迷宮の試し3
ツルハは腕で、広間の岩天井に打たれている取っ手に、手を伸ばした。
その冷たい鉄の触感が、手のひら一杯に伝わった時、ツルハはすぐにその手を取っ手から離した。
取っ手を掴む腕にかかる体重の負荷。足元から床が消えた瞬間、その負荷は一気に腕に襲い掛かることだろう。
その取っ手に指をかけた時、その負荷はより現実味を帯びて伝わった。
自分だけならともかく、この鉄剣を装備したまま渡れば数手も進めず、すぐに落下してしまうだろう。
ツルハは鉄剣を腰から引き抜くと、それを惜しそうに見つめた。
「……仕方ないか」
ツルハはその剣を足元に置くと、その手をもう一度、鉄の取っ手に伸ばした。
その両手が取っ手をしっかり掴むと、ツルハは深く呼吸し、その足を地面から離した。
足元から地面が消えると、腕の筋肉がギュッと圧縮されたように力が入った。
「ぐっ!」
思わずその負荷に声が出る。
ツルハが片腕で2手目の取っ手を掴むと、華奢な体が大きく揺れた。
そして、その片腕を追うように1手目を掴んでいた腕も前に進める。
――いける。
その要領で1手、1手と、慎重に、そして素早く腕を進める。
止まってはいけない。
その腕を止めたものならば、全身の負荷が一気に襲い掛かって来ることは、最初に足が宙に浮いた時、簡単に想像できた。
「ふんッ……、くッ……!」
息が荒れている。体中が熱せられた岩のように熱い。
掌にも水気が帯び始めている。
時間があまりない。
ツルハはこの時気付いていなかったが、彼女の握力は、しっかりと体を支えながら前進させるまでに向上していた。
学院を初めて訪れた時の彼女であれば、この試練をここまで突き進むことはできなかっただろう。
手を進めるごとに、体を支える腕には疲労が錘となり襲い掛かる。
しかしその血管の浮き出た手は、決して取っ手を離そうとはせず、しっかりとそれを握りしめていた。
ツルハを前に押し進めたのは、異常なまでの精神力と集中力だった。
"絶対に剣をその手から離すな。そして敵の目を逸らさずにしっかりと見ろ――"
ツァイの指導は、ツルハの無意識の中にしっかりと焼き付いていた。
その腕は剣を掴む時のように鉄の取っ手を握り、そしてその目は敵の瞳を見る時のように鋭く、対岸を見つめていた。
強靭なまでの集中力は、周囲の一切の音を遮っていた。
地上では、頭上を進んでいく少女の姿に、白狼たちが牙を剥き出しにしながら悍ましい声を絶え間なくあげ続けていた。
しかし確実に突き進んでいくツルハに、その声は届かない。
(もう少し……、あと、少し……)
対岸の地面がはっきりと見えて来た頃、ツルハの集中力はその疲労に削がれつつあった。
手の汗も酷い。
あと4手……、3手……、
もはやその苦痛に声が出ない。
腕が引き千切れそうだ。
2……手ッ
その時、初めてツルハはその腕を止めた。
体中にいくつもの鉄球がぶら下がったように、一気に負荷がかかる。
(もう……、腕が……)
目も開けてられるのもやっとだ。
あと1手……、あと1手だけ……持ちこたえて……!
最後の1手を片腕で掴み、最後の腕を伸ばそうとした時だった。
つるりと手のひらに滑る感触が走った瞬間、思考がプツリと途絶える。
真っ白な頭の中、「あっ」と一言だけ、反射的に口から声が漏れた。
――ガシッ!
何かが腕を掴んだ。
縦に勢いよく筆を走らせたようになっていた視界がその動きを止めた時、目の前にはゴツゴツとした岩肌が広がった。
右腕の手首に摩擦のような熱と痛みが走るも、その感触に、ツルハは顔を上げた。
見慣れた男の子の顔。
しかしあまりに突然のことで、その名前はすぐには出てこなかった。
「……ファイガ!?」
ようやく声が出る。
「待ってろ! 今引き上げるからな!」
その後ろにはファイガの体を支えるフサンとポッチョの姿があった。
「せーの!」
その掛け声でツルハは一気に引き上げられると、ようやくその手の平を地につけることができた。
ツルハは両手と膝を地面につけると、荒れた呼吸を何とか整えようとした。
「間一髪でしたね」
「大丈夫でごわすか?」
フサンとポッチョが声をかけると、ツルハは汗だくの顔を拭いながら微笑んで頷いた。
「ありがとう、ファイガ、フサン、ポッチョ」
一人一人の顔をしっかりと見ながらツルハがそう言うと、3人は照れ臭そうな顔を浮かべた。
「お前一人か? 他の奴らは?」
ファイガが訊くと、ツルハは首を横に振った。
「まあ、あいつらならきっと大丈夫だろう」
「そのうち、会えるかもしれませんしね」
フサンに「だな」とファイガは頷くと、ツルハの手を取った。
ツルハがファイガの手を支えに立ち上がると、ファイガは何かに気が付いたように眉を上げる。
「お前、剣は?」
ファイガに訊かれると、ツルハは「ああ。実はね……」と微苦笑を浮かべながら、その事情を話した。
「それなら仕方ないか……」
ファイガがそう呟いた時だった。
ツルハの懐から顔を出したその動物に、ファイガ達は驚いた声を上げた。
「な、な、なんでごわすか!?」
「キツネ?」
「あっ、ちょっ、どこに行くの?」
ツルハの体から飛び降りた小さな動物は、立ち止まると対岸を見つめた。
そして、静かにその瞼を閉じると、
≪キュウン!≫
その奇妙な鳴き声を高らかに上げると、一瞬、その体が金色に光る。
その瞬間、ツルハの傍で、ガランッ! という金属の音が響くと、4人の視線はその音源に集まった。
鉄剣だ。
目をパチパチとさせながら、ツルハはその剣をそっと手に取る。
「…………」
ツルハは、後ろ足で顔を掻くその動物と鉄剣を交互に何度か見つめた。
「……これ、まさか」
ツルハがそれを察すると、同じように目を点にしていたファイガから「すげえ……」と声が漏れた。
ツルハはそれを確信した瞬間、思わずその小動物を抱え上げ、頬にくっつけた。
「ありがとう! キュウちゃん!」
「きゅ、キュウちゃん……!?」
ファイガの声に答えることも忘れ、ツルハは嬉しそうに戸惑った顔をしたその動物を頬でさすった。
「凄い、凄いよ! キュウちゃん、転移魔法が使えるんだね!」
「お、おい。そいつ、大丈夫なのか? まさか魔物なんじゃ」
ファイガが恐る恐る指を差しながら言うと、ツルハは首を横に振った。
「そうだったとしても、キュウちゃんは悪い魔物じゃないよ。ずっと一緒だったけど、襲って来ることもなかったし、こうして剣を持ってきてくれたんだもん」
ツルハの様子にファイガは、やれやれ、と頭を掻いた。
「しかし、転移魔法が使えるということは、ツルハさん、わざわざあの取っ手を辿って来る必要はなかったのでは……」
フサンがその一言を言うと、一瞬時間が止まったように場が凍り付いた。
ツルハはキョトンとした顔をすると、すぐにそのキツネ顔に向き直り、
「そ、そうだよ! 私、あんな思いしてまで渡る必要なかったじゃない!」
ツルハがそう言うと、小動物はプイと顔を横に向けた。
「まあ良かったじゃねェか。剣もこうして手放さず持っていくことができるんだから。
さあ、さっさと先に行こうぜ」




