九番、セカンド、新月。
生まれてこの方、喧嘩なんて、ほとんどしたことが無かった。
しなくて済んだ、と言うべきか。口論になったりして、相手に腹を立てることはあっても、人に手を上げたり、誰かを憎み続けることなんて出来なかった。
昔、うんと昔、まだ小学校低学年、シュートと出会う前、転校前の小学校で摑みあいの喧嘩をしたことがあった。
理由は、今となってははっきり思い出せないような、ほんの些細なことだったけど、相手がおれに不愉快な感情のこもった言葉を幾つも投げつけてきて、何度も何度も繰り返し、仕舞いには蹴ったりぶったりしてきた。
最初は無視していたが、相手はおれがやり返さないのを良い事に調子に乗って、母さんが作ってくれた道具袋を鋏で切り刻んだ。腹が立って思わず手を挙げ、取っ組みあい、最後には相手を負かした。
担任が来たのは、そうした全てが終わってからで、喧嘩を止めもしなかったくせに、おれはうんと叱られた。間抜けなくらい遅くやってきた担任は、殴り合いに勝ったという理由でおれを悪いと断罪、相手をかばった。
そして放課後、会社が偶然休みだった父さんが学校に呼ばれ、担任と三人で教室に残り、話し合いの様なものをした。大ごとになるのを避けたかったのであろう担任は、父さんに「二度とこう言ったことのないように、ご家庭でキチンと言い聞かせてください」と繰り返していた。
まるで、自分や学校には一切の責任がないと出張しているみたいだった。クールだぜ。昔のドラマの悪役教頭みたいで。
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父さんがこぐ、ママチャリの後ろに乗せられた、その日の帰り道。
道の両脇には、水を張ったばかりの田んぼが広がっていて、一面に張られた鮮やかな水面が、夕陽の茜色を反射していて、変に眩しかった。
担任の行動も言動にも、喧嘩した相手にも納得が行かなくて、ブスっとしていたおれに、父さんは背中を向けたまま、「相手の事が、許せなかったんだね?」と聞いてきた。叱られる、と思っておれは黙っていた。父さんは、ゆっくりと話し始めた。
「いいんだよ。許せない相手なんて、いつでも、どこにでもいるんだよ」と、静かに、でもはっきりと言った。
「でもね、相手に手を上げちゃ、ダメだ」そう、続けた。
「でも、お父さ、ん……っ」 おれは泣きそうになった。おれは悪くない。おれだけが悪いんじゃない。そう言いたかった。
すると、キ、と自転車が止まった。
そして、頭をぽん、と撫でられた。
「相手をぶったりしたらね、苦しいのは自分だよ。何度でもそのことを思い出して、嫌な思いをする。だから、ダメなんだ。マヒロ」
夕陽を浴びた、その時の父さんの顔は、思い出の中でも逆光の影になっていて、はっきりと思い出せない。けれども言葉はよく覚えている。
「だけどね」再び自転車をこぎ出した父さんは続けた。「もし、マヒロの大切な人が傷つけられたら、その時は、ダメじゃない。いいかい、ダメだけど、ダメじゃない。もし、世界中がダメだって言っても、父さんはダメじゃないって言うよ。マヒロ。それを、忘れないで」
おれは父さんが何を言っているのか、分からない。小学校低学年のおれには、その言葉が理解できない。ただ、言葉に含まれた優しさと力強さは、分からないなりにだけど、感じる。
「傷つけるんじゃなく、守るんだったら、その手を使うんだ。マヒロ」
― 分からないけど、頑張る。おれはそう言った。
「うん。よしよし。良い子だ。さぁ、帰ろう。晩御飯は、カレーだよ」そう言って笑う父さんの背中は、大きくて、暖かかった。
父さんは、そういう時に必ず、おれの好きなご飯を作ってくれた。
……カゲを纏った時、そんな昔の事が、ふいに頭をよぎった。
父さん。おれは。おれは、良い息子だったかなぁ。
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白黒の世界に、鮮やかな蝶が舞う。
触ったら砕けてしまいそうな、ステンドグラスのような翅。極彩色のオーラをモノトーンの世界に振りまいている。
― ふぅうふぅう、ふっふー!
カゲの歌声が響く。思わず、その美しさに見とれてしまう。
― ザクゥッ!
がっ。見とれた隙に、背後から羽根の投擲を受けた。
「どこ見てんだ?」嘲笑う、時雨の声。
声の在り処を見やると、カゲの世界で白く輝く月明かりに照らし出され、今はっきりと浮かび上がった、巨大なフクロウのカゲ。
時雨だ。あれが、本当の姿か。
「鬼さんこちら」歌いながら、自分の翼から羽根を抜き取っている。「手の鳴る方へ、ってね?」ニヤ、と笑うと、腕が鞭の様にしなやかな軌道を描き、真っ直ぐこちらに羽根を投げてくる。
ジグザグに走って、避ける。
ガ! ガガガガガガガガ!!
