混沌の終幕、そして新たなる神話へ
アクトとフィートは戦い続けた。互いにあらゆる力を出しつくし、相手を倒そうとした。二人を取り巻く力の障壁で周りの風景はぼやけ、その場は二人だけの空間となっていた。戦いで生み出される力と共に、あらゆる想いも溢れてきた。想いが勝ったのは、アクトの方だった。アクトの頭上に白銀の光に包まれた白銀書が出現し、ページがパラパラと捲られた。〈想いの力〉パスト・テンスがかつてないほどにアクトの身体能力を際限なく高めた。フィートが大剣を振り上げようとした瞬間、凄まじい速さでフィートの眼前に移動したアクトは大剣を左手で掴み、剣を握ったまま右拳でフィートの顔面を殴り飛ばした。仰向けに倒れ込んだフィートが大剣を地面に突き刺して起き上がろうとしているところにアクトは一瞬にして移動し、フィートの腹部を蹴り飛ばした。そこで、白銀剣ツァダイ・カフ・ラメドが完全に覚醒した。アクトの全身が白銀の光で輝き、黒い髪の毛が変色して白く輝いた。アクトが素早く白銀剣を振り払うと、大きな金属音と共にフィートの大剣が吹っ飛ばされた。フィートが舌打ちした次の瞬間には、アクトとフィートの周囲に2mはあろうかという白銀に光る細長い刃が12本出現していた。浮遊するオーラの剣はフィートに矛先を向けて回転した。アクトの体はすり抜けて、光の刃が一斉にフィート目掛けて発射された。跳躍したフィートの頭上から凄まじい速さで移動する光の刃が襲い掛かった。フィートは地面に叩きつけられ、体中が串刺しとなった。アクトの左右には既に発動していた二つの光輪が浮遊していた。起き上がろうとするフィートの手と足に白銀に輝く光輪が張り付いた。地面に座り込んで身動きが取れなくなったフィートの左頬を、アクトが白銀剣で素早く斬りつけた。黒い血が流れ出たが、すぐに傷口は消滅して元通りの無傷の肌が現れた。アクトは眉を顰めて、白銀剣を振り上げた。フィートの左腕が切り落とされ、吹っ飛んだ。だが、次の瞬間にはフィートの傷口と切断された腕の空間が歪み、何事もなかったかのように腕は元通りとなっていた。同時に光輪の束縛もパキンッと消滅した。〈想いの力〉の発動後だからなのか、まるで精神力を消耗し切ったかのようにフィートは動かない。アクトの瞳が曇り、続けてフィートを冷たく見下ろした。アクトが剣を振り上げると、まるで猛り狂う炎を纏っているかのように白銀剣から白銀のオーラが放出された。波打つ白銀剣はオーラによって本来の白銀剣よりも巨大化していた。フィートの力を上回り、アクトはフィートを追い詰めた。
「もう、こうするしかないのか。フィート」
「お前がそうしない限り、俺がお前を殺す」
アクトは苦渋の表情のまま、白銀剣ツァダイ・カフ・ラメドを振りかぶった。そこで突然、二人の近くに灰色のローブ姿が出現した。
「やめるんだ。アクト・リーメル。これ以上、憎しみを重ねてはならない」
そういって、セラフィムは振り下ろされたアクトの白銀剣を白い翼で遮った。アクトは一体、誰が現れたのかと怪訝に思った。フィートはその一瞬にアクトの隙を突き、漆黒のオーラの塊を両手から発射した。再び、灰色のローブ姿が出現しフィートの攻撃を遮った。
「やめとくんだな。フィート・ディクロース」
悪魔のような黒い翼で、フィートの攻撃は防がれてしまう。フィートは舌打ちしながら、突然現れた見覚えの無い二人を睨みつけた。
「なんだ、お前ら。獣人か……?」
アクトは目の前のセラフィムをじっと見つめた。獣人といえなくも無いが、その姿は獣人族では無いように思えた。
「どうでもいいが、どういうつもりだ。お前ら、何で邪魔するんだ」
「僕はセラフィム。そして彼女はレイ。それから、僕の後ろにいるのがユイ」
見ると、セラフィムの背後にいつの間にかレイにそっくりな灰色のローブ姿のユイが立っていた。
「僕等は君たちを止めに来たんだ。君たちの為、そして世界の為にね」
「僕達の為とはどういうことですか? あなたは何者なんですか、セラフィム」
「僕等は〈混沌〉の子とエノキアンを止めに来たんだ。それには君達の力が必要なんだ」
「ふざけるなっ! いきなり現れて、何言ってやがる」
フィートの全身から漆黒のオーラが噴き出し、周囲を拒絶するかのようなうねうねと動くオーラに覆われながらフィートは立ち上がって、セラフィムに大剣を向けた。
「フィート・ディクロース。君だって、この世界から〈混沌〉を無くしたいんだろ? その為に自らを犠牲にして戦ってきたんだろう。けど、今の君のやり方じゃ、エノキアンの思惑通りなんだ。〈混沌〉からの本当の解放は、〈混沌〉による憎悪と復讐の連鎖を断ち切ることなんだ。僕は君とアクトの力を借りたいが、それよりも君達が受けてしまった〈混沌〉による憎悪と復讐の戒めを断ち切りたいんだ」
「貴様に、何がわかる」
フィートはセラフィムを睨み付けた。ギリギリと歯を食いしばると、口の端から黒い血が流れて顎から滴った。
「貴様に、俺の憎しみが、どうにかできるとでも言うのか。何も知らないくせに、偉そうな事言いやがって、偽善者め」
アクトは沈黙を保っていた。
(憎悪と復讐の連鎖を断ち切る、というのは素晴らしい理想に聞こえるが、果たして一度囚われてしまった者達をどうやって解放するのか)
アクトもフィートの言うように、セラフィムの言葉が信じられなかった。
睨みつけてくるフィート、眉を顰めているアクトに対して、セラフィムはゆっくりと語りかけた。
「確かに、失ったものはもう取り返せない。だれもが、そんな苦痛を伴いながら生きている。でも、アクトとフィートの喪失は、〈混沌〉によって起こされた理不尽な不幸だ。だから、救済されたっていいはずだ」
アクトは我慢できずに口火を切った。
「セラフィム。僕達を救いたいとは言うけど、どうするつもりですか。僕が思うに、僕もフィートも、もう救われない」
フィートが剣呑な言葉を続けた。
「いいか、貴様。もし、そこの後ろにいる女が俺に殺されても、貴様は何もせずにいられるのか。俺でなくてもいいし、その女じゃなくてもいい。仮に貴様にとって大切な人が、何らかの不自然な理由で永久に失われても、貴様は何も感じずに生きていられるのか」
セラフィムはフィートのその言葉の意味を察し、真面目に頷いた。
「いいや。ユイだろうとレイだろうと、僕にとって大切な人が奪われたら、何があろうと許さないよ」
フィートはセラフィムの言葉に口を歪めた。
「ハッ。所詮その程度か。貴様は失っていないから、理想論を並べられるんだろ」
「僕は運がいい事に誰も失うこと無く、ここまで来れた。けど、君達が失ってしまったということは知ってるよ」
アクトとフィートはセラフィムの言葉に顔を顰めた。
「二人とも、どうして僕がそんなことを知っているんだろうか、なんて顔をしているね。僕は知ってしまったんだよ。〈混沌〉に引き起こされた多くの憎悪と復讐を。大丈夫。君達の大事な人、フォルティナ・ラストアは、まだ生きているんだ」
セラフィムの言葉が信じられず、アクトとフィートは呆然としていた。
「何を言ってるんだ、お前」
フィートは驚きを押さえつけ、苛々と言葉を発した。
「フォルティナは殺されたんだ。魔王に」
「どういうことですか、セラフィム。あなたは何を知ってるんですか。僕は確かに、フォルティナが死んでしまうのを見た」
アクトは信じられなかったが、どこかで儚い希望を抱いていた。
「フォルティナは〈秩序〉の信奉者テトラモルフと出会い、列聖さらに神格化し、三神の一柱、傍観神となって生き続けているんだ」
意味がわからなかった。でも、フォルティナが本当に生きているかもしれない。そんな一生許されないと思っていた希望の光に、アクトとフィートはどこかで救いの手を信じ始めていた。
「どうすればいい」
フィートがセラフィムへの警戒を解いて言った。
「どうすればいいんだ、俺とアクトは。もし、お前の言ってる事が嘘なら、その時は、お前もお前の仲間も殺すだけだ」
「フィート」
「勘違いするなよ、アクト。俺はまだ、世界を許したわけじゃない。ただ、フォルティナが生きているというなら話は別だ」
「そうだな、フィート。セラフィム。僕達はどうすればいいんですか」
「ありがとう。アクト・リーメル。フィート・ディクロース。君達が本当に辛い思いをしてるのはわかってる。けど、もう少し頑張ってくれることを本当に感謝してる」
セラフィムに続けて、レイが続けた。
「さて、私達は〈混沌〉の子とエノキアンを倒さないとならない。それには、まずエノキアンの退治からだ」
「エノキアンの退治……」
アクトとフィートが同時に呟いた。
「そんな憂鬱な声を出すんじゃない。何もお前達二人でやれ、とは言ってないんだ。私達はもう三人のエノキアンを倒したし、おそらく三神が三人倒し、更にエクス・マキナ達が三人と戦ってるはず」
レイに続いて、セラフィムが口を開いた。
「そうだね。エクス・マキナ達が今こうしている時もエノキアンと戦ってるかもしれない。急いでエクスの元に向かおう」
セラフィムはアクト達とフィート達を全員集め、一斉にエクスの元へと空間移動した。
エクス・マキナは有無を言わさずエノキアンに束縛を仕掛けた。エノキアンが時間軸の他の地点へ逃げ出さないように、出現させた力の障壁は縦次元の四界にまで展開させている。エノキアンが追いかけていた人物は邪魔だから障壁の中へは入れなかった。エノキアンが障壁に阻まれるか否かという瞬間、七人のエノキアンが姿を消すのがわかった。すかさず障壁を密閉し、残ったエノキアン二人を閉じ込めた。そこでエクス達はエノキアンに対峙した。怨敵たるエノキアンを眼前にして、思わず溢れてくる〈想いの力〉――〈秩序〉が根源となるその力を、エクスは必死に抑え込んだ。憎悪と復讐の念が凄まじいほどに心中に膨れ上がった。
(こんな力に頼りたくはない。ロリアンと俺のもの以外の力が身に宿るなど、虫唾が走る。……ようやく、ロリアンの無念を晴らす時が来た)
黒いローブ姿の二人をエクスは睨みつけた。何も言わずに、エクスはエノキアンに攻撃を仕掛けた。エクスの背後から灰色のオーラの矢が無数に発射され、エノキアンは左右に散って回避した。その隙に、エクスは仲間に指示を出した。
「ケークロスリイは私とクロスの治療に専念してくれ。リネストリアはケークロスリイが負傷しないよう、彼女を絶対に安全な場所へ移動して、必要な時に私とクロスの近くへ移動してくれ。ヒエロニムスとミュシャは空間移動するリネストリアの守備と援護を頼む。私とクロスとで、エノキアンを殺す」
