さよなら。
ホールの壇上にゆらりと立つヨシヤさんは、さっき会った時と同じように、よれよれの黒シャツにベージュのエプロン姿だった。
最高に、締まらない。この人は、何処まで行っても。さすが……ロックでパンク。
だが、顔つきには、おれがこれまでに一度も目にした事のない、険しさと鋭さが宿っていた。
「兄さん……来たのか、とうとう、自分から?!」
ヨシュアの顔つきは驚きから、口の端が吊り上がった、奇妙な笑み……歓喜の表情へと変わった。
「あぁ、そぉだ。お前にはやられたよ。まさか、ここまでカゲを引き出してるたぁ、思わなかった。おまけに、『闇の扉』の開きが、予想以上に早ぇ」
ヨシュアはニヤリ、と顔色を黒に染めた。してやったり、とでも言いたげに。
「ってことはよぉ、お前、もう、ほっとんど寿命、残ってねぇだろ?」
「……え?」間抜けな声を上げたのは、おれだ。
「くく、かかかか!」ヨシュアは奇妙に笑う。
「そうさ、僕の全存在を賭けてカゲを強めた……兄さんに勝つために……世界に復讐するために! そう、『闇の扉』さえ開けば、僕の命などどうなったって構いやしない!」
一瞬、金属が鳴り響く高音が聞こえた。
― バキィ!
ヨシュアが、ヨシヤさんに拳を振るわれていた。
「え?」それを見て唖然、二度目の間抜け声をあげたのも、おれだ。
おれ達の遥か後ろにいたはずのヨシヤさんが、瞬きすらする間もなく、ヨシュアの目の前に移動し、今、その拳を振るったのだから。
カゲ、と言うよりは、光を纏った姿で。
「そんなバカな真似は、させられねぇのよ」サングラスを少し傾けて放った、低く、落ち着いた、真面目な声。いつもの間の抜けた声では無い、筋の通った声。「お前の浅薄な欲望のために、この世界の均衡を破らせるわけには、行かないんでね」
― ドカッ!
ヨシュアがヨシヤさんを蹴り飛ばした。弾けるように吹き飛んだヨシヤさんのサングラスが外れて宙を舞い、地面に落ち、砕けて散った。ガラス片が砕ける音が、奇妙なほど誇張されて、おれの耳に届いた。
「分からないのさ、兄さんには……いや、分かって堪るか! 与えられなかった者の、奪われた者の苦しみが、悲しみが! 僕が命に代えても為さなければならないものを作り出したのは他の誰でも無い、兄さんだ!」
ヨシヤさんはゆっくりと起き上がると、あらわになった眼を僅かに擦った。
「霧人。お前のその苦しみ、克服したヤツが目の前にいんの、気付かねえのか?」
そう言って、ゆったりと指差したのは……
おれだった。
え?
思わず横のシュートを見た。指差した。こっち、じゃなくて? と。
「ぼぉず、お前だ……だぁもう、お前だっつの! 周り見渡すなっつの、誰もいねぇよ」
「は、はぁ」何と言うか、おれ、何か凄い失格な気がする。何かは分からないけど。なんでこんな時に、やる気のない大学生みたいな腑抜けた声が出るかね。アホか? アホだ。横にいるのは天才だけど。うん。知ってた。
「何を、こんな凡俗に、何が出来たって言うんだ!」
「そうだな」え?
