Dear Finalist 9
***
慣れない枕だったが、疲れていたからかよく眠れた。夢などみた覚えはない。
柊は起き上がった。使われた形跡のない新品の真っ白い布団を床に敷いてくれた。ベッドは荷物置き場になっている美浦の部屋。美浦はリビングのソファで寝ているらしかった。
真新しい布団の匂いがした。
机と荷物置き場になっているベッド。殺風景。
柊はリビングに向かった。
「おはよ」
「おはよう」
キッチンに立っている美浦。シングルファザーのようだと柊は思った。
「暫くは学校が休みになるようだ」
「犯人、捕まらないらしいからな」
柊はそう言って、洗面所に向かう。赤いテープの貼ってある蛇口と、青いテープの貼ってある蛇口がある。柊は青いテープの貼ってある蛇口を捻った。流れ出る水を両手で掬って顔にかける。水滴だらけの顔を上げると、冴えない端整な顔が映る。
タオルに手を伸ばす。これも真っ白く、新しい。顔を洗い終わると、柊はまたリビングに戻った。
「美浦」
「なんだ」
美浦が振り向いて、フライパンを握っているのが分かった。
「布団もタオルも、昨日は歯ブラシも…わざわざ新しいの、出してくれたのか?」
生活感のない家だと柊は疑問に思った。
「家に残りがあっただけだ。建て終わっても暫くは実家で過ごしていたからな。買って置いても使わなかった」
建ててもすぐに銃撃されたということだろうか。
「朝、玄関は閉めたから裏口から入ってくれとお前の兄から電話があった」
柊がキッチンテーブルとセットの椅子に腰掛けた。
「そう」
美浦はフライパンの中身を皿にのせ、キッチンテーブルの上に置く。
「暫く料理はしてない。味の保証は出来ないが、無いよりはまともだと思う」
「ありがとう」
顔を上げた。美浦は電子ポットからティーカップにお湯を注いでいる。
「確か、朝はコーヒーよりお茶が好きだ、と言っていたな」
随分前にそんな話をした気がする。倉木はコーヒーで、綾瀬はお茶、風間もお茶で、美浦はコーヒー。
「すまない」
「気にするな。巻き込んだのは俺だ」
綺麗な目玉焼きと、トーストが柊に出された。柊はトーストを齧った。
「今日は、どうするの?」
「そうだな。前里に訊きたいことがある」
「何を…?」
「小塚村についてだ」
柊は美浦を見た。
「小塚村って、綾瀬が一時期住んでたところか」
前に小塚村という名前が出た時は気付かなかった。
「そうだな。だが、あそこは危ない」
「どうして」
「俺の会社の支配下にある。新薬を開発するにも実験台は小塚村から抜かれたりもする」
「え…?」
「ただし、外の人間はその対象にはならないがな」
「どういうことだ?」
美浦の言っていることの意味は分かる。しかし、本当にそういう意味でいいのだろうか、という疑問。小塚村の住民がモルモットにされているということか。
「そのままの意味だがな。前里が、何か知ってるんだ」
柊は頷いた。
***
「ぬいぐるみと話すのは、やめなっせ」
曾祖母がそう言った。綾瀬は拗ねたように黙った。
「涙、いじめられとるんか」
新聞を読んでいた曾祖父が訊ねた。
「いじめられてなんてねぇよ」
綾瀬はセプの手をいじりながら答えた。自宅のリビングの炬燵の中に入りながら。
「友達、いねぇのんか」
「いるよ。いますとも」
まさかそんな風に見られていたのかと綾瀬は眉根を寄せた。ただ友人らといるよりセプといた方が随分と楽だったからだ。
「先輩は?どうした」
「別に、態々(わざわざ)家に来てくれるほどの仲じゃないし」
先輩といえば、昨日送られてきたメールと添付ファイルを思い出す。
「ここいらで殺傷事件があったらしいんな」
曾祖父が目を細めて新聞を読む。
「一昨日か、そこらだろ」
曾祖父と曾祖母の小塚村訛りに笑いそうになる綾瀬。聞き慣れても滑稽に思えてしまうのだ。
「そっかそっか。涙のとこの学校は大丈夫なんか」
「おう」
大丈夫と答えておく方が質問攻めを喰らわなくて済むというのは一緒に長年暮らして分かっていることだ。
「…被害者の風間って子は涙の友達なんと違うんかったか」
「先輩だよ」
言ってしまった後、口を押さえた。これでは嘘をついたのがバレてしまう。
「お前の先輩だと!?」
曾祖父は唾を飛ばして叫んだ。
「そうだよ、うっせーな。唾飛ばすなよ」
