『 断罪台の下で生まれたもの』――裁かれたのは彼女か、世界か
※本作には、明確な正解や説明のない描写が含まれます。
ここに描かれているのは、何か特別な存在そのものではなく、
「裁くこと」「置くこと」「見なかったことにすること」が積み重なった結果の姿です。
理解しようとせず、名を与えず、
ただ起きていることとして読んでいただければ幸いです。
最初に気づいたのは、音がしなかったからだ。
夜明け前の回廊は石が冷え切り、蝋燭の火だけが薄く揺れている。風はない。それなのに、角を曲がった先――旧礼拝堂の裏手へ降りる階段の踊り場だけ、空気の密度が違った。湿り気が増したように息が重くなる。耳の奥が、妙に塞がる。自分の呼吸が、どこにも届かず足元へ沈んでいく気がした。
私は侍女見習いのユリア。昨日、城内の配属が変わり、上階の客室ではなく旧礼拝堂の清掃へ回された。理由は知らされない。理由が語られない仕事は、たいてい“知る必要がない”類のものだ。知る必要がない、という言葉の裏には、知ってしまった者が黙るしかなくなる何かがある。
踊り場に、黒い布がかかっていた。扉の前ではない。階段の途中に、目隠しのように垂らされている。布の向こうは薄暗く、蝋燭の灯りが縁で切れた。
最初は、本当にただの布に見えた。吊られている。垂れている。影が落ちている――それだけだ。遠目なら、何もおかしくない。だからこそ、一歩近づいた。
近づくほど、布の影が影として落ち着かないのが分かった。揺れていないのに揺れている。風を受けた布のようではない。もっと、支点のない揺れだ。人の肩の上に布を掛けたときに生まれる“人の体温の動き”に似ていて、でもそこに肩も腕もない。影だけが、影のまま、時々ほんの少し形を変える。形を変えるのに、位置は変わっていない。
布に手を伸ばしかけて、止まった。説明できない。手首の内側が痺れ、指先が冷える。触れたらいけない、と体だけが理解している。
そのとき、上から足音がした。
「そこは通らないで」
低い声だった。命令口調ではないのに、逆らえる余地がない。
振り返ると、侯爵夫人マレインが立っていた。白髪はきちんと結い上げられ、夜着でもない。こんな時間に、こんな場所へ降りてくる人ではない――はずなのに、彼女だけは、ここに来る権利を持つ。旧礼拝堂は先代の遺言で「侯爵家預かり」とされ、王家が直接触れない場所だ、と昨夜の侍女たちは小声で言っていた。言い終えたあと、誰もその先を語らなかった。
「掃除の当番で……」
「当番は、上だけでいい。下は触らない」
夫人は階段を二段下り、黒布の前で止まった。布の向こうを見ているのに、目は焦点を結ばない。見ていないのだ。見ないようにしている。視線を置けば、そこに“合って”しまうことを知っている。
「ここは、城の中でいちばん狭い場所よ」
淡々とした声だった。
「狭いほど、暮らしやすいものがいる。外へ出したら、噂で持たない。世間は優しくないから」
意味がわからないのに、私は頷いてしまった。頷かせる種類の言葉だった。世間、と言われた瞬間、外の世界が一つの塊になって迫ってくる。顔のない群れ。責任のない数。
「……何が、いるのですか」
言った瞬間、喉の奥がひゅ、と鳴った。声が自分のものではないみたいに薄い。
夫人は、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「名前をつけないほうがいい」
その言い方が決定だった。
「名前をつけると、考え始める。考え始めたら、心がそこへ寄る。寄ったら、戻るのに時間がかかる」
夫人は黒布の端を指先でつまみ、指一本分だけ持ち上げた。私に見せるためではない。そこに“まだある”ことを確かめる仕草。