「確かに、ぼぉずにはセンスもねぇ。閃きも、なにもねぇ」ほっとけよ。
「だからこそ、ぼぉずは努力した。己の弱さを知り、人から学んだ。そして、辿り着いた。俺たちがいけなかったところに、だ」
そう言ってヨシヤさんは、ニ、と笑った。
「良いか、霧人。俺はお前が思うほど、天才じゃない。何もせずにお前に勝ってたわけじゃない」
「ふざ」ヨシュアの言葉を遮り、ヨシヤさんは続けた。
「俺もさ、努力してたんだわ。そうだよ、必死に食らいついてくるお前によぉ、負けたくなくってなぁ。確かになぁ、俺にゃ少しだけ、天から授かった才能とやらがあった。でも、ンなのは、世間に認められる類の、学位だとか、賞だとかの、どうでもいい物を得る才能だ。くっだらねぇ才能だ。でも、お前はそれを羨ましがった。そして、俺の後にくっつく様にして、努力してた。分からねぇよなぁ、それを見てた俺がどんだけ、お前を誇りに思ってたか」慈しむような、震える声で、ヨシヤさんは言った。「なぁ、シュートっての? お前さんも、ぼぉずが、誇らしいだろ?」そう言い、こちらを振り返った。
「はい。おれの、最高の親友です。闇の中でも光を探し続けた、おれにとっての、英雄」
シュートは即答した。こっぱずかしい事を。
だが、ヨシヤさんは満足げに笑って言った。
「だよなぁぁ」
そして再びヨシュアに向き直った。「何でシュートってのがよぉ、そう言えるか分かるかぁ、霧人?」
「うるさいっ!」
ヨシュアは言葉を遮る様に叫ぶと、周囲に羽根を舞わせた。ヤバい。
が。
その瞬間、ヨシヤさんの身体が幾つにも増えた、様に見えたのはもちろん幻覚で、残像が幾つにも見えるほどの、麒麟すら凌ぐ速度で動き、ヨシュアの羽根を全て叩き落とした。おれ達カゲ使いと違い、光を纏ったその動きは、まさに光速、だった。
……なんだ、このデタラメな強さ。
最初から闘ってくれてれば、何かもっと、色々楽だったんじゃないの?
と思ったおれが、ヨシヤさんを若干怒りのこもった目で見ると、ヒゲモジャエプロンは髭に付いた血を拭きとっていた。
……え? 命、削ってるのは……あなたじゃないか!
「そんな、ヨシヤさん……やめて、やめて下さい!」
「ハッ……。気にすんな、ぼぉず。俺の、けじめだ」血を拭き取ると、あたかも何でも無い風にヨシュアに向き直ったヨシヤさんは、続けた。
「お前は、自らの弱さを否定しようとした。命を代価に、自らを強化する事で、強引に。そりゃ、そうだ、誰だって、弱いより、強い方が良い。だがな」と言って、首だけおれの方に向けた。「あのぼぉずは、己の弱さを受け入れた。あいつは、お前と同等のカゲを持ってる。でも、そいつは、あいつを認めた仲間に、半ば強引に託された事だ。そうだ。ぼぉず……新月マヒロは、俺たちが持つべき力の中で、いっとう大切な力を見つけた」
「なん……だと……?」
「お前の持つ力が、『摑み取る力』だとしたら、あいつが持つ力は、『受け入れる力』だ。人は、他の生き物を排除する事で生態系の頂点に立った。それは知性が生まれた瞬間からの必然だったろうに。けどな、それは先細りする、相手を削る行為だ。他の生き物は、そんな事、しねぇ。地球の知性って奴だろうな。必要以上を望まねぇ、弱さも悲しみも、抱えて生きる。それが、いっとう賢い生き方だって、俺は、さまざまな学問を学んで、ようやくそこに辿りついた。でも、あいつは自然体で辿り着いたんだ。あいつと、周りの人間の力で」
「ふざ、けるな……っ!」
ヨシュアの放つ瘴気が、一段と濃度を上げた。実体を持っているかの如く、濃密な瘴気が結界を張っているのが分かる。
「周りの人間だと?! 僕にはいなくて、彼には、いた?! そんなもの、そんなもの、認めてたまるか! 僕は、たった一人で、ただの一人で、ここまで来たんだ! 他には何もいらないと願い、口で語ることなど到底できない辛酸を嘗め、その果てに辿り着いた! それを……!」
