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飛べない鳥の唄  作者: ぴーくおっど
15/30

巨獣と粗雑と大晦日。

  カゲ世界の『ぺんぎん堂』は、怪物の身震い一つでいとも容易く全壊した。


 ……信じらんねぇ。

 いくら廃墟寸前のボロ喫茶とはいえ、生き物にそんな事が出来るわけがない。ない。ないだろ。普通。


 そして、濛々と立ち込める白煙の中から、ゆっくりと、巨大な怪物が姿を現した。


 四足の、巨大なトカゲの様な姿、大きさは肩までの高さで5メートルは優にあるだろう。世界最大の爬虫類、コモドオオトカゲの手脚を長くして、マッチョさとバイオレンスを足した感じ。剣と魔法の世界でおなじみの、下級な羽根なしドラゴンを思い起こさせる、獰猛な体つき。ていうか獰猛だ。コイツが羊のように大人しかったら、ある意味詐欺だ。オレオレ詐欺。

 ボディビルダー、或いは超兄貴を彷彿とさせる、逞し過ぎる四足には、禍々しい五本の爪が生え、その脚は、一歩踏み出すだけで軽く地震が生じる。なんつー恐ろしい質量。

 ガァァ、と咆哮を続ける口には、一本一本が鋭い太刀の様な、凶悪極まる牙が生えそろっている。身体のあちこちには、退化した翼の様なデッパリが生え、それがまた、威圧感たっぷりだ。


 その背中に座り、心底愉快そうに笑っている、まだ声変りもしていない幼い子供。どこかのテーマパークでかかっている、子供向けの合唱曲を歌っている。

 なに、その凶悪さと無邪気さのギャップ萌え。

 ……いや、全くを持って萌えねぇよ。

 

 おれは、最初に吹き飛ばされた時に痛めた肋骨を押さえつつ、立ちあがって真正面から相手を見据える。

 まさか、ぺんぎん堂に直接影法師が来るとは。しかもこんな怪物が、いきなり。参ったね、こりゃ。


 ……勝てる気がしない。


 よくさ、RPGゲームとかだと、主人公が一人でドラゴンに立ち向かって、挙句にあっさり何頭も倒して経験値稼ぎとかしちゃうけど、あれは全く童話的なウソップ物語だね。だいたい、怪物をたくさん倒せば、経験によって勝手に主人公が強くなっていくってのは、一体どういう理屈、経験したって成長しない人だっているんだぜ、とか思っていると。


― ド! ゴォォォォンン……!


 くだらない事に思考を取られた隙に、猛り狂った怪物が突っ込んできた。

 またしてもぎりぎり、横っ跳びでかわした。

 電柱が、コンクリの壁が、紙屑のようにペシャンコになってる。一撃で致命傷だな。

 うわぁ。正直、逃げたい。

 わき目も振らず遁走したい。命を大切に。

 

 ……ははっ。

 なんて、ね。ここで逃げたら、おれに全てを託して消えて行ったカイさんに、顔向けできねぇっつの。だから、おれは。


― シュイキィン! 虎徹を、取り出す。やるっきゃ、ないだろ。


 グゴォォォ!

 怪物はまたも、突進してくる。疾い。巨大で速いって。反則じゃね? おれは斜め後方に跳び、二階建ての建物の屋根に乗る。突進で勢いづいた怪物の両前足が降り上げられ、降ろされる。


― ズガァァァン!

 空振りしたその脚が起こす、凄まじい衝撃。まさしくバイオハザード。


 グゥゥ……。

 一瞬、怪物はおれを探して辺りを見渡し、屋根の上のおれと、眼が合う。血走った、凶兆をたっぷりと孕んだ、カゲの魔物の、眼。


 グボォォォォ!

 耳を塞ぎたくなるほどの咆哮。のち、突進。

 再び跳躍する。三つ隣の建物へと飛び移る。眼を合わせた時におれが立っていた、二階建て建物が、突進を受け、分厚い音を立て、粉々に崩れ去るのが、肩越しに見える。

 おいおい。このままじゃ、白黒の世界が壊されちまうぞ。ったく。いつまでも闘牛士のマネごとなんか、してられるかっつの。


 虎徹にカゲを集中させる。

 『夜半』は、こないだの闘いの時に、大体の要領を摑んだ。

 白虎の「超速」と、ソウルオーガの「剛力」を重ねるイメージ。

 おれが身に纏ったカゲが、墨を流した漆黒から、輝く淡い青色に変わって行く。身体の周りに、つむじ風が巻き上がる。


 またも猛り狂って突進してきた怪物に向かって、超速の跳躍。怪物の背中の高さまで。

 体感時間が、縮まっている。景色がスローに見える。その中で、おれだけが等速で動けるのが、分かる。怪物の背中に乗っている少年と眼が合う。驚きに見開かれた眼。

 そう。お前、倒せばいいんだろ?

 虎徹を振りあげる。


― でぇぇっ!

 上段の構えから、弧を描いて白刃を振りおろす。

 もらったぁ!


