第一章:【三年前の『またね!』】
「またね!また会おう優くん!」
あの言葉が、三年経った今でも耳に残っている。忘れようとしたことは何度もあった。けれど、忘れられたことは一度もない。あれは中三の夏だった。
「ねぇ優くん。ちょっと話があるんだけど……」
校舎裏。蝉の声がうるさいほど響いていた。
「なんだよ。もしかして、とうとう愛の告白とかか?」
軽口のつもりだった。
いつもみたいに、笑って終わると思っていた。けれど白鳥凪は、ほんの少しだけ目を伏せてから言った。
「……そうだよ」
一瞬、間が止まった気がした。『どうせ冗談のはずだろ?』とそう思うのに、心臓だけがやけにうるさい。
「どうしたんだよ…急に」
「いや、多分もう言えないと思ったから言っとこうかなって」
「どういうことだ?」
凪はぎこちなく笑った。
「私、親の仕事の都合である遠い島に行くことになったの」
「…いつ」
俺は少し嫌な予感がした。こういう時の予感は大抵当たってしまう。すると彼女は弱々しい声で言った。
「明日…」
凪の声が、急に遠くなった。凪の「明日」という言葉だけが、やけに鮮明に残った。つい三日前まで一緒にアイスを食べて、くだらない話で笑っていたのに……
「だからね、最後に会っておきたかったの。大好きな人に」
胸の奥が、きゅッと締めつけられる
「なんで言わなかったんだよ…」
視界が滲む。悟られないように顔を背けた。
「私も今知ったの。だから……最後に一言わせて」
真っ直ぐな目だった。逃げ場なんてなかった。
「優くんが好きです。」
顔が熱い。まともに見られない。
「それだけだから、じゃあね」
そう言って凪はこの場を去ろうとした。
「待て!」
俺は思わず凪の腕を掴んでいた。頭で考えるより先に手が動いてしまっていたのだ。
「俺も言わなくちゃいけないことがある!」
「どうしたの?」
凪は困惑した顔で言った。
「俺も……好きだ」
やばい、自分で言っててとても恥ずかしい。顔が真っ赤なんじゃないかと思うくらいには、顔がとても熱かった。
「ま、まぁそこでな。はいこれ」
ポケットから走り書きのメモを押しつける。
「なにこれ?」
「俺の電話番号とメールアドレスだ。これで離れても連絡し合えるだろう」
凪は泣きながら笑った。
「……うん、ありがとう」
そしてあの言葉を残して去っていった。
「またね!また会う優くん!」
「あぁ、またな。」
強がった。けれど、帰り道で一人になった瞬間、涙が止まらなかった。
それから三年。連絡は続いた。最初の一年は、ほぼ毎日。二年目に何度か。三年目の春、既読がつかなくなった。理由は分からない。聞く勇気もなかった。高三の夏、受験勉強に追われながらも、スマホの通知音に無駄に反応する自分が情けなかった。
それでも、どこかで信じていた。また会えると。
「おーい華野」
後ろからきた金色の髪をした少女、神谷零。中学からの腐れ縁だ。
「今日転校生来るらしいぞ」
「へえ」
興味がないふりをした。零は一瞬だけ、俺の顔をじっと見た。
「……まだ引きずってんのか?」
「は?」
「白鳥凪」
心臓が跳ねる。
「別に」
即答した。零は小さくため息をついた。
「お前、嘘つくとき目逸らすよな」
何も言い返せなかった。
ホームルーム。
「今日から転校生が来ます」
クラスのみんなが騒ぐ中、俺の鼓動がやけに早い。
「入ってくれ」
扉が開く音。
ゆっくりと教室に入ってきたその姿を見た瞬間、呼吸が止まった。
「白鳥凪です。よろしくお願いします」
三年前より少し大人びた声。けれど、間違えるはずがない。あの日と同じ笑顔だった。
「え……」
世界が、もう一度動き出した。だが声をかける勇気は出なかった。
休み時間。零が俺の肩を叩く。
「声かけなくていいのか?」
「……何で?」
「三年待ったんだろ」
「うるさい。言われなくても行く」
俺は立ち上がった。凪の席に向かう。三年ぶりなのに、言葉が出てこない。
「……久しぶり」
やっと出た声は、情けないほどに小さな声だった。凪はゆっくりこちらを見た。俺の知らない目をしていた。
「うん。久しぶり、優くん」
"優くん"。その呼び名に胸が痛む。
「連絡……」
凪は視線を落とす。
「ごめんね」
その一言が、三年分の距離みたいだった。
「島、結構大変だったんだよ」
笑っている。
でも指先が、ぎゅっとスカートを握っている。
「あとね……向こうで、付き合ってた人もいたんだ」
頭が真っ白になる。
三年間、俺だけが止まっていたのか。
「……そうなんだ」
自分の声が、驚くほど平坦だった。凪が急に顔をしかめる。
「嘘だよ」
「え?」
「そんな顔すると思わなかったから」
その声は震えていた。
「優くんのこと、忘れたことなんてない」
胸の奥が、熱くなる。
「本当にごめん。連絡できなかったのは……怖かったから」
「何が」
「優くんが、前に進んでたらって思ったら」
三年止まっていたのは、俺だけじゃなかった。沈黙の向こうで、零が静かに視線を逸らしていた。
「……また、これからよろしくね。優くん」
凪が微笑む。
俺は、やっと息を吸えた。
「ああ。今度は、ちゃんと離さない」
蝉の声が、三年前と同じように鳴いていた。
でも今度は、世界は止まらなかった。




