第九十話 皇女エリシアは俺に、戦争のない時代を一緒に作ろうと言った
エリシアは和平条約の祝賀会を抜け、病院の窓から灯りを見た。
「平和になったと宣言しても、明日も傷の痛む人がいるのですね」
シリウスは頷いた。
「だから祝賀の予算を、退役兵の治療と学校にも回したい」
二人が交わした約束は、剣を置くことだけではなかった。
剣を置いた後の暮らしを、誰が支えるかという約束だった。
エリシアは窓の外の街道を指さした。
戦時には軍用馬車だけが通った道を、今は布を積んだ商人が進んでいる。
「平和になれば、何もしなくても人は戻ると思っていました」
「戻れない人もいます」
シリウスは、焼けた橋の修復予定と、行方不明者の照会名簿を机に置いた。
国境の通行許可が出ても、家族の消息を知らない者は旅に出られない。
エリシアは一枚の書類を手に取った。
王国側の印がなければ、帝国側だけでは照会できない。
「では、最初に両国で共通の窓口を作りましょう」
「軍人より、書記官が忙しくなりますね」
「それでよいのです」
彼女は笑ったが、すぐに真顔へ戻った。
「あなたが隣にいるから戦争がない、という時代では困ります。あなたがいなくても続く仕組みにしたい」
シリウスは、その願いこそ自分が守るべき未来だと思った。
エリシアが示した新しい街道の案は、戦死者を埋葬した丘を横切っていた。
「ここを通れば二日短縮できます」
技師の説明を聞いたシリウスは、丘を守る遺族の声を先に聞くよう求めた。
エリシアは設計図を引き直させた。
「平和のための道が、誰かの悲しみを踏みつけてはいけません」
庭園の木々には、戦場では聞けなかった鳥の声が満ちていた。
シリウスはエリシアに呼び止められ、石畳の道で足を止めた。
「戦争が終わったのに、あなたはまだ次の戦いを考えている顔です」
彼は苦笑した。
「敵のいない地図を見ることに、まだ慣れません」
エリシアは持っていた紙を広げた。
砦の跡に学校、兵糧倉庫に共同穀倉、国境の検問所に市場が描かれていた。
「理想だと思いますか」
エリシアが尋ねる。
シリウスは地図の隅にある小さな村の印を指さした。
「ここには橋がありません。冬に川が増水すると、子供は学校へ通えない」
彼女は驚いた後、笑った。
「だから、あなたに見てほしかったんです」
戦場で敵の退路を読み続けた目が、今度は子供の通学路を見ている。
シリウスは自分の変化に少し戸惑った。
シリウスは剣を置いた後の自分に何ができるのか迷っていた。
その言葉が軍議の空気を変えた。
エリシアは学校と穀倉、国境の共同市場を作る構想を打ち明けた。
ガイルは眉を上げた。
エリシアが差し出したのは、城の庭園を描いた絵ではなく、国境沿いの学校の設計図だった。
教室の半分は王国の子供、半分は帝国の子供が使う。
互いの言葉を学び、同じ机で算術を解く。
「仲良くしなさいと教えるだけでは足りません」と彼女は言った。
「同じ問題を一緒に解く経験が必要です」
シリウスは図面の端に小さな倉庫を描き足した。
「冬に食料が途切れたら、勉強どころじゃない」
二人は顔を見合わせて笑った。
戦場で地図を囲んだときとは違う笑いだった。
窓の向こうで鐘が鳴る。
あれは進軍の合図ではなく、授業の始まりを告げる鐘になるのだ。
「戦争が終わったのに、あなたはまだ戦場の顔をしています」
エリシアは夕暮れの庭園で言った。
シリウスは苦笑した。
「命令を出す仕事しか、覚えていないのかもしれません」
エリシアは一枚の地図を広げた。
砦の跡には学校、兵站倉庫には共同穀倉、検問所には市場が描かれていた。
「これを作るには、戦争を知っている人の知恵が必要です」
エリシアは、国境の両側から教師を招き、同じ教科書で歴史を教える案を語った。
シリウスは「同じ歴史でも、国によって覚えている痛みが違います」と言う。
「なら、両方の記録を載せましょう」
彼女の返事は早かった。
二人はベンチに腰掛け、地図の余白に必要な仕事を書き足していった。
井戸、診療所、橋、種麦の備蓄。
軍の作戦表に似ていたが、そこに敵軍の矢印はなかった。
「一緒に、戦争のない時代を作りませんか」
エリシアはまっすぐに言った。
シリウスは即答できなかった。
戦争が二度と起きないと約束することはできない。
けれど、起きにくくする努力なら続けられる。
「私にできるのは、失敗する可能性まで考えることです」
エリシアは頷いた。
「それなら、失敗してもやり直せる仕組みを一緒に作りましょう」
シリウスは初めて、剣を置いた先の未来をはっきりと思い描いた。
夕暮れの庭園でエリシアがシリウスを呼び止めた。
シリウスは兵の名を尋ね、礼を言った。
彼は期限を区切り、確かめる役目を割り振った。
十年前なら同じ判断をしただろうか。
答えは分からない。
ただ、いま守るべき命は目の前にあった。
シリウスは地図の上に指を置いた。
昔なら敵軍の進路を塞ぐ場所に、今度は人が行き交う橋を描く。
「無敗の大将軍には、難しい仕事ですね」
「ええ。だから、あなたに頼むのです」
エリシアは橋の建設予定地へシリウスを連れ出した。
そこにはまだ、戦時中に壊された橋脚が川面から突き出していた。
「この場所を初めて見た時、私は敵を渡らせない方法ばかり考えました」
シリウスが言うと、エリシアは川を見つめた。
「私は、逃げる人がどうやって渡るのかを考えていました」
同じ川を見て、二人は別のものを数えていたのだ。
エリシアは折り畳んだ紙を差し出した。
新しい橋の費用と、両岸の村が出せる資材の一覧だった。
「皇族の命令だけで作る橋にはしたくありません」
「ならば、両岸の村に設計を見せましょう」
「反対されたら?」
「直しましょう。橋は私たちの記念碑ではありません」
彼女はようやく笑った。
二人が目指すのは戦争のない時代だ。
だが、その時代を作るのは英雄の約束だけではない。
川を渡る一人ひとりの都合を聞き、何度でも図面を書き直す仕事だった。
エリシアは橋の印を指でなぞった。
「この橋ができたら、最初に渡るのは誰でしょう」
「たぶん、学校へ急ぐ子供でしょう」
シリウスが答えると、彼女は笑った。
戦争の地図に初めて描き加えたのは、敵を遮る線ではなく、人が会いに行くための道だった。
エリシアは学校予定地の隣に、小さな空白があるのを見つけた。
『ここは何ですか』
『戦死者の墓地です。
移転を望まない遺族がいます』
彼女は筆を止めた。
便利な道を引けば済むと思っていた。
シリウスは代案として川沿いの遠回りを示した。
『時間はかかります。
でも、誰かの記憶を踏みつけて作る平和にはしたくありません』
エリシアは図面に橋の位置を描き直した。
遠回りになった道を見て、工事官が予算超過を告げる。
彼女は祝賀式の装飾費を削る決裁書に署名した。
「平和を語るだけなら、今日の予算は変わりませんから」シリウスはその決定に、次の時代を任せられる理由を見た。




