第百二話 亡きマック将軍の副官が、俺の家の戸を叩いた
雨の夕方、シリウスの家を訪ねたのはエドガーだった。
故マック将軍の元副官。
王国軍が敗れた渡河戦で、将軍のそばにいた男だ。
「将軍の遺品を整理していたら、これが見つかりました」
彼が抱えていたのは軍旗ではなく、何度も開かれて角のすり切れた名簿だった。
「戦死者の名前ですか」
「それだけではありません。帰れた者、まだ行方の分からない者。最後の頁には、将軍が自分で書いた謝罪がある」
シリウスは頁を開いた。
『援軍が来ると信じ、退却を遅らせた。
命令の情報に誤りはあったが、最後に兵を動かした責任は私にある』
その下に、短い一文があった。
『遺族が望むなら、この記録を渡してほしい。
望まないなら、無理に読ませないでほしい』
エドガーは顔を伏せた。
「私は将軍のそばにいながら、王都で真実を言えませんでした。降格が怖かった」
「今から何をしたいのですか」
「亡くなった兵の家族に、将軍の記録を届けたい。ですが、私一人では信用してもらえません」
シリウスは名簿を閉じた。
「私が同行しても、信用が増すとは限りません。帝国の将軍が現れれば、脅しだと受け取る家族もいる」
「では……」
「まず、本人たちに会う意思があるか尋ねましょう。断られたら、その返事を尊重する」
最初の家からは断りの手紙が届いた。
二軒目は返事がなかった。
三軒目の娘だけが、役場の小部屋で会うことを承諾した。
娘は椅子に座らず、エドガーに尋ねた。
「父は、最後に逃げようとしたんですか」
エドガーは名簿の時刻を指した。
「退却命令が届いたのは、川が増水した後でした。お父上の隊は、負傷者を運ぶため最後尾に残りました」
「父が自分で残ると決めたんですか」
「分かりません。私が確認できたのは、部隊に命令が届いた時刻までです」
娘の指が震えた。
「知らないなら、知らないと言ってください。英雄だったと聞かされても、父は帰ってこない」
エドガーは頭を下げた。
「申し訳ありません。私が当時、もっと早く証言していれば、少なくとも『逃亡した兵』という記録は訂正できました」
娘は長く黙った後、戸棚から片方だけの古い靴を取り出した。
「父は畑を歩くとき、右足を少し引きずっていたんです。軍の名簿には、そんなことは載らないでしょう」
「載っていません」
「なら覚えてください。将軍の部下ではなく、そういう人が死んだんです」
シリウスはその言葉を、自分にも向けられたものとして受け止めた。
勝利の報告書には、帰れなかった人の癖も、家族の声も書かれていない。
役場では名簿の訂正窓口を開いた。
戦死とされたまま帰還していた者、名前の綴りが違う者、行方不明なのに戦死と断定された者。
初日だけで十七件の申し出があった。
担当官が「軍の記録が優先です」と言いかけたとき、エドガーが止めた。
「軍の記録に誤りがあることを、私が証言します。ただし、遺族の話も確認なしに事実と断定しない。双方を照合してください」
訂正はその日のうちには終わらなかった。
確認できない名前は、確認できないまま残した。
夕暮れ、娘がもう一度役場を訪ねた。
「父の墓の苔を落としてくれますか」
エドガーは顔を上げた。
「私が、ですか」
「あなたが全部悪いと言いたいわけじゃありません。でも、来年も忘れないでほしいんです」
翌朝、彼は墓地へ行き、袖をまくった。
シリウスは少し離れた場所で水桶を運んだ。
作業が終わると、エドガーは名簿を開いた。
「この名前を、軍学校で教えてもよいでしょうか」
「遺族に聞いてからです」とシリウスは答えた。
「死者は、私たちの教訓になるために生きたのではありません」
エドガーが持参した名簿には、戦死者の欄の横に細い印がついていた。
シリウスが尋ねると、エドガーは答えた。
「将軍は最後まで、行方不明と戦死を分けようとしていました。印は、まだ家族へ知らせが届いていない者です」
二人は最初の家を訪ねた。
出迎えた老人は、名簿を見るなり戸を閉めかけた。
「また軍からの知らせか。もう息子の死は聞いた」
エドガーは扉の前で帽子を脱いだ。