ガトリング砲で撃たれたように、地面に穴があいていく。
くそ。時雨を何とかしないことには、チョウのカゲに近寄ることだってできやしない。
「ふ、ふふふ。はははは!」耳障りな金属音じみた声で、時雨は笑った。
「さぁ、どうする? ぼくと君のカゲ、相性の悪さは天下一品だ。猪突猛進、近接戦闘オンリーバカの君と、スピードがあり、遠隔攻撃持ちのぼく。君の十歩はぼくの一歩、ぼくの一秒が君には十秒。さぁて、どうするのかな」余裕たっぷりに語る時雨は、電柱の上にゆっくりと舞い降りた。
「時雨。さっきの答えだ」
「は?」自分に酔った演説の最中、関係のない話を振られ、時雨が表情を失くした。苛立っているのが分かる。
「お前の言うことは確かに正しい。ヨシカちゃんのさっきの悩みごと、言われたっておれは確かにどうしようにもできない」
「ふん、だろうね。それ、で?」
「でも、どうしようにもできないからって、何もしなくていいってことにはならない。何もできなくったって、側にいること、話を聞くこと。それっぽっちしか出来なくたって、出来ることはあるんだ」
時雨は、ゆっくり左右に首を振った。聞き分けのない子どもを見る、大人の様に。
「雑魚が群れる、言いわけかな? 君たちはそうやって『お互い弱いんだ』って、弱さを見せあって安心してるわけだ」くくく、とまたも金属音を上げ笑う時雨。
それが、お前の、弱点だ。
弱さは、誰にでもあるんだよ……時雨。
「お前は、中途半端に強すぎたんだ」
余裕しゃくしゃくで笑っていた時雨の口の端がヒク、と動いた。
「お前は、自分一人で出来ることが、普通の人より少し多かった。だから、自分一人でも、何でもできる気がしてしまったんだ。だから、自分以外を見なかった。他人を見下して、だから他人への興味を、失ってしまった。そして、他人を見れなかったんだ。でも」話しながら、シュートやカナシーの顔が頭に浮かぶ。「おれたちは本当は、自分自身の事だって、一人では分かることは、出来ないんだ」
おれは、おれが、分からなかった。
でも、教えてくれていたんだ。みんなが。おれのために。
今だって、おれはおれが嫌いだけど、おれを好きでいてくれた人を、裏切るわけには、いかないんだ。
何よりも優しいのが人間なら、何よりも怖いのもまた、人間だ。
「お前の世界にはお前しかいない。弱さを否定し続けて、目を背け続けて、他人を否定し続けたお前に、おれは、負けない。つか。ぜってぇ負けねぇ」
これ以上は言葉にならねぇ。
「……語るに落ちる、てやつ、かな?」と呟いた時雨は再び、音もなく飛び上がった。いや、お前もつい先日、語るに落ちてたけどな?
闇に紛れた夜の狩人、フクロウのカゲ。
「ぼくには、君が言っている事が、わからない。いや……そうだね、少しは分かる。ぼくは、ぼくが知っていることしか知らない。でも、人間なんて、所詮、そんなものだろう? 君は、自分にも他人にも、夢を見過ぎだ。理想家と現実主義は、相容れないよ、新月」
時雨の纏ったカゲが、一段と濃くなった。
「もう面倒だから、そろそろ死んでくれる?」
「お前を倒した後でな」
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……嗚呼、なんとも血なまぐさい話である。
おれとしては
「行くぜ、新月ぅぅっ!」
「おぅ、来いやぁ、時雨ぇぇっ!」
「くおんのぉ!」
「なぁんとぉっ!」
夕日をバックに、クロスカウンター。
「へ……やる、じゃ、ねぇか……」
「おめぇこそ、な……へっ、見直した、ぜ……」
がぁっはっはっは! そうして最後には笑って肩を組み合う、みたいな、こう、おれのボキャブラリーは物資が豊かなこの国にあってもなお、たいそう貧困なので、上手く伝えられないけど、昭和の古き良き、男臭いマンガちっくに物事を進めたい。
あ、それってまんま、ゴウジの世界か。それはそれでくやしい。
しかし、なんとまぁ、そんなおれの心情は無関係に現実と言う名のハードボイルドワンダーランドは続く。地球はおれを慮って自転速度を緩めてくれたりはしない。グレイト。
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時雨が飛びかかって来る。と同時に、羽根が乱舞し飛んでくる。両手にカゲを集中させ羽根を受けきり(とはいえメチャクチャ痛い)、懐に飛び込む。
が。
― ズギャ!
翼で薙ぎ払われる。飛ばされた衝撃を利用し、両手で地面を叩くようにして後ろに跳ぶ。空中で膝を丸め、反転する。時雨を視界に捉え、
ガ、ガッ!
電柱を蹴り、反動を使って再び、飛び込む。
ザッ!
今度は飛んで距離を取られた。
同時に前方から羽根が飛んでくる。飛び込んだおれは前のめりに速度が出ている、避けられない。もう一度、両手を十字に組んで防ぐ。
ダス、ダス、ダスダスダスダス!
