第参拾参話
「戻る」んだか「落ちる」んだか、よくわからいまま風に纏わりつかれていい加減飽きてきちゃってるとこへ、映画かドラマみたいに紙切れが飛んできて顔にパサッと貼り付く。あぁ、このパターンは……お知らせ、だわ。にしても随分と久しぶりね……。
高知県土佐市蟹ヶ池を始めとする四国沿岸の湖沼の底に折り重なる地層を解析した結果、1707年の宝永地震の津波に由来する堆積物を遥かに超える厚さの砂層がおよそ2000年前の年代層から見つかったのは2000年代の初頭だった。政府が想定している南海トラフ地震の最大マグニチュード9に相当し、およそ300〜400年周期で確認されている宝永型地震の堆積物の、実に数倍に及ぶ厚さの砂層の存在は、研究者間では話題となり、メディアでも取り上げられたものの、その後の東日本大震災や局地的な震災の数々にかき消され、いつしか消えていった。
内陸直下型として世界史上最大規模として知られる濃尾地震(M8.0)が、教科書の片隅に追いやられたように、あるいは震度7クラスの揺れが10分間継続し、当時400万市民を抱えていた一国の首都が、その3%を喪う関東大震災が、9月1日の風物詩と化したように、またかつてその危機が声高に叫ばれていた「東海地震」が、いつしか死語となったように。毎年のように数多の火山や風水害に見舞われる、世界でも有数の災害大国であるこの列島においては、たった100年前のイベントですら霞んでしまう。
ましてや2000年前の出来事など、とても現実として想起できるものではなかった。世界史上もっとも長く続く単一王朝国家であるにも関わらず、幾多の天災や戦乱に見舞われ、史料は散逸し、伝承は途絶え、口伝は風化していった。その痕跡の多くは京都や奈良といった古都に比較的多く遺されたが、そもそもなぜ、この時期、この地に大和朝廷が開かれたのか、また、弥生時代後期から古墳時代にかけ、集落の形態や土器・銅器の様式、統治体制までもがダイナミックに変動したのは何故なのか、本当の意味で捉えることができた考察が存在しなかったことも確かである。
かつてハインリッヒ・エドムント・ナウマンが提唱した中央構造線は、実際には奈良県五條市付近で2つに分かれており、奈良から京都を抜け、大津より琵琶湖に潜り、敦賀から日本海へ抜ける分岐地溝帯を形成しているが、2000年の時を経て動き出した龍は、そのようなヒトが定義する些末な軛など意にも介さず存分に荒れ狂った。
その「出来事」は新潟の沖合50km、最上トラフから始まった。日本海の底を秒速2.8kmという凄まじい速さで這い回った断層破壊は、両津湾から佐渡島へ上がり、国中平野を文字通り引き裂き、真野湾から再び海に潜った。富山深海長谷を東西に切り裂き、七尾港から中能登へと上がり、邑知潟平野を文字通り押し広げて日本海へ抜け、南西に転じて石川県のはるか沖合を巡って、越前海岸沖から南東へと周り込み、敦賀半島の先端を貫いて若狭湾へ侵入、そこから一気に琵琶湖底を翔け、大津から京都、奈良と至りようやく件の「中央構造線」へとりつき、和歌山から海を渡って徳島市、新居浜市、松山市の直下を抜け、伊方町から再び海を渡って大分市、阿蘇山、熊本市に至った。
阪神や熊本、能登で起きた大地震の震源域の南側を繋ぐ総延長1000kmに及ぶ大破壊は、プレート間で起きる巨大地震としては2004年のスマトラ島沖地震のそれに匹敵する規模のものであったが、その大部分が未知のプレート境界、しかも陸域で起きた特異な地震であり、北陸から九州へ至る広大なエリアを震度7で揺さぶり、世界有数の近代国家を存亡の淵へと追いやった「イベント」の発端として後世に伝えられることとなった。
先の局地地震で躯体が一部損壊していた日本原電の敦賀発電所に加え、四国電力の伊方発電所までもが激震に襲われ、廃炉措置中の1・2号機はもとより、稼働中の3号機まで一部損傷、外部電源喪失という事態に至り、必死の復旧・冷却作業が始まったそのわずか数分後、今度は静岡県沖の駿河湾から新たな断層破壊が始まった。「南海トラフ大地震」と呼ばれ、想定されていた巨大地震が、考え得る最悪のタイミングで誘発されたのである……
って「お知らせ」急に見せられても、困っちゃうわよね、実際……。