おれは、彼の中にあった幻燈を思い出していた。彼を捨てた人達、彼から去って行った人達。それでも尚、世界に、ある意味で期待し、変えようとした彼の事を、思った。
「ヨシュア……さん」思っていただけでなく、声に出ていた。今言わないで、いつ言うのか。そんな気がしたから。「ヨシヤさんが、なんか、おれを、随分大層に言ってくれたけど、おれ、そんなんじゃない、です。最初に言われたように、おれは、本当のおれは、平の凡で、つまりは凡人で、センスも何もなくて、弱くて、卑屈です。ずっと、自分が一番、惨めなんだって思って、周りを僻んでたから。そう、シュートの影にいる月なんだって、自分では輝けない星屑なんだって思ってた。それまでのおれは、学校が、教室が、おれの世界の全てだったから。でも、そうじゃなかった。『ぺんぎんず』に入って、おかしな人たちと話して、自分の価値観、何度も揺らいで、時には崩されて、ようやく、世界の広さを少しだけ、知った」
そして、負の感情の塊であるカゲが身近にいると分かって、知ったこと。
おれたちが住む世界は、日常は、本当は酷く脆くて不安定だと言う事を。人が、何でも無い日常を維持するために、毎日働いて、時に泣いて、時に癇癪を起して、それでも必死に頑張っているのだと言う事を。
よく、学校の先生や大人が言う、『世の中甘いもんじゃない』って言葉を耳にした時、今のおれなら、「世の中はそんなにキチンとしたものじゃない」って言うだろう。
大きな地震があって、何の根拠もなく信じられていた幾つもの『安全と安心』が、全部嘘だって分かってしまった時、おれは絶望しかけた。世の中に出て行くことが、怖くなったからだ。
それでも、シュートは。
シュートは、変わらなかった。世の中がしっかりしていなくても、前を向いて、夢物語を語らず、自分が出来る事を、それまでよりもたくさんやる様にしだした。
今なら、何となくだけど、分かる。
シュートは、愛し尽くそうとしていたんだと思う。
この世界を疑っても、それでも、精一杯。
だから、おれは、眩しかったけど、シュートの横にいたかった。シュートにはなれなくても、側にいる事は出来ると思ったから。
そしておれは、かっこいい正解、ではなく、本当に思っている事、を言おうと、言葉を探す。
「ねえ、ヨシュアさん。おれ達って、たぶん全員が、自分のせいじゃない何かを背負って生きてるんです。生まれた土地、家庭の貧富、持って生まれた才能、容姿。そいつらが、運命って奴なのかもしれない。持って生まれた物が多いやつ、少ないやつ。でも、たとえ少ない方でも、それらを『受け入れる』自由が、世界と自分を愛する自由が、おれ達には、きっとあるんだと思うんです」
「はっ」ヨシュアは、鼻で笑った。「随分と語るな、新月マヒロ。そんな理屈、全ての人が受け入れるとでも思うか? ククク、夢想家もいいところだ。理不尽や不幸、差別や貧困をひっくり返したいと願うのが人間だ! それとも、君は全ての人が、それら全てを受け入れられるとでも言うつもりか?」
「無理です」
即答した。だって、答えは、おれの中で出ていたから。
ヨシュアの顔が、引きつった。
ヨシヤさんは、満足げにおれを見ている。
シュートは、真っ直ぐにおれを見ている。
「百人を苦しめる方法はいくらでもあっても、一人を救う方法は全然見つからないから」それが出来たなら、人は、もっと楽に生きられるはずだから。「でも、だからって側で苦しんでいる人を助けたいと思うのは止められないし、おれより理不尽や不幸な目に遭ってるけど、前を向いて一生懸命生きてる人は、きっとたくさんいるし、それに」緊張してたのか、すっかり口の中が渇いていた。当たり前だ。おれは今、おれが正しいか分からずに喋っているんだから。「おれ、ずっと被害者のつもりだったけど、でも、それは違った。違ったんです」
― おれの人生、本当に、にがじょっぱい?
