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未完結短編集  作者: .六条河原おにびんびn
スカイブルーめろんぱん  恋愛/BL含む/ラブコメ(?)
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スカイブルーめろんぱん 8

 

   「岬君のもといた友人のこととか考えないわけ」



 あのいけ好かない女の一言と、昨日家でみた青空の様子が繋がって宙来は固まった。あの女が去っていくことにも気付かなかった。青空のもといた友人。そういえば気にしたことなんてない。自分が気付かなかったことを、あの女は気付いていたのか。宙来は頭を抱えた。青空のすべてを見ていたつもりだったのだが。あの優しい青空の遠回しな拒絶だったのだろうか。チャイムの音で我に返ったが、教室に戻る気も起きなかった。ふらふらと考えもなく校舎から出ていく。部室棟の裏に授業をサボタージュするにはちょうどいい場所があるのだ。習慣のように宙来の足はそこに向く。昨日の雨で、蒸し暑い。手入れされた芝生の上に横になる。隣に青空がいてくれたら。そんな妄想をしてしまうが、青空は自分と違う優秀な生徒だ。そしてこれからも自分に影響されずそうあってほしいのだ。目の前視界いっぱいに広がる雲のない青い空に手を伸ばしてみる。そら。青空の名を口だけ動かしてみる。

 

   「岬くんのもといた友人のこととか考えないわけ」


 頭の中であの女の口がそう動く。苛立ちに芝生を叩いて毟った。あの女に何が分かるというのだ。青空のもといた友人。


   「タイプ違うもんね、岬くんのお友達もあんたには近寄りたくないか」


 青空には自分がいればいいのだ。義理とはいえ兄弟なのだから。もといた地味な友人など要らないはず。新しい兄ができたのだから。自分で自分が納得できる意見を探す。けれどどれも違う。どれも違って、ひどく利己的だ。

「あの女に、分かるわけない」

 胸を掴まれたような、息苦しい感覚だ。青空のことが頭から離れない。あの女に分かるわけがないのだ。

空の遠く、ずっと遠くを見つめているうちに、瞼が下がった。


妹が泣いている。血の繋がった大切な妹だ。

「いやだお兄ちゃん、離れたくないよ」

顔を歪ませて泣く妹に虚勢を張った。兄としての意地だっったのか。妹をこれ以上不安にさせたくなかったのか。実母が妹を抱き締め、宙来の腕を実父が掴んだ。

「お兄ちゃん!お兄ちゃん!」

 実母に「抱き締める」という雁字搦めを喰らい、妹は宙来に手を伸ばした。実父に抗うことなく宙来は歩いた。

「生きるというのは、出会うことと別れることの繰り返しだ」

 実父は確かにそう言った。それに抗う術を宙来は知らず、何度も何度も振り返った。

「でも親父、祭音は血の繋がった娘のはずだろ」

 実父は何も言わなかった。当時の170を越えた息子を腕でも引っ張っていなければ逃がしてしまいそうな、そんな緊張感を覚えていた。力ずくで振りほどけるけれど、顔を見せまいとする実父に胸が痛み、ただ引きずられるまま。

「親父っ―――」

 暗転した世界にいたのは3人。光の中で、よく知っている父親の陰と、見覚えのない女と男。逆光して顔は見えない。ただ悟ったのは、実父はこの人たちと家族でも自分は。

 義母は華奢でかわいらしい人だった。恋愛対象の範囲内に余裕でおさまっている。それを自覚しているから、宙来はこの人と家族になれないことを悟っていた。

 もうそんな歳ではないけれど、本当は。本当は実の母親のもとにいたかった。祭音とともに。実父は新しい家族を見つけてけれど、自分は。

 ドス黒い沼に足元から呑み込まれていく。粘り気を帯びたそれは宙来の膝へ脹脛へ腿へ伸びていく。沼が形を成して宙来を襲う。いやらしく光を帯びて、宙来をあの3人のもとへ近付けさせない。

 宙来は叫んだ。父を呼んだ。母を呼んだ。妹を呼んだ。喉が熱くなり、とうとう声は出なくなった。喉を掻き毟った。胸を掻き毟った。どんどん浸食する沼に呑み込まれていく。きっとこれに底なんてないのだろう。宙来を呑み込み、存在を消すのだ。諦めがついた。父には家族ができたけれど。自分には母と祭音しかいなかったのだ。