エクスとクロスは全力でエノキアンに立ち向かった。エクスは凄まじい魔力でエノキアンを攻撃し、更にクロスをその魔力で補助した。クロスはエノキアンに次から次へと襲い掛かり、漆黒剣ではなく拳で殴りつけた。エノキアンも恐ろしい力で応酬してきた。エクスとクロスが時折負傷すると、リネストリアが近くに空間移動し、ケークロスリイが二人を治療して、すぐに二人は姿を消した。
それまで激しい戦いを繰り広げていたエノキアンが後方へ跳躍し、初めてエクス達から距離を取って佇んだ。エクスは眉根を寄せてエノキアンを見つめた。エノキアンの一人がローブの中から漆黒の刀を取り出した。もう一人はローブの中から漆黒の剣を2本取り出した。
「跡形もなく滅殺してやる、武士エノキアン・アスモデウス、二刀剣士エノキアン・メリジム。このタイムポイントが貴様等の終着地点だ」
エクスは全身に灰色のオーラを纏った。黄金の瞳でアスモデウスを睨みつけると、地面から灰色のオーラが噴き出した。アスモデウスが足元から噴き出したオーラを刀で斬りつけると、ガキンと大きな金属音が鳴り響いた。灰色の刃のようなオーラは次々と地面から噴き出し、アスモデウスを襲った。アスモデウスは跳躍して後退したが、左肩と右腿が切り裂かれた。エクスはアスモデウスの着地点へ素早く移動し、加工硬化させた右手を振り払った。アスモデウスが凄まじい速さでエクスの右手を刀で弾き返し、態勢を崩したエクスに刀を振り下ろした。エクスの背後から灰色のオーラが矢のように飛び出してきた。一つの矢がアスモデウスの右肩に突き刺さり、アスモデウスを後方へ吹っ飛ばした。それに追随するように灰色の矢は無数に発射され、アスモデウスの全身に突き刺さった。エクスが飛び上がり右手を振り下ろすと、その軌道を描くように灰色のオーラで形成された巨大なブレードが振り落とされた。アスモデウスの頭部がフードとともに切断された。残ったのは細切れとなった黒いローブの残余だけだった。そこに突然空間に裂け目が生じ、粉々になった黒いローブの破片が地面に落ちた。エクスはそれを見て、眉根を寄せた。
クロスが漆黒剣ツァダイ・テト・アレフを抜くと、艶やかな漆黒の刀身がクロスの長身に合わせるように伸びていった。クロスは左手でクシャクシャの髪を掻きあげ、メリジムを睨みつけた。漆黒剣ツァダイ・テト・アレフは更に力を増して覚醒した。刀身から漆黒のオーラが飛び出して、クロスの全身を覆った。猛り狂う炎のように波打つ漆黒のオーラを漆黒剣が纏った。クロスの両目の周りが隈のように黒く染まった。凄まじい速さでクロスはメリジムに近づき、漆黒剣を振り下ろした。メリジムが漆黒の剣を交差させて受け止めるとガキンと激しい金属音が響き渡った。クロスは右足を振り上げてメリジムの腹部を蹴り飛ばし、続けて漆黒剣を振り払った。メリジムが後方へ吹っ飛んだ。起き上がろうとするメリジム目掛けて、クロスの放った漆黒の衝撃波が追撃した。跳躍して避けたメリジムに巨大な漆黒の刃が振り下ろされた。メリジムは地面に叩きつけられたがすぐに起き上がった。クロスが手にする漆黒剣はオーラによって10mほどに巨大化していた。クロスが漆黒剣を振り払うと、漆黒剣は鞭のようにしなりながらメリジムを襲った。メリジムが後方へ退避するのを、漆黒剣は素早く方向を変えてメリジムの頭上から襲い掛かった。メリジムが漆黒剣を受け止めると、凄まじい速さでクロスは巨大化した刃を置き去りにしてメリジムの眼前まで移動し、メリジムの腹部を漆黒剣で両断した。態勢を崩したメリジムにそれまで受け止めていた漆黒剣の刃が振り下ろされた。メリジムのローブが縦に切断された。クロスは四分割されて地面に落ちた黒いローブの残余を眉根を寄せて見つめた。
エクスはある懸念を抱いていた。背筋が寒くなるような不安。その危惧で全身から汗がドッと吹き出てくる。それは忌まわしく邪悪な策略。
(確かに――した。これまでの――明らかだ。だが――だろうか。こんな――なのか。――ものなのか。――いうのか。いや、――なかったはずだ。一つの確信がある。――させなかった。――はずだ。それとも――なかったのか。ともかく、何故、――なかったのか)
エクスの頭の片隅にもたげたある仮説が、エクス自身に吐き気を催させた。
(まさか――いうのか)
エクスの疑念を確かめる術は現段階では何も無かった。
エクス達から5mほど離れた場所に何者かが出現した。エクスは前方に空間移動してきた者達に臨戦態勢を取った。だがエノキアンではなかった。現れたのは白いローブ姿の三人だった。すぐにテトラモルフではない事に気付いた。それは三神だった。存在は知っていたが、三神に遭遇するのは初めてだった。三神の一柱が、手に持っていた黒いローブを草原に投げた。黒いローブは全部で三着あった。まさかとは思ったが、それでもエクスはその三神の一柱に問いかけた。
「お前達がそれをやったというのか」
「そうだ。エクス・マキナ」
フードを深く被ったままアケショナル・ラストアが答えた。
「私達がエノキアンの三人を消滅させた」
「俺はてっきり、三神は何事にも介入せずに傍観しているだけかと思っていたが」
「私達は待っていただけよ。エクス・マキナ。いずれしなければならない戦いを」
フードを深く被ったままフォルティナ・ラストアが答えた。そして、フードを深く被ったままロリアン・フェザー・クウィントゥスが続けた。
「そう。その戦いが今ようやく始まったのよ」
「!?……」
エクスは驚倒した。その声は、はるか昔から愛し続けているロリアンの声に酷似していた。
「どういうことなんだ」
「本当に久しぶりね。エクス」
そう言って、ロリアンはフードを取って素顔を晒した。
「ロリアン。どうして、君が……」
「それは僕がまとめて説明するよ。エクス・マキナ」
エクスの背後から突然声がした。エクスが振り返ると、空間移動してきたと思われる数人の者達が立っていた。中には見覚えのある者達もいた。先頭にいた白い翼が生えた少年が近づいてきて、三神の隣まで歩いてきた。そこで、ロリアン以外の二人もフードを取って素顔を晒した。
アクトもフィートも期待はしていたが、信じられない部分が大きかった。目の前にフォルティナの姿が現れて、二人は最初それが幻や偽者だと疑うことさえ忘れていた。変わらない記憶の中と同じフォルティナの顔を見て、二人は涙が溢れてきた。魔王と戦った時から凍結していた感情が溶けて、二人の脳裏にある以前の記憶が鮮明に戻ってきた。三人で笑い合い、楽しくて素晴らしい思い出。フォルティナがアクトとフィートの元に駆け寄り、三人は抱き合った。
感動の再会を向かえる三人の横で、ティラは放心状態のまま立ち尽くしていた。そんなティラを見て、ニヤリと笑いながら、アケショナルはティラの方に歩いて近づいていった。アケショナルはティラと出会った時の姿のままだった。
「ティラ。何をぼうっと立ってるんだ。阿呆みたいな顔して」
「どうして……? アケショナル……君は死んだはずじゃ……」
「いずれは死ぬだろう。けど、〈混沌〉にいいようにさせたままで終わらせてたまるか。テトラモルフと契約し、神格化して、今は三神の一柱だ」
アケショナルは、さあ見ろとでも言わんばかりに腕を広げて見せた。
「詳しい事はセラフィムが語るそうだ」
ティラの驚いた顔に涙がつうと流れた。涙は止まらず、次々と溢れてきて、ティラの眼前はぼやけ始めた。
「おいおい。ティラ」
とうとうティラは嗚咽を漏らすほどに激しく泣き始めた。泣きじゃくるティラを抱きしめると、ティラもアケショナルに抱きついた。
エクスはロリアンに近づいて、優しく慎重にロリアンの頬に手を当てた。一瞬、目の前のロリアンが壊れて消えてしまうんじゃないかという恐慌に陥ったが、ロリアンは消滅する事も無く、ニコリと笑ってくれた。
「本当に、君なんだな」
「ええ、そうよ、エクス」
夢の中で何度も聞いたロリアンの声。悠久の時は拷問のようだったが、色褪せることなんてないはずだった。でも、目の前のロリアンが〝エクス〟と呼ぶ声は、あまりに鮮烈で感動的なほどに本物だった。エクスは存在を噛み締めるように、強くロリアンを抱きしめた。
「エクス。本当にごめんなさい。まさか、あなたをこんなに長い間苦しめる事になってしまうなんて」
「何を言ってるんだ、ロリアン。君のおかげで、僕はこうして君にまた会える事が出来たんだ」
三神達はそれぞれ感動の再会を喜びながら、テトラモルフとの出会いを思い返していた。
帝国シアルルの没落時、ロリアンはエクスに魔力を捧げたが、それでも彼女の自我と魂は消失しなかった。ロリアン・フェザー・クウィントゥスはテトラモルフとの邂逅によって、列聖さらに神格化し、三神の一柱、創造を司る創造神となった。ロリアンはテトラモルフとともに時空を漂い、次の三神の適格者と出会った。向こうでティラ・マスカルと抱き合っている黒髪の戦乙女アケショナル・ラストアだ。アケショナル・ラストアもテトラモルフとの邂逅によって、列聖さらに神格化し、三神の一柱、破壊を司る破壊神となった。魔王との戦いを経たアケショナルは失意と絶望のどん底に落ち、その反動を力に変えて自らの運命をどうにかしようと足掻いていた。〈混沌〉との争いで、もう犠牲者は出してはならない、とテトラモルフが言うのを、ロリアンは冷めた想いで聞いていた。続けて、テトラモルフは誓いを立てた。次は、より賢い判断と行動に出なければならない。ロリアンはそれを聞いて眉根を寄せた。時空を漂流する者にとっては実際の時の流れは何の障壁にもならなかった。従って、次の適格者とすぐに出会うことになった。向こうでアクト・リーメル、フィート・ディクロースと三人で笑い合っている、栗色の髪を伸ばした聖女フォルティナ・ラストアだ。フォルティナ・ラストアもテトラモルフとの邂逅によって、列聖さらに神格化し、三神の一柱、傍観を司る傍観神となった。テトラモルフは何も言わなかったが、ロリアンにはフォルティナの置かれた状況が不憫でならなかった。愛しい人との別れ。更に自らの存在を秘密にしての行動はいつまで続くのか定かではなかったのだから。それでも傍観神フォルティナは傍観の役割から、世界と時空を自由自在に行き来し、全てを傍観し始めた。ロリアンがテトラモルフと行動を共にするようになり、その期間が長くなるにつれて、ロリアンの疑念は大きく深くなっていった。