布の向こうは闇だった。闇の中に、何かがいる気配がした。形はわからない。色もわからない。ただ、闇が闇として完結していない。輪郭が薄いのに、重い。そこだけ現実が、わずかに噛み合っていない。
そして――一瞬だけ、闇の中の“揺れ”が、こちらの揺れに合わせてきた。呼吸のタイミング。鼓動の間。視線の高さ。まるで、見ている側の体を探るみたいに。探って、合う場所を見つけるみたいに。
私は反射で目を逸らした。逸らしたのに、見た感触がまぶたの裏に残る。石の冷たさでも水の冷たさでもない。どちらでもないのに、同じ種類の冷えが背中の中心に貼りついた。骨の内側が、遅れて震え出す。
夫人は布を戻し、私の肩に手を置いた。
「いい子。忘れなさい」
そう言われて、泣きそうになった。叱られたわけでも脅されたわけでもない。忘れろと言われると、人は忘れられない。忘れられないから、泣きたくなる。
「城の外のことは考えなくていい。今はここで、息をしていればいい」
夫人は階段を上がり、振り返りもしなかった。
私は一人になった踊り場で黒布の前に立ち尽くした。布の向こうは闇。名前を持たない何か。名前を持たないのに、こちらの内側に入り込む。
その朝から、私は“下”のことを考えないようにする訓練を始めた。
手を洗う回数が増えた。爪の間まで洗っても取れない感触がある。夜、寝台に入ると暗闇が布の向こうと同じ質を持ってしまう気がして、灯りを消せない。息をすると、息が“どこへ落ちていくか”を意識してしまう。呼吸は上へ昇るものだと信じていたのに、あの踊り場では落ちる。
そして、断罪の話が城内に戻ってきた。
あの令嬢が処分されてから、まだ半年しか経っていない。けれど人は、半年で“過去”にする。口をつぐめば、なかったことにできると信じている。信じたい者ほど、口数が多い。
私は配属される前に一度だけ、その令嬢を見た。白いドレスで背筋を伸ばし、まっすぐ歩いていた。泣き叫ぶでもなく、王太子に縋るでもなく、侍女に怒鳴るでもなく。人々の目を受け止めながら、まるで自分が裁判官であるかのように歩いていた。
その目が忘れられない。怒りでも絶望でもない。“理解できない”という色だった。なぜ、と問い続ける目だった。
あの目を思い出したとき、黒布の向こうの闇が、ほんの少しだけ近づいた気がした。近づくのは向こうではない。こちらの心が、勝手に一歩分ずれる。遠目の安全な距離が、いつの間にか消える。
私は仕事の合間に、城内の噂を拾うようになった。拾いたくないのに拾ってしまう。言葉が勝手に耳へ入る。ここで起きた“裁き”は、裁かれた者だけで終わらない。
洗濯場で、布を叩く音の合間に囁きが混じった。夜になると聖女が泣くのだという。食堂では、パンの香りに紛れて「王太子が悪いわけじゃない」と繰り返される。誰が悪いのかを決めないための言葉だ。回廊ですれ違った侍従は、公爵家が黙っているのが不気味だと言った。黙っていることが罪になる国で、黙る者は次の役割にされやすい。誰かが言った。「処分は必要だった。そうでなければ示しがつかない」
示し。世間。秩序。正義。
それらの言葉が並ぶほど、私は息が浅くなる。どの言葉も、どこかに“人”がいない。人の気配が消え、仕組みだけが動いている。仕組みが動くとき、いつも誰かの生活が削られる。削られた者は、声を出す前に役割にされる。
ある日、旧礼拝堂の清掃の最中に、小さな鍵を見つけた。床の隙間に落ちていた。真鍮の古い鍵。錆びていない。誰かが最近落としたものだ。
鍵の歯の形を見て、私は気づいた。礼拝堂の裏手、あの黒布の先の扉と同じ形。持ち主は夫人だろう。