 耳と鼻、口にヘドロが入り込む。味もにおいもない。何もないのだ。生きているという感覚もない。沼の久しぶりの御馳走にすぎなかったのだ。宙来など。

「お義兄にいさん」

 綺麗な音だけが耳に届いて宙来は埋まりかけた目を開いた。

「お義兄にいさん」

 沼に沈んだ宙来を穏やかな表情で見下ろすのは地獄の使者だろうか。あまりの美しさに声も出ない。汚い自分が触れていい存在ではない。

「お義兄にいさん」

 白く細い腕が伸ばされる。この人に生かされる。この人のために生きる。

「青空っ」

 軽々と引き上げられた宙来は口を開いた。




頬に水滴が落ちる。不穏な音が近付いている。またいきなりの雨か。瞼が開いた。胸が重苦しい。嫌な夢をみたものだ。宙来はいきなり起き上がった。頭が少しふらっと揺れた。時間の把握はしていないが、雨が降ることを空気の匂いで察し、校舎に戻った。


 玄関までやってくると、廊下にある時計は昼休みを表していた。青空は1人で食べているだろうか、それとも自分を待っているか?ポケットに入った端末で青空にメールを打つ。今日は一緒に食べる気分ではない。大きく溜息を吐き、あてもなく1人になれるところを探す。2年の教室がある3階まで上がった。ここの高校は3階建てで、2階に職員室があるため受験で忙しくなる3年が2階を使っている。

宙来のクラスに向かう途中にある屋上につづく階段の1段目に今朝一悶着あった男子生徒が座っている。目が合うと今朝のことを忘れたように顔を崩して笑う。無視して通り過ぎようとしたときに聞こえた声に宙来は立ち止まった。不快なクラスメイト2人の声が聞こえたからだ。

「三条さんは好きな人とかいるの?もしかして岬くん・・・?それとも・・・海森くん?あ、それともこの前教室に来てた隣のクラスの?」

「好きな人なんていないよ」

「そう、なの?」

「うん。あんまり興味ない、かな」

「なんだ、てっきり岬くんか海森くんかと思った」

「増山さんは?」

 宙来は不良かぶれの駄犬の存在も忘れ、階段を上ろうとして、また止まった。知りたかったことが丁度良く聞けるのだ。

「気になる?」

 宙来自身、どのような答えを期待しているのかも分からないけれど、増山の次の言葉を期待しながら同時に恐れた。義弟が喜ぶ方向にいくだろうか?それとも悲しむ方向へ?どちらでも宙来には都合の良い面と悪い面があった。

「ふふふ。私もいない」

「でも強いていえば三条さんかな」

増山の返事だった。

「なんてね」

怒りとバカらしさに宙来は身体が熱くなるのを感じた。今すぐにでもこの階段を駆け上り、増山の胸倉を掴んで殴りそうだ。

「岬くんのことは、どう思っているの」

相手が女であり義弟の好きな人。そう何度も言い聞かせ、歯を食いしばった。三条の気の利いた問いに落ち着こうと大きく息を吐く。

「岬くんって綺麗だよね。それに優しいし。声も綺麗だよね。頭も良い」

不良かぶれの駄犬が一度だけ宙来を見た。

「・・・でも、それだけ」

脳裏を過った青空の姿に亀裂が入っていく。

「それ・・・だけ・・・?」

誰よりも増山を見て、誰よりも増山のことを想っている青空のことを、それだけ。一点を凝視しつづけ、視界がちかちかしている。

「うん、好感は抱いているけど、いいクラスメイトだと思ってるよ」

 横から同情や気遣いを含んだ静かな笑みを向けられる。

「そっか・・・そうなんだ・・・」

三条の落ち込んだような声。

「どうしたの・・・?」 

「ううん。なんでもない」

 嗤えよ。耳をすり抜ける高い2つの声。横からくる気遣いに惨めな気持ちが増す。宙来は奥歯を噛み締めた。こんな屈辱はない。足が階段を上りそうになる。

「やめなよ」

 小声が横から飛んでくる。落ち着かなければ。大切な義弟の失恋が確定したのだ。これ以上厄介なことをして嫌われでもしたらどうするのか。宙来は義弟を思い出す。

 増山のような地味な女にもともと美しい義弟は似合わなかったのだ。義弟が傷付く前に宙来はどうにか説得しなければという使命感に駆られる。横の駄犬を睨んで宙来は走りだした。増山に対する怒りと言いようのない真っ黒い感情。泣かしてやりたい。散々に罵りたい。義弟の想いを汲み取らないあの女が苦しめばいい。それと同時に少しの安堵。まだ手元に義弟がいるという安堵。


