第八十九話 俺は大将軍の地位を返上しようとした
大将軍の執務室には、戦勝を記念する新しい旗が飾られていた。
シリウスはその下で辞表を書いた。
戦争が終わっても、自分の名だけで軍が動く状態を残してはならない。
十年前、王国軍は一人の宰相の言葉で判断を誤った。
今度は英雄への信頼が、同じ盲点になるかもしれない。
彼は勲章を箱に収め、皇帝への謁見を申し出た。
「逃げるつもりか」
辞表を見たガイルの声は厳しかった。
シリウスは首を振る。
「軍を辞めれば責任が消えるとは思っていません。ただ、私がいなくても動く仕組みを作りたい」
彼は参謀学校の計画書を差し出した。
作戦案には必ず反対意見を添えること。
兵站の監査を軍人以外にも認めること。
戦時の特別権限には期限を設けること。
ガイルは一枚ずつ読み、最後に「お前らしい面倒な置き土産だ」と呟いた。
ガイルは戦争を終えた今こそシリウスが必要だと反対した。
その言葉が軍議の空気を変えた。
彼は軍を個人の名声に依存させないため、参謀教育と文民監督を提案した。
ガイルは眉を上げた。
辞表を受け取ったガイルは、読まずに机へ戻した。
「逃げるのか」
「戦争が終わった今、軍人が権力を持ち続けるべきではありません」
「なら後任を育てろ。お前一人で終わる仕組みなら、そもそも改革じゃない」
シリウスは返す言葉を失った。
彼が恐れていたのは権力そのものではなく、再び誰かの判断一つで兵士が死ぬ体制だった。
翌朝、辞表の代わりに提出したのは、軍の監査制度と文民による予算審査、将軍職の任期制を定める草案だった。
辞めることより、辞めても回る組織を作る方が難しい。
そのことを彼はようやく認めた。
シリウスは勲章を机に置き、皇帝に辞表を差し出した。
シリウスは兵の名を尋ね、礼を言った。
皇帝は辞表を受け取り、すぐには答えなかった。
「お前を失えば、帝国の軍は弱くなる」
シリウスは「私一人がいなくなるだけで弱くなる軍なら、まだ改革が足りません」と返した。
アレクシスはしばらく彼を見つめた後、辞表を机に置いた。
「では、改革が終わるまで残れと言えばどうする」
シリウスは苦笑する。
「終わりのない任務になりそうです」
皇帝は条件を出した。
常設の軍議制度を整え、後継者を育て、そのうえで改めて進退を決めること。
シリウスは一礼した。
辞表は受理されなかったが、彼の願いは退けられたわけでもない。
執務室を出ると、若い参謀が資料を抱えて待っていた。
シリウスはその中の一冊を渡す。
「明日の会議では、私の案の欠点を探してくれ」
青年は驚いた顔をしたが、やがて力強く頷いた。
彼は期限を区切り、確かめる役目を割り振った。
十年前なら同じ判断をしただろうか。
答えは分からない。
ただ、いま守るべき命は目の前にあった。
辞表を見たアレクシスは、机の上に置かれた軍の人事表を指した。
「お前が去った翌朝、誰が国境の判断を下す」
シリウスは後任候補の名を挙げた。
皇帝はさらに問うた。
「その者が間違えた時、誰が止める」
そこでシリウスは言葉に詰まった。
自分の後継者を選ぶことと、自分なしで動く制度を作ることは違う。
彼は翌週、若い士官たちに模擬の緊急会議を開かせた。
自分は最後列に座り、口を出さなかった。
最初の判断は遅れた。
次の判断では、報告を確認する係と住民の避難を考える係が自然に分かれた。
シリウスは記録に赤い印を付けた。
自分が命令するより時間がかかった。
辞表を受け取った皇帝アレクシスは、すぐには返事をしなかった。
「お前が退けば、国境で再び小競り合いが起きたとき、誰が止める」
シリウスは後任候補の名簿を示した。
「一人に任せるつもりはありません。軍議の記録を公開し、現場からの異議を受け付ける仕組みを作ります」
皇帝は名簿を閉じた。
「英雄の名で命令する方が早い」
シリウスは頷いた。
「早い判断が、正しいとは限りません」
皇帝は苦笑し、半年の引き継ぎ期間を条件に辞表の受理を保留した。
シリウスは不満を飲み込んだ。
責任を手放すにも、順序が必要だった。
だが、誰も一人の顔色を見て答えを決めなかった。
辞表を出す日は、その仕組みが定着してからにしようと決めた。
皇帝は辞表をその場では受け取らなかった。
「お前一人が辞めれば、仕組みは残るのか」
辞任を聞いた若い士官たちは、シリウスが責任から逃げるのではないかと問い詰めた。
「地位を手放せば責任も消える、とは思っていない」
彼は退任後も検証委員会で証言することを約束した。
士官たちは初めて、英雄がいなくなった後の指揮系統を自分たちで作り始めた。
参謀学校の準備会議では、若い教官が「敗北した作戦まで教えると、軍の威信が損なわれる」と反対した。
シリウスは古い戦況図を示した。
「失敗を隠した軍が、次に勝てると思うか」
教官は返答できなかった。
シリウスはその沈黙を責めず、授業の最初に学生から反対意見を募るよう提案した。
英雄の名が教室を支配しないための、小さな仕組みだった。
シリウスは答えられず、持参した制度案を机に置いた。
英雄が去る日を決める前に、英雄がいなくても判断できる軍を作る。
彼は辞表をいったん持ち帰り、改革の期限を書き込んだ。
参謀学校の若い教官候補が言った。
『将軍の作戦を教材にすれば、誰も反論しなくなるのでは』
シリウスは最初の授業に、自分が見落とした攻城塔の排水路を選んだ。
『正解を暗記させるのではありません。
私がなぜ間違えたかを議論してください』
辞職の準備は、失敗を公開するところから始まった。
辞表を持つシリウスに、若い士官が尋ねた。
「閣下が去れば、私たちは誰の作戦を信じればいいのですか」
シリウスは軍学校の試験問題を渡した。
自分が過去に選んだ撤退路を、あえて誤答の一つとして載せている。
「私を信じる必要はない。現場の数字と、隣にいる者の報告を確かめろ」
士官は答案を見て眉をひそめた。
「正解が二つあります」
シリウスは笑った。
「だから理由を書いてもらう」
辞表を受け取った皇帝は、後任候補の名を挙げるよう求めた。
シリウスは一人の英雄を指名せず、複数の将軍による審査と任期を提案した。
自分が去った後も軍が判断を誤らないこと。
それが辞職願に添えた唯一の条件だった。