返すべきだ。返さなければ。
そう思いながら、私は鍵を指の腹でなぞった。すると胸の奥が、わずかに温かくなった。怖さとは違う。懐かしさとも違う。ただ、熱がそこに集まる。鍵穴に合う形が、私の内側にもあるような錯覚。
――鍵は、扉を開けるためにある。
考えないようにしていたのに、思考が滑り込んだ。咄嗟に鍵を握りしめ、手を背中に隠した。何をしているのか分からない。自分が自分ではない。指先だけが、“開ける”という役割を覚え始める。
その瞬間、布の向こうから、微かな“ずれ”が来た。
音はない。足音もない。けれど、空間が一歩分だけ歪む。そこに何かがいると、体が理解する。距離ではなく焦点がずれ、私の視線の高さに“合って”くる。合ってしまうと、次は言葉が追いつく。言葉が追いついた瞬間、こちらが壊れる。
そして、合ってくる“動き”があった。闇の中の揺れが、揺れとしてではなく、形を取りかける揺れに変わる。人の腕が曲がるのとは違う。腰が捻れるのとも違う。どこを支点にしているのか分からないのに、向きだけが変わる。骨の方が先に言った。――ああいう動きは、人間はしない。
見てはいけない。名前を探してはいけない。
私は鍵を胸元に押し当て、ゆっくり階段を上がった。胸の奥が熱いのに、背中だけが冷たい。体の中に、同じ矛盾が二つある。
その日の夜、侯爵夫人に鍵を返した。夫人は受け取り、何も言わなかった。けれど、指先がほんの一瞬だけ震えた。夫人も、完全に平気ではないのだ。
「下には、行きません」
私は言った。宣言というより祈りだった。
「賢い子」
夫人は小さく頷いた。
「人はね、知ってしまうと、知ったことを誇りたくなる。知識は武器になるから。でも、武器にしないほうがいいものもある。これは、その一つよ」
それから夫人は窓の外へ視線を向けた。
「裁きは、終わっていない」
背筋が伸びた。
「終わったはずです。あの方は……」
「終わったことにしたい人がいる。終わっていないことにしたい人もいる。だから終わらない」
夫人は淡々と続けた。
「処分すれば王家が血を被る。生かせば公爵家が顔を失う。だから、城の中のいちばん狭い場所へ置く。誰も困らない。誰も責任を取らない。そういう解決がある」
私は言葉を失った。
“生かす”と“置く”が同列に並ぶ。その事実が恐ろしい。夫人が残酷なのではない。残酷さが生活の言葉に溶けている。
「……あれは、生きているのですか」
夫人は少し黙った。答えを探しているのではない。答えを選んでいる。
「息はしていない。けれど、消えてもいない」
生きているとも死んでいるとも言えない。言えないからこそ、名を避ける。
「何年か経って、世界が慣れたら――外へ出す。そういう算段よ」
世間に放す。
夫人は“世間”という言葉で外を括る。括られた瞬間、外の人間は一つの塊になる。個人が消える。消えるから責任も消える。責任が消えるから、また同じ儀式が繰り返せる。
私は、震えた。
その夜、夢を見た。
断罪台。真昼。群衆。旗。鐘。聖女の白。王太子の冠。公爵家の紋章。すべてが鮮やかなのに、音が遠い。私の耳には別のものが入っている。
――言葉が、届かなかった。
声ではない。思考でもない。胸の奥の奥で、意味だけが浮く。
私は断罪台の下を覗き込んだ。覗けるはずがない場所なのに、床板の隙間から闇が覗き返してくる。闇は穴ではなく、底のない布のように揺れていた。遠目なら、ただの闇だ。闇のまま、静かだ。――近づくまでは。
闇の中に、輪郭の薄い“何か”がいた。人の形ではない。けれど、人がいた場所の残り香だけはある。香りではなく痕跡。痕跡が、動く。
