完璧な紳士
石畳の美しい街並みの向こう、天を突き、国全体を見守るように優美に枝葉を広げる大樹がある。
至高聖樹。
『ヴェルダント聖樹王国』の象徴であり、人々の信仰の拠り所。常に枯れることなく、瑞々しい魔力を湛えて輝くその大樹は、この国の心臓そのものだ。人間、エルフ、ドワーフ、獣人と多様な種族が聖樹の加護のもとで平和に共存していると、表向きは謳われている。だが、その神聖なる緑の陰には、決して光の当たらない深い溝が存在していた。この国を支配するのは、生まれながらに豊かな魔力を持つ魔法士と呼ばれる人間だ。一方で、魔法が使えない人間は、人間以下の価値しか持たない劣等種、『能無し』と呼ばれ、どれほど努力しようとも泥水をすするような底辺の暮らしを余儀なくされる。それが、この国の絶対的な魔法至上主義の現実だった。
「さあ、みんなでお使いなさい。未来の王国を支えるのは、君たち聖樹の子供らだよ」
昼下がりの王都の広場。まばゆい光を放つ絢爛な馬車の前で、笑顔で貧民街の孤児たちに魔法の玩具を配る一人の男がいた。
アルベール・フォン・ローゼン。ローゼン男爵家の当主であり、王都ではその名を知らない者はいない。年齢は40代前半。だが、その風貌には衰えなど微塵もない。金の糸を織り込んだような美しい髪を後ろに流し、彫刻のように整った気品ある顔立ちに、知的な切れ上がった双眸。仕立ての良い高級な魔道服を完璧に着こなすその姿は、成熟した大人の男としての色気と、圧倒的なカリスマ性に満ちあふれていた。
家柄、魔力、風貌、そのすべてが完璧。40代になった今も独身を貫いており、王都の貴族令嬢たちからは永遠の憧れとして熱い視線を浴び続けている。王都の一等地にそびえ立つ広大な大邸宅には、古参の執事を筆頭に、メイドや御者など50名以上の使用人が付き従い、彼の洗練された一人暮らしを支えていた。
「まあ、アルベール様! なんて慈悲深く、人望の厚い人格者なのでしょう!?」
「お貴族様たちだけでなく、身分の低い子供たちにも手を差し伸べるなんて、まさに『至高神緑』の申し子だ!」
周囲の群衆からは、惜しみない称賛、そして熱狂的な拍手が送られる。アルベールはふわりと優雅に、非の打ち所がない魅了の微笑みを返し、馬車へと乗り込んだ。誰もが彼を、神聖なる聖樹の加護を体現したような完璧な善人だと信じて疑わなかった。しかし、彼らはまだ知らない。その完璧な仮面の裏側に、吐き気を催すほどの醜悪な狂気と、血塗られた裏の顔が隠されていることを。
同刻、ローゼン家の広大な邸宅。
主であるアルベールの帰宅を前に、庭園で薔薇の剪定をしていた二十歳前後の能無しの青年のレイは、静かに庭鋏を動かしていた。レイは数ヶ月前から、このローゼン家に庭師として働いていた。
(リィナ……どこにいるんだ……)
リィナは、レイと同じ能無しの少女であり、家族のように育った大切な幼馴染だった。二年前、「ローゼン家の屋敷に住み込みのメイドとして雇われた」と言い残し、それきり連絡が途絶えた。レイは国の治安維持組織である『聖樹騎士団』に何度も捜査を訴えた。しかし、騎士たちは、貧民であるレイの言葉をまともに聞きもしなかった。
「エリート魔法師のアルベール様が、犯罪行為をするはずはない。一年前に解雇したというアルベール様の証言がすべてだ。それ以上騒ぐと、虚偽の通報で投獄するぞ」
何度掛け合っても騎士団の答えは変わらなかった。国家の犬どもにとって、能無しの命など、道端の石ころ以下の価値しかなかった。聖樹騎士団が動かないなら、自分の手で真実を暴くしかない。