 ……が、すぽん、と少年は乗っていた怪物の背中に溶けて消えた。

 咄嗟の不可解な出来事に慌て、空中でバランスを崩したおれは、怪物の背中に身体をしたたかに打ちつけ、地面に転がり落ちたところ、そのまま強靭な尻尾を振りおろされて薙ぎ払われ、家屋の壁を突き破る形で倒されて、そのまま衝撃で倒れた家具の下敷きになった。


「うっわー、お兄ちゃん、すっごいなぁ! すっごい、速いね! ぼく、やられちゃうかと思ったよぉ~!」

 白黒の箪笥の下敷きになっているところに上から声がかけられる。

「でもね、ぼく、ベヘモスはさ、一心同体なんだよぉ~。ごめんねぇ~。またチャレンジ、してくれる~?」


 そんな少年の、甲高い笑い声が聞こえた瞬間。

 不気味な予感が背筋を走り、箪笥を跳ね除け、立ち上がった。


 視線の先、ヌゥ、と巨大な前足が振り下ろされる。一気に潰す気か!

 このっ!

 ……グァギィ!


 両手にカゲを集中させて力を倍増、何とか抑えた。

 しかし、凄まじい重圧が全身に圧し掛かる。なんだ、この重さは……? 明らかに、見た目と質量が合って無い。


「ひゃぁぁ、すごいよ、お兄ちゃん、早いだけじゃないんだねぇ! 力持ちぃ! 負けるなぁベヘモスぅ! 押しつぶしちゃえっ!」と、どこまでも無邪気な少年の掛け声とともに、俺の全身にかかる重圧は増していく。

「お、お前、キノと友だち、なったんじゃないのかよ」

 両腕に渾身の力を込めて、何とか潰されそうなのを堪えながら、必死に声を絞り出す。


「利用したのか、あの子を!」

「え、どうして? 友だちは友だち、だよ?」

 悪びれた様子もない声が聞こえる。重圧で、足元の畳が突き破れていく。

「ただぁ、あの子よりぃ、お兄ちゃんの方が遊んでて楽しそうだったから、ちょっと浮気? しちゃった。シュートさんには悪いんだけど、ね~」


 これ、これが、遊びかよ。

 時雨といい、ド変態野郎といい、厚化粧といい……影法師ってのは、どうやら感覚の部分で、大いに間違ってる。なんて思っているうちに、足元は畳を完全に突き破り、その下のコンクリの土台も砕け、地面にまで、脚がめり込んでいく。くそ。

 これ、マズい、な?


― ドゥッ!


 唐突に、何かが弾けるような音が上の方で鳴ったと思うと、不意に身体の重圧が軽くなった。

 顔を上げる。怪物が後退している。おれの後方から、青白い光弾が次々と飛んで来ては、怪物に当たる。怪物がよろめき、後退していく。

 どういう、こと、だ?


「マヒロくん!? 大丈夫?!」

 訝しんでいたおれに、ジュンさんが呼びかける声が聞こえる。声の方、上を見上げると、ジュンさんを乗せた朱雀が上空から舞い降り、こちらに向かっている。

 だ、大丈夫です、なんとか。そう言おうとした時、なおも光弾が怪物に当たる。グボォォン! 怒り狂っているのが見て取れる。

 ジュンさんは朱雀を急降下させ、手を伸ばすと、まるで軽業師の様にヒラリとおれを拾い上げると、煌煌とした赤い輝きを放つ朱雀を、再びモノトーンの空へと舞いあがらせた。

「ごめんなさい、助けるの、遅くなっちゃって」

「そんな、助かりました」

 朱雀に二人乗りして上空から怪物の様子をうかがう。

 あ、こんな時まで『ジュンさんにしがみつけてる! 身体やわっけぇ』とか思ったおれは、軽く死んでいい。おっぱい触ってみたいなぁ、とか一瞬でも思ったおれは、特に念入りに死んで良い。

 なんてことは置いておいて、光弾を放ったカゲを見ると。


「キノ?!」

 怪物と向かい合っている、巨大な龍の形をしたカゲの背に乗っているのは……あのフリルのヒラヒラスカートを履いた、金髪の人影は、どう見ても……キノ、だ。

「そう、キノよ……。あなたが、あの男の子に襲われたのを見たら、『キノも闘う』って言い出して、聞かなくて……。あれが、あの子のカゲ、『青龍』よ」


 キノを背中に乗せたカゲは、全身を青く輝く美しい鱗で覆われ、蛇のように長い胴体に、ダチョウの様な四本の足を生やし、背中には、青の鱗の上に更に緑色の鮮やかな毛が生えている。眼は金色の鋭い光を放ち相手を見据え、口元からは青白い炎が呼吸と共に、絶え間なく噴き出している。絵画などで見る龍と違い、鼻の処にヒゲは生えていないが、額には、オスのシカの様な角が二対、天にそびえたつ様に生えている。