動きは関節を通らない。滑るのでもない。重力を無視しているわけでもない。そこにいたものが次の瞬間には、ほんの少しだけ違う位置にいる。小さなずれが積み重なり、存在が近づく。
近づくのに距離は縮まらない。距離ではなく、私の心のほうが寄ってしまう。焦点が合ってしまう。合うほど、言葉が欲しくなる。言葉を置けば、そこに“形”が生まれてしまう。
――見ないで。
見ないで、ではなく、見ないほうがいい、に近い。優しい言葉だった。だから怖い。優しいのに怖いものは、こちらの内側に入り込む。
叫んだつもりなのに声が出ない。声が出ないまま涙だけが落ちた。涙が落ちるたび、闇の揺れがそれに合わせるみたいに、ほんの僅かだけ“ねじれる”。ねじれは波のようで、波ではない。体のどこを曲げているのか分からないのに、向きだけが変わる。
目が覚めたとき、枕が濡れていた。夢だったのか現実だったのか分からないまま、胸の奥だけが重い。起き上がっても、耳の奥の塞がりが取れない。
翌日から、城内で小さな事故が続いた。
書庫の棚が倒れ、古い記録が散らばった。誰も怪我はしない。けれど散らばった紙の中に、半年以上前の裁判記録が混じっていた。
厨房で火が消え、パンが焦げた。誰も怪我はしない。けれど焦げた匂いが礼拝堂の回廊まで漂った。匂いは上へ昇るはずなのに、あの日から匂いも落ちる。
侍従が階段で足を滑らせ、足首を捻った。大事にはならない。けれど倒れた拍子に落ちた鍵束が、旧礼拝堂の方向へ転がった。
どれも些細だ。些細だからこそ意図が見えない。意図が見えないから、皆が気味悪がる。気味悪がるくせに、原因を探し始める。
原因を探すのは人の本能だ。名前をつけたがる。名前をつければ安心する。安心した顔のまま、次を裁ける。
ある晩、私は書庫の片隅で、裁判記録を見つけてしまった。
散らばった紙束を片づけるのが仕事だった。片づけるためには、どの棚に戻すべきか確認する必要がある。必要だから開く。開いたから読む。読まないという選択は、仕事の外へ出る。
リディア・アルヴァーン。公爵令嬢。罪状。証人。聖女の供述。王太子の声明。裁判官の結論。
文字は整っている。整っているのに、読み進めるほど背中が寒い。証言の日時が合わない。供述の言葉が似すぎている。証人の署名が同じ筆致だ。証拠とされる品の管理者が不明だ。
これは裁判ではない。形式だ。
形式のために、人が一人消えた。
紙を閉じても内容が頭の中で勝手に繰り返される。言葉が回る。回るほど、闇が近づく――正確には、闇が近づくのではない。こちらが、寄ってしまう。寄って、焦点が合って、痛みとして入ってくる。情報ではなく、罰のように。
その夜、私は旧礼拝堂へ引き寄せられた。
自分で歩いているのに、自分で歩いていない。廊下の角を曲がるたび、足が勝手に方向を選ぶ。蝋燭の火は揺れても風はない。けれど踊り場の黒布だけが、呼吸するように揺れている。呼吸しているのは布ではない。こちらの心臓だ。こちらの心臓の揺れが、向こうに写っている。
布の前に立った。手が伸びた。止めようとしても止まらない。指が布の端をつまんだ。
――名前をつけないほうがいい。
夫人の声が頭の中で響いた。
――でも、知ってしまった。
布を持ち上げると扉があった。真鍮の取っ手。鍵穴。鍵はない。だから開かないはずだ。
なのに、取っ手がわずかに動いた。
私の手は触れていない。動いたのは取っ手ではなく、空気だ。空気が取っ手の形をなぞり、動かしたように見えた。見えた、というより、そうとしか認識できない“ずれ”がそこにあった。位置が一歩分ずれ、焦点が合い、胸の奥が痛む。
扉が、きい、と音もなく開いた。