羽根の豪雨。ガードの隙間から数本、突き刺さって来る。狙われた? くそ。良いコントロールしてやがる。相変わらず。野球の才能、無駄に使いやがって。なんて、一瞬目を離した隙に、消えやがった。羽ばたき音が聞こえない。逃げた?
― ドガッ!
な、わけ、ねぇか。
思いっきり上から蹴られた。なんとか倒れないよう、堪える。
体勢を立て直し反撃しようとした頃には、再び上空へ逃げられている。ちぃ。
くそ、そっか、野生の梟は羽ばたいても、風切り音を立てないんだっけ。ってことは、こないだ音を立てて空を飛んでたのはワザト、かよ。
― ダスダスダス! ぐ。
ドガァ! がぁっ!
「不様だな、新月」愉快そうな時雨の声。ドス、ドスッ。羽根。
「ま、当たり前と言えばそうだよね。きみ、練習試合でもぼくを打てたこと、ないもんな。はははは」
ズギャ!
さすが、ウチの不動のエース。攻防の組み立てが上手い。けどな。
ダス、ダス! おれの背後に羽根が突き刺さる。
その瞬間、おれは、にや、と笑う。
「もぉ、見えてンだよっ!」
刹那にバットを実体化、振りぬく。
ざっ、しゅっ!
……手応え、あり。
「ぐ、あ、あ、あああぁぁぁっ……」
片翼を斬り落とされた時雨が倒れ込み、身悶えている。
ふぅ。
ひゅん、ひゅん、ぱしっ。バットを棒術の要領で振り回して、握り直す。
すぐに止めを刺さずに、甚振ろうと何度も攻撃してきたのは、失敗だったな。おかげで反撃するタイミング、図れたから。
……はぁ、はぁ、はぁ。息を整える。
羽根の投擲でこっちの気を散らしてから、加速を活かした蹴りの二段攻撃。
それが、お前の攻撃手段だった。
どっちも強かったし、速かった。
だから、空を飛べないし、遠距離の攻撃もできないおれが、お前を倒すには……唯一、お前が蹴りを放って来る瞬間に、カウンターを合わせるしかなかった。
お前におれの間合いを見せたら、賢しいお前は、二度とそこには入ってこないだろうから、数回の蹴撃に耐えて、タイミングを計った。おれの最大の攻撃手段、バットは、カウンターのタイミングまで実体化しなかった。
お前みたいな天才相手に、二撃目は無い。あるのは、最初の一振りだけ。
……紙一重、だった。
お前は闘いを愉しんでいた。おれを、甚振っていた。
おれは闘おうとは思っていなかった。おれは、お前を倒すことだけを考えていた。
勝敗を分けたのは、その差、だ。
「時雨」と、バットの先っぽを向け、告げる。
時雨は右腕で、力任せに翼を千切られた左肩を抑え、うずくまっている。
「……ヨシカちゃんを、元に戻せ。そして、さっき言ったことを謝るんだ。それから、もう、影法師であることを止めろ。そうしたら」
顔だけこちらを向いた時雨の口元が、奇妙に歪んだ。
「そうしたら?」
「……見逃して、やる」
「はぁあ? くっく、おい新月、ぼくは君の命を狙っていたんだぜ? その相手に対して、甘すぎやしないか?」
「おれは、お前じゃない。簡単に人を殺したり、しない」
時雨は蹲りながらも天を仰ぐと、軽蔑しきった笑い声をあげた。
……ま、そうだろうな。
可笑しきゃ笑え。でも、これがおれ、なんだ。
「やれやれだな……そう、するよ」笑い終えた時雨は、呟くようにそう言った。
……え?
天を仰いだ時雨は、憑き物が落ちたように、ふ、と大きなため息を吐いた。
「まったく、きみには参る。出だしにコロッとやられるくせに、土壇場になると信じられない力を出す。そこまでされちゃ、仕方ないな」
くくく、と今度は諦めたように、またしばらく笑い、やがておれを真っ直ぐと見つめ、言った。
「ぼくの、負け、だよ」つい、と顔をそむけた。「認めたく……無い、けど」
時雨……。加賀美さんの言葉が、頭に浮かんだ。
『あれは、ツンデレです!』
はは。そうなんだ、お前。
「やれやれだ。まさか、このぼくから毒気を抜くとはね。やれやれだ。ここで止めじゃないとか、正気じゃないよ。本当、君の執念には、敵わないな?」苦笑い、でもどこか爽やかに笑って、時雨は頭を振った。
「はは。おれ、ど真ん中の絶好球は見逃しちゃうけど、エグ過ぎる変化球とか、センターに打ち返すタイプだし」
「ふふふ、ははは。日向が君を好きなわけ、少しだけ分かった気がするよ」
「そう、かな」頭を掻く。「やめろよ、むずかゆい」
「ふふ、お返しさ……ま、さすがにね、まだ、完全にはね、認めたくないけど……うっ」
立ち上がろうとした時雨は肩を押さえ、再びうずくまった。
「あ、あ、その、ごめんな、立てるか?」
「ふふ。授業料にしては、少し、高かったかなぁ。新月、すまないけど、肩、貸してくれるかい?」そういうと顔を上げ、ニ、と笑った。
加賀美、さん。
女の勘って、凄いな。本当だったよ。こいつ、とんだツンデレ。
ったく。しゃぁねぇな。ほら。
って、おれもツンデレかな。はは。
時雨の肩を支え、立ち上がる。
待ってて、ヨシカちゃん。それに、加賀美さんも。
おれは、心の中でガッツポーズを作った。
途端だった。
右側の視界が、暗くなった。「ズ」という、何か音が聞こえた気がした。
一瞬、何が起きたのか、おれは分からない。頬に何かが流れる。混乱したまま、顔の右側に触れる。
右目に、羽根が突き刺さっている……!