 青龍と怪物が睨みあうこの状況、『怪獣大戦争』なんて映画を取りたければ、今すぐここにカモン、という有様だ。


「キノって、本当に強かったんだ…」

「あの子の力は、危険なの。本当は、使わせたくなかった……」苦々しい顔でジュンさんは呟く。

「あの子の事、少しは聞いたかしら? あの子には、恐怖心が無いの。本人だって覚えていない、今よりも小さい頃の、トラウマでね。だから感情の暴走を、すなわち、カゲを抑えきれないのよ、自分で」

 そう言って、スカートの中から携帯を取り出すと、後ろ手でおれに渡した。

 え、あの、スカートの中の携帯を顔に当てられるって、何、ラッキースケベ? 薄めの。

「今、キノに繋がってるわ。出てあげて?」

「え?」

 素っ頓狂な声を上げてしまったおれが、慌てて携帯を耳に当てると、

「もしもーし! マヒロぉ?! ねーねー! もしもーしっ!」

 携帯からは一瞬呆気にとられるほど元気な叫び声が漏れていた。

「も、もしもし?! キノ?! キノなのかい?!」

「あー! マヒロ、おっそーい! ねー、げんき?!」

「え、あ、まぁ、うん」

 答えながら下を見下ろすと、青龍の背中でぴょんぴょん跳び跳ね、大きく手を振るキノが見える。思わず、手を振り返す。

「ねーマヒロ、キノ、かっこいいでしょ? かっこいいよね? ね?」

「あ、ああ、うん、かっこいい。おかげで助かったよ、キノ」

「ほんとー! ありがとー! マヒロがほめてくれたー! キノ、すっごい、うれしいー! やぁったぁー! よーし! もぉっといいとこ、みせちゃうからねー!」


 はしゃいだキノが手を振りかざすと、青龍はなおも口から青白い光弾を吐き続け、怪物を圧倒して出した。

 しかし、怪物は低い唸り声を上げ、威嚇の様な姿勢を取っている。あれは、見た目こそ派手だけど、あいつ……ほとんどダメージ、受けていないじゃないか。


「無茶するな! キノ!」携帯に向かって叫ぶ。同時にジュンさんにも呼び掛ける。

「ジュンさん、朱雀で上から回り込んでください、やつの死角から、仕掛けます」

「えー? へーきへーき! ね、みててね、マヒロ! いっくよー!」

 

 だが。

 ドガァ!

 光弾を防ぎつつ前進してきた怪物が、遂に青龍と真正面からぶつかり合った。前足で青龍を殴りつけ、青龍は何度も頭突きを繰り返し、牙を突き立てている。

 が、力技では怪物が圧している。連打を食らった青龍は苦しげな声を上げ、後ずさる。怪物は、すかさずそこへタックルを当てる。

 耳をつんざく轟音、そして青龍は吹き飛ばされ、建築物を幾層もぶち抜き、横倒しになった。口から苦しげにカゲを溢れさせ、起き上がろうともがいている。


 そこへ怪物が、驚くほど身軽に跳び上がって、跳躍の力も加えた膝蹴りを決める。


― ギャァァァ!


 叫び声を上げた青龍に、瓦礫が山と崩れ落ちた。

 それでも、青龍は立ちあがろうと必死に手足を動かそうとしたが、瓦礫が邪魔をしている上に、ダメージが大きくて身体が言う事を聞かないのだろう。やがて大きく痙攣したように身体を震わせ、ドォ、と手足を投げ出し、動かなくなった。

 巨大な青龍のカゲが、ゆっくりと縮まるように消えていき、傷だらけの小さなキノが一人、瓦礫の中に横たわっている。

「う、うぅん…」

 どうやら、気を失っているようだ。


 怪物は勝鬨の声を上げ、胸をゴリラのように叩くといざトドメ、とばかりに空高く跳び上がった。

― ゴォアアァァ!

 空中で素早く体制を整え、とび蹴りの姿勢を取った。

 ……ところへ、虎徹の斬撃。

 甘いだろ、この単細胞マッチョ。


 遥か上空に舞い上がった朱雀から飛び降り、急降下の勢いを利用しつつ、真一文字に打ち降ろした斬撃は、怪物の左半身を直撃、そのまま鈍い音を上げつつ、巨大なカゲを斬り裂いて行く。


― グギャアアァァァ!!


 そのまま地面に達するや、握りを反転させ、着地の反動を利用して、今度は切り上げる。巨躯から、鮮血のようにカゲが噴き出す。


 ……天空剣、必殺、Vの字切り。なんてな。


 どう、と波打って巨体が倒れる。

 

 ぺんぎんず、なめんな。

 

 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


「キノ! キノッ!!」

 大声で呼びかけながら瓦礫を押しのけていく。カゲを纏った状態なら、ユンボ顔負けの仕事ができる。ヤン坊マー坊、真っ青。


「キノっ!」

 傷だらけの少女が倒れているのを見つけ、駆け寄る。


「しっかりして、キノ! もう大丈夫だよ!」

 抱きかかえ、なるべく優しく頬を叩く。

 ゆっくりと、目が開いて行き、焦点がおれに合う。

「ま……ひ、ろ……?」

 マリンブルーの美しい瞳に、小さな光が宿っている。安堵のため息が、漏れる。

「キノ、良かった……」細く小さな手をギュ、と握り締める。

「良かった、ほんと良かった」

「マヒロ? ないてるの?」

 小さな手が、今度はおれの頬に触れる。

「キノ、がね、なぐさめて、あげる、よ……?」そう言うと、力なくニコっと笑った。

 そのまま首をカク、と落としてしまう。

 ……キノ?

