足元は暗く
「そういえばエドウィンは?」
今さら気づいたが、この街の誰かに何かあったのなら誰よりも先に駆けつけそうなあいつの姿が見えない。双子と一緒にいるんだろうか。それともジャックを探してたりするんだろうか。今までの彼の雰囲気からそんなことを考えたのはそう不自然な流れではなかったと思うのだけれど、その答えは「どこにいるのかわからない」と微妙なものだった。
兄貴分のくせに、肝心な時に役立たずなヤツ。
冷めた心のうちでそう呟いてしまってからはっとする。どうして今のわたしはこうも攻撃的なことしか考えられないのだろう。まるで荊棘にでもなった気分だ。わたしはこんなに歪んだ目でしか周りを見ることができなかっただろうか? もう、自分がどんな人間だったかもわからなくなりそうだった。
自己嫌悪の渦に揉まれながら、ふとぐずぐずに泣き崩れるエドウィンと路地裏で出会ったことを思い出す。
そういえば、泣いていたなあ。袖をぐしゃぐしゃに濡らしながら、潰れてない片目からぼろぼろ雫を落として、膝に顔を埋めて、泣き叫ぶことも出来ずに引きつった嗚咽を漏らして。家族が。親友が。目を覚まさない自分に縋って「死ぬな」と泣いてくれたことを、どうして忘れていたんだと苦しそうに顔を覆いながら。
「……そうだ。わたし、エドウィンに会ったよ。ジャックのとこに行くって立ち上がってたけど、会ってないの?」
「えっ!? 来、て……ない……」
シャルロットは慌てたように震えてからそうっとスカートを握りしめた。尋ねてもないのに、ひとつひとつ確認するように、各駅停車の列車が一駅ずつ止まっては動き出すみたいに、順を追って話しだす。
わたしはじっとその終着点を待った。
「え、エドウィンの本を渡したの。そしたら一人になりたいって言って、だから私はーー違う、ジャックだわ。ジャックがここで待ってるからって言ったの。エドウィンを見送りながら、ここにいるからって。でもレベッカが来て、ジャックの本を見て、それで……——」
ジャックが腕を振るのと同時に現れた、布も肉もあたたかな絆すらも切り裂く銀色のナイフ。自分の身体に刺さったそれらを抜くときの、悲しいような苦しいような信じられないような、やるせなさに似たどうしようもない感情を思い出し、シャルロットは静かに青ざめた。……ことなんて、わたしは勿論知る由もなかった。彼女が自分の身体をきつく抱きしめたのだって、ジャックかエドウィンへの愛情か、もしくはそれらが屈折した何かだと解釈する。
シャルロットは俯かなかった。
「……それで、ジャックは、どこかに行っちゃったの。そのあとアイザックとエティを連れて部屋に戻って、わたしはエドウィンのところに行こうと思って、でもエドウィンは入ってったはずの路地にいなくて」
「すれ違っちゃったってこと?」
「多分……多分、そう……」
「わたしが会った時点のエドウィンは知らなかったと思うよ、ジャックの本のこと。あのまま元いた場所に戻ったとしたら見ちゃったかもね」
わたしは少し顎をあげて目線もあげて、もう一度ぐるりとジャックの起こした「惨状」を見渡した。
ここで待っていると言ったのに。実の弟のように愛しいあの子が、ここにいるからとそう言ったのに。
通り魔なんかに踏み散らかされ引き千切られた自分の人生を目の当たりにして、二度と会えない家族を思い出して、どろどろになってしまいそうなほどに泣き崩れて。それでも真っ赤になった目をこすってふらつく足で立ち上がって、あの子に格好悪いところは見せられないと、必死に笑顔を作って戻ったこの場所には誰もいなくて。
信じられない惨劇の跡が残っているだけで。
もしかしたらエドウィンはシャルロットよりも深い、絶望のような悲しみの底にいるのかもしれない。そう考えてしまったのはわたしだけではなかったようで、シャルロットは小さく震えていた。彼女をそうさせたのは、ジャックへの慈しみとはきっとまた別のベクトルのものなのだろう。