理解した途端、痛みに襲われる。
「ぅあぁぐああああっ!」
「ひ、ひひはははは!」
時雨は高く笑い、蹲ったおれを更に翼でザウ! と切りつけ、後ろに飛びのいた。
「詰めが甘いな、新月。く、くくくく。おかげで助かったよ」
しま、った。
「奥の手を遺していたのは、自分だけだとでも思ったか?」
……思ったよ。くそ。翼が、刃物みたいになるとは、思わなかった。
斬りつけられた左半身は動かせなくなり、堪え切れず、膝から地面に落ちる。それでも、何とか、四つん這いになる。が、半身が動かなくては、立ち上がる事は、出来ない。
「はぁ、はぁ、ははは! 危ないとこだったよ。君がもう少し賢ければ、本当にぼくの負けだった。君が愚かで本当に良かった。ふふ、感謝するよ? 新月」
時雨、お前。
お前。
お前は。
「人は変わらない、変えられないって、学習した、かい? もうすぐ死んじゃうけど。あはは。君の薄っぺらい性善説なんか、サンタの存在を信じるくらい、間抜けだってことをさぁ!」
ゆらり、と時雨が近付いてくる。おれの息の根を止めに。
色の無い月光の下、ゆっくりと翼を広げた姿は悪魔、そのものに見えた。
「おや、まだ、立つのか。その執念には恐れ入る。しつこさはゴキブリ並みだな」
バットを支えにして、なんとか立ち上がる。
絶対に、こいつを許しちゃダメだ。こいつを認めちゃ、ダメだ。
たとえ、ここで朽ちたとしても……!
「今度は手加減しない。死ね」
高く振りあげられた翼が、振り下ろされる。
……ちく、しょぉぉ……!
― ギィン!
風圧を、感じた。
……え?
「良かった。間に、合ったね」
カイさん?!
間に合ってくれたのか? このタイミングで?! 御都合主義、万歳!
左目で見た景色には、白虎を憑依させたカイさんが、右肘のトンファーで時雨の翼をガードしている。
「一人で良くやったよ、マヒロくん。後は、僕に任せて」
― ギャン! 一瞬身体を引いて相手の体勢を崩し、その瞬間、身体ごとトンファーを回転させ、時雨を後方に弾き飛ばした。
同時に跳躍。間合いを詰め、左右の連撃。まともに入る。梟が左右に弾ける。
両拳を合わせ、肘を突きだした姿勢で回転。トンファーがまとめて数回、当たる。
つ、強ぇ……。
手加減も、余裕も、隙も、情けも、エロも無い。
全身に深く暗い闇のオーラを纏った、身体の芯から震えが来るような、身も竦む殺気をたぎらせている。
これが、カイさんの本気。
虎が、その牙を剥いている。
膝蹴り。
左フック。
そのまま肘打ち。棒の。
回転して右の肘を入れる。
左のミドル。
右のアッパー。
宙に浮いた顎に、打ちおろしの右ストレート。
そのままバックステップ。からの。
加速と全体重がありったけ乗った、トンファーの一撃。
ド、ゴォォォォン……。
こりゃ、カウントの必要、ねぇぞ。
怒涛の連打連撃から、止めの一撃までが、絵に描いたように決まって、背後の壁にめり込むほど叩きつけられた時雨は、糸が切れた人形のように崩れ落ち、もう、ピクリとも動かない。
これが、カゲ使いの、『ぺんぎんず』の、闘い……。
「マヒロくん、大丈夫、かい?」
そう言って振り返ったカイさんの表情。凛として整った顔立ち。ちぇ、イケメンだこと。
「立てる?」と、屈んでこっちに手を差し伸べる。
「あ、はい。なんとか、大丈夫、ってとこ、です」右目を押さえつつ、がし、と差し出された手を握る。肩を借り、どうにかこうにか、立ちあがらせてもらう。
「すみません、結局、おれが、甘くて」
「気にしないで」トンファーをカゲの中にしまい、憑依を解いていく。「こういう時の為の二人組、だからさ。助け合うのがチーム、だろ?」
「でも、でもおれ、助けられてばっかで」
「もし、マヒロ君がそう思うんなら、貸しにしておくよ。いつか、返してくれればいい」カイさんの表情は、今は穏やかだ。
「いいかい、チームで大切なのは、自分だけ落ちこぼれてるとか、ワリを食ってるとか、そんな風に思ってしまうこと。悪い流れは、そこから始まるからね」
「は、はは。さすが、エースですね」
思わず、芯の通った言動に唸ってしまう。
「いや……元エース、だよ」そう言うと、やっとカイさんの表情が緩んだ。「それに、僕が来るまでに、君が影法師に深手を負わせていてくれたからだよ。初めての『夜半』での戦闘でここまでやれたんだ、それも……かつての仲間を相手に」一瞬、表情が曇った様に見えたが、違った。
「君の決意が、痛いほど伝わってきたよ……よく、ここまで……」
カイさんの涼しげな顔が、苦悶と感動に、揺れていた。
「この戦い、功労者は、マヒロくんだよ。間違いない。さ、友達のカゲを倒さないと。持ち主が完全にカゲに呑みこまれるまで、もう時間が無い」
はい、と返事をした瞬間。
顔に、生暖かい液体が、かかった。
……え?