「大丈夫、気絶しただけ、よ……」

 いつの間にか、隣に来ていたジュンさんが、優しく声をかけてくれた。

「ホンっトにもう、無茶しいなんだから、あなたも、キノも」


 ……あぁ、笑顔だ。百パーセント笑顔だ。


 ……ジュンさんは、笑顔の時が、一番、怖い。

 何をされるのかとビビり、縮こまっていると、頬っぺたをプニ、とつつかれた。あれ?

「なぁに、ビクビクしちゃって」

「いや、その」

「怒ると、思ったの?」サラリと靡く、亜麻色の髪。

「え、ええ、まぁ、その……幾分」

「ふふ。イケない坊やは、叱って欲しかったのかしら?」

「さすがにそう言う趣味は無いです」

「あら、あらあら。ふふふ。生意気、言っちゃって」

「それよか、早く戻りましょう、ヨシヤさん呼んで、キノを診てもらわないと。ん? あ、しまった、慌てて確認しそびれてしまったんですけど、さっきの小ボウズ、あの怪物の影法師は? あれで、倒せましたか?」

「ちょっと、落ち着きなさいって。ヨシヤにはもう連絡したわ。影法師は逃げちゃったの」

「逃げた? ……そう、ですか、すみ、ません」

 あれだけの一撃でも倒せないのか。ド変態を倒した時と同じ手応え、あったんだけどな。

「何言ってるの。あなた一人であそこまでのダメージを与えられたのよ? 十二分よ。深追いなんて考えちゃ、ダメ。良くやってくれたわ。キノも助けられたし」

「最初に助けられたの、おれですから」

「そうね。でも、ありがとう。この子を、守ってくれて。さ、急いで戻りましょう?」


 そう言うと、ジュンさんはそっとキノを抱きかかえ、おれも腰を上げた。

 ……その時、ふいに、頭がドロッとする感覚をおれは抱いた。

 な、なんだ、何か、重大な、とても重大な何かを見落としている様な。二枚の絵の間違い探しのように、微妙だけど、確実に間違っている何か。

 おれの一撃、影法師……なんだ、何かを、おれは。


「どうしたの? 行くわよ? あなただって、軽いけど怪我、してるのよ? ほら、マヒロくん」

 はい。そう答えて、促されるままジュンさんの後をついて行く。


 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ 


 そうしているうちに、年末も大詰め、大晦日が近い。

 冬将軍は相変わらず武勲を誇っているが、年末大売り出しで、街も人も賑やかで落ち着かない。

 クリスマスがメリーに過ぎ去ったと思ったが、それもどこ吹く風で、年末はとかく落ち着かないのが、我が国である。伝統かもね。

 子ども時分だったら、素直にクリスマスプレゼントにお年玉という、ウルトラビッグバン二連撃なのだが、高校二年生と言う年は、物欲とオトナを誇りたい自分との狭間で悶え苦しむ、さ迷える子羊なのである。

 ストレイ・シープ。

 そんな誇り高き我々から「お年玉プリーズ」などと飢えたチワワのよーにすり寄って行かずとも、一端のオトナなら「あけましておめでとう」の一言と共に、梅だか干支だかが描かれたノシをポン、というのが様式美というものであろう。

 恥じらい奥ゆかしい文化を持つ我々に、寛容なる精神で恵みのお年玉を垂れてこそのオトナであろう? さにあろう? それでこそ礼儀を尊ぶ日本人であろう? 黙っていても、お年玉という名目でカナシーとの交際費ゲット。まさに礼に始まり礼に終わる。八百万の神がおわす我が国、嗚呼プリティジャパン、うぅん、この国に生まれて良かった。


 ……だというのに、母さんはなんと、ママさん友達と年末年始をハワイで過ごすという暴挙を敢行しやがった。

 ……母上様? 貴女様は、一体、何をお考えなのですか。

 一人息子すらおざなりにするとは、お年玉を渡さないとは、神も仏もこの世にいないのか。八百万の神のうち、一人もいないのか。

 おーまいがっ。

 じーざす!


一年の、この最後の最後の最後に来て、トラップが発動とは。

 残り5M、最後の追い込みで鼻の差で抜かれた、先行逃げ切り型のランナーの心境。心と懐にクリティカルヒットである。

 

 しかし、ここで天啓、そうだ、ぺんぎん堂でアルバイトとかしようじゃないか。年中無忙の店でもウエイターの一人や二人、いてもいいじゃないか。いいんじゃないですか? 