いいや。そのにがじょっぱさも、しっかり味わえば、中には、甘いのも、辛いのも、ちゃんと入ってた。
「おれが被害者の時があるなら、おれが加害者になる時も、きっとあります。偶然であれ、何であれ。ヨシュアさん、あなたは疲れてしまったんです……そして、敵を、作ってしまったんです。居場所のない自分に気づいて、それで自分の立場を安定させたくて、この世界そのものを敵と見做した。あなたは言ってた、最初は自分も世界を好きだったって。あなたは真っ直ぐ過ぎただけです。疲れたら、休めば良かったんです。メロスだって、倒れたところに湧水があったから、また走れたように」
「黙れ!」
ヨシュアが金切り声で叫んだ。
「黙れ! 奇麗事に浮かれるガキ、人生のなんたるかも分からぬガキが! 理屈や論理で、人間の恨みや憎しみが消せるものか!」
「そんなの、消せないし、消えない! でも、だからって、自分以外を呪っていい訳じゃないし、あなたの人生の全てが、恨みや憎しみだった訳でもないだろ! 生きて来て、全部が全部、辛かったわけじゃないだろ、どうして暗い方ばかりを見るんだ! どうして、自分の丸ごとを受け入れないんだ! 自分の嫌いなものだけ排除する事なんて、出来やしないんだ! 醜さや弱さだって、おれ達の一部なんだから!」
「黙れ! 黙れ、黙れ、黙れ、黙れ……」
ヨシュアの声が、徐々に小さくなっていく。
「霧人。わかったろ? ……マヒロは、憎むことしかできなかった俺たち兄弟が出来なかった事、辿りつけなかった答えを、親友と二人で、しっかり導き出してくれたんだってことが」
ヨシュアはうずくまり、両手で顔を覆った。モノトーンのホールに、ようやく静寂が訪れた。
それを見たヨシヤさんが、弟に近づこうとした、その時。
「バア」と、手を開いた。半月形の笑みを、口に浮かべて。その歪んだ笑み。おれは邪悪な予感に嬲られた。
「ククク、兄さん。それに新月、日向。勝ったと……思ったか?」と、心底愉快そうに言うが早いか、気持ち悪い速さで後方に飛びのいた。草むらのバッタか。あんた。
……ただし、最凶ってオマケつきのバッタだけど。
「霧人……お前、まさか!?」初めてヨシヤさんの声に驚きが混じった。
「そうさ、兄さん。何の策略もなく、僕が君たちをここに入れたとでも思っていたか? ククク、思っていたより御目出度いな! 時間稼ぎをしていたのは、僕の方だったんだよ? 兄さん。ようやくだ。ようやく……」
ヨシュアは地面に手を置くと、そのままスイッと上に伸ばし、己の背後に強大な暗黒の渦を作り、いや、呼び出した。地面に生えたそれは、禍々しい瘴気に覆われた、高さ三メートルほどの、上部が丸くなっている、扉だった。
「ククク、ようやく兄さんを殺せる。クカカ、追い詰められたのは、実は自分だったって気分は……どうかなぁ?」
「闇の扉……この間に、開いてやがったのか!」歯噛みしながらヨシヤさんが叫んだ、そこまでが、目で追えた最期だった。
そこからは、一瞬の出来事だった。
ヨシュアが暗黒の渦からオーラを吸い取り、周囲を……カゲの世界そのものを崩壊させるほどの衝撃波を、放った。
「この世界に満ちた憎悪……暗黒の波動……受け取れぇぇっ!」
最初にヨシュアと対峙した時の、何千倍も上の憎悪を感じ、その感情に驚くより速く、衝撃波がおれにぶち当たった。咄嗟に麒麟の力を防御に全て回したが、それでも全身が焼かれる様な、砕かれる様な、異様な衝撃を受け、おれ達は埃でも払われるみたいに容易く吹き飛ばされ、ホールの壁に叩きつけられた。眼を開けられない衝撃を受けつつ、おれの耳には火山が噴火するみたいな、滝が落ちるような、轟音が残っていた。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
一秒が一分に思え、一分が一時間に思えた、この世の理を超えた衝撃波を受けた後、まだ生きているって信じ難くも何とか起き上がったおれが眼にしたのは。
全身、消し炭みたいになりながら、おれ達二人の前に仁王立ちしていたヨシヤさんだった。
「……っ! ヨシヤさんっ……!」おれは、もう泣きそうだった。同じことの繰り返しが、多過ぎて。
「よぉ、ぼぉず……生きてたか。よかったぜぇ……」言うなり、膝から落ちた。
― ドックン。
おれは、おれは、また、救われて、誰かを犠牲にして。もう何度、同じ事を繰り返せば気が済むんだ……?!