中は狭かった。石造りの小部屋。天井は低く、壁は湿っている。灯りを持っていないのに暗闇は完全ではない。何かが、光を拒まない。拒まないのに、光にならない。光の中身だけを抜かれたように、そこだけ薄い。
床の中央に、黒い影があった。影は固体ではない。けれど影が影として固定されていない。ゆっくり、位置がずれる。ずれるたび、私の視線も引っ張られる。視線が引っ張られると、思考も引っ張られる。思考が引っ張られると、言葉を探したくなる。
影は、影のまま“姿勢”を変えた。姿勢という言い方がもう間違っている。立っているのに、立っていない。横たわっているのに、横たわっていない。曲げるべき場所が曲がらず、曲がってはいけない場所が曲がる。関節がないのに、関節の癖だけが残っているみたいに。人が人であった痕跡だけが、動きとして漏れている。
目を細めた瞬間、世界が一段深くなった。
“そこにいる”という事実が、情報ではなく痛みとして入ってくる。
喉が鳴った。名前が出そうになった。名前を出したら理解してしまう。理解したら、壊れる。
――違う。
これは“怪異”ではない。怪異という言葉は便利すぎる。怪異と言えば原因を外へ追いやれる。自分が関わらなくて済む。責任を手放せる。
けれど、これは関わっている。私たちが作った。裁きが作った。形式が作った。役割が作った。だから、怪異ではなく“証拠”だ。沈黙の証拠物件。けれど証拠を掴めば、それは次の儀式の燃料にもなる。燃料を掴んだ瞬間、私も儀式の側へ立つ。だから、今は触れない。
影が、ほんのわずかに上を向いた。向いた、というより、私の視線の高さに合った。合わせたのではない。合わせられた、と感じた。こちらの目の高さが、あちらの“正面”になってしまった。
目はない。顔もない。なのに“見られている”と分かる。見られているのではない。掴まれている。心臓の奥を指でつままれたように。掴まれた瞬間、私の中の言葉が止まる。言葉の代わりに、体が理解し始める。体が理解する理解は、危険だ。
涙が出た。恐怖ではない。申し訳なさでもない。理解できないのに、理解しようとしてしまう自分への嫌悪に近い。理解したいのは、安心したいからだ。安心したいのは、次を裁くためだ。
すると、影の動きが止まった。
止まったことで逆に怖くなった。止まったのは、私が泣いたからだ。泣いたから“通じた”。通じることが、恐ろしい。通じるなら、言葉を持つ。言葉を持てば、役割を持つ。
膝をつく。石の冷たさが皿に刺さる。痛みがあるのに現実感が薄い。現実感が薄いのに、胸の痛みだけは濃い。
部屋の奥、壁際に古い木箱があるのが見えた。蓋が半開きで、布と紙の束がのぞいている。裁判記録の原本か、あるいは証拠品か。触れたら、理解が始まる。理解が始まれば、私は“証拠を持つ者”になる。証拠を持つ者は、次の儀式に利用される。
立ち上がろうとすると、影がすっとずれた。道を塞ぐのではない。私の進む方向を、ほんの少しだけ変える。変えるだけなのに、視界の端で“ねじれ”が増える。体のどこを曲げているのか分からないのに、向きだけが変わる。見続けると、こちらの脳が勝手に“支点”を探し始める。支点を見つけた瞬間、名前が生まれる。
箱へ行こうとした瞬間、吐き気がきた。頭の中で言葉が渦を巻き、視界が白くなる。体が先に拒む。拒むのは怯えではない。生存だ。
影は箱を守っているのではない。守る意志があるようには見えない。ただ、箱へ近づく“理解”を嫌がっている。理解されると、こちらが壊れるから。壊れた者は、あの踊り場の内側に置かれる側になる。
――見ないで。
夢で聞いた言葉が、もう一度胸の奥で浮いた。
私は頷いてしまった。頷いた瞬間、影が少しだけ遠ざかった。遠ざかったのに心は軽くならない。軽くならないまま、扉の方へ下がった。