アルベールが豪奢な自邸へと帰着し、敷居を跨いでなお、完璧な紳士としての佇まいは微塵も崩れなかった。彼は屋敷の内外を問わず、使用人たちに対しても常に優雅で、極めて慈悲深く接する。
「お帰りなさいませ、アルベール様」
出迎えの無能の若いメイドに対しても、アルベールは穏やかに微笑み、自ら手を差し伸べて彼女を立たせる。
「いつも出迎えてくれてありがとう。少し冷え込んできたから、無理をせず暖かくするんだよ」
その丁寧で温かい声音は、まさに理想の主君そのものだった。メイドは顔を赤らめて感激し、周囲の者たちも皆、その深い慈悲の心に敬服の視線を送る。屋敷の表舞台にいる限り、彼は非の打ち所がない本物の紳士であり、誰もが彼を慕っていた。
レイが潜入して数ヶ月。ある日、庭園のメンテナンス中に妙な違和感を覚えた。美しい噴水の横、アルベールが自らの権力を誇示するために建てさせた、悪趣味な本人の黄金像。その周囲の芝生だけ、ほんの僅かに色が変わっていたのだ。毎日泥にまみれて土を弄っているレイの目だからこそ気づいた、踏み固められた土壌による芝の生育不良。まるで、夜間に誰かが頻繁にそこを行き来しているかのような不自然な違和感だった。
(あの黄金像の周りに、何かある……)
その日の夜。レイは定時を過ぎても屋敷から帰宅せず、闇に紛れて庭園の茂みに身を潜めていた。深夜、屋敷の明かりがすべて消えて皆が寝静まった頃。満月の光に照らされた庭園へ、レイは音もなく這い出した。噴水の横、黄金像の足元へ近づく。昼間目をつけた芝生を慎重に手で探ると、巧みに偽装された隠しボタンが土の中に埋め込まれているのを発見した。息を呑みながら、レイはそのボタンを強く押し込む。
ズ、ズズ……配置された歯車が噛み合う、重々しい石の擦れる音が響き、アルベールの黄金像がゆっくりと横へスライドした。その足元から現れたのは、地下へと続く漆黒の暗闇、隠された階段だった。レイは意を決し、階段を駆け下りた。暗闇の通路を突き進み、地下室の重い扉へと辿り着く。そっと扉を開け、地下室に足を踏み入れたレイは、その光景に息を呑んだ。
そこは、この世の地獄だった。
薄暗い部屋の壁際に並んでいたのは、緑がかった怪しい培養液に満たされた、巨大なガラスケースの列。その中には、ホルマリン漬けにされた全裸の女性たちの死体が、標本のように鎮座していた。どの死体も、肌には無数の紫色のあざが刻まれ、顔面は生前に識別できないほど激しく殴打され、破壊されていた。アルベールは、メイドとして雇った貧しい能無しの女性たちをここに監禁し、自らの歪んだ欲望を満たすおもちゃとして、あえて魔法を使わずに肉体的に徹底的に痛めつけ、なぶり殺していたのだ。
さらにレイの戦慄を誘ったのは、各ケースに貼られた、狂気的なほど几帳面な記録カードだった。そこには、被害者の『名前』『年齢』『スリーサイズ』といった身体特徴に並んで、最も目立つ位置に【どんな命乞いをして泣き叫んだか】が、一言一句狂いなく、愉悦の記憶として明確に記録して、最後に感想の一言が添えられていた。
レイの身体が、怒りと悍ましさでガタガタと震える。そして、彼はケースの一つのラベリングに書かれた文字を見て、完全に血の気が引いた。
『リィナ・18歳。命乞い:なんでも言うことは聞きます。あなたの〇〇〇もなめさせください。おのぞみなら私の体を好きにして下さい。痛いです、痛いです。お願いです、もう殺してください。お願いします。一言:舌の使い方上手い女だった』
色褪せた髪、痛々しく殴り潰された顔。それは、探し続けた大切な幼馴染――リィナの、最期の絶叫の記録だった。
(ああ……ああああ……ッ!!)