「見舞いは!?見舞いには行ったんか!?」
「行った、行ったよ。昨日くらいに」
「何持ってったんだ!?」
「薔薇の花だけど?」
「棘は!?」
「取ってない」
そしてまた曾祖父は唾を飛ばす。
薔薇の花の棘は削いでおくことなど綾瀬は全く知らなかった。
「じいちゃん」
「あぁん?」
「俺さ…、部活、辞めていい?」
曾祖父は面食らった。
「いいわけねぇんべに。何かあったとぅ?」
曾祖母が炬燵で編み物をしながら横から口をはさむ。
「いや、漠然とした理由はないんだけど」
曾祖母も曾祖父も眉根に皺を寄せた。
綾瀬はむっとした。
「だっからぁ、みんな、おかしいんだ。頭イカれてる。気が狂ってるんだ!」
曾祖父は新聞を捲る。
「何言ってんのや。いいかぁ、世話んなってる人いらににそんなこと言っちゃいけねぇんだどよ」
「涙、お前は周りとは少し違うんだ。ぬいぐるみと話すお前と比べれば、きっとまともに見えるはず」
綾瀬は何も言えなかった。
「なんなら、小塚村、また行くか?あの村はお前も刃向かわないし、生意気なことも言わんもんな」
歯医者を嫌がる子を無理矢理にでも歯医者に連れて行くような物の言い方に綾瀬には思えた。
「やだ!兎に角俺は、あんな部活も、学校も辞めてやる!」
「学校は辞められないぞ」
「やだ!普通の公立中学校に行きたいんだ!」
綾瀬は癇癪を起こしたように喚く。曾祖母も曾祖父も不思議に思った。綾瀬は口調こそは生意気だが、曾祖父と曾祖母への孝行の気持ちはあるようであまり我侭は言わない。
「涙、何があった?」
「気が狂ってんだ!伊鶴センパイも、美浦先輩も!柊部長だって!」
「涙?」
「あんなところにいたら…殺される…」
「涙、お前は少しおかしいんだ。まともになんてなれないんだ。だからダメだよ、先輩のことそんな風に言っちゃぁダメ」
自分がおかしい環境で育ってきたのは分かっている。今更それを嘆こうとも思わない。おかしいのは本当に自分だけなのだろうか。
***
青間総合病院の設備は相変わらず良い。瀬戸は口元を吊り上げた。網膜検査くらい受けられるシステムでもいいくらいにここの主は重要人物だというのに。
本妻の子でないこの子だけが唯一自由だった。それがきっと七津川少年の癪に障ったんだろう。
瀬戸は少年の傷だらけの白い肌に触れた。容赦なく振り下ろされたらしく、傷が深い。閉じても痕は残るのだろう。
生まれながらにしての天才。本妻の子の学力は努力の賜物だった。もともと頭は良かったのだろうけれど、努力が天才を上回っただけ。天才が努力できる才能を持ち合わせていたとしたら、間違いなくこの子の方が本妻の子の上をいっただろうと瀬戸は思った。
例えば綾取り。やり方さえ分かれば作品にするのは簡単だ。しかし幼少期に会ったこの少年は、すでに出来上がったものを見せただけで同じものをつくることができた。紐がどのように通るのかが分かるのだ。瀬戸はそのとき驚いて見ていた。まさかあのときの子がこの少年であったことなど全く考えもしなかったが、今日病室を訪れて顔を見た途端思い出した。
白い肌に争っているかのように白いガーゼが貼ってある。縫った痕も残ってしまうと思うと瀬戸は残念に思った。
もしかしたら七津川少年は殺すつもりなどなかったのかもしれない。
瀬戸は風間の包帯で巻かれた右腕をそっと布団からだした。
「異母兄さんに、会えるといいね」
無理な話なのだけれど。彼は腹違いの兄を探していた。瀬戸には風間が今でも幼く見えた。幼い風間の姿は脳裏に焼きついている。
不慮の事故か何かで風間さんは亡くなったと聞く。数年前のことだ。葬儀の際に席から外された風間を見たことがあった。エントランスで見覚えの無い女性と話していた。穏やかに。母親の葬儀であることを忘れてでもいるのか、と問いたくなるくらいに。「あの中に僕の兄さんがいるんでしょ?」と訊いていた。
更に何年か前、瀬戸は父親に連れられ、会社に行ったことがあった。社内の片隅に社員の子を保育するブースがある。「美浦社長の子だ」と言われ、会わされたのは朱鴇という子だった。その子は綾取りをやっていた。そのときの記憶が瀬戸の中に焼きついて離れない。
「この子、すごいのよ。一緒に遊ぶ?」
そう瀬戸に訊ねた保育士の女性が綾取りの技を見せた。立って歩けるか否かというその子どもは慣れない小さな手つきで同じ技を見せた。まさか七津川少年の言っている少年があの時の子であるとは思いも寄らなかった。