 開放された埃まみれの多目的室に駆け込んだ。掃除担当がまともに掃除に取り組んでいないのだろう。なかなか使われない旧型のテレビだの教育用ビデオが詰め込まれたダンボールだのが山積みになっている。埃をかぶったラックで仕切られ狭い空間が作られ、宙来はここが気に入っていた。生成色のカーテンから漏れる日光も好きだが、今は雨が降っている。スラックスが汚れるのも気にせず宙来は床に座り込んだ。項垂れながら切れた息を整える。熱くなった拳を壁にぶつける。

義兄にいさん?」

 耳に心地よい、男にしては少しだけ高めの声が届き宙来は頭を上げた。

「青空。どうしたんだよ」

 声が自然と柔らかくなる。不思議そうな表情で義弟は宙来を見下ろした。

「ううん、ここにいるかなって」

 首を振って義弟は答えた。宙来はそうか、と小さく返した。義弟は宙来を目で捉えたまま近寄ってきた。義弟の冷たい両手が宙来の両頬に添えられる。宙来は眉間に皺を寄せた。邪険にもできず、後ろに身を引きそうになる。

「なんか、汗ばんでる?熱あるの?」

 義弟の色の白い顔が、桜色の唇が、長い睫毛が近寄って、冷たい額が触れそうになる。

「熱なんてねぇよっ・・・!」

 身を引いた。義弟の肩を押す。身体が熱い。特に身体の中心に血が集まってくる。下着を押し上げているのを感じる。

「いいから」

 義弟の冷たい手が、義弟の肩を押す宙来の腕を掴んだ。冷たさが気持ち良い。抗いきれず、義弟の額が宙来の額に押し当てられる。心臓の音が早くなる。義弟に聞こえはしないだろうか。鼻息の仕方も忘れて、苦しくなると口から息を吐くしかなかった。

「ない、かな?」

 腰に力が入らない。下着の中で自分の分身が脈打つのを感じる。

「っ大丈夫」

 義弟はにこりと微笑む。

「先、教室行ってろ」

 頭の中は卑猥なことで埋め尽くされていた。他のクラスにいる元カノ、元々カノ、他にも身体だけの関係の女。性交したくて仕方ない。そろそろスラックスの上からでも分かってきてしまう。

「分かった。じゃ、行くね」

 義弟を目の前に何を考えているのか。頭を振って雑念を振り払う。けれどすぐにまた、早くこの熱を抜きたい欲望に駆られた。

 



 司は増山と弁当箱を片付けると、駄犬が階段で座っていることにもかまわず避けて無視したまま通り過ぎようとしたところで腕を掴まれたから。両手で2人を、駄犬は掴んでいた。

「女神様のおにいさんが今来たけど・・・」

 増山の表情が少し心配そうになるのが見えて、司は適当に誤魔化し、増山に先に教室に戻ってもらった。

「なんで人除けしておかないの?ここにいたんでしょ?・・・ってあんたが好きでここにいただけよね」

 増山との会話を聞かれてしまっただろうか。彼に吹き込まれたら、彼はどう思うのだろう。あの騎士気取りの男にはなにせデリカシーがない。司は髪を掻き乱す。

「ううん!三条さんがいたからここにいたんだよ!ごめんね?ごめんね?三条さんごめんね?」

 駄犬が傷付いた表情をする。司に合わせて膝を曲げて目線を合わせている。

「いいよ・・・私が頼んだわけじゃないもんね。私が悪かったよ」

「どうするの・・・・?」

「彼にあの男が接触する前に会って口止めするしかないんじゃない?」

 本当に黙っていてくれるかは分からないけれど。司は前髪を掻き上げ、あの男がいきそうな場所に向かう。大体不良がたむろするところなんて想像がつく。それでもいなければ校外だろう。