(私だけではないはず。アケショナルもフォルティナもとても聡明で怜悧な女性。二人とこの件に関して深く論議したことはないけど、私と同様に何らかの疑念もしくは違和感を抱いていてもおかしくはない)
テトラモルフが創世族に対してこれまで行ってきたことは、入れ物もしくは器と表現してもいいけど、何らかの器を見出す為の機械的なループプロセスでしかなかったのではないか。変数として見出された者達は、あるプログラムを遂行する為に機械的に利用される。その役割を終えたら次から次へと、変数は入れ替わっていく。選ばれた人間は、言わば定められた役割をあてがわれる偽りの器でしかない。三神という名も、単なる変数名に過ぎないのではないか。テトラモルフが差し伸べてくれた救いの手も、〈混沌〉に立ち向かう為に必要なプログラムを単純なループ文として作業しただけではないのか。ロリアンの疑念が確信近くにまで膨れ上がったのは、最終決戦開始の前に交わしたテトラモルフとの会話が原因だった。
「我々テトラモルフにしろ、三神である君達にしろ、また新世界救済教会や四界教、はたまたかつてのキリスト、ユダヤ、イスラム、仏など、多くの教えと信心の対象があるのはこれまでもこれからも変わらない。そこで注視せねばならぬのは、宗教や政治、企業や一定のコミュニティの最高責任者はともすれば信心の対象になるが、構成されたグループから生み出されるメタ知性によって、一つの認知バイアスを引き起こすということ。ある集団のトップが間違えることはあり得ないという、とんでもない誤認。不可謬説だよ。更に当然といえば当然だが、その不可謬の対象には最高権限が与えられている。宗教では特にエクス・カテドラとして神聖視されている。このエクス・カテドラと不可謬によって、世界は大きな過ちを繰り返す。我々、テトラモルフも残念ながら過ちを犯す。もちろん、間違えのない最善策を考えて選択しているが、我々も完璧ではない。我々は〈秩序〉の信奉者に過ぎないのだ」
テトラモルフの話に三神は眉を顰めて、テトラモルフを見つめた。
ロリアンはテトラモルフが何に対して警鐘を鳴らしているのかわかっていた。だがテトラモルフの話は、ロリアンにまた別の不安を呼び起こした。それはあるパラドックスだった。規則は、行為の仕方を決定することはできない。なぜなら、いかなる行為の仕方も、その規則と一致させることが可能だからだ。子供だましの滅茶苦茶な理屈屋の御都合主義に思われるが、そうとも言えない。人間は成長するにつれて、ヒューリスティックによる認知バイアスを引き起こす可能性がどんどん膨れ上がるから、これまでのいわゆる常識というものにまやかされ、そんなはずはないと決めつけてしまう。その空隙にあらゆる悪意が入り込むのだ。人は騙されたと後悔するが、騙しているのは自分自身だというのに検索容易性によって気づかない。古くから人間は、いくつもの試行から統計を取り、そこから普遍的だと思える性質を抽出して、次に〝あり得そうな〟結果を予測してきた。この連鎖で構築されたのが自然科学。そして、〝あり得そうな〟結果の予測が概ね当たっていることから、人々は現在の自然科学を信頼している。この信頼が危ういということだ。というのなら、テトラモルフがこれまでの長い歴史を観察した結果から抽出して決定させた規則が本当に正しいとは言えないのではないか。ロリアンの美しい顔に刻まれた眉根の皺が、より一層深まった。
セラフィムは各々の感動の再会を微笑みながら見つめていたが、時間が差し迫っていることもわかっていた。
「みんな。本当に申し訳ないけど、僕達にはまだやらなければならないことがある」
そう言って、セラフィムは自分の足元に集めた9人分の黒いローブの残骸に皆の注意を向けさせた。
「僕達がそれぞれ力を合わせて、エノキアン9人全員をこうして消滅させることができた。けど、もちろんこれで終わりじゃない。〈混沌〉の子はまだ残っている。こうしている今も、〈秩序〉の信奉者テトラモルフが〈混沌〉の子を押さえつけているはずだ。テトラモルフはずっとこの時を待っていたんだ。エノキアンを消滅させると、〈混沌〉の子は全エノキアンの力を取り戻すことになる。それまでテトラモルフは〈混沌〉の子を封じ、僕達にエノキアンを倒させたかったんだ。エノキアンの力を取り戻した〈混沌〉の子を僕達が倒さなければならない。テトラモルフは〈混沌〉の子を封じることは出来ても、倒すことはできない。それがテトラモルフの役割と本質であるみたいだから。テトラモルフの封印を〈混沌〉の子が破壊して、テトラモルフが消滅させられる前に、僕達は急がないと。だから、みんな、聞きたいことは山ほどあると思うけど、まずはテトラモルフの元に空間移動してからにしてよ。ここまで来たんだから、ここにいる全員、〈混沌〉の子と闘う覚悟があるとみなすからね」
そうして有無を言わさずに、セラフィムは原形界アツィルトの力を解放し、その場の大人数全員を空間移動させた。
セラフィムが空間移動させたのは、天界と呼ばれる場所だった。物質界アッシャーではあるが、異質な世界だった。それはどこまでも白い空間だった。地面も空も何もかも白く、どこまでも果てしなくそれは続いていた。そこに〈秩序〉の信奉者テトラモルフと〈混沌〉の子がいた。テトラモルフは白いローブ姿だった。四人の白いローブ姿が対峙しているのが〈混沌〉の子だというのはすぐに察したが、にわかには信じ難かった。アクトとフィートとフォルティナ、それとアケショナルとティラはかつて戦った魔王の姿と全く違っているので戸惑っていた。〈混沌〉の子は3mほどの巨大な黒い烏賊のような姿で、9本の太い触手がウネウネとのたうっていた。〈混沌〉の子は戦うというより、テトラモルフの様子を見つめているような感じだった。セラフィム達が到着して、テトラモルフは少し気が楽になった。テトラモルフは破壊行為が不可能だった。〈混沌〉の子をどうにかするにはセラフィム達の力が必要だった。
「さあ、テトラモルフ。ようやく〈混沌〉の子との決着をつける時が来たよ」
セラフィムはテトラモルフの横に立ち、眼前の気色悪い触手の化け物を睨みつけた。
「皆さん。今が戦うべき時です。よろしくお願いします」
テトラモルフの中性的な声を聞いて、その場の全員が立ちはだかる黒い烏賊姿に対し臨戦態勢をとった。
触手の付け根あたりの切れ目がパッと見開かれ、赤い双眸がギラリと光り、〈混沌〉の子から漆黒の衝撃波が放たれた。衝撃波は凄まじい速さで放射状に広がり、その場の全員が四方へ吹っ飛ばされた。漆黒のオーラが大気を震わせ、空間にピシッとひびが入った。ひび割れた空間はパラパラと剥がれ落ち、空間の裂け目が開いた。どこに繋がっているのか定かではない空間の裂け目に、それぞれが飲み込まれるように吸い込まれていった。〈混沌〉の子の九つの触手が千切れ落ち、蛇のようにスルスルと地面を這って、空間の裂け目に近づいた。先行した者を品定めするかのようにウネウネとうねっていたかと思うと、触手は勢い良く裂け目の中へ飛び込んだ。
フィートはサッと周囲を見回した。アテピス以外は近くに誰もいないようだ。フィートは眉根を寄せて、小さく舌打ちした。
「どうやら厄介な事に分断されてしまったようですね。フィート様」
「俺が心配してるのはそんなことじゃないんだ、アテピス。バラバラにされようと、それぞれが自分で対処できるだろう。それよりも、俺はこの場所に見覚えがある」
「えっ?」
アテピスは薄暗い周囲に目を凝らしてみた。そこはどこかの城内に設けられた広いバルコニーのようだった。外には森が広がっているようだった。暗くて定かではなかったが、故郷の獣人族の町の近くの風景によく似ていた。
「フィート様。あれを」
フィートが振り返った。アテピスが指差していたのは、10メートルほど離れた空中に開いた空間の裂け目だった。空間の裂け目はまるで黒い霧に覆われているかのように薄暗く不鮮明に見えた。空間の裂け目の奥から漆黒のローブ姿が一人姿を現した。
「我が名は悪の誘惑者マモン。エレボス・インターフェース・エノキアンとして、貴様等を見極めよう」
「俺もそろそろ貴様等エノキアンには見飽きてきたところだ。貴様等のふざけた茶番にもな」
「この場所が気に入らなかったかな。フィート・ディクロース」
「俺はこの魔王の居城が世界のあらゆる場所の中で、最も嫌いなんだ」
エノキアン・マモンがくつくつと笑った。フィートとアテピスの〈想いの力〉が発動した。二人は剣を抜き、マモンに襲い掛かった。
クロトが首を振ってため息をついた。
「どうしてこいつらと一緒なんだか。最悪だな」
「おいおい。そりゃこっちのセリフだぜ」
リネストリアがフンッと鼻を鳴らした。
「ちょっと黙って下さい。二人とも」
フェリルは周囲の状況を観察していた。奇妙な空間だった。フェリルがさっき確認したところでは、自分とクロトとリネストリアがそれぞれ記憶しているものがこの空間に反映されているようだった。アルドビルデの城内かと思ったら、いきなりクロトがかつて住んでいた小屋とそっくりの室内が再現されていた。室内のはずなのに、いきなり森林地帯があって、そこはリネストリアの妖精族の故郷にそっくりだった。
「この空間は単純に物質界アッシャーに形成された一部の空間、というわけではなさそうですね。まるで、夢の世界みたいだ」
「夢と言っても、俺等三人の夢がごっちゃ混ぜになってるな」
「そうですね。リネストリア。この場所は私達の心象風景に強い影響を受けているようです」
「なあ、お前の刀でここを抜け出せないのか?」
「それがなあ。クロト。さっきも試してみたんだが」
リネストリアが時空の刀で空間を切り裂いた。空間に裂け目が生じた。しかし、リネストリアがその中へ入ろうとしても無理だった。不可視の壁が邪魔しているかのようだ。クロトが近づいてきて、空間の裂け目に手を伸ばすと、確かに見えない障壁が入る者を拒んでいた。フェリルも近づき、コンコンと手の甲で空間の裂け目を叩いた。
「どうやら、あれをどうにかするしかないようですね」
黒くぼやけた空間の裂け目からエノキアンが現れた。
「我が名は不正の器ベリアル。エレボス・インターフェース・エノキアンとして、貴様等を見極めよう」
フェリルとクロトの〈想いの力〉が発動した。二人は剣を抜き、リネストリアは時空の刀を構えた。