カイさんの胸を、漆黒の翼が貫いていた。
「あは、あははは!」
時雨が嗤う。もはや満身創痍、消えかけた輪郭で。
そして最後の力で、カイさんの胸に突き立てた刃を、思い切りねじった。
カイさんのシルエットが、崩れ落ちる。
……こいつ! まだ、生きてぇっ!
激情に身体が呑まれ、おれは渾身の力で躊躇なく、バットを振るう。
力を使い果たしていた時雨は、ほとんど何の感触もなく、仰向けに倒れた。
こんな、致命傷を幾つも負い、立つのもやっとな状態で、何でお前は。
こんな、最後の最後の最後まで、お前は。
何が、お前をそこまで掻きたてる?
そんなにまで世界を呪う必要が、どこにある?
「さよ、なら、だ、新月。せいぜい、後悔、して、惨めに、生き、ろ、チームメイトを、その、手に、かけ」ゴボ、とカゲを噴き出した。「仲間を救えない、自分の無能さを! 呪って、世界を這いずれ! あはははは……はぁ」
時雨の輪郭がようやく溶け、薄れて消えた。
「カイさんっ!」
よろよろとおれは、前のめりに倒れ込んだカイさんを抱え上げる。その胸を、黒曜石の様な刃が貫き、とめどなくカゲが溢れだしている。
「そんな、そんなっ」
「マ、ヒロ、くん……」
声がして、カイさんの目がおれを見た。
「カイさん?! しっかりして下さい、すぐにぺんぎん堂に行きましょう、ヨシヤさんならきっと」
だが、焦るおれの口に、カイさんそっと、手を当てた。
「だめ、だよ、君の、友達の、カゲ……。もう、時間が、無い。今の、うちに、倒さ……ないと、持ち主の心、が……危ない」
ごぼ。喋るのもやっとの口から、大量のカゲが噴き出した。
「どう、して」知らず、涙が零れおちる。「どうして、そんなこと、できるんですか……どうして、こんな時まで、人の、心配、を」
優しすぎる。どうして、こんな。
「僕は、救えなかっ、たんだ。自分の、一番大切な、友達を」
カイさんは、薄れそうな意識の中で、懸命におれを見ている。
「ずっと、後悔ばかりの人生、だった。なんとなく、欲しいものは……手に入ったけど、本当に欲しいものは……何も。でも、君と会えて、君と話しているうちに、思い出せたよ、昔の、自分を」
「そんな……おれは、なにも……!」
何も、何もできやしなかった。不肖の弟子も良いトコだ。
「僕のくだらない話に、付き合ってくれて、ありがとう。あんなに話が出来たのは、野球部以来だった……楽し、かった、よ……ありがとう」
ありがとう、だなんて、そんな。おれは。またしても、おれは何も……!
「……聞いてくれ、マヒロ君。僕の、最後の、頼みだ」
「そんな、最後だ、なんて……」
「君に、僕の全てを、託したい」
やめて、くれ。
おれは、そんなん、じゃない。あなたたちこそが生きるべき、なんだ。
どうして、おれを……!
「ずっと、知りながらも、僕は、君に言えなかった、君の、本当の……力。言ったら、きっと君は、迷って、しまうから」
穏やかな、顔だった。
「君はね、君のカゲは」
……震える大きな手が、おれの手を、ギュッと、強く握った。
「人のカゲを、食べて、強く……なる」
「な」
んだ、それ……?
