第1話 魔界のセクシーお姫様は、九九の七の段が言えない
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「お姫様ごっこ」のつもりで配信を始めてしまった小学生の女の子と、それに巻き込まれて胃を痛めながらも限界まで推し活に狂っていく大人たちのドタバタコメディです。
クスッと笑えて少しほっこりする物語を目指しています。
夏休み。うだるような暑さの午後。
都内の閑静な住宅街に建つ、静まり返った広い一軒家で、小学三年生の陽菜はひどく退屈していた。
両親は仕事で長期間の海外出張中。
年の離れた大学生のお兄ちゃん(蒼太)は、「男を磨く世界一周の旅に出る」と謎の宣言を残し、自分と同じくらい大きなリュックを背負って日本を飛び出してしまった。
「ひま、だなぁ……」
麦茶の入ったコップを両手で持ちながら、陽菜はクーラーの効いた家の中をパタパタとスリッパで歩き回る。
友達と遊ぶ約束もない今日の午後は、9歳の子供にとっては永遠のように長く感じられた。
その時、ふと廊下の突き当たりにあるドアの前で足が止まった。
お兄ちゃんの部屋だ。
普段は『立ち入り厳禁!』という物騒な手書きの札が貼られ、絶対に鍵がかかっている秘密の部屋。しかし、今日に限って少しだけ隙間が開いている。急いで旅立ったせいで、鍵をかけ忘れたのだろう。
「ちょっとだけ、なら……」
いけないことだと分かりつつも、好奇心には勝てない。そっとドアを押し開けると、そこは陽菜の知っている「普通の部屋」ではなかった。
まるで宇宙船のコックピットだった。
遮光カーテンで太陽の光が完全に遮られた薄暗い部屋の中で、大きな机の上に並んだ3枚もの巨大なモニターが鎮座している。
机の中央には、テレビの歌番組でしか見ないような立派な黒いマイク。
そして机の下には、中身が透けて見える大きな黒い箱(パソコン本体)が置かれていた。
陽菜は吸い寄せられるように、ふかふかの黒いゲーミングチェアにすっぽりと収まった。そして、その透ける箱のてっぺんにある、一番大きくてかっこいいボタンを指で撫でた。
「これ、押したらどうなるんだろ……」
ポチッ、と押し込む。
『ブォォォン……!』という低い起動音と共に、透明な箱の中のファンが勢いよく回り出し、3枚のモニターが青や紫のLEDライトでパッと鮮やかに光り始めた。
「わあ……! ほんとに宇宙船みたい!」
陽菜は目を輝かせ、七色に光るマウスを握った。
画面には、よくわからない英語の文字や四角いマークがたくさん並んでいる。
――数ヶ月前。
部屋の鍵を閉め忘れたお兄ちゃんは、何かのテストをしているところを陽菜に見られてしまい、大パニックになりながらこんな嘘をついた。
『ち、違うぞ陽菜! これはな、お兄ちゃんがパソコンで作ってる「お姫様ごっこ」のゲームなんだ! このロゼって女の子になりきって、画面の向こうの妖精さんとお話しするゲーム! だから、お父さんやお母さんには絶対に内緒だからな!?』
あの時のお兄ちゃんの必死な顔と、ものすごい早口を思い出し、陽菜はポンと手を打った。
「そうだ、お姫様ごっこのゲームだ!」
陽菜は画面の中から「それっぽいの」を探した。
すると、画面のど真ん中に、他とは違う『姫ヶ崎ロゼ(起動用)』と書かれた、ひときわ可愛いピンク色のアイコンがあるのを見つけた。
それはお兄ちゃんが、自分が配信を始める時にワンクリックで全てのソフト(アバターやマイク設定)が立ち上がるように作っておいた、渾身の便利ショートカットだった。
陽菜が迷わずそれをダブルクリックすると、一番大きな画面に、信じられないほど綺麗な「ピンク色の髪をしたお姫様」がパッと現れた。
フリルのついた黒いドレスを着た、大人っぽくて、胸の大きな可愛い女の子だ。
陽菜が首を傾げると、画面の中のお姫様もコテッと首を傾げた。まばたきをすると、お姫様もパチクリと長いまつげを揺らす。
お兄ちゃんが何ヶ月もかけて私財を注ぎ込み、ミリ単位の調整を繰り返して作り上げた『バ美肉(バーチャル美少女受肉)環境』の最高傑作。