心が、潰れそうになった。麒麟が薄くなる。
だが。
「ヨシヤ、さん? 大丈夫、ですか」
シュートが、おれの横にいた。崩れ落ちるヨシヤさんに素早く駆け寄ると肩を貸し、身体を支えると同時に『黄龍』を解放し、傷を癒そうと動いていた。
……はは。
お前ってヤツは。そうだな。やれること、やるんだよな。いつだって。
おれは、頭をクシャクシャと掻き毟った。ったくよぉ! 負けらんねぇなぁ! 親友!
「シュート、チェンジだ。黄龍より麒麟の方が回復には優れてる」おれが抱え、麒麟を再動させる。
「そうなのかい、マヒロ?」
「ああ、さっきのお前の動きを見て思った。お前の方が戦闘に優れてる。素早さとか、力とか。麒麟は防御、回復に長けてる。同じ四神の合一でも、微妙に違うみたいだ」
「そっか。さすがだね。お願い、マヒロ」
だが、ヨシヤさんは僅かに首を振り、言った。
「俺は、良い……霧人は、どうなってる……?」そこで初めて、おれは視線をホールの反対側に向けた。
闇の扉の手前。ヨシュアが立っていた場所には、暗黒の、塊がいた。
人としての形など、とうに消えた、不可解なほど膨れた、醜い暗闇の塊が、ホールの反対側に蠢いていた。全ての光を吸収してしまいそうな、見ているだけで寒気がする、文字通りに暗く黒い、暗黒の塊が。ぶくぶくと膨らんだり縮んだりを繰り返し、表面に幾つもコブの様な物を造っては泡のように弾けたり収縮したりを繰り返している。
……キモい!
あ、ぺんぎん堂を真っ暗にした様な感じ。
「奇妙な、カゲの塊、みたいになってます……なんだ、なんだか、分からない……」そう。アイツが持っているのは、キモさだけじゃない。見ているだけで思わず汗ばむ、圧倒的な威圧感、生き物の本能として感じる、息が苦しくなるような圧迫感……。「でも、なんだ……?」おれは疑問に思った。
これだけの威圧感を備えながら、塊は、おれ達を攻撃してこない。ヨシュアが放っていた殺気はなりを潜め、塊はただただ、膨張と収縮を繰り返しているだけだ。
「そか。あいつ、失敗したな」ゆら、と、回復しつつあったヨシヤさんが立ちあがると、呟いた。「闇の扉の力、取り込んだは良いけど、抑えきれなかったんだ。自我がカゲに喰われちまってる……あのままじゃ、今の、このカゲの世界もろとも暴発して、現実世界にカゲが溢れ出ちまう」
「そんな……」
ダメだった、のか。届かなかった……おれの、おれ達の、力が。
「……下がってろ、ぼぉず。もう、良いぜ。お前さんは、良くやった」
え?
「こっからは、大人が始末をつけるターンだ」
「ヨシヤ……さん? 何を……言ってるんですか?!」
ヨシヤさんは、黙ってズボンのポケットから、細長い筒を取り出した。
おれが、カゲを切り取った時の、あの筒だった。
「アイツと俺は、兄弟として、同じカゲを持つ者として生まれ、育った。だが、才能には個人差ってもんがある。アイツは、それに耐えられなかった。俺もまた、アイツを救えなかった。俺達は、大人になればなるほど隔たって行っちまった。互いをこんなにも思うのに、憎しみを向け合うことしかできなかった。挙句に、世界の均衡をおかしくしようとしちまってる。アイツ、放っておいたら、最期まで、憎しみを撒き続ける事になっちまう」寂しげに、笑った。おれが、初めてぺんぎん堂に入った日のように。
「なぁ、ぼぉず。お前さんは、俺達と同じくカゲを宿しながらも、それを超えてくれた。俺達が出来なかった事を、成し遂げてくれた。みんなの力を借りてだが、辿り着いたお前さんのカゲは、お前さんだけのもんだ……俺の、俺達の出番は、終わったよ」そう言って、優しくおれの頭を撫でた。
満足げに笑って、言った。
「ぺんぎんずの、俺達の心、背負って全力で生きろ」
ヒゲモジャはニィ、と笑ったかと思うと、おれの目の前に残像を残し、暗黒の塊の手前に移動していた。