 そうと決まれば善は急げ、ヨシヤさんに提案してみようじゃないか。

 北風吹く中、自転車こいでレッツ、おれ。

 表へ飛び出し、頬に風を受け自転車をこいでいく。整えた髪を乱すからっ風も、今は心地よい。

 ふはは、心境の変化一つで、あっという間に青春エンターテイメントの完成だ。


 ところが現実は塩コンブ風味。

 息せき切って駆けつけたオンボロ喫茶の扉には「休業中」の札が出ている。


 ほぉぉ。

 真昼間から、堂々と?

 ひゅるりと吹いた北風が、自転車を飛ばして来た為に汗を噴き出した身体に当たって、嫌に冷たい。

 年末と言う、屈指の稼ぎ時に? 堂々と休業?

 もはや浮き草稼業と言うより、枯れ草家業である。何と言うか、何と言うか。何と言いようもない。


 嗚呼、無力だ。

 頭を抱える悩める青年。誰か慈悲を。若き日のウェルテルの様に悩めるおれに。プリーズ。


「おい、どきな、ぼぉず」

 ……は? 頭を抱えていたら、背後からドスの利いた声が聞こえた。振り返ると。

「んだよ、チョウチンフグみてぇなツラしやがって。どけっての」

 目の前には白いコートを着た粗雑な感じの女子高生 (たぶん)が立っている。

 小奇麗な顔立ちとギャップのある、ドスの利いた低音声。敵を蹴り殺すために作られたような風貌の、イカツいブーツが目につく。顔には化粧っ毛なんてさらさらなく、まさか自分で切ってるんじゃないのか? と思えるほど、ぼさぼさのショートヘア。

 っていうか、おれ今この人に「チョウチンフグ」って呼ばれましたね。あんまりでないかい。


「おい、だから、どけって」


 そう言うと、粗雑女子は、おれの肩を摑み、どかしにかかる。が、摑んだ瞬間、急に顔を近づけてきた。

 え、なんですか、接吻ですか。やめて下さいよ、こんな往来で。


「ん? おい、お前、ひょっとして」

 肩を摑んだまま、おれの顔をしげしげと見つめてくる。ち、近いって。化粧っけなんて無いはずなのに、僅かに甘い匂いがする。そして少し濃いめの、どう見てもカットしたことが無い眉毛。ゆで卵みたいなツルツルの肌。この人、眼光鋭いけど、ボーイッシュで可愛い……のかもね。

 おっぱいのついた、イケメン?


「お前、『ぺんぎんず』 の一人か?」

 睨みつられけたまま、問われる。

「あ、あんた、誰、すか?」

「質問に答えろよ」

 え、何これ怖い。

「は、はい、おれ、『ぺんぎんず』 の一人、です」

「あっそう」そう言って肩を離す。

「へぇぇ……ふぅん」

 あれ、なんすか、その全身まさぐるような目つきは。

 雪原の狼みたいな灰色の瞳が、おれをじろじろと見ている。

 あれ? この人、右目は灰色だけど、左目は薄い金色だ。左右の瞳の色が違う、オッドアイ。


「あ、あんた、何者、すか」

「あ? 知りたきゃそっちが名乗んな」

 迫力で完全に負けたおれは、素直に名乗った。

「新月、真大……」

「シンゲツゥ? マヒロ? んだよ、チョウチンフグにゃぁもったいねぇ、良い名前だなぁ、おい」

「あ、あんたは?」

「あたし? あたしはハルノサラ。春夏秋冬の春に野原の野、桜の空でサラってんだ。女らしくて似合ってて、イイだろ?」

「……どこが?」


 すぱかーん!

 右ストレートを貰った。なんだこの理不尽。


「ごめんなさいって言え」

 え、既に殴っておいて?

「……ごめんなさい。ていうか、あんた、誰?」

「今さっき名乗ったじゃんか。馬鹿か、お前?」

「いや、何者って話で」

「あぁ、あたしはさぁ」

 得意げに言うや否や、コートの胸のところをガバァっと開いた。

 え、おっぱいですか?! 御開帳ですか?


 もちろん、違った。

 冷静に考えれば当たり前なんですけどね。コートの内側には包丁、それも長さやら形やらが違うモノが、七本、ジャラリ。必要過多じゃね? 誰を倒す道具だ…


「あたしは、さすらいの料理人なのさ」


 サラは、そう高らかに宣言してニコリと笑った。あ、なかなかキュートだ。

 男気溢れるザ・包丁ガール、ここに見参。

 


 がちゃ、と出し抜けにぺんぎん堂が開く。中から寝間着姿のカナシー、―まだ寝てたのか?! もう十一時だぞ?!―が現れて瞬きした。


「あれ……さ、ら…?」

 顎に指をやりながら、上目づかいでこっちを見ている。

「要? 要かぁ! よぉ! 久しぶり!」

 そう言うと包丁少女はカナシーの方に駆けより、ポンポンと肩を叩いている。カナシーは微笑んでいる。懐かしげに。


 え、この人、既出?


