第九十二話 かつて敵同士だった兵士たちが、同じ畑を耕していた
水路の堰が壊れ、国境の両側で春まきの畑が干上がりかけた。
水門の上で対立する二人の退役兵のうち、王国側のベルクは左腕に古い傷があった。
帝国側のイーザは、その傷をつけた部隊にいたと打ち明けた。
ベルクは鍬を握り直した。
『謝れば水が流れるのか』
『流れない。
だから掘る』とイーザは答えた。
シリウスは二人に握手を求めなかった。
必要なのは和解の儀式ではなく、明日の苗に水を届ける仕事だった。
工兵は堰を一度壊す必要があると言った。
村人たちは水が全部失われると恐れた。
シリウスは仮の水路を先に掘り、失敗した場合の戻し方まで示した。
古い測量図と実際の水位が一致せず、戦時中の仮設土嚢が水をせき止めていた。
水が通ると子供が裸足で走り出した。
泥をはねられた二人の退役兵は怒る代わりに顔を見合わせて笑った。
古い堰を壊せば下流の畑が一時的に干上がる。
工兵は最短の工程を示したが、村の女たちは種まきの日程を指して反対した。
そこで水位を測り直し、上流に仮の水路を通す。
土嚢を運ぶ者、流量を測る者、危険を知らせる者を両国から選び、作業の中止を決める権限も現場に渡した。
シリウスは剣ではなく木杭を持ち、最初の一本を泥に打った。
机上で正しかった工程は、農民の手でようやく使える計画になった。
シリウスは軍用工兵を招いたが指揮を村人に譲り、作業日数と取水量を公開した。
かつて互いを狙った二人の弓兵が、泥の中で一本の杭を支え合った。
水の分配を兵の命令ではなく、村々の合議で決める規約を作った。
最初の水が双方の畑に同時に流れ込んだ。
三日目の朝、仮水路の下流で土手が崩れた。
誰かが手を抜いたという噂が走り、ベルクはイーザをにらんだ。
イーザは弁解せず、崩れた土を掌に載せて見せた。
乾いた砂が多い。
「昨日、上流の古い土嚢をほどいた時に混じったんだ。俺の見落としだ」
ベルクは鍬を投げ捨てた。
「責任を取ると言うなら、ここで一緒に積み直せ」
二人は膝まで泥に沈みながら、新しい土嚢を交互に運んだ。
作業を見守る農夫たちは、誰が水を多く取るかでもめ始めた。
王国側には小麦、帝国側には野菜が植えられている。
必要な時期も量も違った。
シリウスが軍の測量士に計算を命じると、年老いた農婦が首を振った。
「雨が降れば、その計算は変わるよ」
そこで両岸に水位板を立て、村人が毎朝記録し、七日ごとに取水の順番を見直すことにした。
読み書きのできない者には刻み目の数を教え、誰でも数字を確かめられるようにした。
昼、イーザが突然、ベルクに尋ねた。
「お前の腕を傷つけたのは俺かもしれない」
ベルクは水面を見つめたまま答えた。
「あの戦場では、誰が撃った矢かなんて分からない。だが、あの日から鍬を片手で握る癖がついた」
イーザは謝罪の言葉を探した。
ベルクは先に言った。
「今日の杭は、お前が支えろ。俺の腕じゃ足りない」
その夜、イーザは杭の番を引き受けた。
水路が完成した日、村の子供たちが流れに小さな木舟を浮かべた。
船は国境を示す古い石柱の脇を通り、どちらの畑にも止まらず下流へ消えた。
ベルクは笑わなかった。
ただ、イーザに乾いた布を一枚差し出した。
「風邪を引くぞ」
イーザは受け取り、初めて相手の名前を呼んだ。
シリウスは祝賀の宴を断り、二人の村長に水路の鍵と帳簿を渡した。
兵が去った後も水が流れることが、何よりの完成だった。
夕刻、仮水路に最初の水が走った。
ベルクは流れに手を入れ、泥の底を探った。
水が増えれば杭が抜ける。
イーザは黙って反対側から支えた。
二人は互いの顔を見ないまま一本の杭を押し込んだ。
翌朝、両岸の畑に同じ水が届いた。
村の子供は『どっちの国の水?』と尋ねた。
老人たちは答えられず、やがて一人が『畑の水だ』と言った。
堰の修復が半ばまで進んだころ、上流の村から使者が来た。
「水をこちらへ流せば、うちの畑が枯れます」
下流の村人たちは怒鳴った。
水は分ければ足りるというシリウスの計算は、雨が降ることを前提にしていた。
三日続く乾いた風で、その前提が崩れたのだ。
「俺たちはまた奪い合うのか」とベルクが呟いた。
イーザは泥だらけの手で図面を広げた。
