第1章:最悪な一日
「ひぃぃぃっ! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
土砂降りの雨が打ち付ける川崎の廃工場群。錆びた鉄の匂いと、鼻を突く火薬の悪臭が混ざり合う中、僕——七瀬陸は、泥水の中を這いつくばって逃げていた。
鼓膜を破るような発砲音が背後で連続して響く。乾いた破裂音のたびに、僕のすぐ横にあるコンクリートの壁が弾け飛び、鋭い破片が頬をかすめた。
「撃たないで! 僕はただのお使いなんです! 何も知らないんですってば!」
半泣き、いや完全に泣き叫びながら、両手で抱え込んだ銀色のアタッシュケースを胸に押し付ける。
ただの「運び屋」のバイトだった。闇バイトの掲示板で見つけた、『指定されたケースをA地点からB地点へ運ぶだけで報酬10万円』という、今思えばどう考えても怪しすぎる仕事。家賃を滞納してアパートを追い出されそうになっていた僕は、ついそれに手を出してしまったのだ。
運命の神様がいるなら、今すぐ土下座して謝りたい。僕が一体何をしたっていうんだ。
足元がおぼつかず、転がっていた鉄パイプに思い切り足を引っ掛けてしまった。
「ああっ!」
無様に宙を舞い、水たまりのど真ん中に顔面から突っ込む。口の中に泥水と血の味が広がった。肺が酸素を求めてヒューヒューと情けない音を立てている。
「……そこまでだ、ネズミ野郎」
頭上から、地獄の底から響くような低い声が降ってきた。
恐る恐る顔を上げると、黒いレインコートを着た大柄な男が、巨大な自動小銃の銃口を僕の眉間に突きつけていた。顔の半分に火傷の痕がある、いかにも裏社会の人間といった風貌の男だ。その後ろにも、同じように武装した男たちが数人、僕を囲むように立っている。
「ひっ……! あ、あ、あ、ああ……」
恐怖で歯の根が合わず、言葉にならない。股間がじんわりと温かくなるのを感じた。最悪だ。死ぬ直前に漏らすなんて。
「そのケースをこっちへ渡せ。そうすれば、苦しまずに脳天を撃ち抜いてやる」
「い、いやだ! 死にたくない! 渡します、渡しますから命だけは助けてください!」
僕は泥まみれのアタッシュケースを両手で前に突き出した。マフィアの男が冷酷な笑みを浮かべ、銃を持ったままケースに手を伸ばす。
——神様、仏様、誰でもいいから助けて!
僕は目を固く瞑り、両手で頭を抱え込んでコンクリートの床にうずくまった。
お願い、撃たないで、撃たないで。
ギギギ……ッ、バキィン!!
突如、頭上遥か高みから、金属がへし折れるような凄まじい轟音が響き渡った。
「……あ?」
マフィアの男が間抜けな声を上げた瞬間。
頭上のクレーンに吊るされていた数トンはあろうかという巨大なH鋼(鉄骨)が、劣化したワイヤーを引きちぎって真っ逆さまに落下してきたのだ。
ズドォォォォンッ!!
大地が揺れた。
飛び散った泥水とコンクリートの粉塵が、暴風となって僕の体を吹き飛ばす。
「うわああああっ!?」
数メートル先まで転がり、全身の痛みにうめきながら目を開ける。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
僕の目の前——ほんの五十センチ先の場所に、巨大な鉄骨が突き刺さっていた。
そして、さっきまで僕に銃を向けていたマフィアのボスと部下たちは、その鉄骨の下敷きになり、ピクリとも動かなくなっていた。赤い血が、雨水に混ざって足元へ流れてくる。
「……え?」
偶然だ。
老朽化した廃工場のクレーンが、このタイミングで、ドンピシャの確率で壊れたのだ。
「た、助かった……? 僕、生きてる……」
腰が抜けて立ち上がれないまま、へたり込んで荒い息を吐く。生きた心地がしない。もう帰りたい。温かい布団に包まって、コンビニの弁当を食べたい。
「……随分と運のいい男ね」
突然、背後から氷のように冷たい女の声がした。
ビクッとして振り返ると、いつの間にか一人の女が立っていた。
黒のトレンチコートに身を包んだ、モデルのように背の高い女。濡れた黒髪の隙間から覗く鋭い目は、足元に転がる死体を見ても微塵も動揺していない。
彼女の手には、消音器のついた黒い拳銃が握られており、その銃口は——今度こそ間違いなく、僕の頭部を正確に狙っていた。
「あ、あ、あの……警察の方ですか……? 助けて……」
「動かないで。少しでも妙な真似をしたら、あなたの脳髄をこの泥水にぶちまけるわよ」
女の言葉は本気だった。声のトーンだけで、彼女が平気で人を殺せる種類の人間だと分かる。
「私は公安警察の氷室。そのケースを渡しなさい」
公安警察。
マフィアの次は警察のお出ましだ。どうして僕ばっかりこんな目に遭うんだ。
僕は震える手で、泥まみれのアタッシュケースを彼女に向けて差し出した。
「ど、どうぞ……! だから撃たないでください……僕は本当に、ただ運ぶように言われただけで……」
氷室は銃を構えたまま、片手でケースを受け取る。そして、靴の踵で器用に留め金を弾き飛ばし、パチリとケースを開いた。
「——パンドラの箱、確かに回収し……」
氷室の言葉が、途中でピタリと止まった。
彼女の美しい顔が、初めて驚愕に歪む。
「……どういうこと?」
「え……?」
僕も恐る恐る、ケースの中を覗き込んだ。
空っぽだった。
国家を揺るがす軍事データが入っているはずの、僕が命がけで守り抜いた銀色のアタッシュケースの中には、緩衝材のスポンジ以外、何一つ入っていなかったのだ。
「な、何もない……?」
僕が呆然と呟くと、氷室は舌打ちをし、ケースをゴミのように泥水の中へ投げ捨てた。
「……はめられたわね。本命の運び屋は別のルート。お前はただの陽動——マフィアの目を逸らすために用意された、無価値な『捨て駒(囮)』だったというわけね」
「す、捨て駒……?」
僕は絶句した。
じゃあなんだ。僕はこの空っぽの箱のために、ヤクザに追い回され、銃を突きつけられ、泥水をすすって泣き叫んでいたというのか。
「うそだろ……時給1500円のウーバーイーツより割のいいバイトだと思ったのに……うわああああん!!」
僕が頭を抱えて子供のように号泣し始めると、氷室は心底ゴミを見るような目で僕を見下ろした。
「泣き喚くな、耳障りよ。……顔を見せなさい」
氷室は僕の顎を蹴り上げ、強引に顔を上げさせた。
その瞬間、彼女の目が微かに見開かれた。
「……なるほど。そういうことね」
氷室は何かを納得したように小さく呟き、銃を下ろした。
「お前、名前は?」
「な、七瀬……陸です……」
「いいこと、七瀬陸。お前は今から、私の犬になるのよ。拒否権はないわ」
「え? い、犬……? いやです、僕帰ります! 明日ハローワークに行く予定が……」
「黙れ」
冷たい銃口が、再び僕の額に押し付けられる。
「ハイと言え。さもないと、このマフィア殺しの罪を全てお前になすりつけて、一生刑務所から出られないようにするわよ」
「ハ、ハイィィィ!! よろこんで犬になりますぅぅぅ!」
僕は土下座の姿勢のまま、工場の床に額を擦り付けた。
こうして、僕の人生で最も最悪な一日——そして、世界を揺るがす巨大な騙し合いの幕が、理不尽極まりない形で切って落とされたのだった。