扉は私が出ると同時に閉じた。鍵もかかっていないのに、二度と開かないと分かる閉じ方だった。閉じ方が、意志のように静かだった。
黒布を戻し、その場に座り込む。
泣き叫びたい衝動が来た。叫ぶと城全体がこちらを見る。こちらを見ると誰かが名前をつける。名前がついたら理解しようとする。理解したら壊れる。壊れた者はもう“管理”できない。管理の外へ出た瞬間、世間がそれを裁く。
夫人の言葉が蘇る。
――ここに置いておけば、誰も困らない。
嘘だ。困っている。少なくとも私は困っている。けれど困っていると言えない。言った瞬間、私は“世間”に出る。世間に出た私は噂になる。噂は形を持つ。形を持った噂は、また裁きになる。
翌朝、城内に騒ぎが起きた。
聖女が倒れたという。原因不明の高熱。医師は首を傾げ、祈祷師は顔を青くし、侍従たちは口を噤んだ。祈りが届かない病は、この国では“兆し”になる。兆しは、誰かを裁くための旗になる。
王太子は苛立ち、宰相は沈黙し、公爵家は使者を送ってきた。誰もが同じ方向を見ているのに、誰もが別のことを考えている。誰もが“次の役割”を探している。
廊下の影で侯爵夫人を見かけた。いつも通り整っている。けれど目だけが、少し疲れていた。疲れは、眠れない者のものではない。責任を抱え始めた者のものだ。
「夫人……」
呼びかけると、夫人は私の顔を見た。見た瞬間、私が“下”を見たことを悟った。
夫人はため息もつかず、小さく頷いた。
「見たのね」
否定できなかった。否定すると嘘になる。嘘はもっと危険だ。嘘は儀式を延命させる。
「……あれは、何を望んでいるのですか」
夫人は一瞬、目を伏せた。
「望みはないわ。望みがあったら、まだ救いがあった」
静かに続ける。
「ただ、そこにあるだけ。そこにあるだけで、周りが崩れていく。崩れるのは、あれの力ではない。こちらの脆さよ」
こちらの脆さ。裁きを正しいと信じた者たちの脆さ。正しいと信じなければ、自分を保てない脆さ。正義を掲げ続けなければ、自分の手を見られない脆さ。
「この国は、裁判ではなく、儀式で動いている」
夫人の声は淡々としていた。
「儀式に人は要らない。要るのは、役割だけ。聖女、悪役、王太子、宰相、群衆……そして、“置かれるもの”」
役割が言葉になるほど、私は息が浅くなる。役割が揃うほど、あの“ずれ”が濃くなる気がした。位置が一歩分ずれ、焦点が合い、痛みが入ってくる――あの同じ感覚が。
「だから、あれは置かれた。置かれたことで儀式が完成した。完成した儀式は、次の儀式を呼ぶ。誰かがまた役割を引き受ける」
夫人は私の肩に手を置いた。あの日と同じ。けれど、あの日より重い。重いのに、逃げ道がない。
「止める必要があるのは、あれではない。止めるべきなのは、私たちのほうよ」
私は頷くしかなかった。
数日、城は不穏な静けさに包まれた。
聖女は笑わない。王太子は眠れない。宰相は言葉を慎重に選ぶ。公爵家は使者を増やす。誰も断罪の話を口にしないのに、断罪の影だけが濃くなる。沈黙が、儀式の準備に変わっていく。
私は旧礼拝堂の清掃を続けた。黒布には触れない。階段の下は見ない。けれど踊り場の空気が、日によって違うのが分かる。重い日がある。軽い日がある。重い日は、誰かが“次の役割”を整え始めている日だ。整えるほど、ずれは寄る。寄るほど、胸が痛む。
ある夕方、書庫で封筒が滑り出た。棚の奥から、古い封蝋が割れていない封筒。宛名はない。中には一枚の紙だけ。
――裁きは、終わらない。
文字は美しかった。筆圧が強い。私の知っている誰かの筆跡ではない。けれど、見た瞬間に胸の奥が痛んだ。あの目の人が、こう書くだろう、という重さがあった。処分されたはずの者の“在り方”が、紙の上に残っているような。
