何もない自分が、一番怖かった
この物語は、ある「国家」の視点から描かれる物語です。
けれど、それは最初から国家だったわけではありません。
どこにでもいる、取り立てて特別でもない一人の人間が、
「もし自分だったら、もっと上手くやれるのではないか」
そんな、ありふれた、そして少しだけ傲慢な願いを抱いたことから始まります。
歴史は、教科書の中では整然と並び、
原因と結果が明確に説明され、
あたかも「そうなるべくしてなった」もののように語られます。
けれどもし、その歴史を内側から体験するとしたら。
そこにあるのは、選択の連続であり、
正しさと正しさが衝突し、
誰かを救うために誰かを切り捨てるしかない現実かもしれません。
この作品では、実在の歴史や出来事をモチーフとしながら、「もしも」を重ねた物語が展開されます。
ですが、それは単なる歴史改変の物語ではありません。
何度やり直しても、同じ過ちに辿り着くとしたら。
その時、人は、あるいは国家は、何を選び続けるのでしょうか。
軽く読める部分もあれば、少し重く感じる部分もあるかもしれません。
けれど、その違和感こそが、この物語の核です。
どうか、最後まで見届けていただければ幸いです。
「……はあ」
ため息が、自然と漏れた。
別に、何か嫌なことがあったわけじゃない。
テストで悪い点を取ったわけでも、誰かと喧嘩したわけでもない。
むしろ、今日もいつも通りだった。
朝起きて、制服に着替えて、適当に朝飯を食って、
電車に乗って、学校に行って、
授業を受けて、友達とどうでもいい話をして、
そして今、帰り道。
夕方の空は、やけに赤かった。
それが綺麗だと思うほど感性は豊かじゃないけど、
かといって何も感じないほど鈍くもない。
ただ、ぼんやりと眺めながら思う。
「……なんだかな」
口に出してみても、やっぱりよく分からない。
俺は、別に不幸じゃない。
家は普通だし、親とも普通に話す。
学校にもそれなりに馴染んでるし、
仲のいいやつもいる。
いじめられてるわけでも、孤立してるわけでもない。
……でも。
「なんか、これでいいのかな」
ふと、そんなことを思う。
特別なことなんて、何もない。
このまま高校を卒業して、どこかに進学して、
どこかに就職して
気づいたら、終わってる。
そんな未来が、妙にリアルに想像できてしまう。
「……いや、普通に考えたらそれが一番いいんだけどさ」
分かってる。
そんなのは、贅沢な悩みだって。
世の中にはもっと大変な人がいるし、俺なんか恵まれてる方だ。でも、それでも。
「普通のままで終わるの、ちょっと嫌だな……」
ぽつりと、零れた。
誰に聞かせるわけでもない、本音。
「だったら、変えてみる?」
「……は?」
思わず振り返る。
そこに、人がいた。
いつからいたのか分からない。
いや、そもそもさっきまで誰もいなかったはずだ。
夕焼けに照らされて、その姿はやけに曖昧に見える。
背丈は俺と同じくらい。
性別はよく分からない。
ただ一つ言えるのは
「……誰?」
見たことがない、ということだけだ。
「ねえ、君。さっき言ってたよね」
その人影は、くすりと笑った。
「普通のままで終わるのは嫌だって」
「……聞いてたのかよ」
「聞こえたんだよ。そういう声は、よく」
そういう声?
意味が分からない。
「……なんだよ、それ」
警戒する。さすがに、こんな状況で何も思わないほど鈍くはない。
でも、不思議と逃げる気にもならなかった。
「だったら、変われるよ」
怖いはずなのに、どこかでその言葉を、待っていた気がした。
「……どうやって」
気づけば、そう聞いていた。
自分でも驚くくらい、自然に。
その人影は、満足そうに頷く。
「簡単だよ」
そして、手を差し出した。その掌の上にあったのは
「……石?」
黒く、鈍い光を放つ、小さな欠片。
宝石みたいに綺麗でもない。
ただ、妙に目を引く。
見ていると、吸い込まれそうになる。
「これを、どうするんだよ」
「どうするって?」
その人影は、笑った。
やけに楽しそうに。
「決まってるでしょ。受け入れるんだよ」
「受け入れる?」
「そう」
そして、少しだけ声のトーンが変わる。
「君が望んだ特別を」
頭の中で、何かが引っかかった。
特別。
さっき、自分で言った言葉。
「……それ、なんなんだよ」
「契約」
即答だった。
「歴史をやり直すためのね」
「は?」
意味が分からない。
いや、分かるはずがない。
「やり直すって……何を?」
「全部」
その人影は、あっさりと言った。
「君が退屈だと思ってる、その人生も。その世界も。その歴史も」
「……はあ?」
冗談にしか聞こえない。
でも。
「もしも」
その声が、やけに静かに響いた。
「もしも君が、国家そのものとして生まれ変わったら」
「……は?」
「もしも君が、歴史を内側から動かせるとしたら」
心臓が、少しだけ強く鳴った。
「破滅する運命を、全部変えられるとしたら」
その時。
ほんの一瞬だけ。
「……」
想像してしまった。
戦争を止めること。
人を救うこと。
間違った選択を、正すこと。
「……そんなの」
あり得ない。
分かってる。
そんなの、ただの妄想だ。
でも。
「……もしできるなら」
口が、勝手に動いた。
「やってみたいかもな」
その人影は、満足そうに笑った。
「うん。いい答えだ」
そして、黒い欠片を差し出す。
「じゃあ、これで決まり」
「……本当にいいのかよ」
最後の確認のつもりだった。
後戻りできない気がして。
「いいよ」
即答だった。
「どうせ、君は選ぶから」
「……は?」
「だって君は」
少しだけ、間があった。
「特別になりたいんでしょ?」
何も言えなかった。
図星だったから。
「……」
無意識に手が、伸びる。
止める理由なんて、いくらでもあるはずなのに。
でも。
止められなかった。
黒い欠片を、手に取る。
冷たい。
いや、冷たいはずなのに、妙に温かい気もする。
「……これを」
どうすればいいかは、聞かなくても分かっていた。
「……」
一瞬だけ、迷う。でも、その迷いはすぐに消えた。
「……はは」
自嘲気味に笑う。
「どうせ普通に終わるくらいなら」
だったら。
口に入れた。
次の瞬間。
「——っ!?」
全身に激痛が走る。
喉が焼ける。
いや、違う。
身体の内側から、何かが侵食してくる。
「が、っ……!」
声が出ない。
視界が歪む。
世界が、崩れる。
その中で、最後に見えたのは——
「……あ」
あの人影の、笑顔だった。
「ようこそ」
その声だけが、やけに鮮明に響いた。
「歴史の中へ」
意識が、途切れた。
そして。
「……ここは」
目を開けた瞬間、思った。
空気が、違う。
いや、それだけじゃない。
「……何だ、これ」
聞こえる。
声が。
一人じゃない。
何人でもない。
無数の声が、頭の中に流れ込んでくる。
喜び。
不安。
怒り。
祈り。
「……うるさい」
思わず呟く。
すると。
ぴたりと、止まった。
「……は?」
いや、止めたのか?
俺が?
その瞬間、理解した。
理解してしまった。
「……嘘だろ」
視界の先に広がる大地。
そのすべてが
「……俺、なのか?」
心臓の音が、聞こえる。
いや、違う。それは一つじゃない。
無数の生命が、脈打っている。
「……なんだよ、これ」
震える声で呟く。
でも、返事はない。
あるのはただ、現実だけだった。