「三条さん、オレもいくよ・・・!」

 駄犬の声も聞かず、司は朝連れてこられた空き教室を目指した。いなかった。教室にそのままいるのだろうか?司は教室に走った。

「廊下を走るな」

 口うるさい男子学級委員に頭部を軽く叩かれたのも気にせず、司は止まらず、教室に入りかけ、のぞきこむ。

「委員長、岬くん知らない?海森くんでもいいんだけど」

 息を切らしながら司は、授業の資料を運んできた男子学級委員に訊ねる。

「知らんな。岬ならさっきまでいたが」

 委員長の眼鏡のフレームが光る。

「海森に授業フけるなら事前に俺に言えと伝えてくれるか」

 また走り出そうとする司の肩を掴む。

「覚えてたら」

 振り払って次に怪しいところに向かう。多目的室だ。ここも不良が集まるスポットではある。埃まみれで汚い。不良にお似合いだ。司は内心嘲笑う。

 多目的室のいつも開いている扉が閉まっている。躊躇いなく司は開いた。

 青を帯びたうるさそうな黒い髪の男が壁に向かって蹲っている。海森宙来に間違いなかった。この男がどのような人間かはおいておき、司はおそるおそる近寄った。

「・・・・大じょ・・・」

 触れようとした瞬間に海森の腕が司の背に回る。温かさが身を包み、早い鼓動が服越しに伝わる。海森の身体は司に密着したまま重力に従う。男1人の身体を支えきれず、司は背中から床に倒れ込む。膝が変に曲がり、痛む。状況を呑み込むのに数秒かかった。顔の横に腕をついた海森を見上げる。眉根を寄せて、苦しそうに熱い息を吐く。

「ちょっ何・・・してっ・・・」

 もう片方の手は、スラックスの中に。

「ぃや・・・・っだっ・・・!」

 両足は海森の下半身に圧し掛かられていてうまく身動きがとれない。変に曲がった膝をどうにか戻す。上半身を起こし、海森の胸板を押す。そのせいで海森が司の首筋に顔をうずめてきた。鳥肌が走り、焦りに身体が熱くなる。理屈では分からない恐怖と焦りに視界が潤む。