この病室に来たことで、思い出に耽ってしまう。鮮明な記憶はあるが、もうあの時と同じことは二度とないと思うと不思議な感覚だ。瀬戸は溜め息をついた。時計を見る。あと2時間と10分で、この少年は私立宙野総合病院へと送られる。彼の異母兄がそう私立宙野総合病院へ手配したのを病院の者から聞いていた。目的のために手段は選ばなければならない。手段を選ぶのには、目的がなければならない。時間が欲しい。この少年の異母兄はきっと今日、殺されるだろう。あと2時間で。もし彼の異母兄に連れ添っている人間がいるとすれば、そいつも。
百華、ごめん。
友人の大切なものは守れないかもしれない。
***
ありがとう としか言えなかった。友人としての私、義姉としての私、どちらかを選ぶ前に私は私をやめてしまおう。
「小塚村について、知っていることを全て話してくれないか」
美浦が言った。頼みというか、それは命令に近かった。
「小塚村ね。知っていること全部?」
問いかけてくるのが美浦であるのが前里にとって幸いだった。
「ああ。そうだ。教えてくれるな?」
「いいよ」
「まず、小塚村の住民はどうなるんだ」
前里は滑稽に思えた。自分の支配下にあるのに何故態々訊くのだろう。その目で見てくればいいものを。
「主に、製薬の実験台になるわ。成功した者だけ帰ってこられるけれどね。貴方も一回見にいったことがあるんでしょ?」
「記憶には無いが、そのようだ。それで、成功しなかった者は?」
「企業秘密、社長さん」
前里は笑う。
「話せ」
「宙野総合病院の地下に、大きな怪物がいる。大抵はその子のエサになる。あとはそうね、神野動物園の檻の中・・・・・・」
神野動物園に行ったときの記憶なら美浦にもあった。あの時初めて父親に背いたから。
「小塚村は、それで、どうして普通でいられる」
「普通でいられるって、行ったことあるの?普通じゃないよ、あそこ」
「どういう意味だ」
美浦が眉間に皺を寄せた。
「美浦氏は神様だ~とか。洗脳でもしたの?それとも、貴方の父親がよっぽどなのか。もしかしたら…そうね、新しい薬でもできたとか?小塚村の外で使用しても分からないような」
前里の視界に入らない病室の片隅で柊が美浦の背中を見ている。
「そうか」
「貴方は、どうするつもり?」
前里に訊かれて初めて、美浦は自分が何をすべきなのか考えた。風間の犯人についてのことしか考えていなかったし、考えようとは思わなかった。小塚村については事件に関わっていそうで疑問を持っただけだ。父親を探そうと思ったこともない。
「俺は…」
美浦は何と答えるべきか迷った。
「貴方はまだ若い。ここで終わるべきじゃない。家族の柵に囚われるな」
前里が言った。
「ああ」
美浦が悲しそうに微笑を浮かべた。
「お前は治ったら、どうするんだ?」
「迷ってるところ」
美浦は前里にはもう身寄りがないことを知っていた。亡くなった弟については知らないけれど。
「そうか」
「もう、魅奈斗に迷惑は掛けない。兄さんにもね」
「そうか」
前里が小さな声で「耳を貸せ」と言う。美浦は前里の顔に顔を近付けた。
「魅奈斗に、嘘、ついた」
「そうなのか」
「魅奈斗の二番目のお兄さん、小塚村にいる。会わせてやりたいの」
「生きているのか」
「話せる状態じゃないけどね」
「どういうことだ?」
ICUに居ると言っていた筈の柊の兄は死んだと報告されている。
「流来波さんが亡くなったのは宙野総合病院。宙野総合病院で美浦社の権力を使えば隠蔽工作するなんて簡単。裏から手を回させてもらった」
美浦はそうか、と頷いた。宙野総合病院は美浦氏が建てた病院だ。青間総合病院は美浦社の者をあまり受け付けないが、宙野総合病院は美浦社の者を中心に診ている。
「柊の兄は、何故、そうなったんだ」
「交通事故よ」
前里は遠い過去を振り返るかのように言う。記憶が交錯する。
あの雪の日。あの雪さえなければ、弟が死ぬこともなかったんだろうか。弟に編んだ白いマフラーは千切れて、真っ赤に染まっていた。
「自慢の弟だった…」
美浦は眉を顰めた。何の話だか分からないようで。
「…あぁ、なんでもない。勘違いよ、ごめんなさい」
前里の顔つきがふと優しくなった気がした。