「……なあ、霧人。俺、美味いコーヒー淹れるのは、お前に勝てなかったんだぜ……?」そう言って、筒を開け、同時に自分の光を……解放した。
白黒の世界を、暗黒の塊を、眼も眩む閃光が切り裂き、虹色のオーロラが辺りを包んだ。
それは、全てが夜の帳に包まれた暗黒の世界を、一瞬だけ総天然色に塗り替えて、消えた。
霧島義哉が、己の全存在と引き換えに放った、刹那に煌めく、生命の輝きだった。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
「……大丈夫かい……マヒロ?」
光の向こうから、おれを呼ぶ声が聞こえた。そうだ、いつも聞いていた、いつもおれを呼ぶ……太陽の、声。
「お前こそ、な……」
「うん」
「終わった、のか……」
「たぶん。おれ達を遺して……」
眩い光の中、おれ達は手を伸ばし合った。
― ザウッ。
「な」
伸ばしたその腕に、激しい熱を感じた。
「シュート?!」
シュートも、同様だった。伸ばしていた左腕を抑えている。攻撃を、受けたのだ。おれ達は。
まさか。
閃光の奥を振り返った。
白と黒の人型が、揺らめいて立っていた。
まさか。
あれだけの光、カゲを断ち切る光を吸収した、カゲがいるってのか……!?
だとしたら、そいつは、ヨシヤさんの光と、闇の扉の暗黒とを内に秘める、カゲと光を備えた、完全な姿となって、ここにいる事になる!
日本人には足りないとされる危機管理能力をフルに発揮させておれは光の向こうを睨んだ。
……え、あれって……。
……お、れ? おれじゃ、ないのか? 遠くに置かれた鏡を眺めている気分だった。背丈も容姿も、おれに瓜二つの人型が、閃光の奥に立っていた。
いや、違う。あれは、幻燈の中で見た、若い頃の、ヨシュア……!?
そいつは、もう語らなかった。
次の瞬間には、おれの目の前に来ていた。
真新しい鉄に良く似た、黒い身体から、灯篭流しの灯りの様な淡い燐光が放たれている。顔には鼻も眼も無く、ただ笑った口が下弦の月の如く張り付いていた。
そして、こちらの顔を狙った、拳が放たれる。あれ、問答無用?
かわす。
蹴り。
モーションを見て、飛びのく。
しかし、氷上を滑る様に一瞬で、間を詰めて来る。
やる気か。なら。
迎え撃つ。拳と拳がぶつかり合う。重たい金属音が響き、火花が散る。
「……っくっ!」 こいつ、強え。おれと同じか……いや、それ以上か。
「マヒロっ!」おれの危機を見たシュートが天叢雲剣を取り出し、構えた。
「ダメだ! 下がっててくれ、シュート!」火花散らす拳の打ち合いの中、おれは叫ぶ。
「っなんでっ!?」既にモーションに入っていた剣を、慌てて止めた。
「こいつは……おれだ!」
「え!?」
本当は、最初に対峙した時から感じていた。ヨシュアに言われたから認めたくなかっただけで。
ヨシュアは、おれ自身の映し鏡だった。おれの、もう一つの可能性。そうだ。
おれが、ヨシュアになることだって、あり得たから。
カイさん、ゴウジ、キノ、ジュンさん。要、ヨシヤさん、シュート。そして、おれが出会った人達、生き物。
それらが、おれをおれとして埋めてくれた。ヨシュアとおれの違いは、それだけだ。十字路で、カゲの先に行くか、行かないか。本当に、それだけだ。だから。だから、さ。
「だから、こいつは、おれが止める! 止めなきゃなんないんだ!」あっぶね。きわどいアッパーをスウェーでかわした。今の、あぶね。
「……!」シュートが迷っているのが分かる。
「それに!」頭を小刻みに振って相手の狙いを外す。「おれはまだ! まだ何も、成し遂げてない!」
― バチィ!
頬に被弾し、口の中が切れて、血の味が広がって行く。でも、それよりも、悔しさが喉につっかえている。人に、心を、命まで託されて、ここまで来たのに、おれはまだ、何も……!
だから。
麒麟。おれは今、お前の力を、完全に開放する。カゲの持つ超人的な力に、おれの理性を融合させる……!