クロスとセラフィムは無言でその場の光景を眺めていた。しばらくして、セラフィムが口火を切った。
「酷いね。これは……」
セラフィムが見ていたのは、かつてクロスが子供の頃に生活していた家だった。家具は破壊され、調度品が散乱している。壁面と床には夥しい量の血痕がへばり付いていた。クロスが踵を返した。セラフィムも同じように振り返ると、そこには崩壊した孤児院の廃墟が広がっていた。建物は倒壊し、園庭の滑り台やジャングルジム、砂場やブランコなどの遊具はグチャグチャに破壊され、至る所が赤黒い血で染まっていた。
「あんたも、相当だな……。セラフィム」
「クロス。この空間は見ての通り、僕と君の心象風景が混在して形成されている。けど、これはあくまで心象であって、現実ではないみたいだ」
「確かに、この風景はイメージであって、実際に俺が見た光景というよりは、想像というか、印象に近い感じがするな」
二人の前に、漆黒のローブ姿が現れた。
「我が名は嘘の霊ピュートーン。エレボス・インターフェース・エノキアンとして、貴様等を見極めよう」
クロスが漆黒剣ツァダイ・テト・アレフを構えた。セラフィムが一歩前に出て、クロスの前に腕を上げた。クロスが怪訝な表情でセラフィムを見つめた。
「ちょっと待って。クロス。どうやら、僕達の予想は当たっていたみたいだ。ほぼ確信していたけどね。エノキアンは〈混沌〉の子にとって、外部存在の仕方の一つだということだ。分割された九人のエノキアンは〈混沌〉の子そのもの。そうだろ、インターフェースの一つである、エノキアン・ピュートーン?」
「さあ、どうだろうな。セラフィム・アダム・カドモン」
ピュートーンはくつくつと笑った。
「無駄だよ。セラフィム。こいつをどうにかするしか仕方ないみたいだぜ」
「やれやれだね」
クロスが漆黒剣ツァダイ・テト・アレフの力を覚醒させると、クロスの全身を覆った漆黒のオーラがゆらゆらと揺れた。セラフィムが原形界アツィルトの力を覚醒させると、セラフィムに角と牙が生え、黄ばんだ鋭い爪が伸び、白い剛毛が腕と足にびっしりと生えた。
イライとラケシスとケークロスリイは、たった今爆発された場所を凝視していた。そこにはルメ・ドスの城内にある意匠を凝らした支柱があった。イライの爆破攻撃によってその場は確かに破壊されたはずだが、空間が歪んだと思ったら何もなかったかのように元通りになっていた。
「破壊は不可能なようだな」
「そうですね。イライ。この不可思議な空間では、私達の心象風景が何度も再生されるシステムが支配していますね」
「それで、ここから抜け出すには?」
「あれを見ろ。ケークロスリイ」
黒い霧で不鮮明になった時空の裂け目から漆黒のローブ姿が現れた。
「我が名は復讐の女神アバドン。エレボス・インターフェース・エノキアンとして、貴様等を見極めよう」
「こいつをどうにかすればいいわけだろ」
イライとラケシスの〈想いの力〉が発動した。
ヒエロニムスは真っ赤に染まった空を見上げていた。悪魔ルカヴィが空中からヒエロニムスの隣に着地した。
「ここは魔界の一つの領域だ。俺達悪魔の物質界アッシャーの住処さ」
「確かにその通りだが、厳密にはそれの完璧なレプリカだな」
ヒエロニムスは振り返って、背後にいたレイに視線を向けた。レイが見ていたのは、突然赤い空が消滅し、地中の洞穴が広がっている風景だった。
「では、レイが言った通り、ここは現実の世界ではなく、私とレイの心象風景が融合して形成された世界に間違いないのか」
「少なくとも、既に私の魔界領域は消滅している。それが全てを証明している」
「抜け出すには、エノキアンをどうにかするしかないということか……」
「その通り」
レイとヒエロニムスは時空の裂け目から現れた漆黒のローブ姿を睨み付けた。
「我が名は偽神ベルゼブブ。エレボス・インターフェース・エノキアンとして、貴様等を見極めよう」
悪魔ルカヴィがヒエロニムスの前に飛び出した。レイが原形界アツィルトの力を覚醒させた。レイの全身がゆらゆらと揺れる漆黒のオーラで覆われた。
ユイは周囲に広がる幻想的な風景に息を飲んだ。床も天井も水に覆われていて、水中を泳ぐ魚や様々な海洋生物が見て取れた。
「これが深海人族の故郷なのね。素敵だわ」
「確かに深海人族の故郷を正確に模倣しているけど、実際は違うわ。こんなものは海底には存在しないしね」
ミュシャの声に、ユイは振り返った。そこでは水中世界が断絶され、月明かりに照らされた薄暗い森林が広がっていた。
「この世界はあなたと私の心象風景が融合した、まやかしの空間よ」
「ここを抜け出すには、エノキアンをどうにかするしかないのね……」
漆黒の霧に覆われて不鮮明な時空の裂け目からエノキアンが姿を現した。
「我が名は犯罪の復讐者アスモデウス。エレボス・インターフェース・エノキアンとして、貴様等を見極めよう」
ミュシャの〈想いの力〉が発動し、背後からズルズルと鬼神ニティブスが姿を現した。ユイが空間把握能力を発動すると、世界は細かく分断されたセル状に変化した。
エクスとロリアンは強制的に空間移動させられたのに反応し、すぐに自衛の障壁を展開した。強制空間移動が完了すると同時に、二人は周囲への調査を高められた五感によって済ませた。警戒していた二人は驚いて呆然とした。そこは崩壊したはずの帝国シアルルだった。二人は、それが自分達の心象風景を映し出した虚構世界だとすぐさま見極めた。再現されていたのはロリアンの牢獄だった。窓一つない、灰色の空間。記憶と何一つ変わることのない、まるで時空移動して没落する前の帝国シアルルに戻ったかのような錯覚すら起こしそうだった。灰色の天井と壁と床。背もたれのない丸い木製の椅子とイーゼルのカンバスに描かれた灰色の絵画。床には白銀書と漆黒書まで置かれていた。
「ロリアン。エノキアンは一体、何を企んでいるんだろう……」
「それは、わからないわ。当人に聞くしかなさそうね」
二人は不鮮明な空間の裂け目から現れたエノキアンを睨み付けた。
「我が名は空の軍勢メリジム。エレボス・インターフェース・エノキアンとして、貴様等を見極めよう」
「こんな事をしても無駄でしょうね、エノキアン・メリジム。分断化され、個人戦に持ち込まれるのは、むしろこちらが望むところよ。今の私達はそれなりの対応経験を経て、あなた達に張り合うまでの力を獲得しているわ。それはあなた達がこれまで行ってきた悪行に、人々が長い間対抗してきたからよ」
ロリアンは自分で言っていて、ある矛盾に気づいた。エクスを見ると、どうやら同じ思考に到達したことを表情から察した。エクスが眉根を寄せて口火を切った。
「エノキアン。貴様等は、わざと敵対者を生み出し、成長させ、この戦いに至るまで発展させ続けたのか?」
「脆弱で矮小なる貴様等の、誰が成長したというんだ。皇子エクス・マキナ」
エノキアン・メリジムがくつくつと笑った。
「エノキアン。あなた達が望んでいたのは、敵対者の出現なのかしら。いえ、それよりもむしろ、自分達の破滅を望んでいるのかしら。結果的にあなた達の行動によって導き出されたのは、自らの破滅。あなた達の自滅行為によって、何が起こるというの?」
「滅びるのは、貴様等、白銀の陣営だけだ。創造神ロリアン・フェザー・クウィントゥス」
エノキアン・メリジムは今なお不気味に笑っている。エクスとロリアンは何かがおかしいことに気づいた。
(どうやらこちらが何を言ってもまともに応じるつもりは毛頭ないらしい。もしくは、それができないのか……)
「とにかく、お前をどうにかするしか、ここを抜け出す方法はないらしいな」
エクスとロリアンは原形界アツィルトの力を覚醒させた。二人の全身が灰色のオーラに包まれた。
アケショナルとティラはお互いに見たことのない風景に視線が釘付けになっていた。ティラが見ていたのは白銀に光り輝くドーム状の聖域だった。煌めく白銀の聖域の周囲には濃緑な短い草が生えており、さらに奥には常緑樹の森林が広がっていた。聖域から5メートルほど離れた場所に立っていたティラには、聖域の内部に設置された石の台座と白銀剣ツァダイ・カフ・ラメドのシルエットが見て取れた。
「ティラ。これは、私なのか……?」
アケショナルの声にティラが振り返った。アケショナルの壁画の前で、アケショナルが立ち尽くしていた。アケショナルが見ていたのは、アメルスの歴史美術館に所蔵されていた戦乙女アケショナル・ラストアの名画だった。燦然と煌めく白銀剣が見る者を魅了する芸術作品に、自分が描かれているのは何か現実離れした奇妙な感覚だった。
「エノキアンめっ。ふざけた空間を生み出して、一体どういうつもりだ」
「僕とアケショナルの心象が、融合して形成している。何の為なんだろう。それより、どうやってここから脱出すればいいんだ?」
「それは当人に聞くのが一番だろうな」
漆黒の霧に覆われた時空の裂け目から一人のエノキアンが姿を現した。
「我が名は中傷者アスタロト。エレボス・インターフェース・エノキアンとして、貴様等を見極めよう」
「これでようやく本領発揮、というところかな。エノキアン?」
アケショナルの問い掛けにティラは眉根を寄せた。エノキアンの〝本領〟とは一体何のことだろう。
「今まで、それこそ帝国シアルルの時代から、私達と魔王との戦い、勇者アクト・リーメル達と魔王との戦いを経て、この戦いに至るまで、散々人々にちょっかいを出しては姿を消してきたんだ。何か奸計を巡らしたのだろう。よもやここに至って、逃げ出しはしまい。見せてみろ。エノキアン・アスタロト。〝〈位階の力〉〟を」
「貴様等のような低俗な存在に、〈位階の力〉など必要ない。破壊神アケショナル・ラストア」
エノキアン・アスタロトがくつくつと笑った。アケショナルとティラは眉を顰めて、エノキアン・アスタロトを睨み付けた。
「勿体ぶるのなら、構わない。〈位階の力〉を出さざるを得なくしてやる」
アケショナルは獅子、鷲、牛、竜の装飾が施された白い柄に手を伸ばし、光沢のある白銀の鞘から神剣アクロマティクを抜いて、白銀の力を覚醒させた。アケショナルの全身を白銀のオーラが包み込んだ。ティラも片手で剣を抜き、もう片方の手には魔術の重層衝撃のエネルギーを発生させた。
「重層の衝撃・ツヴァイ!」