手が震え、紙を落とした。床に触れた瞬間、廊下の向こうから“ずれ”が来た。空間が一歩分だけ歪み、背後に何かがいる気配がした。
振り返ってはいけない。
誰も“そこ”を見ていない。なのに、喉が同じ形で詰まる感覚がある。私だけではない。廊下の先の誰かも、同じタイミングで息を止めた気がした。言葉の前に、体だけが先に黙った。
私は目を閉じ、息を吸った。謝ってはいけない。謝ると、また寄る。寄ると、戻れない。謝罪は、人の側の言葉だ。今の私はまだ、儀式の側に飲まれてはいけない。
紙を拾い、封筒に戻し、棚の奥へ押し込む。見なかったことにするのではない。今は扱えない。扱える形にするには責任が要る。責任を取る者がいない。
ならば――取らせるしかない。
その夜、私は決めた。下へは行かない。けれど、見なかったことにもしない。裁判記録の矛盾を夫人に伝える。証言の日時。署名の筆致。証拠品の管理者の不明。形式のための裁きだったこと。
儀式の材料にはさせない。
夫人の部屋へ向かう廊下は静かだった。蝋燭の火は揺れない。なのに踊り場の方向が背中を引っ張る。引っ張られても行かない。私は前を向いて歩いた。前を向くことが、ここでは抵抗になる。
扉の前で深呼吸した。
人として、言葉を出す。役割ではなく、責任を伴う言葉を。
扉を叩く前に、遠くで鐘が鳴った。旧礼拝堂の鐘ではない。城の大鐘だ。非常の鐘。儀式ではない鐘――のはずなのに、鐘の響きが“整えられた空気”を運んでくる。
私は走った。嫌な予感が胸の中で形になっていく。形になってはいけないのに、形になる。形になると、人はそれを言葉にする。言葉にすると、役割が生まれる。
中庭に人が集まっていた。群衆。旗。鐘。半年ぶりの空気だ。整えられた空気――儀式が、また始まる。
台の上には、痩せた男が立たされていた。震える手。罪状を読む声。人々のざわめき。
凍りついた。次の役割が、選ばれてしまった。
男は叫んだ。「違う」と。「私は知らない」と。「誰かが書いた」と。けれど言葉は届かない。届かないのは男が弱いからではない。世界が、聞く構えを持っていないからだ。聞く構えがない世界は、言葉を罰に変える。
そのとき、断罪台の下から、風が吹いた。
風ではない。空気の“ずれ”だ。ずれが、台の柱を伝い、上へ上がる。上がるのに影は見えない。見えないのに、そこに“いる”と分かる。位置が一歩分ずれ、焦点が合い、胸の奥が痛む。三つが同時に起きる。だから、分かってしまう。
人々が一斉に黙った。誰も“下”を見ていない。なのに、全員の喉が同じタイミングで詰まった。言葉の前に、体だけが先に黙った。沈黙が共有されると、群衆は一つの塊になる。世間になる。
男は言葉を止めた。止めたのに涙が出た。涙が頬を伝う。彼は震えながら台の下を見ようとした。見れば焦点が合う。合えば、壊れる。壊れた者は、置かれる側へ行く。
見てはいけない。
叫びそうになった。叫べば儀式の中に入ってしまう。入った瞬間、役割を与えられる。役割を与えられれば、責任が消える。責任が消えれば、また人が消える。
群衆の中で、声を殺した。
そのとき、侯爵夫人が現れた。夫人は群衆を割って台の前へ進み、男の肩に手を置いた。夫人の声は静かだった。
「やめなさい」
誰に向けた言葉か分からない。男にか。裁判官にか。群衆にか。世界にか。
だが、その一言で、儀式が揺れた。揺れは目に見えない。それでも確かに、空気が一段変わった。ざわめきが戻り、怒号が混じり、混乱が起きた。混乱は、儀式の敵だ。儀式は整っていなければならない。整いが崩れた瞬間、役割の輪郭が滲む。
