halt
わたしは裁判の制度を知らない。いや、知ってはいるけれどわたしはただの子供で別に法律に詳しいわけじゃないし、テレビで見たあの人この人あの犯罪者が報道のあとにどうなったのかなんて、ニュースの続きがない限り知ろうとも思わない。
無罪? 有罪? 知らない、そんなものは言葉としてしか。どんな人が死刑になって何があって免責になるかなんて。私は、何も。
シャルロットの言葉を聞いて、私はそんなことを考えていた。
許したいだなんて——考えてもみなかった。
「……どうして?」
「えっ……」
「どうしてそんなこと言えるの? わたし……シャルロットのお父さんとはわけが違うと思うな。ジャックは無差別だよ? なんの関係もない人を殺して、それって許されるのかな。
遺された人はどう思うの?」
言いながら、少しいじわるなことを言ったかなと思った。
シャルロットのジャックへの愛情は自身の父に対するものとすごく似ているのだとわたしは本当はわかっていた。
きっと何があってもジャックの支えになりたいのだ、彼女は。家族への、無償の愛、みたいに。
いじわるなだけで、間違ったことを言ってしまったとは思わなかったけれど。
「……ジャックが最初に殺したのはジャックのお兄さんだったそうね」
生ぬるい風が吹き抜ける中、長い長い間の後にシャルロットは言った。水の枯れたはずの噴水から雫の滴る音がする。
「お菓子をくれなかったからって、私がお父さんを殺すかしら。エティがアイザックを殺すかしら。少なくともジャックは、この"街"では、そんなことはしなかった。
ジャックは悪くないなんてまだ言えないけれど……どうしてそんなことをしたのか知らないままじゃ……」
シャルロットはスカートを押さえながらそっと膝を折り、ぶちまけられた地面のペンキに触れた。かぴかぴに乾いてひび割れたそれは、軽く触れただけで脆く崩れる。
粉々になった赤黒いものが指先にはりつくのに気付いているのかいないのか、シャルロットはペンキを引っ掻くように撫で手のひらに爪を立てた。
「どうして……こんなことを」
「……知らないよ」
「私も知らないわ。アイザックもエティも、きっとエドウィンも知らない。レベッカだって知らなかった。知ってるとしたらジャック本人と——あの本だけ」
あの本。
が、どの本のことだかは、言うまでもなかった。
「ああ……そうだよね。読んだんだよね。立ち入り禁止の書庫があるのは知ってる?」
「ええ。アイザックとエティが見つけたの。ジャックの本はそこにはなくて、レベッカが持ってたんだけどね」
付け足されたその一言で、ごわ、と心がささくれ立つ。
その名前はもはや『ジャック・ザ・リッパー』よりも聞きたくなかった。
「そういえば……あの本、レベッカが持ってっちゃったのかしら。持ってきたのはレベッカだったのだけど、その後どうしたか、内容に気を取られて慌てちゃって、全然……」
「——レベッカが持ってきたんだ、ジャックの本」
私はわざとあのカボチャ頭を名前で呼んだ。
『ベッキー』は……あいつの為の愛称じゃない。
そんな些細な拒絶にシャルロットは気付かなかったようで、彼女は口元に手を当てながら「そうなのよ」と呟いた。
「そう、そうよね、アリスは見てないのよね……」とも。
「ジャックの本、明らかに私たちのと違ったわ。表紙がずたずたに破れてボロボロで、外れそうなページだってあった。レベッカ、ジャックの本、投げたのよ。それでも勝手に開いてめくれて、誰も触ってないのにペンキがジャックの物語を描いて……」
ひとつひとつ思い出し整理しながら話すシャルロットを見つめながら、わたしはわりとどうでもいいところに笑っていた。え、あいつ、人の本投げたの。乱暴だなあ。
自分のことはごっそり棚にあげてるなんて気付きもせず、一人でつぼにはまっていたら、真剣な顔をしていたシャルロットに訝しげな視線を送られた。わたしは咳をするふりをして顔を引き締める。
ごめん、続けて。
「……私の本は私が生まれてから死ぬまでだったわ。ほかの子のもそうよ。でもジャックは『そこだけ』だったの。生まれたときの話とか普段の話とか、全然なかった」
「ペンキで表現されてたのが『そこだけ』なだけで、ってことは?」
「わからない。けどページが抜けてたのは確かなの。めくれ方、おかしかったもの」
「……」
シャルロットの表情は真剣だ。
わたしはと言えば、喉の奥をドロドロとした汚泥のようなものが流れていくような気がして、いっそわたしも泥になって流れて排水口にでも収まりたいとか、よくわからないことを考えていた。
どうしてそんな気持ちになるのかがわからなくて、わたしは破れかけた靴下越しに小石を踏みつける。一瞬鋭く裂くように、それからじんわりと広がる痛みがわたしを冷静にしてくれた。
肩の力が抜けていく。シャルロットが何を求めてるのか、さすがにどんなバカでもわかる。なのにこの気持ちはなんだろう。
ここまで聞いたのは彼女に協力してあげようと思ったから……じゃ、ないんだろうか。
自分でもよくわからなかった。よくわからないけれど何故か、何故だか、足元は不快感でぐちゃぐちゃだ。
「ページ、探してくればいいんでしょ」
冷たくならないように、とは言えとても暖かいとは言い難い声をかけると、シャルロットはぱあっと瞳を滲ませた。その表情は決して笑ったわけではないのに、彼女の安心が伝わってくる。
なんて感情表現豊かな子なのだろう。と、思った。
——助けて、くれるの?
なんて言葉を発しそうな彼女に、私は内心慌ててくぎを刺した。
「ごめんね」と。
「悪いけど……あんまり勘違いしないで。わたしシャルロットのことは嫌いじゃないよ。だから力になってもいい。けど、ジャックのことは、ここから帰るために捕まえないとくらいにしか思ってないの。あなたに同情はできるけど……共感はできない」
わたしって冷たいだろうか。そんなことを考えながら、「ページだって、わたしが帰るために役に立つかも、しれないから……」と言い訳みたいに付け足した。
そんな宙に放ったような不恰好な言葉に、シャルロットは泣きそうな顔で微笑みながら首をふった。
「ありがとう。十分だわ。嬉しすぎるくらいだわ。ほんとにほんとにありがとう」
シャルロットは両手でごしごしと涙ぐんだ目をこすり、ばっと立ち上がってスカートの砂を払う。まだほんの少し涙の滲んだコバルトブルーの瞳と、への字に結んだ口と、逆ハの字の眉。
あまりにも眩しくて……目を逸らした。
シャルロット。ごめんね。わたしがあなたを「好きだ」と言えなかったの、そこだよ。あなたを見てると、いつからこんなに醜くなったんだろうって自分のことが嫌になる。
わたしがあなたに心から親切にできないのはジャックが嫌いだからなんて、そんなのは建前だよ。だって。じゃあ大好きな人に対してならあなたみたいになれるのかって。
そんなことは。
考えたくなくて。
心の中に死んだ魚のように浮かぶ、途切れ途切れの独白のような言葉の隙間に、どうしてか顔を思い出せない幼なじみの姿が滲む。
大好きな大好きな彼女のためなら、わたしは、なにもかもを放って奔走できるのだろうか。