「どうせっあの男とヤりまくってんだろ・・・っ」

 熱っぽい低い囁き声が耳元でして、腰に力が入らない。何を言われたかも分からないまま、司は身をよじった。海森の片腕が伸びているスラックスの先に恐怖がある。

「ヤらせろよ・・・っ」

 彼が頭を過る。彼にもこんな風に迫るのだろうか。

「ぅあっ・・・」

 海森が身体を支えていた方の腕がかくんと曲がり、司の胸に海森が倒れ掛かる。

「やだ・・・やめて!」

 上体をよじる。顔を覗き込もうとしてきた海森に頭突きをかます。海森の顔を両手で挟み、もう一度額を海森の頭部にぶつけた。眩暈がした。

「三条さんっ!」

 額を押さえながら司は多目的室の入口をみた。逆光して誰だか判別できないが、声からして駄犬だ。

「三条さん・・・!大丈夫?」

 司の上から海森が退く。たまたま見てしまった海森の片手。

「・・・カレシ登場かよ」

 舌打ちしながら海森はそう言った。司は後頭部を殴られたような気分だった。白く濁った液体が海森の片手にかかっていた。

「怖かったね、三条さん。もう大丈夫だからね」

 後退りながら駄犬の足元までやってくると、駄犬がしゃがみこみ、肩を抱いた。

「んだよ。見た目の割に純情なのな」

 駄犬がポケットからティッシュを出して海森に投げつける。

「手、拭いてからいってくれるかな?かっこいいのが台無しだよ」

 駄犬が笑いながら言う。海森が投げられたポケットティッシュで手を拭いた。

「そこのカノジョ、大事にしてんのな。クソみてぇ。反吐がでるぜ」

「・・・・?誤解してるみたいだから言っておくけどさ、オレ、ゲイだから。三条さんはオレの大切なご主人様。恋愛感情は一切ないよ」

 司は口を開けた。海森も眉間に皺を寄せ、手を拭く作業を止めた。

「十河君、・・・ゲイ・・・だったの?」

「そうだよ。言ってなかったんだ、オレ」

 駄犬が同性愛者だからといって司になメリットもなければデメリットもない。身近にいなかったために少し驚いただけだ。

「ゲイ・・・」

 口汚い言葉で罵るかと思ったが、海森は小さく呟いて、視線を泳がせた。司はその反応を見逃さなかった。


「引いちゃった?気持ち悪いかな?付き纏われるの、イヤ?」

 廊下に出て、皺の寄った制服を直す司に駄犬はしつこくまとわりついた。海森は錯乱状態なのかどこかに走り去ってしまって、要件を伝えそびれた。

「別に、十河君が同性愛者でも異性愛者でも私には関係ないでしょ。付き纏われるのはイヤでしょ、別に十河君が異性愛者でもね」

 落ち着きなくあらゆる方向から駄犬は司の顔を覗き込む。

「それより」

 一瞬躊躇ったが、駄犬が首を傾げて動きを止める。

「ありがとう。助けられてばかり」

 駄犬の目がきらきらと光って、大きく開いた両腕に抱き留められる。甘ったるいバニラの香りが鼻にふわっと広がった。

「気にしないでよ三条さん!オレはいつだって三条さんのもとに行くよ!」

 駄犬がわざわざ司の部屋を選んだのは、ゲイだったから。何故異性の部屋に潜り込んできたのか、下心か、疑っていたから油断を解けなかった。

「だから付き纏わないで、って言ってるでしょ。行くわよ」

 矛盾した司の命令にも素直に駄犬はついていった。

「うん!」

 教室まで歩く司に合わせ、駄犬は歩いた。歩幅ひとつとっても、女子と男子は違う。駄犬は司の足を見ながら思う。

「三条さん」

 男は女を好きになるもの。男が男を好きになるというのは、おかしいことなのだろうか?

「三条さん」

 司は止まらなかった。自分に興味がないといったって、男が好きな男に付き纏われるのは、気持ち悪いだろう。放したくない。駄犬は司を後ろから抱き留める。

「何」

「ごめんね三条さん。ゲイなのに三条さんの奴隷でごめん。ごめんね三条さん」

 人はあまり通らない廊下だが、誰がどこからやってくるかも見ているかも分からない。司は大きく溜息をついて、腕を振り解こうとする。駄犬は司を抱き締める腕に力をこめ、放す気などないようだ。

「誰が何を好きだって私にはカンケーないでしょ。・・・でも、彼のことは・・・」

「うん、三条さんが好きな人のこと、オレは好きにならないよ」

 大きく頷いて駄犬は司の首に顔を埋める。

「やめて。私にかまわないで」

 冷たくあしらわれ、駄犬はやっと司を放す。

「今日のこと、本当に感謝してるから。ありがとう」

 駄犬はにこりと笑った。司はすぐに目を逸らす。そしてまた教室へ向かって歩き出した。

「三条さんについてきてよかった」

 遅れないよう駄犬も後をついていく。

 司の教室に戻る手前の突き当たりで誰かとぶつかった。相手は走っていたようで、司の身体は大きく揺らぐ。大きく変わる視界の中、焦ったような駄犬の表情だけが認識でき、衝撃が腰から頭を突き抜ける。走っている相手も相手であるが、左右確認していれば防げた事態でもある。司は謝ろうと、相手を探す。

「三条さん大丈夫?」

 苦く笑う駄犬が、変な体勢の女生徒を後ろから胸で抱きとめ支えている。

「私は大丈夫。すみません、大丈夫ですか?」

 駄犬に背後から腕をとられて支えられる女生徒は、困惑した様子で司を見下ろした。金髪に、赤いリボン。長い睫毛と、形のいい唇。大きな紫色の瞳に捉えられると、視線を外せなくなる。司の表情が消える。