夫人は男を台から降ろさせた。裁判官は顔色を変え、宰相は動けず、王太子は遠くから見ているだけだった。誰も責任を取らないとき、責任を取る者が一人現れると、世界は一瞬止まる。止まることで、次の刃が鈍る。
その一瞬の中で、私は感じた。
台の下の“ずれ”が、少しだけ遠ざかったのを。
遠ざかったのに消えない。消えないまま確かに“掴んでいる”。問い続けている。裁かれたのは、彼女か。裁かれたのは、世界か。
儀式はその日、未遂で終わった。終わったのではない。止められた。止められたことで次が来る。次が来る前に、こちらが変わらなければならない。変わるのは制度ではない。まず、人の側だ。
夜、私は旧礼拝堂の踊り場に立った。黒布は揺れていない。空気は重いが、昨日ほどではない。重さが薄れると、逆に怖い。慣れが生まれるからだ。慣れは、儀式の味方だ。
布には触れない。扉も開けない。
ただ、そこで一度だけ息を吸って吐いた。息が落ちていかないように、胸の中で形を整えてから。
名前をつけないまま、存在を否定しない。理解しようとしないまま、責任を放棄しない。
その矛盾を抱えて歩くのが、人の側なのだと、今は思う。矛盾を抱えられる者がいる限り、儀式は完全には勝てない。
闇の向こうで、わずかな“ずれ”が起きた。返事ではない。合図でもない。けれど、まだこの世界に留まっている証拠。留まって、問いを置き続けている。
私は黒布の前で一度だけ立ち止まり、指先を握りしめた。視線を置きそうになり、置く前に引き剥がす。触れないまま踵を返す。踵を返すだけで、胸の痛みが少し軽くなる。
裁きは、終わらない。
終わらないのなら――終わらせるのは、儀式ではなく、人の仕事だ。
そして、いつか。
世界が慣れたから放すのではない。世界が責任を引き受けられるようになったときに、ようやく“ここ”から出せる。
そうでなければ、この狭い場所はずっと増え続ける。名前を持たない“置かれたもの”が、世界のどこかで、静かに生まれ続ける。
私は回廊を戻りながら、二度と声にしない誓いを立てた。
あの目を、理解できないまま忘れない。あの沈黙を、便利な言葉で覆わない。
そして次の儀式が始まりそうになったら、私もまた――夫人のように言う。
やめなさい、と。
あとがき
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
本作は「断罪」という儀式めいた行為が、裁かれる側だけでなく、裁く側の世界そのものを歪めていく——その感覚を、なるべく名前を付けず、現象と手触りだけで描くことを目標にしました。
何かを「理解した」と言い切った瞬間に人は安心してしまい、安心したまま次の裁きを用意できてしまう。だからこそ、作中では便利な呼び名を避け、視線の合い方や空間の“ずれ”として積み上げています。
ユリアが見たものは、復讐でも救済でもありません。
ただ、そこにあるだけで、制度の脆さと人の弱さを浮かび上がらせてしまう「沈黙の証拠物件」です。
そして、恐ろしいのは“それ”よりも、恐ろしさを世間や示しの言葉で丸め込み、責任を薄めていける私たちの側なのだと思います。
最後の「やめなさい」は、誰かを救う英雄の言葉ではなく、儀式を儀式のまま進めさせないための、小さくて具体的な抵抗です。
理解できないまま忘れないこと。名指ししないまま責任を手放さないこと。そういう矛盾を抱えるのが、人の仕事なのかもしれません。
もしあなたの中に、黒布の向こうの重さが少しでも残ったなら——それは、世界のどこかでまだ続いている問いの一部です。
改めて、ありがとうございました。




