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正しい軌道の上、ねえ。

「(∅)<ども!エンプティです」


愛想が悪いとか言うので顔文字で出てきてみました。僕の投稿は女性や女子の語り部には好評なんですよ。逆は違うみたいですが。


でね。


どうして今日は僕の担当なのかというと、結構複雑で、難解な作曲家だったフランスのアラン・バンキャールが亡くなられたからなんですよね。


いま、日本の現代音楽のブログって結構残ってるじゃないですか。


そこに、アラン・バンキャールって何回出てきます?もう全然でしょ。


日本の演奏家はほぼだれも知らないんじゃないのってやつです。もう弟子のブリス・ポゼのほうが有名でしょう。


ところがね。


なくなるまで強烈な作品にこだわり続けたのはやはりバンキャールなんですよね。


16分の1音でしょ。


もうさ、16分の1音って誰も使えないでしょ。


ヴァイオリンとかですよ。


フリアン・カリジョの16分の1音ピアノをこうまで、完璧に使いこなしたと言えるのはバンキャールだけでしょ。


超マニアックですよ。


普段はものすごい辛口のエリプシ様も、「(๑╹◡╹๑ …)<理想に生き理想に死んだ」って。ちゃんと支援者もいて、作品も演奏はされたし良かったでしょって。


でもね。


晩年の殆どの作品はまだ初演されてないんですよね。


ファンがアップロードしてるから、いまからyoutubeで聴いてみようよ。


Symphony n.1 (1980)


まだバンキャールが温厚だった頃の作品で、90年代以降に迫る狂気のような表現はまだ感じられないが、最初から四分音の洪水で今聞いても面白い。


ハルプライヒは彼の表現を擁護していたが、チューニングの大変なこの作曲家を褒めるだけでも異端だったんだろうなあと思う。オネゲルが延々と四分音狂ってるかの表現でやってくるみたい。打楽器も暴れまわっている割には能か歌舞伎みたいに静謐。


どうやら音域を最初から限定してその中で四分音にしたのは、演奏上の問題なのかもと思うことがあるが、第2楽章の報われない弦のうめき声は今の遊んでるだけのフランスの作曲家にできるとはとても思えなかった。


Symphony n.5 "Partage de midi" (1992)


あからさまにやばくなってきた頃の作品。静謐さは更に磨きがかかり、ほぼ止まっている時間が占めてくる。四分音ツィンバロンの音が衝撃的。普通ドイツ人はここでツィターを四分音にするのだが、ツィンバロンを四分音調律させる根性がすごい。


1980年代と異なり、稼働音域が増えて、より極限的な要求を行うようになった。Mode Recordsに拾われたのも、彼の実力によるものだと思うし、この時期が創作の全盛期であったことは間違いない。傑作だった。


Lecture des Ténèbres (交響曲第七番, 2009)


B.A.ZimmermannかErnstalbrecht Stieblerみたく始まるが、最初から四分音で、記譜されたメロディーである。各パートは普通の定量記譜のメロディーなのだが、まとまって流すと彼ならではの音色になる。微分音ならハースでもできなくはないのだが、バンキャールのほうが個々の声部への意識が高く、強い表現に聞こえる。


細かいところで、にわかポスト前衛との才能の差を感じてしまった。にわかポスト前衛は先生の作風をコピペしただけでなにもしてなかったんじゃないのか?そうとまで感じるほど、パターン化から程遠い音楽だった。


De l'étrange circulation de la sève (1990)


あ、意外にもギターを扱わせるとフランスっぽい音楽家に見える。ただし、背景はフルートオーケストラであり、どこまでも人と違う。フルートが微分音和声で張り巡らされてる中、ギターはセリーというなんとも後味の悪い感覚。ほんらいここでギターはスペクトラルチューニングでフルートと調和させたいなと思うのだが、この人はどこまででも四分音ギターのため、先が全く読めない。


ギターのパートはそこいらの現代音楽と対して変わらない書式をとっているのに、全体として聴いたことのない空間に発展して不思議な体験だった。ラスキアードもじゃかじゃかじゃかと鳴らせば鳴らすほど孤独に響き、深刻な印象。


L'amant déserté (version instrumentale 1978)


電気楽器を使うと何故か誰のも1970年代に聴こえるのだが、これもやっぱり1970年代のままだった。しかし、ビートが最初っからなにもない。ミュライユはこの作曲家のオンド・マルトノパートを弾いた。ミュライユは、こうまで陰鬱な音楽は書きたくなかったのだろう。ソビエト連邦で作曲されていた1970年代の電子音楽もこんなムードだったことを思い出す。まだ1970年代はセリエルの範疇で聞こえるため、今の日本のお客さんにはそれほど問題にはならないんじゃないかな。


Etude 237 (2014)


Matthieu Acarとのコラボレーションに基づき、彼の晩年の作品は結構細かく音が敷き詰められていった印象があった。ただ、2000年代ほどの狂気ではなかった。


Sonate pour piano n.3 (2010)


バンキャールのピアノ音楽の頂点の作品。どこまでも自由に羽ばたく。フリアン・カリジョのいう「13番目の音」の理想は見事に実現した。日本で聴けるのは一回あるかないかだろう。


Symphonie n.6, en souvenir de Louis Saguer (2009)


1990年代で語法の正当化を確信した彼は2000年代では複雑な音場にしたがるくせがあり、人によっては2000年代こそ全盛期であったと捉えるのかもしれない。ただし、フルートの微分音はやたらと高速で動き回るため、聞き手の集中力が追いつかない。上ばかり飛び回り、下は一本の持続音だけ。Lecture des Ténèbresと正反対の表現を苦もなく取れるのはすごい。


以上です。


1990年代に入ってから過酷な音の表現を目指し、2000年代でより限定された音域の遊戯を好んで、2010年代はまたもとに戻ってしまったということなのでしょうか。なんだか松平頼則のような進展ですね。


確かにカリジョの「13番目の音!」って思想は継承されましたよ。


けれどもね。


多くの音響学者によって、四分音は楽器に合わないと言われております。藤枝守も四分音の音響の欠陥をよく指摘してました。


そもそも、四分音楽器というのが、西洋楽器に合わない。微分音を前提とする楽器は1から作らないといけない。琴ならそうしなくてもいいけどね。


最初から、違っている道、なんですよ。


なので、彼のフォロワーも少なかったし、日本で演奏しようという人もおらず、もっぱらフランスのイワン・ヴィシネグラツキー財団の関係者だけが持ち上げてたんです。


でもね。


彼はこの路線で、迷ったことが評価を決定的にしたのではないでしょうか。


今でも四分音をハースやミュライユ、バーレット、マーンコプフはこれみよがしに使いますが、バンキャールとはぜんぜん違うんですよね。


なんでなんでしょうね。


それはバンキャールの奥様が作家だったことが大きかったのではないでしょうか。文学のない音楽はない。これが発見できた最後の世代がバンキャールだったんですよ。

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