ティラが放った黄色いエネルギーの塊をアスタロトが跳躍して避けた。既にアスタロトの背後に移動していたアケショナルが、神剣を振り下ろした。アスタロトが凄まじい速さで剣を取り出し、振り払った。ガキンと大きな金属音が鳴り響いた。アケショナルとアスタロトが剣戟を繰り返していると、アスタロトの足下に重層の衝撃が飛んできた。アスタロトが体を捻って回避行動する隙に、アケショナルが剣を振り上げるとアスタロトの腹部が切り裂かれた。アスタロトの頭上に白銀の矢が降り注ぎ、アスタロトを地面に叩きつけた。アスタロトがすぐさま起き上がりジャンプすると、今いた場所に重層の衝撃が飛んできた。アケショナルは空中で一瞬硬直したアスタロトの背後目掛けて、思い切り神剣を振り下ろした。アスタロトが地面に俯けに倒れ込んだ。右肩には白銀の矢が今も突き刺さっている。アケショナルは神剣を振り上げて更なる追撃を仕掛けたが、エノキアン・アスタロトの全身が漆黒のオーラに覆われるのを見て取り、咄嗟に方向転換して後方に跳躍し距離を取った。ティラがアケショナルの隣に駆け寄った。漆黒のオーラによって、黒いローブに突き刺さった白銀の矢は消失していた。アスタロトが立ち上がると、フードの奥で赤い双眸がギラリと光った。
「我が司る〈位階の力〉発動。痛みに備えろ」
エノキアン・アスタロトの〈位階の力〉クリミナトレスが発動した。アスタロトを覆う漆黒のオーラが大きくなり、ゆらゆらと揺れ出した。
アケショナルは眉根を寄せて、ティラの前に神剣を握っている腕を出した。
「ティラ。ちょっと下がるんだ。エノキアンの〈位階の力〉は正体不明だ。見極めるまで、何が起こるかわからない……」
アケショナルは喋りながらアスタロトから目を離さずにいた。アスタロトが握っている剣を少し傾けたように見えた。次の瞬間、ティラの悲鳴が上がった。
「ぐあっ!?」
アケショナルがサッと振り返ると、ティラが仰向けに倒れ込んでいた。ティラの腹部が切り裂かれて、赤い血が滲んでいた。アケショナルは急いでティラの腹部に手を当てて、治癒を施した。
「大丈夫か、ティラ」
「うぅ……アケショナル……」
(ティラは何をされたんだ……? ティラの意識はあるけど、すぐにこの場を脱して、治癒の専門家に診せないとマズイ)
よく見たら、ティラの背後にも傷があって、地面に血溜まりが広がりつつあった。何の気配も無く、腹部に突然衝撃を受けている。攻撃の正体が掴めず、アケショナルは愕然とした。眉根を寄せてアスタロトを凝視する。アスタロトが剣を少し傾けると、アケショナルの腹部と背後が突然切り裂かれた。
「クッ……」
周囲に気配は微塵も感じられなかった。アケショナルは両手をついて何とか体を支え、倒れるのを防いだ。
(わかった気がする。ティラの受けた攻撃と私が受けた攻撃箇所は同じで、更にその箇所はアスタロトが負傷している部位だ。アスタロトの〈位階の力〉は、自らのダメージ箇所を対象者にトレースさせるものらしい)
再び腹部に先刻と同様の攻撃を受けて、アケショナルの口から白銀の血が吐き出された。エノキアン一人にここまでダメージを受けるなんて、ほんと最悪な奴等だ。アケショナルの頭上に白銀の光に包まれた白銀書が出現した。本は独りでに開かれ、パラパラとページか捲られた。アケショナルの〈想いの力〉機械仕掛けの女神が発動した。アケショナルの姿が一瞬にして、その場から掻き消えた。
ティラは痛みで朦朧としていたが、一体何が起きているのかを見極めようと意識を集中させた。アスタロトも周囲を見回していたが、アケショナルを見つけられずにいるようだった。アケショナルが周囲から消えてしまった。アスタロトの腹部から神剣アクロマティクが飛び出して、漆黒の血が滴り落ちた。突然、剣が出現したかと思った時には、アスタロトの背後にアケショナルが立っていた。アケショナルの全身は白銀の霧のようなものに包まれていて姿がぼやけていた。アスタロトが俯せに倒れ込むと、白銀の霧が薄くなっていきアケショナルの姿が鮮明になってきた。その姿はいつものアケショナルと変わらなかった。そこで、ティラは意識を失ってしまった。
アクトとフォルティナはこれまで二人ともが〝見たことのない〟風景に呆然としていた。通常の空間でないことはすぐにわかったが、そこがどのような世界なのかはまるで検討がつかなかった。どこまでも暗く黒い空間が果てし無く広がっていた。その暗黒の世界には、光り輝く雪のような物が絶え間無く降り注ぎ、光る粒子は足元に積もって世界を照らしていた。
「一体、ここは何なんだ? エノキアンは何の為に僕達をこの場所に強制空間移動させたんだ?」
「ここはエノキアンが作り出した世界?」
「フォルティナにもわからないということは、まさかここは幻覚世界なんだろうか?」
アクトもフォルティナもある懸念を抱いていた。完全な幻覚ならそれなりの違和感を抱いているはず。この空間は物質界アッシャーに存在している。傍観神が見逃す空間ということは、限りなくパーソナルな領域ということになる。その領域には認識阻害をはじめとする特別なルールが設定されているはすだ。アクトとフォルティナは視線の先に動く影を見つけて眉を顰めた。
「我が名は奇跡の模倣者サタナス。エレボス・インターフェース・エノキアンとして、貴様等を見極めよう」
「お前がエノキアン・サタナスか」
「気をつけて。アクト。サタナスは他のエノキアンとは違うわ」
アクトはエノキアン・サタナスを見つめたまま頷いた。
「もう絶対に逃がさないぞ。エノキアン」
「逃げられないのは貴様等の方だ。勇者アクト・リーメル」
エノキアン・サタナスはくつくつと笑った。アクトは白銀剣ツァダイ・カフ・ラメドを抜き、白銀の力を覚醒させた。アクトの全身を白銀のオーラが包み込んだ。アクトの〈想いの力〉パスト・テンスが発動した。アクトがサタナス目掛けて飛び出し、白銀剣を振り払った。サタナスが後方へ跳躍して避けた。サタナスのフードの奥で赤い双眸がギラリと光った。
「我が司る〈位階の力〉発動。何が起こるか見えるか」
エノキアン・サタナスの〈位階の力〉プラエスティギアトレスが発動した。サタナスの全身をゆらゆらと揺れる漆黒のオーラが覆った。アクトは白銀剣を振り下ろし、白銀の衝撃波を放った。白銀の衝撃波がサタナスの眼前まで迫った。そのまま衝撃波はサタナスを通り抜けてしまった。アクトが眉根を寄せてサタナスを睨み付けた。アクトの視界からサタナスが忽然と姿を消した。同時に、アクトは左腕に違和感を覚えた。見ると、左上腕から先が切断されて無くなっていた。切断面から白銀の血が滴り落ち、足元に自分の左腕が落ちていた。下手な冗談であるかのように切断された左腕が信じられず、それが滑稽に思えてアクトは小さく笑ってしまった。だが、すぐに凄まじい痛みが襲ってきて、アクトは渋面で唸った。目の前で小さな光がチカチカと無数に見えた次の瞬間には頭がクラクラしてきて、アクトは俯けに倒れ込んだ。遠くからフォルティナの声がした。
「アクトッ!」
聞こえる声は幽かだったが、朦朧とした意識の中で駆け寄ってくるフォルティナの姿を視認した。その背後から漆黒のローブ姿が迫りつつあった。靄がかかった思考に、蘇ったかつての記憶が鋭く突き刺さった。大事な人が傷付けられ、永遠に失われてしまうという恐怖。それを許してしまった自分への激しい怒りと失意。二度とそんなことは許せない。粘ついて停滞した時間の中で、フォルティナが漆黒の力によって殺されてしまうのがのろのろと再現された。漆黒のローブ姿の攻撃で、フォルティナの胴体が切断されて頽れた。こんなデジャヴはもううんざりだ。アクトの頭上に光り輝く白銀書が出現し、ページがパラパラと捲られた。白銀のオーラが一回り大きく増大し、更に燦然と光り輝き、アクトの髪を白銀色に染めた。同時に、アクトの〈想いの力〉パスト・テンスが更にアクトの身体能力を向上させた。アクトの左腕切断面の出血がピタリと止まり、痛みが感じなくなった。アクトは一瞬にしてフォルティナのもとに移動し、背後に近づいていたサタナスに既に振りかぶっていた白銀剣を振り下ろした。サタナスが消失し、白銀剣は空を切った。アクトは研ぎ澄まされた感覚によって、サタナスが消えた瞬間に、次に出現したサタナスの位置を察知した。その空間位置情報は、凍結した時間軸より時の流れが進んだ時点の時間軸のもので、限定的な未来視の能力によって齎されたものだった。硬直したサタナスが再行動に移行しようとしているところへ、既に放っていたアクトの白銀の衝撃波が襲いかかった。サタナスの胴部が一刀両断された。
フォルティナが気づいた時にはアクトはすぐ近くに来ていて、黒いローブ姿が降り積もった光る雪の中に倒れ込んでいた。フォルティナは驚いてアクトを見つめたが、目の前でアクトを包み込む白銀のオーラが弱々しく薄くなっていき消失してしまった。アクトはそのまま俯けに倒れ込んだ。フォルティナは慌ててアクトに駆け寄って、意識を失ったアクトを抱き上げた。更にアクトの左腕を回収しアクトとアクトの左腕を保護膜で包み込み、黒い霧が晴れてハッキリと見える空間の裂け目の中へと急いだ。
天界には九つの空間の裂け目が開いていた。テトラモルフが見つめる中、各々の裂け目から次々と勇者達が出てきた。飲み込んだ者達を吐き出すと、不気味な黒い空間の裂け目はすぐに閉じて、不鮮明になって消滅してしまった。どこまでも白い空間の中に浮かぶ異質な黒い空間の裂け目は、もはや残りただ一つとなった。〈混沌〉の子はまるで死んだように身動き一つしなかったので、勇者達は最後の空間の裂け目を取り巻き、暗闇の奥から人影が姿を見せないかと待っていた。
漆黒の空間の裂け目からフォルティナとアクトが飛び出してきた。フォルティナは天界に空間移動するや否や、周囲に集まった者達をさっと見渡して、金髪姿を探した。
「ケークロスリイ! お願い、急いであなたに回復してもらわないと」
フォルティナの切迫した声にケークロスリイは眉根を寄せて、フォルティナとアクトの元へ駆け寄った。周囲は怪訝そうにフォルティナに抱えられたアクトを見つめた。アクトの左腕が切断されていた。
「一体、何があったって言うの?」
「お願い。ケークロスリイ。今は何よりもアクトの治療を優先して」
「わかったわ。フォルティナ」
ケークロスリイはフォルティナからアクトの切断された左腕を受け取った。切断面はとてつもなく滑らかで、物理的ではあるのに何の摩擦も働かずに割断されているように見えた。
(傷痕を観察しても、火、水、風、土、いずれかのエネルギーを使用した破壊の痕跡が見当たらない。これは彩色魔術の仕業ではないな。もしこれが魔術によるものなら、もっと高度な魔術に違いない)