頭の中にソウルオーガの声が響く。
『クカカッカ。言ったろ? ソウルオーガ。魂を喰らう鬼、だってな』
「何を、何を言ってんだ、お前……?」
『おれの声は、お前にしか聞こえないぜ』にひひ、と心底愉快そうに、嗤う。
『コイツのカゲ、頂けるとはな。極上のカゲだ。けけけ。最高にありがたい展開だぜ……!』
「マヒロ、くん、これ、を」
もう、ぎこちなくしか動かせない手で、カゲをおれに渡した。
おれは、自らの予感に嬲られた。
「や、やめてくださいよっ!」叫んでしまう。「言ってたじゃないですか、カゲは心だって! 無くしたら、精神が砕かれるって! 何やってんですか、何やってんですか!」
叫んで、おれは受け取らない。
「君のカゲ、ソウルオーガは……君のバットは、まだ、本当の姿じゃない」
「……もう、冗談、かまさないでくださいよぉ」
おれは、こんな時も、震える声を、馬鹿げた言葉を出すのが精いっぱいで。
そんなおれを、カイさんは最期の力で見つめている。
「聞いて、くれ。君は、君が思っているほど、無価値じゃない」
傷口からとめどなくカゲを溢れださせながら、しかしカイさんははっきりと喋っている。
「君が、自分に自信が無いのは……分かる。けど、君は、僕が、命を託したいと、思える、人だ」
ごぼ、と一際大きく咳がでて、カゲの塊が、止め処なく流れる。
もう、やめてください、おれは必死に訴える。
「確かに、君は、弱い。でも、そう、君は、自分が弱い事を、知っている。だから、弱さに、怯えない。弱さを……受け入れ、る。それこそが、君の強さだ。ぼくには出来なかった、君の」
……そっと、おれの手にカゲを握らせた。優しい、笑顔で。
……美しい人だ。おれは、そう思った。
この人は、死の間際に、こんなにも優しい笑顔を、誰かのために。
なのに、おれは、何も、何もできずに……!
「見せて、くれ、ぼくに、希望……を……」
……カイさんの、全身の輪郭が溶けると同時に、優しい光となって、おれに降り注いだ。
「畜、生……っ!」
なんで、だろう、何も考えられなくなって、過去の記憶が頭に蘇ってくる。おれは瞬間、記憶の中に沈んだ。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
小学校のリトルリーグ、夏の大会。
小学校最後の大会、おれたちのチームは緊張から守りが乱れ、最終回に三点差をつけられ、負けていた。
「負けちゃう」
その思いがチーム全体を包み、何人かはもう、涙をこらえるのに精いっぱいだった。
唯一、シュートを除いて。そう、アイツは、その時も、笑った。
「さぁみんな!」夏の日差しより眩しく、あいつは笑った。「ピンチは、チャンスだよ!」あいつが誰よりも大きく、通る声でそう言った瞬間、ベンチの空気が、確かに変わった。
そして試合は、シュートの逆転満塁サヨナラ場外ホームランで勝った。
完全な負けムードを、文字通り一発で吹き飛ばした、本当にド派手な幕切れに、みんなの涙は嬉し泣きに変わり、ホームベースに帰って来たシュートをもみくちゃにして、ハイタッチ、ハイタッチの嵐。
マンガでも描けない筋書きに、スタンドに詰めかけた父母会も、シュートへのお弁当を抱えた、何人もの女の子達も、狂喜乱舞。
エラヤッチャエラヤッチャヨイヨイヨイヨイ。
何人かの女子は、目をハートマークにしたまま卒倒していた、とおれは推測する。
そして、同じ満塁の場面で三振して、一人、今も悔し泣きをしていたおれのところに、純度百パーセントの笑顔を持って、駆けてくる。
「見てた? ねぇ、マヒロ!」
あぁ……見てた、よ。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
……そんな、過去の記憶が、頭をよぎっていた。
どんなピンチにも逆境にも、いつも明るく笑顔、裏表のない笑顔で、颯爽と駆け抜けていくシュートの記憶が、嫌に鮮やかに、おれの脳裏に浮かび上がった。
おれにはできないことを、おれが諦める悪状況を、あっさりすっきり切りぬける超天才、シュートがただ、頭に浮かんでいた。
おれの、いや、みんなのヒーロー。日向秀人。
みんなは知らない、新月真大。
……そうだ。やっぱり、シュートだったら良かったのに。
おれじゃ、ダメかもしれない。
いや。
違う、な。
ここにはもう、おれしかいない。
チャンスに尻込み、ピンチにミスる、勝負は避ける、勝利を手放す、そんなおれしかいない。
なのに、あの人は、おれを、信頼しきって、消えて行った。
……だったら、さぁぁ。
「こんな力、おれは欲しくなかった、人の犠牲の力なんて」
立ち上がる。
光を浴びたおれは、さっきまでの傷が完全に塞がり、視界も明るくなっている。
「情けないけど、おれじゃないだろって、今も、思います」
身体の傷が癒えているのを感じる。鮮やかに舞っている、チョウのカゲの方を向く。時間は、もう無い。
「ひっでぇよなぁ。そんなやつに『託す』って、ぜってー間違ってるよ。そこはおれじゃなくないですか、って、さぁ」
口から放つ言葉とは裏腹に、二つのカゲを両手で合わせ。ああ、そうか。
これ、ツンデレっていうのか。ははは。
「もう逃げ場、無くなっちゃったじゃないですか! あああああぁぁっ!」
二つのカゲを重ね、解き……放つ!