「知らせに来たのではありません。何が起きたか、私の知る限りをお伝えしに来ました」
老人は長く黙り、ようやく二人を中へ通した。
室内には息子の使っていた木椅子が残されていた。
老人は椅子を指さした。
「あの子は川が苦手だった。泳げないのに渡河へ行かされたと聞いた」
エドガーは名簿を開いた。
「将軍は渡河の中止を求めました。しかし監察官が王命を示し、先鋒を進めました」
老人の目が鋭くなる。
「では将軍は無実か」
エドガーは首を振った。
「無実と言い切るために来たのではありません。将軍にも、もっと早く兵を引かせる方法があったかもしれない。私も副官として止められなかった」
シリウスは老人に、当日の橋の状況と救助経路を記した図を渡した。
「これは私が作った図です。現地の状況を完全には把握できていませんでした。確かでない部分には印をつけています」
老人は図をしばらく見つめた。
「息子がどう死んだか、まだ分からないのか」
シリウスは答えた。
「はい。分からないことを、分かったふりはできません」
老人は図を返さず、椅子の上へ置いた。
帰り道、エドガーは足を止めた。
「私は将軍の名誉を守りたい。その思いが強すぎて、遺族の言葉を聞く前に弁明してしまいそうになる」
シリウスは頷いた。
「記録は誰かを無罪にするためだけに残すものではありません。次に同じ命令が出たとき、止めるために残すのです」
二人は名簿の余白へ、老人が話した息子の泳げなかったことを書き加えた。
戦死者数には表れない事実だったが、渡河作戦を検証する者には必要な情報かもしれない。
次の家では、遺族が面会を拒んだ。
二人は封書を置かず、訪問を断られた日付だけを控えた。
話を聞く権利と同じように、話を聞かない権利も尊重しなければならなかった。
エドガーは頷いた。
将軍の名誉を回復するための旅だったはずが、いつの間にか、名簿に載る一人ひとりの人生を聞く旅になっていた。
帰りの馬車で、エドガーは言った。
「マック将軍は、最後まで自分の判断を悔いていました」
「それを遺族が許す義務はありません」
「分かっています」
シリウスは窓の外の畑を見た。
戦争は終わった。
だが、誰が何を失ったかを知る仕事には、終わりがなかった。
エドガーが持参した遺品には、将軍の勲章のほかに、角の欠けた木札があった。
東の渡し場で救助された兵の名を、一人ずつ刻んだものだ。
シリウスは勲章ではなく木札を手に取った。
「この名前の家族には知らせたのですか」
エドガーは首を振った。
「名簿の確認が済むまで、言い出せませんでした」
二人は勲章を飾る相談をやめ、まず救助記録と木札を照合した。
将軍の名誉は、誰かの生存を確かめる仕事の先にあった。
名簿の端には、一つだけ赤い印が残っていた。
戦死と報告された兵の名の横に、マック将軍の筆跡で「生存の可能性あり」と書かれていたのだ。
「この男は、今どこに」
エドガーは長い沈黙の後で答えた。
「確認できていません。私は将軍の報告を、敗戦後の混乱として片づけました」
シリウスは彼を責めなかった。
代わりに当時の渡し場と救護所の記録を並べた。
救護所には同じ年齢の身元不明者が運ばれた記載がある。
ただし、同一人物と断定できる証拠はなかった。
「生きていると知らせれば、家族に期待を抱かせます」
「死んだと断定しても、家族の知る権利を奪う」
二人は遺族への手紙に、確認できた事実と未確認の情報を分けて記した。
返事が来れば、希望する家族とともに調査する。
返事が来なければ、記録を保管する。
翌朝、エドガーは名簿の複写を携えて旧救護所へ向かった。
彼の背中は老いていたが、歩みは逃げる者のものではなかった。
エドガーが帰ろうとしたとき、戸口で立ち止まった。
「将軍の最期を、英雄らしく語ってほしいと遺族に頼まれました」
シリウスは名簿を閉じた。
「最期を飾るより、救助を命じた理由を伝えよう」
二人は遺族宛ての手紙を書き始めた。
マックが橋に残った判断と、その結果助かった兵の名前。
確かめられない最期の言葉は書かなかった。
エドガーはようやく筆を置き、「これなら、将軍に叱られずに済みます」と言った。