― そう、カイがさ、やられちまった……んだろ? だからさ、あたしがその代役で呼ばれたっていうか。うん、前は仙台の方にいたんだ。向こうの屋台で、ラーメン作ってた。

 うん、中華そばだよ、醤油の効いた、ね。いや、生まれはこっちだよ? 東京の、八丁堀。

 親父が板前でさ、だからっていうか、あたしも物心つく前から柳刃で遊んでて。

 ま、そんで、料理人なわけ。昔、『子ども料理コンクール』なんてのにも出て、すぱっと優勝、掻っ攫ったりしたさ。

 え? ああ、わりぃ、仙台ね。そう、一応『ぺんぎんず』って日本の各地にあるからね。あたしはそっちで武者修行って言うか、まぁ、逗留? とにかく、出張してたわけ。

 けれども、先だって、急にヨシヤが呼ぶもんだから、出張(でば)って来たってわけ。

 驚いたよ……。いくらあたしでも、さすがに、あのカイにゃ……敵わないけど、さぁ。ま、やるだけやってやるさ。あんた、新入りなんだろ? いやぁ、さっきは悪かったな、殴っちまって。あたし、口より手が先に出ちゃうタイプでさあ。わりぃわりぃ。

 

 ……以上が、サラの身の上話だった。

 語りながら、慣れた手つきで香り豊かなコーヒーを淹れ、おれに差し出す。

「まぁ、飲めよ」

 それだけ言うと、カウンターごしにカナシーとガールズトーク……男言葉だけど、一応ガールだ……を、楽しげに交わしている。肘まで腕まくりした姿がいなせだね。言葉と心意気は、実に侠気だね。

 女子高生だけど。そうだ、せっかく淹れてくれたし……何かお礼を言わなきゃ。

「サラって、イケメンだね」


 すぱかーん!

 二度目の右ストレートが、奇麗に顎に入った。


 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


 こうして、おれとサラの第一種近接遭遇は為された。

 主に右ストレートで。

 拳で語る女、春野桜空。

 実にバイオレンスである。ダイハードである。


 全てが終わってから、ヨシヤさんが寝癖たっぷりの頭で二階から降りてきて、もう一度おれにサラを簡単に紹介した。この人にカゲの事以外で頼るのはよそう。おれは硬く心に誓った。なにしろ身の上は、既にサラ自身の口からたっぷりと語られていたわけで。

 カイさんの、代わり。

 そう思うと、それまでヘラヘラ、死後硬直っぽいスマイルで笑っていたおれの腹の底が、ぎしりと軋んだ。

 コーヒーに垂らしたミルクが奇妙な形を描き、ゆっくりと沈んで行った。


 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

 

 そんなこんなの大みそか。

 夕方になってから、サラを新たにメンバーに加えたぺんぎんずの一同は、エラヤッチャエラヤッチャヨイヨイヨイヨイ、そんな盆踊りの様な珍妙な動きで、混雑の明治神宮に来ていた。


 見ろ、人がゴミのようだ!

 そんな某大佐の台詞を、誰しもが思い浮かべるような人出。

 ただし、そんな俯瞰できるような余裕は、前後左右を押しくらまんじゅう顔負けの圧力で押しつぶされ中の今のおれにはナッシング。

 それどころか、ぺんぎんずの愉快な面々は、キノが屋台に風の様に走り去ったのを皮切りに、ヨシヤさんがどこかの甘酒屋台に霞の様に消え去り、ジュンさんは一人ツカツカ先に進んで、ゴウジは雄叫びをあげて射的に走り、早くもてんでバラバラになってしまっている。


 ……ねえねえねえねえ、みんなさぁ、『協調性』って言葉、知ってる?


 途方に暮れつつも、おれはみんなを探そうと……しているうちに、いつの間にか完全に人の流れに乗ってしまい、いまや荒波の真っただ中、振り向くことも見渡す事も逃げ出す事もウルトラインポッシブルだ。

 乗車率百二十パーセントの、朝の通勤ラッシュ時の山手線を遥かに上回る人出。

 誰も得をしないおしくらまんじゅう。おっしくらまんじゅー、押されなくても泣く。

 むしろこの状態で誰も阿鼻叫喚を上げない事が、この星におけるかけがえのない奇跡に思えた。我慢強い民族、日本人。ハラショー。

 一応、おれたちなりに頭を使って、混雑を避けようと、原宿駅からではなく参宮橋駅から回ってきたのだが焼け石に水、暖簾に腕押し。新入社員が出してきた見積書の如く、甘い甘ぁい見通しであった。


「マヒロォ! おるかぁ!」

 どこからか全く分からないが、人の波間からゴウジのダミ声が聞こえる。

「いるに決まってんだろ!」負けじと怒鳴り返す。


 そうだ、カナシーは大丈夫だろうか。

 あの儚げなまでに細い身体、ぺしゃんこになっちゃうんじゃないか。そうだ、こういう時こそ、手を繋ぐべきなんじゃないのか。誰よりも大切な人と繋ぎ合った手と手を離さずに大切に結びあってるべきなんじゃないのか。無論、下心込みで。

 いざ、オール・ウィー・ニード・イズ・ラブ。ロケンロール。うぉんちゅー。

 などと思っていたらひし、と手を握りしめられた感触。

 小さな手がおれの手を取って、キツく握り締めている。さすが、分かり合ってる、おれたち。最強の二人とは、おれ達の事さ!