『オオォアァァァア!』
あの人の優しさを託されて、変われ、変わるんだ……ソウルオーガ!
そして、このおれが!
……黒き鬼は、白き虎を、その身に宿した。
右手を振るう。バットを生み出す。
新たなカゲの力を得たそれは、既にバットの形をしていない。
白虎の力を帯びて、鋭く分厚い、抜身の業物へと変わっている。
『名前は、あんのか?』
ゴウジの言葉を思い出す。そうだ、名前。
大昔の名刀の名前を、お前に。
「お前は、虎徹」
そう、呟く。
さぁ、行くぞ。
が。
目の前に、珍妙な男が立ち塞がった。
「くわはははっ! 会いたかった! 会いたかったぞっ、少年っ!」
何処からか沸いてきた男。叫ぶや否や、空中に飛び上がり、新体操のようにクルクルと回転、着地するや、驚異の粘り腰で変な角度で仁王立ちした。下半身、無駄に鍛えてるね。
「強大なカゲの気配を感じ、こうして馳せ参じてみれば。またしても君と出会えるとは……! もはや運命の女神の祝福を感じずにはいられないっ! 私、最上天子は君に果し合いを望むっ!」
断わる。
この間の白タキシード、ガチ変態。アンタ、最高のタイミングで出てくるね。無論、反語的表現で最高に。
「時雨を下したな。さすがだ! 以前、君を運命の相手だと言ったが……」
特に意味もなく、顔に手を当てているのはなんでですかね。何かの病気ですかね。何だか分かりませんけど、明らかにもう末期ですね。はい。
「まさか私と同じ剣の道を歩んでくれるとはなぁっ! 牡牛座の私としてはまさしく運命を感じるぅ! それは、私へのプロポーズと捉えていいのだなっ?!」
どう捉えてそうなった。知らんけど。走馬灯でも見てろ。
つまり。
死ね。
― ガキィン!
っ。防がれた。僅かな間合いで、出来る限りの速度で切りつけたのに? 男の纏ったカゲが濃くなっていく。にやり、と笑った。
「そう急くな、少年。まずは……ダンスタイムだっ!」
一人で踊れ。パペットのように。
― シャカッ!
虎徹で切り上げる。永久に、bon voyage.
が。
……ギィン!
強い力で弾かれた。
弾か……? なんだって?!
「強くなった。強くなったな! 少年! 嬉しいぞ……まさに! 私のぉ! プリマドンナぁっ!」
ぷりまどんなぁ?
あっはっはっは。
超、ウゼぇ。
……ぶっ潰す! おれの精神衛生上の為にも!
シバッ!
縦に真一文字、振り下ろされた切っ先を、反身でかわす。
シャキッ!
かわした腰のひねりを使って、おれが突きを出す。
上体反らしで避けられる。
そのままブリッジ、後ろに下がって行く。悪魔に取りつかれた女の子みたいな動きで。あぁ、もう膨れ上がった股間がバッチリ見えた。うげえ。
ともかく、こいつ、強い。変態的な言動と動きのくせに。
白虎を吸収して、明らかに強くなったおれと同等か、それ以上に。
……くそ、この間の戦いは、本気じゃなかった、ってか。
ふざけやがって。一秒でも早く、ヨシカちゃんのところに行かなきゃって時に!
「はぁ、はぁ。いい、良いぞ! 少年! その剣術、我流だが野生動物のような荒々しい美しさがある! 見とれるぞ……ずっとこうしていたいな!」
御免こうむる!
「いざ、いざっ、推してぇ、参るぅっ!」
真一文字の横払いが来る。スウェーで回避? いや! 間に合わない!
……ガッ!
瞬時、虎徹で受けた。火花が飛び散る。
勢い、身体ごと弾かれて後ろに飛んだ。
はぁ、あっぶね。
空中で体制を立て直す。着地。反動。ずざぁ、アスファルトが擦れる。足の裏に摩擦熱を感じる。
「速いな。少年」
男はビ、とこちらを刀で指し示して、語る。語りながら腰をクネクネさせんの、止めろ。
「いや、強くなったと言うべきか。そのカゲが持つ、生来の圧倒的な剛力に加え、俊敏さを手に入れている。すなわち、相手の動きを感知してから、動作に入るまでが、圧倒的に速い。その神速、並大抵の相手では触れることすら敵わないだろう。以前の君には無かったものだ。それを、ほんの僅かな期間にモノにしている……! ふふ、ふははは!」
男は、昂る感情と笑いを堪え切れられていない。
戦闘狂。そんな言葉が頭に浮かんだ。
「だからこそ、だからこそだ! 抱きしめたいなっ! 少年!」
首なし地蔵でも抱いてろよ。
……仕方、ない。もう、これ以上、こいつに時間を割けない。
カイさんが、おれに命を、託した意味を!