ケークロスリイは感嘆していたが、それどころではないとすぐに自分を戒めた。ケークロスリイの〈想いの力〉ユグドラシルが発動した。アクトの左腕の切断面と切断された左腕が白と黒と灰色の光の粒子に包まれた。三色の光の粒子は目まぐるしく動き回り、切断された腕がアクト本体の切断面へと引き寄せられた。光の粒子と共に左腕が接着された。白と黒と灰色の粒子は明滅しながら少しずつ消滅していった。何事も無かったかのように、アクトの左腕は元通りに癒されていた。気を失っていたアクトが目を開き、起き上がった。左手を上げて何回か握ったり開いたりして左腕の感触を確かめながら、フォルティナとケークロスリイに頷いて見せた。
「ありがとう。フォルティナ。ケークロスリイ。もう、大丈夫だよ」
その光景を誰もが不安そうに見つめていた。お互いに確認したわけではなかったが、アクトが誰と対決したのかは何となく察していた。中でも大きな懸念を抱いていたのは、ロリアン、エクス、アケショナル、セラフィム、クロスだった。アクトが実力不足なわけではないのは、十分にわかっていた。それでも、アクトに重傷を負わせた存在が厄介だった。そんな存在がいるのが厄介なのではない。何故、ここにきて、アクト達だけを単独で襲い、それで終わりにしたのかだ。もっと卑怯に残酷にやろうと思えば、白銀の陣営に大打撃を与えることは可能だったはずなのに。まるで全く本気を出すことなく、弄んでいるかのようなやり方だ。もちろん、アクト本人がそれを最も感じていた。だからこそ、これから何が起こるかを見逃すことのないように、不気味な沈黙を続ける〈混沌〉の子を見つめていた。
〈混沌〉の子の巨体から伸びていた九つの触手は切断されて消滅していた。だが、一瞬にして再生し、これまでの静寂が嘘かのように襲いかかってきた。〈混沌〉の子の九つの触手はそれぞれがエノキアンそのもののように攻撃してきた。一つ一つの触手にエノキアンの特長が秘められているようだった。誰もが得心していた。これが本来の〈混沌〉の子の力であり、エノキアンはその分裂に過ぎなかったというわけだ。一本、また一本と触手を消滅させていき、最後の一本を胴体から切り離すと、〈混沌〉の子は態勢を崩し横にズドンと倒れこんだ。アクトとフィートはデジャヴのように嫌な感じがした。黒い霧が〈混沌〉の子の巨体の周囲を漂い出した。〈混沌〉の子の姿が黒く不鮮明になっていった。濃霧の上部から黒煙が噴出し、煙から黒い何かがヌッと姿を見せた。捻れた角が2本生えたドラゴンの首だった。アクトとフィートの全身が総毛立った。〈混沌〉の子は全身が硬く黒い鱗に覆われた翼の生えた龍の姿に変貌していた。かつてアクト達が戦った魔王の姿だったが、より巨大となっていた。黒い霧が突風によって取り払われた。黒い霧が晴れると、〈混沌〉の子はわらわら群がる敵対者を端から端まで確認し、激しく咆哮を放った。セラフィム達全員の全身がビリビリと戦慄いた。それから、最初にテトラモルフ全員が動けなくなっていた。〈混沌〉の子は鋭い牙をチラリと見せつつニヤリと笑った。
「後悔しろよ。〈秩序〉の信奉者テトラモルフ。ここまできたら、もう後戻りできんぞ。いつものように、そそくさと逃げ帰ることはかなわん」
セラフィムがテトラモルフの体に触れた。どうやら言動を縛られ、身動きできないだけのようで、それ以外は命に別状は無さそうだった。
「魔力が込められた咆哮。身動きを封じるリジェクトハウリング」
セラフィムの分析に、〈混沌〉の子は満足そうに頷いて見せた。
「ようやく会えたな。限り無く〈秩序〉に近い完璧なる絶対者セラフィム・アダム・カドモン。いや、それだけでなく、歴代の勇者達。新たな勇者達。〈混沌〉の子にここまで近づけた者は史上初めてだ。本当に単純にお前達には感嘆しているよ」
アクトはあの時の魔王が本気ではないことに気付いていた。ようやくその真相が明らかになるわけだ。
「余裕ぶっこいてるのも今のうちだ。魔王。前みたいにだるま状態にしてやるよ」
フィートが大剣を構えた。フィートを先頭にして、近距離アタッカー達が各々の攻撃を〈混沌〉の子に放った。遠距離アタッカーと補助役は後衛から前衛をサポートした。
黒龍の姿の〈混沌〉の子との戦いで、次々と仲間達が身動き不能になっていってしまった。ある程度のダメージを受けるか、もしくは体力精神力を消耗してしまい、疲弊した者にリジェクトハウリングの効果が襲い掛かるからだった。それでも残された者達は必死に戦い続け、何とか〈混沌〉の子を苦しめる攻撃を与えられた。ケークロスリイが戦線離脱したあとは、受けたダメージを治療する事も出来なくなっていた。数々の攻撃を受けたはずの〈混沌〉の子だったが、まだどこかに余裕が見え隠れしていた。〈混沌〉の子がニヤリと笑うと、全身が黒い霧に覆われた。巨大な龍を覆い尽くした霧は次第に縮み始め、人の背丈までに凝縮されていった。アケショナルとティラが嫌な予感がした次の瞬間には、かつて敵対した魔王の漆黒のローブ姿があった。魔王は目の前のまだ身動きできる者達を見回し、フードの奥で満足そうに頷いた。
「真正なる〈混沌〉の子を覚醒させたからには、まだまだ続けてもらうぞ」
たった一人の大敵に一斉に立ち向かったが、迸る〈混沌〉の子の漆黒のオーラによって全ての攻撃を防がれてしまう。
〈秩序〉の信奉者テトラモルフは身動きできずに、目の前の光景をただ見続けるしかなかった。歯がゆくて、申し訳なかった。我々はまたも過ちを犯してしまったのかもしれない。〈混沌〉の子との最終決戦はまだ早かったのかもしれない。ロリアンがかつての力量を維持していたのなら、アケショナルが全盛期の頃の力を取り戻したのなら、話は違うかもしれない。あともう少し、次世代の彼等に時間があれば。〈混沌〉の子とのこれほどまでの力量の差を埋めることができたのかもしれない。
〈混沌〉の子に対して、〈想いの力〉はより力を増して発動した。アケショナルを二度と失うものかというティラの想いがその場の誰よりも強い〈想いの力〉を発動させた。ティラの胸の前に燦然と光り輝く白銀書が出現した。ティラの背後に暗い光が迸って漆黒書が出現した。二冊の本は独りでに開かれ、ページがパラパラと捲られた。ティラの〈想いの力〉愛憎のアンビバレンスが発動した。ティラの全身が白く輝き出し、目を覆わんばかりの眩い光に包まれた。だが次の瞬間には、禍々しく揺れ動く不鮮明な漆黒の光にティラの全身が覆われた。この間に、ティラの両手に何かが出現した。白銀と漆黒のオーラが層状にティラを取り巻いていた。ティラの両手にはそれぞれ剣が握られていた。白銀剣ツァダイ・カフ・ラメドと漆黒剣ツァダイ・テト・アレフだった。凄まじい相反する力がティラの体を駆け巡り、ティラは悲鳴を上げそうになったが、グッとそれは堪えた。
(こんな時に情けない叫び声なんて上げてられるか。ようやく僕に何かが出来るときが来たんだ。アケショナルも皆も守れるかもしれない)
ティラは一人で〈混沌〉の子に立ち向かった。どうすればいいのかは、剣から流れ込んでくる情報でわかっていた。ティラが白銀剣と漆黒剣を振り払うと、白と黒の交差した衝撃波が発射された。〈混沌〉の子が跳躍して避けると、既にそこには白と黒の軌跡が出現していた。ティラは凄まじい速さで〈混沌〉の子に剣戟を与えた。無数の斬撃によって、〈混沌〉の子は背中から白い地面に激突した。ティラは両手の白銀剣と漆黒剣に意識を集中させ、更に力を求めた。白銀と漆黒のオーラが噴き出し、ティラの髪は白銀と漆黒の二色に染まり、全身には白銀と漆黒の紋様がまるで右手甲の刻印のように刻まれた。
〈混沌〉の子の赤い双眸がギラリと光り、全身から球状の漆黒のエネルギーの塊が飛び出した。ティラは身動きせずに、オーラによってそれぞれ白と黒に光り輝く両目で〈混沌〉の子の攻撃を見つめたまま、激突の瞬間に素早く横に回避した。漆黒の塊はティラから少し外れて、どこまでも続く白い空間の彼方まで飛んで行った。ティラの左頬が切れて、白と黒の二層の血が流れた。
「終わりだ、魔王。〈秩序〉の大敵、〈混沌〉の子」
ティラは白銀剣と漆黒剣の切っ先を〈混沌〉の子に向けた。白銀剣と漆黒剣からそれぞれ白銀と漆黒のエネルギーの槍が飛び出した。槍は空中で二股に変化し、凄まじい速さで〈混沌〉の子目掛けて飛んでいった。槍は〈混沌〉の子の両腕両足に突き刺さった。ティラはその間に溜めていた白銀と漆黒のオーラを纏い、〈混沌〉の子へと突撃した。〈混沌〉の子の背後5メートルほどまで通り抜けたところで、ティラはようやく勢いを無くして動きを止めた。〈混沌〉の子の腹部には十字の切創が刻まれ、残像によって傷痕が白銀と漆黒のオーラで光っていた。〈混沌〉の子が頽れた。〈混沌〉の子が倒れると、さっきまで身動き不能だったテトラモルフとセラフィムがサッと駆け寄り、〈混沌〉の子が時空の彼方に逃げるタイミングを見計らい、封印を施した。〈混沌〉の子は黒い霧に包まれ、やがて黒い霧も薄くなり消え去った。リジェクトハウリングによって身動きが出来なかった者達が解放され、それぞれティラの近くに歩み寄ってきた。ティラの手からは白銀剣と漆黒剣は消失し、ティラは手と膝を地面につけてゼエハアと息をしていた。髪の色も肌の刻印も血の色も元通りだった。アケショナルが横に座り、ティラの背中に手を当て、ゆっくりとさすった。
アクトがセラフィムに近づいた。
「〈混沌〉の子は、どうなったんです?」
「もう物質界アッシャーからは消失したよ。それにテトラモルフと僕とでもう永遠に〈混沌〉の子が偽器〈ヴェッセル〉に出現できないようにしたから、安心してよ。アクト・リーメル。ようやく終わったんだ」
アクトを含めて、その場に集った全員がセラフィムの言葉を聞いて、本当に終わりなんだと実感することが出来た。安堵し喜び合う皆を見て、セラフィムはニコニコと笑った。本当に良かった。
「さあ、みんな。まだ全てが終わったわけじゃないよ」
そう言って、セラフィムは三神を任されているロリアンとアケショナルとフォルティナを呼んで集めた。
「これから、三神を委任する」
しんと静まり返り、誰かがごくりと息を飲む音が聞こえた。
「僕が創造神に、レイが破壊神に、ユイが傍観神に、それぞれ新たな三神として神格化される。それでいいよね。テトラモルフ?」