「シュート! 見ててくれ! おれが、おれを超えるところ! お前だけは!」
「!」シュートが下がった。「分かった……頑張って! マヒロ! 見てるから! おれが!」
ああ。サンキュ。すまないな。最期まで、我がまま言って。そして、聞きいれてくれて、ありがとう。
だから。おれは……勝つよ。
お前の、信じてくれたものの、証明のために。
おれ自身が、積み重ねてきたもののために。
おれは、勝つよ……!
拳の乱打から一転、カゲが繰り出してきた恐ろしい切れ味のハイキックを、すんでのところで首を捻ってかわす。ったく。容赦なく狂気を人に向けやがって。って言うか、さっきから数発入ってるけどな!
ニタ、揺らめきながら、影は笑う。
楽しい、のかよ。お前?
こんな、人との殴り合いが、相手を殴った感触が、傷つけあうのが。楽しいのかよっ……!? 力あるものが、傷つけあいで勝てる方だけが抱く優越感と満足感で、自分を愉しませてんじゃねぇ!
「らぁぁっ!」
右のストレート。返しの左フック。連打が入り、相手がふらついたところに、蹴り。右フック、と見せかけて左のミドルキック。まとめて入り、弾ける影の身体。
勝機。
に、見えて。
影は、笑っていた。
突っ込んだおれに、のけぞった体勢の相手から、右のアッパーが繰り出される。カウンターになって、側頭部を直撃された。
「マヒロぉぉっ!」
あ、シュート……。なに、青い顔して、叫んでんだ? あれ、目の前の影、楽しそうだなぁ。ていうか、やべ、意識、飛ぶ ―
― 俺達の心、背負って全力で生きろ
……飛ばすな! 意識ぃ!
歯を食いしばり、倒れかけた身体を、脚を強引に踏み出してふんばる。頭を振って、眼を凝らす。
おれはさ、託されたんだろ、こんなおれに託したんだろ、みんな、ちくしょう、本当はおれ、そんな器じゃないって、フナムシみたいなやつだって思ってたけどさぁ! 信じられちまったんなら、やるしかないだろ、おれ! いつまでも、フナムシのままでいるわけには、行かないんだ、よぉ!
暗闇の中から、これまた黒い拳が伸びて来る。おれを、狩りに。
……見えてンだよっ!
拳と拳の、交差。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
― 君は、生きるのか。この、歪み切った、分かり合えない世界で……?
「そう、だね。人は、誰とも分かり合えないまま生きて行くのかもしれない。分かり合ったと思うのは、本当には幻想かどうか、確かめようがないから。自分の心さえ見えないのに、相手の心が見えるわけがなくて。でも、だからって、誰かに手を伸ばさないってわけには、いかないんだ」
― なぜだ? 無駄と分かって、なぜ?
「おれ、まだガキだからね。無駄かどうか、分かんない。おれが、おれの身体を、心を、丸ごと使いきろうとしたらさ、やっぱり、手は伸ばすんだよ。それに」
― それに?
「誰かと手を繋いでたら、独りだけど、一人じゃないって、とりあえず、分かるじゃん」
― 伸ばした手を、撥ね退けられたら?
「時期を見て、また伸ばす。どんな時でも言える、正しい答えなんて無いよ。時と、場合と、相手を考えて、おれ達は泣いて、笑って、生きて行く」
― きっと、そう、か。
「ああ。あなたが一度は愛そうとした世界、おれはもう一度、信じる。だから、今まで……お疲れ様。霧島、霧人。そして、もう一人の、おれ」
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
― ピキ!