「虎徹」
意識を、精神を集中させる。あいつはモノにしてるなんて言ってるけど、おれはまだ、白虎の『夜半』を使いこなせていない。思い出せ。変態の仮面の裏に隠されていた、高潔で穏やかな、あの笑顔を。
「虎徹……おれの、命。吸え」
業物が、黒い輝きを増していく。
「ぬっ?! どうした、少年! 纏ったカゲが益々強くなっているではないかっ?! その波動……! 信じられん……これ以上、私を悦ばせないでくれっ!」
いっそ、昇天してくれたら助かるんだけど。
纏った瘴気が倍加した虎徹を、上段に構える。発する闘気で、周囲の空気が震えているのが分かる。
男は二刀を身体の上でカチャカチャ、合わせている。スベスベマンジュウガニか、お前は。
「どうした? まさか、受けなのか、少年? 私にタチをやれと?! 良いのかっ?!」
無視が、吉。
……この一撃で、決める。
「づぉりゃぁぁっ!」
神速。
「真正面から突っ込みだと?! 血迷ったかっ!?」
― ガッ! ギ、ィィィィ…ン。
「ば、バカな、我が剣が、無双の太刀が、二振りとも……折られた、だと……ぉ?」
膝から崩れた。
解説、ご丁寧に、どうも。
「一撃に、そこまでの威力が……わ、私をイカせた、だと……」
男は膝から崩れ落ち、ピクリとも動かなくなった。
神速に、剛力を合わせた、手応えアリの、一撃だ。
あばよ、戦闘狂。
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急いで駆けだし、チョウのカゲを追う。
間に合ってくれ。頼む。
そう思って見上げた夜空には、迷っているかの様に月に舞うチョウがいた。
少し、安堵する。
そして、飛び上がる。
家の壁、電柱、駆けあがって、なお高く。
月に舞う、鬼とチョウ。
― ザシュ!!
虎徹の一振りで、チョウのカゲを斬り伏せる。
真っ二つに斬られたカゲは空中に溶けていく。
これで、ヨシカちゃんは……。
……見ててくれましたか、カイさん……。
静かに白い光を湛える月に、おれは虎徹を翳す。
……カゲの世界が、溶けていく。
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再び、寒さ厳しい涼風公園に戻った。
慌てて駆け寄ると、ベンチの上のヨシカちゃんは、何事もなかったように、規則正しい寝息を立てている。ふは。歎息する。あぁ、良かった。
「ヨシカちゃん? 大丈夫?」
そう言ってヨシカちゃんをゆっくり、起こす。
夢うつつの彼女に、家に帰るように言う。
え? いや。うん、そうだよ。何もなかった。何もなかったんだよ。
「……マヒロ、くん?」
何でもない。そう。
なんでも、ない、んだ……。
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白と黒しかない世界。
真っ白な月が辺りを照らす世界。
男が十字路に倒れている。白いタキシードを身に纏った長身の金髪である。男の両脇には、切っ先から折られた分厚い漆黒の刃物がアスファルトを貫通して、地面に突き刺さっている。男は微動だにしない。
『へんじをしない。ただの しかばねのようだ。』
ふいに男のすぐ脇に巨大なドア大の影が立ち上る。
影の中から女が出てくる。黒いロングドレスを着た、膝まである髪をゆったりとまとめた女が。
「生きてる? 天子」
女は立ったまま男を見下ろすと、腰に両手を当てた姿勢のまま話しかけた。
「アンタねぇ、相手が女でも、返事くらいしなさいよぉ」
「褥……私は貴様を、貴婦人扱いした覚えは……ない」
「ほらぁ、生きてた。もう、起きなさいよ」そう言うと女は男に肩を貸し、無理やり立たせた。
「ぐっ。怪我人は、もっと丁重に扱え」
「寝言は寝て言いなさいよぉ。これで、この間の借りは返したからねぇ」
「ふん。あの程度、私には貸しのうちに入らぬ」
「ま。可愛くなぁい。て言うか、あんた、本気出さないとあの子に殺されちゃうんじゃないの? あんた、まだ『一角獣』しか使ってないでしょ?」
ため息交じりに女は言う。どうせ言っても無駄だろう、というように。
「ふ。恋愛とは命がけなほど、萌えるのだ。私と彼、二人の問題だ。劣情に身を委ねることが第一の貴様には、分かるまい」
「私の方こそ、分かりたくないわよ……」女は一つ、咳ばらいをした。「ねぇ、あんた、新入りの勧誘行ってきなさい」
「寝言は涅槃で言え。何故私がそんな下賤なマネを」
「私のじゃないわよ。ヨシュア様の、命令」
「ヨシュアの?」
男はそれについて考えたのか、しばらく間をおいてから頷く。
「良いだろう。詳しく聞く価値は……ありそうだ」