「三条さん、どっか痛む?」

 駄犬は女生徒の腕を放すことも忘れ、司を心配そうに見つめた。変な体勢のままの女生徒は司の反応に戸惑っている。

「まじ・・・?」

 頬が引き攣った。美少女が目の前にいる。

「君は確か、長尾さんだよね?」

 駄犬が司を一瞥し、不思議そうに首を傾げ、女生徒を放した。

「ありがとう。ごめんなさい。怪我はない?」

 柔らかい声。駄犬に礼を言って、司の顔を覗き込む。

「あ、だ、大丈夫です」

 信じられない物を見たように司は固まる。駄犬は疑問符を浮かべる。

「十河くん、ありがとう。えーっと、カノジョさんかしら?」

 司を視線で指す。駄犬は首を振った。

「違うよ。オレのご主人様。長尾さん何してるの?」

 親しい様子で駄犬と会話する美少女を司は立ち上がることも忘れて見入っていた。ずっと見ていても飽きないだろう。噂で聞いたことがあるかもしれない、学園一の美少女。

「え、あ、そうね、ちょっと野暮用があったのよ」

 柔らかい花のような香りが鼻に届く。視覚的にも聴覚的にも、嗅覚的にも美少女は美少女だ。呆けている司に駄犬が何度か声をかけ、やっと我に返った。

「じゃあね」

 駄犬と美少女が手を振り合って、美少女は去っていく。司はすぐに立ち上がった。

「今の子と知り合い?」

「同じクラスの長尾・・・えーっと彩ちゃんだよ」

 姿を確認したことはないが、名前だけは聞いたことが確かにある。学園一の美少女の長尾彩、本人だ。あまり気にしなかったし興味もなかった。だが、噂通りの美少女だった。

「かわいいよね」

 曖昧だが、どこかのクラスの男子が告白してフラれただとか、同じクラスの男子が告白してフラれただとか、そんな噂をよく耳にした気がする。あまり興味がなかったために正確には覚えていない。

「女神様の・・・うーん・・・女の子バージョンって感じかな」

 駄犬は言葉を詰まらせた。

「女神様の女の子バージョンってなんか変だな・・・」

 駄犬が笑う。司は女神と聞いて、教室へ急いだ。

「え、ちょっと三条さん?」

 駄犬も急いで後を追う。

「海森くん!」

 教室の入り口で大きく名前を呼べば、クラス中の視線が司に向いた。

義兄にいさんはいないよ」

 クラスを見回しているうちに、落ち着いた、澄んだ声が帰ってきた。にこりと笑う、司の女神だ。司の前までやってきて、丁寧にそう答える。美しく澄んだ、アクアマリンのような瞳を直視できず、司は目を逸らす。頬が火照ってくると、指先まで熱くなってくる。

「あっえっと、あのっな、なんで?・・・ですか?」

 裏返りそうになる。驚きと照れと恐れ多い気持ち。彼は女神なのだ。野暮なことは許されない。

「分からないな。帰っちゃったみたい。最近様子が変なんだ。用件なら伝えるけど・・・・」

 見るところが分からず、司は俯く。綺麗な声だけが耳に入っていく。

「あ、あ、あ、だ、大丈夫・・・です。えっとだからっ~」

「岬君だっけ?君ん家今日暇?行ってもいい?」

 背後が途端に生温かくなる。司の後ろから現れた駄犬だ。後頭部に胸板が当たる。

「っちょ・・・!十河くん!?何言って・・・」

「え・・・え~っと、どちら様でしたっけ?三条さんのお友達・・・です?」

 不良じみた格好に千切れた右耳。警戒しているのか女神は狼狽え、司に視線を寄越す。一度だけ視線が合ってしまい、また司は視線を逸らした。

「いや~朝喧嘩しちゃったでしょ~?悪いなって思ってるの。もちろん三条さんも一緒だけど・・・ダメ、かな?」

「バカ言わないでよ十河くん!いきなり失礼じゃない!」

 振り返って駄犬の胸倉を掴む。背丈と力の差で空しく、胸倉を掴んでいるようには見えない。

「分かりました。とりあえず義兄にいさんに訊いてみます」

 駄犬に困ったように微笑みかけ、それから女神はスラックスのなかの携帯電話を取り出した。司は選ばないようなハイセンスな携帯電話のカバー。

「教室の入り口をふさぐな。・・・またお前か三条、廊下走ってないだろうな。それから・・・」

 携帯電話いじる女神の手入れの行き届いた美しい指に見惚れていると背後から小さく呻き声がした。それを認識すると同時に脳天に軽い攻撃。

「それから海森にきちんと伝えたか?・・・岬に言った方が早いな?」

 委員長だ。学級日誌を抱えている。

義兄にいさんがどうかした?」

「授業フケるなら最初に俺に言えという話だ」

「伝えておくよ。それから義兄にいさん、さっき帰ったから」

 女神が委員長に言う。委員長は溜息をついて、そうか、と短く返して、席に戻った。

「三条さんトコの委員長かっこいいね」

 駄犬がじろじろと、席について学級日誌を書き始める委員長を見つめる。女神が訝しんだ目をした気がしたので、司は慌てて駄犬を教室の外に追いやった。

静詩せいじは結構難関だよ?」

 駄犬を教室に追い返し、また女神に向き直ると、にこりと笑って女神は席に戻っていく。確か静詩せいじは委員長の下の名前だったはず。妙な誤解をされた?と気付いたのは女神の背中を見つめながらで。愚民が後ろから声をかけていい相手ではない。三条は頭を抱えて叫びたい欲望に駆られるのをぐっとこらえた。

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