そんなトホホな裏事情など知る由もない陽菜にとって、それはただの「すごくよくできた魔法の鏡」だった。
「すごーい! 私の動きとおなじだ!」
キャッキャと喜びながら、陽菜は画面の端っこで緑色に点滅している『配信開始』のボタンを見つけた。ゲームの「スタートボタン」だと思い込んだ陽菜は、小さな指で迷いなくそれをポチッと押した。
『ポーン』という軽い電子音が鳴り、画面の右上に【LIVE】という赤いマークが点灯する。
それが、自分の声や部屋の音が全世界のインターネットに向けて発信され始めた合図だとは夢にも思わず、陽菜はマイクに向かって元気いっぱいに声を張った。
「あ、あー。てすと、てすと。こんにちはー!」
数万から数十万円は下らない超高音質のコンデンサーマイクは、陽菜の無垢な声を、一切のノイズなく『極上の立体音響(ASMR)』として拾い上げ、ネットの海へと放流した。
***
同じ頃、インターネットの深淵にて。
世界中のネットワーク攻撃を監視するセキュリティ企業の心臓部(サーバー監視室)で、不眠症の天才ハッカー・結城 零(ゆうき れい/HN:Zero-Code)は、3日ぶりの睡眠をとるため、気休めのエナジードリンクを片手に動画サイトを開いた。
地域で一番恐れられている名門空手道場の奥で、強面すぎる巨漢の師範代・武田 健(たけだ けん/HN:Ken)は、「怖くて泣きそう」と生徒に怯えられた己の顔面に落ち込みながら、破れた子供用道着のワッペンを縫うため、作業用の動画サイトを開いた。
都内の一等地にある高級法律事務所で、人間不信のエリート企業弁護士・九条 律(くじょう りつ/HN:Lex)は、人間の醜い欲望が詰まった分厚い裁判資料を閉じ、すり減った神経を休めるために動画サイトを開いた。
住む世界も、素性もまったく違う3人の大人たち。
しかし彼らはその瞬間、偶然にも「同じ配信」に目を留めていた。
【現在の視聴者数:3人】
【アカウント名:姫ヶ崎ロゼ_Official】
彼らがその配信をクリックした理由はただ一つ。
サムネイルに映るアバター(ガワ)の2Dモデリング技術が、素人の個人勢とは到底思えないほど『異常なクオリティ』だったからだ。
『こいつは、とんでもない大型新人がデビューしたぞ……』
『どんな企業勢だ? 中身はプロのベテラン声優か?』
3人のプロフェッショナルたちは、どんなあざとくて甘い美声が聞こえてくるのかと、それぞれの場所で息を呑んでモニターを注視した。
しかし、最高級のマイクから彼らの耳(高級ヘッドホン)に届いたのは、計算し尽くされた大人のトークではなかった。
『……えっと、しちはち、ごじゅうろく。しちく……うーん、ろくじゅうさん?』
カリカリカリ、サァッ……。
聞こえてきたのは、極上の立体音響で響く「鉛筆が紙を擦る音」と「プリントをめくる音」。
そして、どう聞いても声変わりすらしていない、ガチの小学三年生の無垢な生ボイスだった。
「「「…………は?」」」
都内の別々の場所にいる3人の男たちの声が、奇跡的にハモった。
『あ! 妖精さんが3人もきてくれた! はじめまして!』
画面の中の、超絶セクシーな黒ドレスのピンク髪美女が、満面の笑みで、子供特有の舌足らずな声を上げる。
お兄ちゃんはアバターの起動設定は完璧にしていたが、『ボイスチェンジャーソフト』だけは毎回手動で調整していたため、陽菜の地声がそのまま乗ってしまっていたのだ。
『わたしは、魔界からきたお姫様の、姫ヶ崎ロゼだよー! えーっと、妖精さんのお名前は……』
陽菜は、画面の端に表示された3つのアカウント名(Zero-Code、Lex、Ken)を一生懸命に目で追う。しかし、小学三年生には、アルファベットの羅列など読めるはずもない。
『うー……ぜーっと、いー……? わぁー、英語だ! わかんない!』
陽菜はぷくっと頬を膨らませて、マイクに向かって言った。
『ねえねえ妖精さんたち、わたし、むずかしい漢字とか英語はまだ読めないの! だから、ひらがなでお名前おしえて?』