「ああ。ありがとう。みんなもありがとう」
「じゃあ、それぞれ相手の目を見て。それだけでいいから」
セラフィムとロリアンが見つめ合う。ロリアンのすぐ後ろでエクスが立ち尽くしていたので、セラフィムは思わず笑ってしまった。
「ごめんよ。エクス・マキナ。すぐに終わるから、怒らないで許してくれよ」
その言葉に、ロリアンもくすっと笑った。セラフィムが終わりと言うと、それぞれ緊張を解いたが、実感は何も無かった。
「これで本当に終わったのか」
アケショナルの言葉にセラフィムは大丈夫と請け負った。
「これでひとまず安心だよ。セラフィム」
テトラモルフはそう言い残し、姿を消した。
「テトラモルフも忙しいんだよ。世界は一つじゃないからね」
「さあ、もう終わったんだ。そろそろ帰るとしようじゃないか」
そう言ったのは、天界に空間移動してきたリヴラ・ジヴァニトゥムだった。戦闘が終了した今になって出現してきたリヴラに、多くの者が微妙な視線を送っていた。セラフィムとリヴラが顔を見合わせ、互いに苦笑して見せた。
「今セラフィムが言ったように、世界は一つじゃないんだ。それに私が自由に動けるのはテトラモルフが許した限りだから、そこを鑑みて欲しいなあ」
セラフィムがあははと笑うと、皆が釣られて笑い声を上げた。
「それはさておき、そろそろ行かないとな。皆さん」
「何を遅れた奴が仕切っているんだ。馬鹿め」
リヴラの肩に乗っていた有翼の亀デウスが、リヴラの顔面に突撃体当たりした。
「その翼の生えた亀って、ぬいぐるみか何かじゃなかったんですか?」
アクトが呆然として呟いた。他の多くの者達も目を丸くしてデウスを見つめていた。
「愚かだな。勇者アクト・リーメル。私は〝有翼亀族〟デウスだ。けして、ぬいぐるみなどといった傀儡ではないし、もちろん帝国の奴隷人形プーペやメタ知性によるインターフェースでもない」
アクトにはデウスが何を言ってるのかよくわからなかったし、喋る羽の生えた小さな亀という印象のみが残った。
リヴラが真面目な表情で皆を見渡した。全てが終わり、願っていた再会を果たした反面、新たな別れも待ち受けていた。アクトは覚悟していたので、それよりも気になることがあった。
「セラフィム。あなた達はどうなるんですか?」
「もちろん、僕もユイもレイも僕達の世界〈ニューアース〉へ戻るよ。〈ヴェッセル〉から〈混沌〉の子が消失したんだからね。けど、僕達は三神でもある。それぞれの世界の創造と破壊と傍観を司らなきゃならない。忙しくなるね」
それぞれの世界に戻る。その言葉で全員が今更ながらお互いに同じ時間軸同じ空間にいることが、とても不思議なのに気付かされた。
「俺とロリアンはこの時代に残る」
「それは許されないことだよ」
リヴラが厳しい顔つきで言い放った。エクスとロリアンの無表情とリヴラの険しい顔つきが激突した。一瞬で張り詰めた空気となった。
「自分を棚に上げて、偉そうなことを言ってるんじゃない」
デウスがリヴラの後頭部目掛けて突撃体当たりした。
「と、言いたいところだけど、エクスとロリアンは既に時間の制約を越えた存在になっているし、帝国の滅亡した時代へ戻ったところで、再び長い年月を無為に過ごすだけになってしまうから、テトラモルフは君達がどこへ行こうと許すみたいだよ。まあ、二人に対する謝罪を込めた褒美みたいだけどね」
「俺とロリアンは創世族をまとめていきたいと思う。俺は自分の邪悪な目的として各創世族に会ってきたが、何より必要なのはそれぞれが理解しあうことだと気付いたからな」
「そうか。エクス。君なら出来ると思うよ」
エクスの目指すところが素晴らしくて、セラフィムは自然とニッコリ笑ってしまっていた。
「僕達は自分達のいた時代に戻るよ。セラフィム、リヴラ」
アクトの言葉にフィートは一人首を振った。
「いや、アクト。俺は戻らない」
「どうして、フィート?」
アクトもフォルティナもフィートの言葉にびっくりしていた。
「俺は数々の悪行を重ねてきた。俺は〈混沌〉の子とエノキアンと共に退治されなければならなかった存在だ」
「何言ってるの、フィート。あなたは〈混沌〉の子とは違うわ」
フォルティナは全てを知っていたので、はっきりと否定することが出来た。
「そうだ、フィート。お前が悪いと言うなら、僕だって同じ罪を背負うべきだ」
「いいや。選択したのは俺自身だ。アクト。それにもう決めたんだ。俺は時空の監視者となって、永劫の時を贖罪に費やす」
「アクト、フォルティナ。申し訳ないがフィートの決意は固いようだ」
「リヴラ、時空の監視者とはどういうことですか」
「フィートはテトラモルフの了解を得て、時空の彼方に移動し、そこからあらゆる時空を監視し続ける。時空の監視者の役割は、時間軸の書き換え、もしくは複数化を未然に防ぎ、時空の連なりを脅かす存在を排除することだ」
「そういうことだ。アクト、フォルティナ。だから、俺は行かない。ここで、さよならだ」
「そんな……。せっかく、三人が戻れたのに」
「フォルティナ。もう、あの頃には戻れないよ。俺もアクトも、それにフォルティナも」
「フィート。どうして、時空の監視者だなんて……」
「アクト、フォルティナを頼むぞ。もう手放すんじゃないぞ。今のお前なら言われなくてもわかってるだろうし、絶対に守りきれるだろうがな」
アクトもフォルティナももう何を言っても無駄だと察し、悲しげにフィートを見つめるだけだった。フィートは二人の表情を見て、何もかも無かったことにして二人に駆け寄りたかった。また三人で一緒に語り合ったり、どこかに行ったり、これからはいつでもそんなふうにできる。だが、そんなことは許されないと自分を律し、何とか堪えた。フォルティナが生きて幸せなら、もうそれでいい。胸が鎖に締め付けられたかのように苦しかったが、その痛みこそ自らの罰に相応しいと納得した。ジョーカを名乗り、白銀の陣営に敵対した時点で、後戻りできないことは覚悟していた。自分とアクトとフォルティナとの思い出が脳裏に蘇った。とりわけ、フォルティナの姿が次々と思い起こされた。綺麗な栗色の長い髪、可愛らしい笑顔、優しくて耳に心地良い声、そして、時折見せる頑固で我儘な一面――全てが素晴らしい。思わず、フィートは笑みを浮かべていた。目の奥が熱くなって、込み上げてくるものを抑えようとフィートは眉根を寄せ、震える唇に言うことを聞かそうと歯を食いしばった。
(くそっ、これ以上は、耐えられそうにない)
フィートは生涯で唯一愛した女性フォルティナから目を逸らした。
(そう、これでいい。アクト、フォルティナ、末永くお幸せに)
セラフィムは三人を切なそうに見つめた。セラフィムは三人の今までを見せつけられていたから、こんな結末になってしまったのが残念でならなかった。
「じゃあ、俺はひとまず先に行くとするよ。リヴラ。頼む」
そう言ったフィートの横にフェイトの三人が並んだ。
「なんだ。お前ら」
「私達を置いていくだなんて、言いませんよね。フィート様」
「何言ってるんだ。クロト」
「フィート様。時空の監視者となっても、使いっ走りは必要でしょ」
「おい。ラケシスまで」
「フィート様。私達三人も一緒に行きます。もう私達も決めましたから」
アテピスの最後の一押しで、フィートはやれやれと首を振ってため息をついた。フィートはリヴラに困ったように目で訴えたが、リヴラはニヤリと笑うだけだ。
「フェイトの三人もフィートと一緒に監視者となってくれるようだよ。テトラモルフから私はそう聞いているが」
フィートは大きくため息をついて見せた。
「全てグルというわけか。わかったよ。じゃあ、リヴラ頼む」
リヴラはフィート達四人を天界から空間移動させた。
「じゃあ、僕達も行こうか。フォルティナ」
「そうね、アクト。でもその前に――」
そう言って、フォルティナが背後を指差すのでアクトは振り返った。ティラとイライとフェリルがそれぞれ手を差し出してきたので、アクトはそれぞれ力強く握手していった。
「ティラもイライもフェリルも、本当にありがとう。君達も色々と大変な中、助けてくれて本当に感謝している。それに、あまり役に立てなくて、すまない。もう戻らなきゃいけないようだから」
「いいえ。アクトさん。色々と教えてくれて本当にありがとうございました」
「アクト。お前と出会ったおかげで、色々と経験できた。こっちこそ感謝してるよ」
「アクト。私もあなたに会えて本当に良かったです。元の時代に帰っても、お元気で」
「みんな、ありがとう。僕も君達に会えて、本当に良かった。じゃあ、さようなら」
アクトはフォルティナと手を繋いで、リヴラの前に歩み出た。リヴラは二人を天界から空間移動させた。
「俺達もそろそろ行くとするよ」
エクスがセラフィムに近づいてきて言った。
「そうか。エクス。自分で色々と行くつもりなんだね」
「ああ。そうさせてもらう」
エクスはロリアンの肩を取り、ケークロスリイとリネストリア、ヒエロニムスとミュシャを近くに集めた。そこでエクス達全員が、近づいてくるクロスに視線を向けた。
「クロス。お前にはいるべき場所がある。俺達は俺達で創世族の未来を考えていこうと思う。お前は帰るべき場所があるんだ。それに、お前だって創世族の一人なんだから、またいずれ集まることもあるだろう」
立ち止まったクロスが背後を見ると、そこには白蛇騎士団団長フェリル・ヴァリンが立っていた。
「帰りましょう。黒馬騎士団団長クロス・ブラインドリ。アルドビルデが待っています」
深くため息をついて、クロスはエクス達に背を向けた。エクスはそれを見て微笑した。
「行くとしようか」
エクスは天界から仲間を連れて空間移動した。
「リヴラ。私達をアルドビルデへお願いできますか」
フェリルの要望に応じ、リヴラはフェリルとクロスを天界から空間移動させた。
「俺もひとまず、帰るとするよ。リヴラ。またすぐにでも会いに行くことになるかもしれないが、とりあえずルメ・ドスへ頼む」
「そうだね。イライ。またすぐにでも」
リヴラはイライを天界から空間移動させた。残ったのは、新たな三神のセラフィムとレイとユイ、賢者リヴラ・ジヴァニトゥム、そして、ティラ・マスカルとアケショナル・ラストアだけだった。
沈黙が訪れた。
アケショナルが明るい声で口火を切った。
「さあ。私も行くとするか。頼んだぞ。リヴラ・ジヴァニトゥム」
「ちょっと、待ってよ、アケショナル。……僕達は、どうなるんだ」
