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Jack・×・××××


 昔々あるところに、ジャックという名前の男の子がいました。


 ジャックの家族はおとうさんとおかあさん、それと年の近いおにいちゃんがいました。

 そのおにいちゃんと、ある日ジャックはケンカになりました。おにいちゃんがお菓子をわけてくれないのです。

 悔しくなったジャックは、キッチンにあったナイフでおにいちゃんの喉を裂いて殺してしまいました。

 飛んできたおかあさんも悲鳴がうるさいので殺しました。

 子供でも案外殺せるものだと喜びましたが、おとうさんには勝てなかったので逃げ出しました。


 ジャックはのんびりと街をまわって道行く人を切りつけて遊びましたが、次の朝、誰かに頭を撃ち抜かれて死んでいるのが見つかりましたとさ。


 “Jack・the・Ripper”と題された黒髪の少年が主人公のその本は、そんな内容だった。


 カチャリ、とマフラーの下で鎖が鳴る。『街』が枷から手を放したのだと理解したが、それを喜ぶ(いとま)などなかった。地面に両手をつき跪くように項垂れる。

 レベッカが投げ捨てた本は地面に転がるとひとりでにページが捲れ、その内容に沿って街の壁に石畳に並木に街灯に絵と文が書かれ描かれていった。

 書き手は見えなかった。しかし、ひとりでに赤黒いペンキが弾けて散って引き摺られていくその様は、まるで凄惨な何かをそのまま映し出すようで。


 震える拳を握りしめることも忘れ、ジャックはただただ絶望に浸される。

 ――ああ。ああ。知られてしまった。

 嘆く余裕すら、なかった。



 しかし、呆けてしまったのはジャックだけではなかった。シャルロットも、アイザックも、エティも。皆が呆然と立ち竦む中、レベッカがすたすたと歩を進めて本を拾う。

 ぱんぱんと表紙の砂を払ってから閉じるが、壁に描かれた『切り裂きジャック』の物語は消えない。

 消えなかった。


「わかったでしょ?」


 レベッカは淡々と、自分に言い聞かせるように呟いた。


「都合が悪いの。みんながジャックの過去を知るのもみんながみんなの過去を思い出すのも、アリスがこの街にいるのも。

 だってみんなは殺された側だけどジャックは殺した側だもん。

 殺されたなんて思い出すのは、自分が誰かを殺したことがあるって知られるのは、ジャックにとって都合が悪いの。だから隠されて消されてたの。――そうでしょ、管理人」


 壊れてなお弱々しく灯っていた街灯たちが、誰かに息を吹きかけられたようにふっと消える。

 砕けた街路に噴水、今にも崩れそうな家々、ひび割れた石畳。


 街は崩壊したのだ。

 住民も管理人も含めてすべて、すべて。




「うそでしょ」


 ようやく、ぽつりと呟いたのはアイザックだった。


「うそでしょ、ジャック、ひと殺しなんかしないでしょ。おれ知ってるよ? ジャックやさしいんだよね。い、いつもおれたちにお菓子、もってきてくれるもんね」


 言いながら、アイザックは自分の声がこんなにも弱々しいものだと初めて知った。細くて震えていて、触れば折れてしまいそうな程に頼りない。それでも彼は、必死に言葉を紡ぐ。


「ほら……あのね、レベッカがね、間違えちゃったんだよ、きっと。ね。きっとそうだよ。エティもそうおもうでしょ?」

「…………」

「……エティ? な、なんで黙ってるの、ねえ。エティもおれといっしょでしょ? ジャックのこと、すきでしょ?」


 何も言わないエティの両手を縋るように握ってアイザックは言う。

 彼は狼狽していた。いつもなんでも二人一緒にやってきた妹が賛同してくれないことに。意見が食い違ってケンカになることは今まで数え切れないほどあった。それでも、心の奥の一番大切なところは共通していると思っていたのに。それなのに。


「ねえ、エティ」


 顔をくしゃくしゃに歪め、泣きそうな声で絞り出す。自分と同じ藍色の瞳を、エティはようやく顔を上げて見つめた。


「……あのね……」


 緩くむすんでいた口を小さく開く。

 エティは普段から口数の少ない子供だった。シャルロットが笑いかけても、エドウィンが遊ぼうと手を広げても、黙ってアイザックのもとへ行ってしまう。何故なら彼女は恥ずかしがりだから。一緒に遊んで、そんな言葉を兄に託すようにはにかみながらアイザックの手を握る。けれど、今は、違った。

