第百三話 和平記念祭で、二つの国旗が燃やされた
炎が上がったのは祝祭の歌が二番に入った時だった。
王国旗と帝国旗がほぼ同時に燃え、群衆は互いの側へ石を投げ始めた。
警備隊長ユーマは抜剣を求めたが、シリウスは水桶を運ぶ列と避難路を先に確保させた。
「火を消す前に人を踏み潰しては意味がない」
焼け跡の油は両方の旗竿に同じ量だけ塗られていた。
旗を燃やした者を捕らえた警備兵は、群衆の前で犯人を殴ろうとした。
ユーマはその腕を押さえた。
「ここで報復すれば、次に燃えるのは旗だけでは済まない」
犯人を守るためではなく、証言と証拠を失わないための判断だった。
見張り交代の記録と荷車の通行札を照合すると、祭りの資材搬入を請け負った元武器商人の倉庫へつながった。
雇い人は失業を恐れて騒動を起こしたと供述したが、誰が金を渡したかはまだ不明だった。
シリウスは疑いを事実として公表しないようユーマに命じた。
祭りの広場には、国旗を燃やした犯人をその場で処刑せよという声が渦巻いていた。
石を投げられた露店の娘が泣き、反対側では帝国兵の妻が夫の袖をつかんでいる。
シリウスは両国の警備兵を混成にせず、まずそれぞれの持ち場へ戻した。
緊張した者同士を無理に肩を並べさせれば、誤解から刃が抜かれる。
「犯人はどちらの国の者ですか」
記者に問われ、シリウスは「まだ分からない」と答えた。
断定を急ぐ者ほど、証拠を探さなくなる。
現場の見取り図を広げると、二本の旗竿は人混みを挟んで離れていた。
火をつけた時刻はほぼ同じ。
単独犯では難しい。
油を運んだ小瓶は同じ工房製だったが、それだけでは依頼主を特定できない。
シリウスはユーマに命じ、容疑者の供述を別々に記録させた。
取り調べで、若い職人が泣き出した。
「祭りが終われば、俺たちの武器工房は閉まる。父はあそこで三十年働いた。火事にすれば、また武器が売れると思った」
「誰にそう言われた」
青年は黙った。
背後にいる商人を恐れていたのだ。
シリウスは脅さず、家族の保護を司法官に依頼した。
翌日、倉庫の支払い帳から、職人二人に渡った銀貨の記録が見つかった。
裁判の日、露店の娘は証言台に立った。
「私は両方の国の客にパンを売っていた。旗を燃やした人は、私の店まで敵だと言った」
青年は目を伏せた。
娘は続けた。
「仕事がなくなるのは怖いと思う。でも、私の仕事を燃やしていい理由にはならない」
シリウスはその言葉をエリシアに伝えた。
武器職人を橋の建設へ移す計画は必要だ。
しかし被害者の救済を置き去りにしては、改革という名の別の不公平になる。
最初の予算には、焼けた露店の再建費と負傷者の治療費が計上された。
再建された露店の開店日、娘は焼け残った鉄鍋を店先に置いた。
煤の跡は磨いても消えない。
隣には新しい鍋が並び、二つの国の商人が同じ卓でパンを買った。
事件を起こした青年は、刑を終えた後に橋の石工として働くことになった。
娘は彼を許したとは言わなかった。
ただ、彼が買いに来たパンの代金を他の客と同じように受け取った。
シリウスはその光景を見て、和平記念祭の意味を考え直した。
過去を忘れる祭りではない。
傷の残る場所で、それでも隣に店を開けるかを毎年問い直す日なのだ。
エリシアは犯人の処罰を司法に委ねる一方、軍需工房の職人が橋梁や農具を造るための再訓練費を議会へ提出した。
焼けた旗の前に翌朝現れたのは、二つの国の子供が一緒に描いた市場の絵だった。
そこには旗より大きく、一本の橋が描かれていた。
祭りの翌日、燃え残った旗を片づけていた少年が、布の端に小さな名前を見つけた。
戦争で亡くなった母親が縫い込んだ印だった。
少年は旗を捨てないでほしいと頼んだ。
シリウスは新しい旗を作る計画を止め、焼けた部分だけを補修するよう提案した。
傷を隠さないまま掲げることに反対も出た。
それでも少年が「この旗が、前の祭りにもあった証拠だから」と言うと、誰も急いで取り替えようとはしなかった。