「よかった! マヒロ! やっとみつけた! ね、これでいっしょだね!」


 うわぁ、壮絶勘違い。


「あ、うん、キノ、大丈夫だった?」

 幼子への配慮が欠けていた罪悪感から、おれは人混みの中から必死でキノを身体の近くに引き寄せ、聞く。

「えへへ! うん、キノ、へいきだよ! マヒロ、いっしょにおさいせん、なげよーね!」


 おれの手を引っ張りながら、金髪をお団子に結ったスタイルで、嬉しそうに笑う。

 この子は、どんな時だって楽しそうだな。

 おれ、今、完全に邪な気持ちでいっぱいでした。すみません。人として大切な、他者への思いやりらしきものが、ごっそり抜けおちていました。すみません。

 と思っていたら、反対側の手を握られた感覚が。

 カナシー。やっぱり、おれたち……!


「おう、やっと見つけたぜぃ。ったく、離れんなよ、こんな中ではぐれたら、遭難と一緒じゃねぇか。ん? おい、なんだ、ショボくれたヒョットコみてぇなツラしてよ?」

 酷い言い様だ。


 何でもねぇですよ。あはは。あれ、サラって意外に華奢な掌してんね。ちょっとざらついてるけど、ツルツルした爪。細い指。


 あー。なんでおれ、わざわざ初詣に来てるのに、彼女じゃなくて、幼女とガサツ女子高生と、おてて繋いじゃってんでしょうね。さらば青春の光。そんなタイトルの映画もありましたね。あぁ、なんでですかね。教えてよ神様。


 そんな諸行無常を感じているうちに、金木犀の香りが御香の匂いに混じって、そっと鼻をくすぐった。

 もうおれたちがここに着いてから、何十回目かの除夜の鐘が、人のざわめきの中、厳粛に響き渡る。


 結局、有耶無耶の有象無象の五里霧中のナンジャコリャ……とか思っているうちに、世界時計はいつの間にやら深夜十二時を越したらしく、あちこちで新年を祝う声が聞こえ、え、あの、ちょっと待って下さいよ、なんて思ってる内に、おれたちを乗せた行列もイモ虫が這うようなペースで進み、ナンヤネンコレハ、なんて思っているうちに反射神経的にお賽銭を投げ、すっかり目的は達成されてしまった。せっかく深夜に来たのに。味も素っけもない。

 ナンテコッタイ!


 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


 参詣を終え、本殿から右側にそれた帰りの参道、携帯は電波が集中しすぎて回線がパンクしているらしく、何度かけても繋がらないし、キノとサラは二人してアユの塩焼きの屋台に並ぶと言うので、おれはヨシヤさん達を待つ為にも、ようやく目減りしてきた人だかりからそっと外れ、壁にもたれかかり、一息入れた。


 ……カナシー、本当に大丈夫かな。人ごみ、苦手だったからな……


 そんな事を考え始めると、ちょっとだけセンチメンタルになってしまい、一気にこの三カ月に起きた、様々なよしなし事が頭を逡巡しだした。


― きっかけは、ヨシカちゃんにゲイだって疑われたこと、だったなぁ。

 あれを言われなきゃ、会った事もない女の子と会おうだなんて、絶対に思わなかった。にがじょっぱく、だけど変化も何もない、つまらない人生だったと思う。今が面白いかどうかは置いておいて。

 そして、その女の子と過去に会った事があった上、まさか付き合うことになるだなんて、予想だにしていなかった。

 ……それに。

 ポケットの中の、二つのカゲを撫でる。

 カゲと出会うなんて事も、思ってもみなかった。三か月前のおれに言ってやりたい、「きみ、もうじき女の子と付き合うんですよ」って。「きみ、不思議な力を手にして、挙句ヘンチクリンな集団と闘う事になるんだよ」って。


「ははっ」

 思わず、声に出して笑ってしまう。

 ぜってぇ、信じねぇ。貯金全額、賭けても良いね。


 それで、おれ……これから、どうする?

 影法師と闘い続ける。それでいいのか?

 『影法師だって、元は人間なんだ』カイさんは生前、そう言ってた。だとしたら、あの時の時雨の様に、本当にもうみんながみんな、人間には戻れないのか? 闘う以外の方法は無いのか?

