせいかもしれんけど。
壁が反射してただけかも。
でも…なんかこう……お前の周りだけ空気が違ってたというか」
「……そんなこと、あるわけないだろ」
そう言いながら胸に手を当てると、
環紋は確かに微かな熱を帯びていた。
(やっぱり……変わった?)
昨日、セラが名前を告げたあとから。
触れたあの瞬間から。
「レイル、大丈夫か?胸押さえてるぞ」
「うん、大丈夫。気にしないで」
本当は、大丈夫じゃない。
でも理由が説明できない。
* * *
午前の魔術理論の授業。
今日は環流についての基礎講義だった。
「環流とは“見えない魔力の川”だ。
人の魔力はこの川からごく一部を借りているにすぎない。
だが――断裂以降、その流れは乱れ続けている」
アゼル先生の説明を聞きながら、
胸元の環紋がかすかな脈を打った。
(川……流れ……断裂……)
昨日セラが言った言葉が蘇る。
――あなたの音は、私と同じ流れから来ている。
(同じ流れ……って、どういう意味なんだ?)
思考がそこへ触れようとすると、
胸の奥がじんと熱くなる。
「……レイル。授業に集中しろ」
前を見ていたはずのアゼル先生が、
なぜかこちらを鋭く見ていた。
「えっ……あ、すみません」
「体調が悪いなら言え。魔力循環が乱れると危険だ」
(……見えてる?)
昨日のあたりから、
先生の視線が妙に“こちらに向いている”気がした。
* * *
休み時間。
外の空気を吸おうと、中庭へ出た。
(……いる?)
思わず周囲へ視線を向ける。
昨日のように、白銀の髪が見えるかもしれない気がして。
でも、どこにもいなかった。
(そうだよな……まだ会ったばかりだし)
そう思って安堵したのか、寂しくなったのか、
自分でもよく分からない感情が胸に広がった。
そのとき――
胸の“さらさら”が、ひときわ強く響いた。
(……来る?)
次の瞬間、
中庭の影が揺れ、白銀の髪がふっと現れた。
「……セラ」
声に出すと、彼女の琥珀の瞳がこちらを向いた。
けれどその姿は、昨日よりわずかに薄く見えた。
輪郭が揺れ、光が透けるように。
「セラ……?」
呼びかけると、セラは静かに首を振った。
「……ごめん。今日は……あまり長くは居られないの。
あなたの“音”は聞こえるけど……届きづらい」
「どうして?」
セラは答えようとしたが、
唇が震えるだけで言葉にならない。
その姿を見て、胸が強く締めつけられた。
(苦しそう……?)
昨日ははっきり触れた指先も、
今日は光のように揺れていた。
「無理するなよ。話せなくてもいい」
そう言うと、セラの瞳が少し和らいだ。
「……ありがとう。レイル」
その声は風の中に溶けていくほど弱くて、
それでいて、確かに僕の胸へ届いた。
次の瞬間、セラの姿は塔の方向へ吸い込まれるように薄れていき――
光の粒となって掻き消えた。
「……セラ!」
呼びかけても返事はなかった。
胸の“さらさら”だけが、
いつもより強く、深く、揺れていた。
(……なにが起きてるんだよ)
日常に戻ったはずの学院生活。
けれどもう完全に、昨日までの世界には戻れない。