その無邪気な要求に、都内の別々の場所にいる3人の大人たちは、それぞれのモニターの前で少し戸惑った。
【Lex】:『……れっくす』
【Zero-Code】:『ぜろ』
【Ken】:『けん』
同接3人しかいない寂しいチャット欄に、いかつい大人たちが律儀に打ち込んだ「ひらがな」が並ぶ。
『わあ、ありがとう! れっくすさんに、ぜろさんに、けんさんね! よろしくね!』
画面の中の美女が、あどけない笑顔で手を振った。
画面の向こう側の大人たちは、揃って頭を抱えた。
【Ken】:『……おい、これヤバくねえか? ガチの子供だろ』
【Zero-Code】:『ああ。環境音の周波数や声の波形からして、声変わり前の小学生で間違いない。演技じゃない』
【Lex】:『親が不在の家で、子供がひとりで全世界に向けて配信している……? 危険すぎます。何かの放送事故でしょうか。すぐに通報して配信を強制停止させるべきでは』
3人の大人たちは、コメント欄で素早く状況を分析し合った。
親のいない家。ネットリテラシーが皆無の子供。全世界に繋がった超高音質マイクと、異常にクオリティの高いガワ。
もしこの子が、「私のうちはね」と住所のヒントを言ってしまったら? いつ大炎上やリアルな犯罪に巻き込まれてもおかしくない、超特大の時限爆弾だ。
『わたしね、いま夏休みの宿題で、九九のれんしゅうをしてるの! みんなも、いっしょに見る? あ、でもね、集中するからあんまりおしゃべりしないでね!』
陽菜がそう言うと、配信には再び「カリカリ……サァッ……」という、鉛筆と紙の擦れる音が響き始めた。
画面の中のセクシーな美女が、あざとすぎるウインクを決める。
(――お兄ちゃんが、まばたきを検知して自動でウインクするマクロを組んでいたせいである)
【Lex】:『……やはり通報しますか?』
【Ken】:『いや、待てよ。今いきなりBAN(停止)させたら、このガキ、理由もわからずパニックになって泣くぞ?』
【Zero-Code】:『それに……なんだ、この音。めちゃくちゃ落ち着くんだが』
ゼロの言う通りだった。
数万〜数十万円は下らない超高級マイクが拾う「ただ一生懸命に宿題をする音」は、極上のASMR(立体音響)となって、日々の激務とデジタルな悪意との戦いで荒みきっていた大人たちの疲れた脳に、じわじわと染み渡っていたのだ。
【Ken】:『……たしかに。俺も今、不思議と道場の仕事のストレスが消えてる』
【Lex】:『……ふむ。法の現場の殺伐とした空気とは無縁の、完全な平和。これも一種のメンタルケア……いや、なんでもありません』
3人は、それぞれの場所で深く息を吐き出し、コーヒーやエナジードリンクを一口飲んだ。
【Zero-Code】:『……少しだけ、様子を見ないか? これから先、もし本名や住所みたいな危険な情報を言いそうになったら、俺たちがコメントで注意して止めればいい』
【Lex】:『なるほど。一種の保護観察ですね。分かりました。法的な問題が発生しそうな場合は、私がコメントで誘導します』
【Ken】:『おう。もし変なアンチが迷い込んできたら、俺が片っ端からブロックしてやるよ』
彼らはまだ、この時「推し活」などという甘い感情は抱いていない。
ただ、ひどく疲れた大人としての現実逃避と、危なっかしい子供を放っておけないという、ほんの少しの善意(無自覚な親心)。
かくして、素性も本名も知らない3人の大人たちによる、奇妙な「保護観察モデレーター業務」が、静かに幕を開けたのだった。
彼らの目的はただ一つ。
魔界のセクシーお姫様(9歳)の、平和な算数の宿題を守り抜くことである。
最後までお読みいただき、ありがとうございます!
お兄ちゃんのトホホな嘘から始まった、奇跡の「お姫様ごっこ」配信。
同接3人からスタートしたこの物語ですが、これから陽菜ちゃんの無自覚なやらかしと、妖精さん(最強の大人たち)の胃痛がどんどん加速していきます。
果たして3人は、ネットの悪意からロゼ姫を守り切れるのか!?