「どうした?」
美浦の背後で不安に思った柊が声をかける。美浦は振り返って、「何でもない」と言う。
「瀬戸が、来た。貴方のお友達、宙野総合病院に行くんでしょう」
「あぁ。ここは、俺たちを忌み嫌っているだろうからな。お前も、行くか?」
美浦が前里が刺された時連絡したのも宙野総合病院だったが、繋がらなかったために青間総合病院に前里は送られた。
「いい。私は、ここで…」
ここで、終わるの。
病室のドアが乱暴に開いた。
どたどたと黒い影が入ってきた。美浦と柊はすぐに反応できたが、寝たきりの前里の視界には美浦と天井以外入らない。
「誰?」
「友人だ」
黒い影を従えて病室に入ってきたのは倉木だった。
「本当に、友人?」
友人を睨みつけている美浦が前里は信じられなかった。
「あぁ、多分な」
何も言わずに、倉木は美浦を睨みつけている。
特殊部隊と思しき黒い影の一人は美浦に向かっていった。美浦は壁に後退る。黒い影の手には小刀が握られているのが見えた。柊にもそれが見えたようで、途端に表情を変えた。
壁に追い詰められた美浦に小刀が振り下ろされる隙を狙って柊は黒い影に突進する。黒い影の腕を掴んで、柊は動きを封じるが、黒い影に圧され不利な状態にある。それを見守りながら美浦が壁から背中を剥がし、視線を移すと、目の前に立つのは倉木。蛍光灯で逆光して、首から上は殆ど見えなかった。
「やめろ!倉木!」
柊の叫び声とともに美浦の頭部に衝撃が走る。視界が揺らめいて歪んでいき、視界が急降下する。一瞬何が起きたのか分からなかった。頭部に鈍痛と不快感が生まれ、触れた。濡れた感覚。指についたのは赤い液体。それを見ると、さらに痛みが増した。
自分が床に崩れ落ちたように座り込んでいることに気付いた。視界に学園指定の靴が入る。靴から足首、足首から上を辿って見上げると倉木が瞳に映る。そして倉木の手に握られている円形の椅子。あれで殴られたのか、と他人事のように思った。
「美浦!倉木!どうしたんだよ!?」
自身の危機も省みず、柊は叫んだ。もうすぐで美浦に下ろされる筈だった小刀が首筋に触れるというのに。
ガンっ
耳を劈くような音。銃声。
「その子から離れなさい」
天井から柊に小刀を向ける黒い影に銃口を向ける前里の姿に視線がいった。上半身を起こしている。傷は治っていないだろうけれど。
「早く!。撃つよ」
ベッドのどこかに拳銃が隠してあったのだろうか。倉木が前里を見た隙を狙い、美浦は立ち上がった。倉木がそれに反応してまた円形の椅子を振り上げたが、美浦はすぐにそれを掴んで止めた。
「早く離れなさい!」
前里はいらいらとした口調で怒鳴る。柊は前里の行動が信じられず、ただ呆然としている。そうしている間にも小刀は柊の首筋に近付いている。
ガンっ
拳銃の銃口から煙が上がった。また耳を劈くような音。柊を襲っていた黒い影は身体を一度波打たせるとそのまま床に落ちた。小刀がカランと音を立てた。
「友人、なんでしょ」
前里は倉木と対峙する美浦に言った。
「ああ」
銃声と共に倉木が見せた隙をついて、手首を掴んで背負い投げ叩き落す。美浦は倉木を見下ろした。
「柊、大丈夫か」
「ああ」
目の前で人が撃たれたのはショックだったようだが、美浦の呼びかけにすぐ反応した。
「前里、ここは危険だ。走れるか…?」
「ええ」
そうだ、今度こそは、弟を....
前里は頷き、立ち上がり、裸足のまま病室の扉へ歩く。美浦は倉木の頭を床に押し付ける。
「柊、風間の部屋にいてくれ…後から行くから。お前の義姉さんも…連れて行ってやってくれ」
重要参考人なんだ、とは言えなかった。
「わかった」
柊は立ち上がって、前里を支える。
「倉木、恨んでくれ」
柊と前里が病室から出ていくのを確認すると、美浦は倉木からすぐに離れ、病室を出た。扉もすぐに閉めて。美浦には倉木に薬物投与されているのはすぐに見当がついた。何度かそういう類に狙われたことがある。
「風間の病室はすでに移送が済んでいるだろう」
前里の病室は一般の人が使う階の上で隔離されている。前里の病室の上に風間の病室がある。
「倉木は、どうして?」
柊が訊いた。
「分からない」
美浦は俯いた。薬漬けになっているなどとは、柊に言うべきでないと思った。
「そうか」
柊は不安な表情を浮かべていた。