 ……このままでいいのか、いけないのか。それが、問題だ。

 ああ、気分はすっかり、ショボいハムレット。


 シュート、お前なら。おれ以外の人なら、どうするんだろう……

 ……カイ、さん……。

 ふぅぅ、と大きく息を吐く。


 帰りの行列は途絶えることなく、遡上するサケの群れの如く、原宿駅へと続いている。

 家族連れがいて、友だち同士のグループがいて、若いカップルがいて、お年寄りのグループがいる。交通整理に励むお巡りさんがいる。

 つい一時間ほど前の、年末の切羽詰まった感じが過ぎ去り、今は和やかに新年を祝う雰囲気が、辺りを包んでいる。これだけの人だかりだけど、何事もなく過ぎればいい。そう思った。


 

 そんな時、不意に見覚えのある顔が、人込みに紛れているのに気がついた。


「シュート!」

 思わず、叫んだ。

 シュートはおれの叫びに呼応し、ゆっくりと顔をこちらに傾けると人ごみを外れ、おれの方に歩み寄ってきた。

 黒いファー付きコートに白いパンツルック。寒くないのか? しかし、シュートの脚の長さをよりよく見せている。が、顔には露店で買ったのか、白いキツネ、お稲荷さんの仮面を斜に、付けている。

 え……ナニソレ?


「マヒロ。あけまして、おめでとう」

 おれの手前、五メートルほどのところで、つと、と立ち止まった。

「あ、あけましておめでとう」


 ……なんだ? 何か、シュートに違和感を覚える。街路灯に照らされた、均整整ったスタイルの影が、逆光で眩しい。

「あれ、お前、一人なのか? ヨシカちゃんは?」

「ねぇ、歩かない? 少し」

 シュートはおれの質問には答えず、むしろ声に被さる様に、そう言った。そうして、口元にどこか寂しげな笑いが浮かべた。


「少しで、良いからさ」


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 東京のど真ん中でも、人通りの多い表通りを一本曲がると、ほとんど無人の住宅地が広がっているんだなぁ、と変なことに感心しながら、迷いなく進むシュートの後をついて歩く。後ろから見ると、斜に付けたキツネの仮面が、真横を向いているように見える、奇妙な後ろ姿。


 ……さて、どのタイミングでこの間の事を謝ろうか。

 さっきまでの人いきれと喧騒が、まるで嘘のように静まり返り、まさかキツネに騙されてるんじゃないだろうな、と思い始めたころ、シュートがこちらに首を曲げた。いや、向けた。

「マヒロはさ」

 首からゆっくりと、こちらを振り返る。

「朝と、夜の繰り返しに、うんざり、したこと、あるかな?」

「……はぁ? 何言ってんだ、お前?」


 お互い、立ち止まる。正面切って、向かい合う。


「夜、寝る前、明日はちゃんとしよう、明日はこうしよう、って、毎日、明日に夢を見て眠るのに、朝になったらその寝る前のやる気なんて全部消えて、一日を台無しにしてしまう。それを挽回しようと夜、また夢を見て眠る。けれども朝になったら昨日の繰り返しだ。開けない夜は無い、けれども朝になっても何もない。それに絶望、したことって、ある? 夜が怖い、そんな絶望を?」

 

 そう語るシュートの眼は、どこか遠くに向けられている。

「あー、その、なんだ……」

 言い表せない違和感が、おれを包んでいる。拭いされない、重たい綿の様な不安が、胸に張り付いている。

「物事の繰り返しに嫌気がさしたって事? なら、あるよ。未来に進むために、今を精いっぱい頑張らなきゃならないのに、それでも進んだ先の未来に希望が持てないこと、ある。おれには」


 シュートの目線は、遠いままだ。

「おれね、分かったんだ。夜が怖いなら、闇が怖いなら、おれが夜になっちゃえばいいんだって。状況を受け入れるんじゃなくって、利用しちゃえばいいんだってことが」


 聞いて行くうちに、自然と口の中が渇いて行く。

 シュートの言っていることが、目の前のコイツが、理解できない。

 いつも不思議ちゃんだけど、そんなレベルをとうに過ぎた、何か、途方もなく大きくて取り返しのつかない大きな間違い、そんな何かを、感じる。


「闇はさ、利用しちゃえば良かったんだよ」

「お前、何、言ってんだ?」


「……こういうこと、だよ、少年」


 聞き覚えのある声がし田と思った瞬間、暗黒の渦がシュートの後ろに発生、そこから男が現れ、シュートの横に立った。


 ……おれは、状況がまるで受け入れられない。だって、そいつは。

 先日の、巨獣を倒し損ねた時に感じた、何かを見落としている感覚。

 そうだ。おれは、こいつを仕留めそこなっていたんだ。


 シュートは、片手でシャッとキツネの面を被った。


「彼は私に、良く似ている」

 男は、シュートの肩に手をやると、おれを見やった。

「少年、君に強く、とても強く惹かれている。そう、とても強い……君を想い、光の道を進んでいたにも拘らず、私たちと同じようにカゲの世界に身をやつして君を思うのだ……素晴らしい精神! その一途さには嫉妬すら覚えるよ……牡牛座の私には、もはや溢れる情念を抑えきることはできん……!」


 シュートの背後に、再び暗黒の渦が広がっていく。

 そして、シュートの周りに、今までに見たことのない量の、禍々しい瘴気が溢れていく。


 そん、な。


 ……シュートが、影法師、とか……? ウソ、だろ……?


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