声にならない絶叫が喉の奥で引き裂かれる。目から血の涙が溢れそうだった。今すぐアルベールの首を跳ね飛ばしてやりたかった。だが、魔法師を能無しの人間が殺すなど不可能に近い。こちらが刃物を持ったところで、高度な魔法で一瞬にして消し炭にされるのがオチだ。圧倒的な無力感が、レイの心をズタズタに引き裂いた。
次の日の夜、レイは貧民地区の隅にある、薄汚れた寂れたバーのカウンターで、泥水を煽るように安酒を飲んでいた。
「あいつが……あいつが殺したんだ! リィナを、たくさんの人間を……! あの怪物を、俺は絶対に許さない、絶対に殺してやる……!」
涙を流しながらカウンターを殴りつけるレイに、周囲の貧民地区の住人たちは、冷めた、しかし同情の混じった目を向けた。
「おい、よせよレイ。相手はお貴族様だぞ。お前の話など誰も信じてくれねぇよ。聖樹騎士団だってあいつらの味方だ。諦めな……」
分かっている。そんなことは、レイが一番よく分かっている。この国において、能無しの命は一文の価値もないのだ。どれだけ泣き叫んでもこの世界の構造は変わらない。
「……本気で、あの魔法士を殺したいか?」
突然、低い声がレイの耳元で囁いた。ハッとしてレイが顔を上げると、いつの間にか隣の席に、フードを深く被った見知らぬ男が座っていた。男は周囲の視線を遮るように滑らかな動作で、懐から掌に収まるほどの小さな宝玉を取り出した。それは青白く、まるで永久に溶けない氷のように妖しく、美しくきらめいていた。
「これは『魔力反転の宝玉』。私たちは、一方的に蹂躙される能無しの平民に力を貸す、弱者の英雄だ」
「弱者の……英雄」
「この宝玉には魔力がない。だから、防衛結界にも、獣人の鼻にも引っかからん。奴が魔法を扱う部屋にこれを隠しておけ。奴が魔法を使った瞬間……その魔力は真逆にひっくり返り、奴自身の生身の肉体を内側から破壊する。お前はただ、宝玉を見つからないところに設置すれば良いのだ」
「待ってくれ……。そんな派手な暴発を起こせば、すぐに魔導捜査部にバレて、僕が真っ先に疑われる……」
「案ずるな。この宝玉の真の価値は、その『隠滅性』にある。魔力を暴発させた瞬間、宝玉自体は自ら跡形もなく消滅する仕組みだ。現場には、被害者が勝手に魔法を暴発させたという『結果』だけが残り、魔導捜査部が測定器を使おうとも、宝玉の痕跡など一ミリも検出できん。捜査官は、ただの『不運な事故』として片付けるしかない完全犯罪さ」
「……跡形もなく、消滅する……」
レイはごくりと唾を呑み、フードの奥の男の瞳を見つめた。
「対価は何だ? 俺は何を支払えばいい?俺は大金など持っていないぞ」
「対価など要らん。我々の望みはただ一つ、傲慢な強者がその身を滅ぼすことだけだ」
男は不気味に唇を歪め、宝玉をカウンターにコトリと置くと、そのまま闇に溶けるように気配もなく姿を消した。悪魔の誘いかもしれない。だが……リィナの、あの冷たいケースに記された悲痛な命乞いの言葉、そしてあの男の狂気的な感想が脳裏をよぎった瞬間、レイの瞳に昏い炎が灯った。
「……あの男を地獄に落とせるなら、俺は悪魔にでも魂を売ってやる」
レイは、冷たく凍りついた宝玉を、壊れ物を扱うように、しかし強固な決意を込めて、強く握りしめた。