「分け方を変えよう。夜間の流量を測っていない」
二人は夜明けまで堰に残り、木片を流して水位を記録した。
結果は厳しかった。
両岸の畑すべてを守る水はない。
シリウスは村人を集めた。
「作付けを一部減らす。種麦と井戸の水を優先し、減収した家には共同倉から補填する。損を誰か一人に押しつけない」
「共同倉に十分な麦がなかったら?」
「そのときは私が帝都に不足を報告する。足りないことを隠すより先にだ」
ベルクはしばらく図面を見つめ、「あいつの畑だけは枯らしたくない」とイーザを指した。
イーザは笑わなかった。
「俺もだ」
二人が握手したわけではない。
ただ、互いの畑に必要な水量を同じ紙に書き始めた。
雨はその夜も降らなかった。
それでも堰の見張りは、二つの村から交代で立つことになった。
一週間後、堰の管理簿が両岸の集会所に掲げられた。
ベルクは字が苦手で、イーザに数字を読み上げさせた。
水が少ない日にはどちらの畑から順に我慢するか。
争いは消えなかったが、争い方が変わった。
鍬を振り上げる代わりに、二人は同じ帳面を指さした。
翌週、堰の近くに小さな掲示板が立った。
水位を記す当番は、王国と帝国から交互に選ばれる。
最初の当番になった少年は、敵国の数字の書き方を知らなかった。
ベルクは舌打ちして教えようとし、イーザに「お前の字の方が読めない」と笑われた。
村人たちは久しぶりに声を上げて笑った。
水不足は解決していない。
それでも、誰かを責める前に同じ数字を見る習慣が芽生えていた。
堰を直す途中、ベルクの古傷が痛み出した。
イーザが鍬を受け取ろうとすると、彼は手を振り払った。
『助けてもらう義理はない』
イーザは鍬を地面へ置いた。
『なら俺は向こう側を掘る。
水はどちらの畑にも流れる』
二人は別々に土を掘り、夕暮れに同じ水音を聞いた。
握手はなかった。
それでも翌朝、ベルクはイーザの分の水筒を置いていた。
堰の修理から三日後、夜半の雨で仮水路が崩れた。
最初に異変に気づいたのはベルクだった。
暗闇の中、土手の裂け目から水が畑へ噴き出している。
「帝国側の土嚢が足りなかったんだ!」
駆けつけた村人が叫ぶと、イーザは泥の中へ飛び込んだ。
「責任はあとで調べろ。今は苗が流れる!」
ベルクは一瞬だけ立ち尽くした。
敵兵だった男の背中を見て、古傷が熱を持つ。
助ければ過去を許したことになるのか。
そう考えた自分に腹が立った。
「綱を持ってこい!」
ベルクは叫び、片腕で杭を支えた。
イーザが土嚢を積み、村の若者が綱を引く。
夜明けまでに水は止まったが、二枚の畑は泥をかぶった。
翌朝の集会で、ベルクは仮水路の図面を机に広げた。
「俺が水位を一目盛り低く読んだ。帝国側だけの失敗じゃない」
イーザも続けた。
「俺はその数字を確かめなかった」
二人の告白に村人たちは騒然とした。
罰を求める声もあった。
シリウスは修理費を誰が負担するか、村の代表に決めてもらった。
両国の共同基金から先に種を配り、調査が終わってから負担を分ける案が採用された。
ベルクは会議の帰りにイーザへ言った。
「次から数字を二人で読む。お前の字は汚いからな」
「お前の目も節穴だ」
笑い声は小さかった。
だが二人は、同じ図面を持って再び堰へ向かった。
雨上がり、村の集会所には補修費の帳簿が置かれた。
ベルクは自分の失敗を記した行に署名した。
イーザも隣に名を書いた。
「これで仲直りだと思うなよ」
ベルクが言うと、イーザは肩をすくめた。
「思わない。俺たちは明日も水位を測るだけだ」
村の少年が二人に尋ねた。
「戦争になったら、また撃ち合うの?」
答えられないまま、ベルクは少年の手から測量棒を受け取った。
「だから、戦争にしないための仕事を覚えろ」
シリウスは水路の維持費を軍の臨時予算ではなく、両村の共同会計に移す書類に署名した。
英雄が去っても、水は毎朝流れなければならない。
二人の元兵士は、同じ棒の両端を持って川へ歩き出した。
堰の修理を終えた二人は、作業代の配分でまた口論になった。
だが今度は互いの軍服を責めず、使った木材と働いた時間を数え直した。
和解は一度の握手では完成しない。
翌日の面倒な勘定を一緒にできるかどうかだった。