影の拳は、おれの顔の右隣。
おれの拳は、影の顔を、射抜いた。
ヒビが入り、砕けて行く、影。
さっきまで命のやりとりをしていた相手なのに、おれの眼には、その姿は、悲しく思えた。
「……さよなら。いつか、また、どこかで」
そう呟いて、胸の前で握りこんでいた拳を、少し緩めた。
「やったね! マヒロ!」シュートが、全身から溢れる喜びを隠そうともせず、駆けよって来て抱きついてくる。「見てたよ。おれ、見てた。君が、君を超えるところを」鼻をつまらせながら、興奮気味に言う。
「ああ。ありがとう……お前のおかげだ」情けなくも、力を使い果たし、半ばシュートにもたれかかりながら、応える。
「すごかったよ、ほんとに、本当に凄かった……おれの声なんて、祈りなんて、何の力にもなってない。君の力と、心だよ、マヒロ……!」
「おだてんな、むずかゆい」
「本気だよ?」
「だから、くすぐったいんだって」
「はは、そっか。でも言わせてよ、おめでとう。マヒロ。カッコ良かった。最高に」
「さんきゅ。でもそれ、要に言って貰いたかったわ」
「あはは。ひどいなー。おれで勘弁してよ、今は」
「ああ。でも、もう一個、だな。やんなきゃなんない事」
そう言って、おれは闇の扉を見やる。
ヨシュアの最期の自我によって開かれた、暗黒の扉からは、幾万、幾億とも知れない、人とも獣のものとも取れない、異様な呻き声が溢れ出ていた。いや、呻き声なのかどうかすら、怪しい。
扉の向こうには、黒にこんなにも種類があったのかと思える、様々な明度の暗黒が波を打ち、渦を描いていた。
「あれ、何とかしないと、元の黙阿弥だろ? あんな不気味で不吉なもん、みたことねぇ」
「うん……」
でも、どうしたらいいんだ?
ヨシヤさんの持っていた、圧倒的な光でも消し去る事は出来なかった。カゲしか持たないおれ達二人だけで、何が出来るんだ?
くそ。
考えろ、おれ。考えろ。
この身体が引き千切れても良い、生命が無くなっても構わない、何とかしてアレを止める手段を……
「大丈夫だよ、マヒロ。心配しないで」
「え」
シュートは、純度百パーの笑顔をおれに向けた。
「あの扉はね、特別な力を持つ影法師だけが動かすことができる。それに、光と闇の均衡のために、幾重にも張り巡らされた封印がしてあった。だから、こっちの世界から開けるのに、ヨシュアさんはさんざん苦労した。でも、その扉が蓄えていた力も、さっきの騒動で、随分と減った。今なら……そう、一度は影法師になったおれでも、あの扉は」
その笑顔。決意を秘めた、その笑顔。
まさか。お前。
「ごめんね、マヒロ。帰ったらさ、ヨシカに、会えなくなっちゃった、ごめん、って言っておいてくれる?」
寂しげな笑顔に変わったと思うと、寄りかかっていたおれを座らせ、扉の方へと、跳んだ。穏やかな風が、羽毛を舞わせるような滑らかさで。
「ふざけろよ……シュートぉっ!」
「うん、一世一代の勝負、してくるね? 今までありがとう、マヒロ」明るい色の天然パーマをふわりとさせ、振り返る。「それと、ごめんね」
「あや、まる、くらい、ならっ……!」
言葉にならなかった。眼からしょっぱいものが零れて、鼻からも、それは溢れて、喉の奥が苦しくて。
「生きようって、一緒にいてって、言ってくれて、ありがとう。君の大切な人を、君自身を傷つけた、こんなおれに」
「おれは、おれ、お前に、お前を助けたく、て!」
「マヒロ。小さい頃は頭でっかちで、頑なで、おれが呼び掛けに行って、初めて外に出て来るくらい、面倒くさがりだったね。でも、もう大丈夫だよ。マヒロはもう、一人で、なんだってできる。おれが、保証する」
「おれは、お前を……!」
「おれは、生きて来て良かったって、本気で思える。大好きなマヒロに、会えたから。そして今、君の未来の為に、おれにしか出来ないことがある。それを想うだけで、おれはこんなにも心強い気持ちになれるんだ。だから、ね?」一瞬、眼を閉じると、目じりに皺が出来るほどの笑顔になると、暗黒の中へ進んで行った。
闇の扉、禍々しい瘴気の中へ。そして、両開きの扉が、ゆっくりと閉まろうとしていた。
そして、日向秀人は、静かに言った。
「さよなら……マヒロ」と。
大好きだぞ、バカ。
いや、天才。
扉は、音もなく、完全に、閉まった。
影法師の世界が、静かに崩れて行った。