「すぐ、すぐだったんだよ。あの子たちを部屋に連れてったの。すぐ戻ってきたのにいないから、エドウィン、どっかに行っちゃったんだと思ったのに、私たちが置いてっちゃったんだ。待ってるねって言ったのに、ちゃんと待っててあげられなかった。どうしよう。どうしよう、アリス」
また口調が崩れてる、とわたしは案外冷静に思った。
いつものお姉さん口調は無理しているのではなくて、恐らく彼女にとってごくごく自然に身についた背伸びの形なのだろう。それなら今のこの話し方は、地面にへたりこんで両手で目をこすって泣いている姿に違いない。
わたしがそんな彼女を見て慌てなかったのは、わたしの中で、彼女にかけるべき言葉が既に決まっていたからだと思う。わたしはそっと彼女の背中を撫でた。
「誰もシャルロットのこと責めないよ。エドウィンのこと、探してあげたら」
シャルロットは顔を上げた。一生懸命唇を噛む彼女の瞳にはまた涙が溜まっていて、頷いた勢いでぼろぼろとこぼれた。くるりと振り返って走り出した拍子に足がもつれて勢いよく転んで、それでもわたしが「大丈夫?」と言い終わる前に「へいき!」と立ち上がって今度こそ走って行ってしまった。わたしにはシャルロットの走っていったその軌跡が光の粉でも振りまいたかのようにキラキラと輝いて見えて、羨慕のような何かを感じたのが悔しかったのだろうか、なんとなく煙を払うような動作をしてしまった。
◆
なんだか今のわたしは情緒不安定だ。浮き沈みが激しい。うっかりエドウィンを役立たず扱いしてしまったのが荒みきった沈んだ状態だとしたら、今はちょっと浮上気味だ。
シャルロットの優しさに影響されたのかもしれない。情けない話だけれど。
余裕のある今のわたしは、シャルロットが部屋に連れ戻したというアイザックとエティのことが少し心配になっていた。
「居場所、聞いとけばよかった」
エドウィンのことで取り乱していたあの状況に戻ったとして、聞くタイミングがあったかと言えば微妙だけれど、近くの家を見て回っても双子の姿が見えない。案外遠くに連れて行ったのか、それともあの子たちがどこかへ行ってしまったのか、その判断ができないことが少し不安だった。エドウィンとはすれ違ってしまったようだから、余計に。
名前を呼んでも返事がない。ドアを開けても姿がない。今このタイミングで彼らを探しても無駄なんだろうか。そんなことを考えながら鍵のかかったドアをがちゃがちゃ鳴らしていたら、ボグッと変な音がしてノブの内側が浮いた。
どうやら中の鍵の機械が外れたらしく、ドアノブはくるくると何回転でもできるようになってしまう。
やば、壊しちゃった。そう思いながらそうっとドアを押すと、それは何百年も閉ざされていたような音を立てて開いた。
薄暗いその中に踏み出した瞬間、ぬるっとした質量のあるものの感触が靴下ごしの足裏に伝わる。驚いて飛び下がるとそれは、つぶれたパンプキンパイだった。
「……うわあ」
肌を粟立たせる不快感に、思わず顔をしかめてしまう。靴下が一瞬でぐじゅぐじゅになってしまった。気持ち悪い。
わたしはドアを大きく開け放って光を取り込み、中を見渡してみた。扉の向こうの薄暗がりは月明かりを受けて淡くその姿をあらわにする。細い廊下だ。そして、そのそこかしこにパイやケーキやゼリーやクッキーや、あらゆるお菓子が打ち捨てられていた。
わたしはクリームで濡れた足裏を石畳の玄関になすりつけながら、街の塀の外に落としたパンプスのことを考えていた。
ハイヒールはその昔、道端に捨てられる汚物を踏まないように開発されたものだとどこかで聞いたことがある。ああ、その気持ち、わかったかも。そう考えてから少し遅れて悲しくなった。
誰かが作ったおいしいお菓子も、こんな姿では口にするどころか可愛らしい見た目を愛でることすらできない。ただのゴミだ。
わたしは溜息を呑み込みながら足を踏み出した。この明らかな異質の先にきっと何かがあるのだろう。
靴下ごしのぬるりぬるりとした感触への不快感と食べ物を踏みつける罪悪感が、腕に絡みついてわたしを引きとめるような錯覚に気づかないふりをしながら、薄暗い廊下の先にあるドアにわたしは手をかけた。