祭りの朝、国境の広場には焼き菓子の匂いが漂っていた。
帝国の楽師と王国の踊り手が同じ舞台に立つのは、戦争が終わって初めてのことだった。
シリウスは群衆の外側に立ち、警備隊長ユーマの配置図を眺めた。
兵を多く置きすぎれば祝祭が占領に見える。
少なければ、一つの喧嘩が国境紛争に変わる。
最初の炎は王国旗の裾から上がった。
続いて帝国旗にも火が移った。
誰かが「向こうの国の仕業だ」と叫ぶ。
石が飛び、少女の額をかすめた。
「隊長、剣を抜きますか」
ユーマの部下が尋ねた。
彼の指はすでに柄にかかっている。
「抜けば、次に何が起きる」とシリウスは聞いた。
「群衆が退きます」
「それとも、子を守ろうとした父親が兵に飛びかかるかもしれない」
翌朝、焼けた布の灰を掃いていた少年が、足元から小さな金具を拾った。
旗竿に使われるものではなく、倉庫の扉に付ける留め金だった。
ユーマは犯人を決めつけず、倉庫の管理記録を調べ直した。
祭りの前夜、資材を運んだ人数と鍵の貸出数が合わない。
シリウスは「怒りの声が大きい者だけを疑うな」と告げた。
調査の結果、放火を企てた者と、混乱に乗じて物資を盗もうとした者が別々にいたことが判明した。
ひとつの事件に、ひとつの理由しかないとは限らない。
祭りの警備計画はその日のうちに改められた。
シリウスは荷車を横に並べて避難路を作らせ、祭りの水桶を運ぶよう命じた。
王国側の消防隊にも同じ役目を頼む。
敵同士だった男たちが、言葉を交わす暇もなく桶を受け渡した。
火が消えると、二本の旗竿には同じ油の染みが残っていた。
ユーマは即座に犯人を決めようとしたが、シリウスは目撃証言を別々に集めさせた。
証人同士が話せば、記憶が一つの噂に変わるからだ。
夜になって、資材を運んだ荷車の札が見つかった。
札の印は、かつて武器を売っていた商人の倉庫のものだった。
「やはり戦争を望む者がいたんです」
ユーマは怒った。
「それはまだ推測だ。雇い人が何を知っていたか、確かめよう」
捕まった若者は、火をつければ仕事が戻ると聞かされていた。
戦争が終わり、父親の鍛冶場は閉じた。
彼は自分の行為で誰が傷つくか、考えていなかった。
「仕事がなくなったから、子供に石を投げさせていいのか」
シリウスが問いかけると、若者はうつむいた。
エリシアは事件の翌日、武器工房の職人を橋梁工事と農具製作に雇い直すための議案を出した。
しかし反対する議員もいた。
「犯罪者の望みをかなえるのですか」
「犯罪には罰を与えます」とエリシアは答えた。
「ただし、同じ不安を抱える無実の職人まで見捨てれば、次の火種を作るだけです」
事件の裁判では、火をつけた若者に罰金と公共施設の修復作業が命じられた。
だが証人席に立った鍛冶職人の父親は、息子を庇わなかった。
「仕事を失ったのは事実です。だからといって、他人の祭りを燃やしてよい理由にはなりません」
若者は初めて顔を上げた。
父親は続けた。
「それでも、働いて償う場所は残してほしい」
ユーマは、警備の失敗も公表した。
両国の旗の周囲に別々の警備線を敷き、相手側の火災を見つけても持ち場を離れられない命令になっていたのだ。
次の祭りでは警備隊を混成にし、火災時の指揮権を一人に統一することが決まった。
「誰が悪かったかだけでは、次の火を防げない」
シリウスの言葉を、ユーマは訓練記録の一頁目に書き込んだ。
若者の罪は消えなかったが、事件を繰り返さない責任は、町の全員が引き受けることになった。
翌年の記念祭では、二つの国旗の間に小さな旗が増えた。
子供たちが自分たちで縫った旗で、真ん中には橋が描かれている。
ユーマはその旗を見て、シリウスに言った。
「去年は、剣を抜けば秩序を守れると思っていました」
「剣が必要な日もある。だが、抜かずに済む準備の方が難しい」
祭りの歌が始まった。
今度は、最後まで誰も途中で叫ばなかった。