 いつものような照れたような微笑みではなく、何も感じていないような――否、何もかも考えることを拒絶するような無表情で、ぽつりぽつりと、やがて饒舌に喋り出した。


「アイザック、あのね……アイザックは、しらないでしょう。わたしより先にしんだから……しんだあと、アイザックがどうなったか、しらないでしょう……。動かなくなったあとね、へんなにおいがするんだよ」

「えっ……?」

「それでね、だんだんかたくなるの。人形みたいになるのね。それでどっかからか虫がいっぱいくるの。それでアイザックを食べるの。わたしが追いはらってもどんどんきて、こんどはどんどんふにゃふにゃになってぐちゃっとして、きたない汁がでてきてね」

「エティ……な、なにいって」

「それでね。だんだんわからなくなるの。話しかけてもへんじしてくれないし、ほんとに『これ』がアイザックなのかなって。だってきもちわるいもん。アイザックはきもちわるくないのに、大すきなのに、きもちわるくて近づけなくて、さわれなくて、臭くて、ぐちゃぐちゃで――」

「――っ、エティ!!」


 耐え兼ねたアイザックが小さな手でエティの細い肩を掴む。

 その衝撃でエティは一歩だけ後ろによろけ、表情は変えないまま、すうっと涙を零した。


「しんじゃうって、そういうことでしょ。わたし、しってるの。全部みてたんだから。わたしね、アイザック。しってるんだよ」




 ――何を言っているのだろう。


 シャルロットは一瞬戸惑った。座り込み項垂れたまま顔を上げないジャックと、アイザック、エティと。今すぐどちらを支えるべきなのか。ジャックも双子も彼女にとっては同じくらい大切な家族、その点で優先順位などつけられない。

 本心では、今すぐジャックを問い質したかった。どうして私たちの本を隠していたの? レベッカの言う通りなの? どうしてこんなことになっているの? 私たちと一緒に笑ってたジャックは、嘘なの? 本当に――人殺しなの?


 しかし、迷ったのは一瞬。シャルロットは双子をまとめて抱きしめた。


「エティ、やめて。アイザックが泣いちゃうわ」


 ぎゅうううっとかたく目を瞑り、同時に二人を抱きしめる腕に力を入れる。少なくとも、幼いこの双子には砂の一粒ほども罪はない。

 渦を巻くような業を抱えているかもしれないジャックと違って。


「わたし、わたしはね、シャルロット……こわいの。しんじゃうのがこわいよ。もう見たくないよ。でも、ジャックはこわくないの? 誰かがしんでもいいの? しなせるのが、楽しいの……?」


 ぽろぽろと機械的に涙を零すエティにそう尋ねられ、シャルロットは閉ざしていた瞳を開いてジャックを見た。ジャックは視線が注がれるのを感じつつも、顔を上げない。怖くて上げることができなかった。

 みんなが僕を見てる。どんな顔で見てるんだろう。軽蔑? 絶望? それとも――


 ――――……憎悪だろうか。


「ジャック、ほらエティが聞いてるよ。答えてあげないの? ……全然聞いてないし」


 ぶらぶらと両手を弄びながら呆れたようにレベッカが言った。とんとんとジャックに歩み寄ると、黒い手で彼の顔を包む。

 顔を上げさせられたジャックが目にしたのは、軽蔑でも絶望でも憎悪でもない、彼に一握りの興味も持っていないような、ふざけた無表情の被り物だった。


「アリスはどこ?」


 何もかも焼き尽くすような業火ではなく、熱く熱されてどろりとした鉄のようなもの。そんな何かを胸の内に押し付けられるのを感じながら、ジャックはゆるゆると首を横に振った。カボチャ頭の少女をまっすぐに――それ以外に目を向けられなくなってしまったかのようにまっすぐに見つめたまま。何も言わずに。

 レベッカは無言で乱暴にジャックを突き放すと、立ち上がりながら振り返る。

 視線の先にはシャルロットの胸に顔を埋めるエティと、同じくシャルロットの腕の中から張り裂けそうな顔をしているアイザックと、自らの不安を押し殺して口を真一文字に結ぶシャルロット。


「じゃあね」


 さよならに似たその言葉を三人に投げかけ、レベッカは踵を返した。




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