アケショナルは無表情にティラを見返した。セラフィムがアケショナルとティラに近づいていった。
「アケショナルは、自分がいた時代に戻らなければならない。ティラもまた、自分の時代に戻らなければならない」
「どうして……そんな……。僕はアケショナルと一緒にいたい」
「そういうわけにはいかないんだよ、ティラ」
セラフィムは伝えるのが辛かった。
「でも、じゃあ……他の人達はどうして」
「時空の連なりが乱されない最善の選択によって、それぞれ運命が決定されているんだ。アケショナルもティラも自分の時代から離れるとなると、テトラモルフが防ごうとしている時間軸の書き換えか、複数化が起きてしまう。どちらにしても時間軸に矛盾が発生し、大きな負担がかかって、やがて時間軸そのものが崩壊してしまう」
「どうして、僕達だけ……」
「おい、ティラ。仕方ないだろ。そういうことなんだから」
「なんなんだよ、アケショナル。せっかくまた会えたっていうのに」
眉根を寄せて睨みつけてくるティラを、アケショナルは無表情に見つめた。
(私もリヴラに文句を言いたいよ。私だって、ティラと再び別れるのは嫌だよ。なんなんだ、ふざけるな、私は私の為に闘ってきたんだ。なんで他の奴は良くて、私とティラが別れなくちゃならないんだ。抑止なんて無視して、ティラとこのまま一緒にどこかの時代に行ってしまいたい。わがままを言って、ティラと一緒に暮らしたい。ああ、でも、駄目なんだな……。また、引き離されるのか……)
かつての別れの記憶が蘇った。胸がきゅっと締め付けられる痛みを我慢し、眉を顰めて溢れる想いを押さえ込み、声を荒げたいのを自制する。アケショナルは両拳を思い切り握り締め、下唇を噛み、それから小さく舌打ちした。
「もういい、リヴラ。私を空間移動させてくれ」
「そうだね。わかったよ、アケショナル」
「ちょっと待って……アケショナル」
アケショナルはティラに背を向けたまま何も答えなかった。リヴラはアケショナルを天界から移動させた。ティラは呆然とした。
(また、離れ離れになってしまった……。もう二度とこんなことはごめんだと思ってたのに……)
「ティラ。私達も移動しよう」
リヴラの言葉にティラは何の反応も見せなかった。リヴラはセラフィムと視線を交わし、ティラと一緒に天界から空間移動した。白亜の空間に静寂が戻った。ついさっきまで、激しい戦いが繰り広げられ、多くの勇者達で賑わっていた。今は新たな三柱の神々が佇んでいるだけ。
「なあ、セラフィム。これで〈ヴェッセル〉は〈混沌〉から解放されたんだな」
「うん。もう〈混沌〉の子は永久にやってこないよ、レイ」
「じゃあ、これからは〈秩序〉の平和な世界が訪れるのね」
「そうだよ、と言いたいところだけどね、ユイ」
「どういうこと、セラフィム」
「〈秩序〉は創世族に選択を委ねたんだよ。だから〈混沌〉の子がいなくなろうと、漆黒の道を選ぶ者が消え去ったわけじゃない。それだけじゃない。仮に僕達、エクス達、アケショナル達、アクト達、ベルンハルト達、みんなが認識の偏りを起こさなかったとしても、大多数の人が検索容易性によって、認知バイアスを引き起こしてしまうので、〈混沌〉の排除は根本的に無意味なんだ。選択の自由を許された存在が、選択において安易な決断をしてしまうのは必然だよ」
「思考する存在にとって、ヒューリスティックはカルマとでもいうのか?」
「いや。おそらく違うよ、レイ。無意識に起こる認知バイアスはカルマですらない。それこそ、摂理でもない。自然発生的に組み込まれたプロセスとでも言えようか。人は何の疑いもなく、自意識の裏に隠れて機能する検索容易性によって、あらかじめ用意されたものを自己決断したかのように選択する」
「そうよね。そういう時の為に、私達がいるんだものね」
「これまでもこれからも、幾つかの著名な戦争や集団による事件は、認知バイアスによる影響を受けた結果として起きた可能性がある。多くの認知バイアスが利己的で自発的なんだ。個々人による理性的な判断が前提として、公平で合理的な選択をすることが求められる。それがいわゆる正義や善良とかいうのかもしれないけど、人間はこれら全てについて失敗しうると考えられる。これからも問題は起きてしまうと思うよ」
「ふんっ。新たなる漆黒血の到来か。望むところだな」
「何言ってるんだよ、レイ。そうじゃなくても、僕達にはまだ三獄〈デルタ〉が残っているし、絡繰〈オールドアース〉に至っては手付かずなんだから。次から次へと新たな敵が現れたら、僕達じゃ見きれなくなっちゃうよ。それに一つ懸念されるのは、〈混沌〉の子のインターフェースであるエノキアンが本来の力量である〈位階の力〉を使わなかったことなんだ……」
傍観神ユイは時空を遡って事象を把握していた。ユイにはエクスがエノキアンとの戦闘後に抱いていた疑念を全て感じ取ることが出来た。
(確かにエノキアンは消滅した。これまでのローブのみではなく、本質の破壊だったのは、感触からいって明らかだ。だがそれは何の意図もなく起きたことだろうか。こんなにも呆気ないものなのか。世界を漆黒と混沌とで染め、破壊し支配する諸悪の根源である〈混沌〉の子の眷属エノキアンの最期がこんな容易いものなのか。自らの力量が想像以上に高まっていたとでもいうのか。いや、帝国シアルルとロリアン・フェザー・クウィントゥスを滅亡させた力はこんなものではなかったはずだ。一つの確信がある。エノキアンは本領である〈位階の力〉を発動しなかった。本気で戦わなかったのには何か理由があるはずだ。それとも本気を発揮することができなかったのか。ともかく、何故、エノキアンは〈位階の力〉を発動しなかったのか)
エクスの頭の片隅にもたげたある仮説が、エクス自身に吐き気を催させた。
(まさかエノキアンの消滅すらも、〈混沌〉の子の思惑通りとでもいうのか)
「更に〈位階の力〉しか使えないエノキアン・サタナスが集団戦闘に参加しなかったのも不自然だった。〈混沌〉の子は確実にまだ何かを企んでいるに違いない」
「そういうなら、セラフィム。さっさとここを出発した方がいいんじゃないか」
「うん、そうしよう。行こうか、ユイ、レイ」
アケショナル・ラストアはテトラモルフと一緒にいた。
ティラ・マスカルの隣にはリヴラ・ジヴァニトゥムがいた。
それぞれ異なる空間と時間軸に立っていたが、次の瞬間そこで交わされる言葉は同じ物だった。
「君が愛する人と一緒になる為には、因果の刀が必要だ」
アクト・リーメルは窓から差し込む眩しい日差しで目が覚めた。寝室を出て、リビングへ向かうとフォルティナが朝食を作っていた。
「おはよう、フォルティナ」
「おはよう、アクト。よく寝てたわね」
卵を焼く香りとパンの芳ばしい香りがアクトの鼻をくすぐる。
「ごめんね、フォルティナ。大丈夫?」
アクトはフォルティナに近づいて、服の上からでも目立つようになった彼女のお腹の膨らみに手を当てた。
「うん、大丈夫。エイトも元気に足で蹴ってくるしね」
「あんまり気持ち悪くならないものだね」
「そうね。私はつわりが酷くないみたい。助かったわ」
「ほんと良かったよね」
「うん。子供と血液型が違うと酷くなるみたいな事聞いたことあるけど、エイトは私と同じなのかな」
「僕はもっとフォルティナが気持ち悪くて動けなくなっちゃうかなと思ってたから、ちょっと安心しちゃったけど」
「でも、ほんとだんだんと体は重くなるし、それにすっごい暑いんだから。気持ち悪くなくてもだるくなっちゃうんだから」
「そうだよね。だいぶおっきくなってきたもんね。ねえ、フォルティナ。このお皿を運べばいいかな」
「うん。ありがとう、アクト。それと一緒にフォークとスプーンも運んで。私はコーヒー持っていくから。ああ、ノンカフェインって素晴らしいわ」
二人はテーブルについて、朝食を食べ始めた。からっとした雲一つ無い良い天気で、外からチュンチュンと鳥の鳴き声が聞こえてきていた。
「ねえ、フォルティナ。僕らの――エイトの子孫はあの時代にいたのかな」
「うーん、どうかしら」
「どういうこと?」
「たぶん、私達がこうして一緒にいるのと、私達が時空を超えた時とでは、時空の流れが違うと思うの。テトラモルフに聞いた話から考えると、私達が時空を移動した時点では、私達の子供も存在していなかったのよね。だから、エイトが生まれた後の未来と私達が存在していたあの未来とは別物ということになるわ。どうしてそうなって、どうやってそうなっているかは、詳しくはわからないんだけど」
「フォルティナの言う通りだとすると、テトラモルフが防ごうとしている時間軸の書き換え、もしくは複数化が発生してしまったんじゃないか。僕達がいた未来は書き換えられて無くなってしまったか、もしくは複数化により僕達がいた未来とは別のもう一つの時間軸が発生してしまったか。未確定の段階では存在しなかったはずの僕等の子孫がいるという時間軸が、現段階では僕等にとっての現実になっている」
「ごめんね。私の言い方が悪かったわ。結果から話すと、テトラモルフはきちんと時間軸の書き換え/複数化は未然に防いでいるの。それでなければ、時間軸そのものの崩壊に繋がってしまうから。各人の選択によって時間軸は常に決定されていくけど、アクトの言ったように確定される瞬間まで無数の時間軸が可能性として存在しているの。説明が難しいけど、存在しているといっても、陽炎のように儚い幻影が時空の彼方に浮かび上がるだけで実際には存在しているわけではないの。今回行われた複数人数による多数時空間移動は前例のないことで、テトラモルフは危機管理の点から容認したくはなかった。それでも〈混沌〉の子との戦いには必要だったから仕方ないと言っていたわ。テトラモルフは時間軸に起きる異常が少ないように人と時間と空間の組み合わせを管理し、どうしようもない変化の補完として辻褄合わせを行った。時間軸の影響がありそうな人物や物事とは隔絶させた状態で、私達の時空間移動は行われてきたはずよ」
「そうだったんだ。テトラモルフが時空を司り、裏で色々と帳尻合わせをしてきたんだね。パラドックスが生じないように時間軸を監視し、テトラモルフの手伝いをするのがフィートってわけか」
「ええ。フィートも物好きよね。あそこまで全て背負わなくてもいいのに」
「フィート。忙しいのかなあ。そうだ。僕が何か時間軸を乱す行為をすれば、フィートがやってくるわけか」
「やめてよね。アクトってば。どうするつもりよ。白銀剣で各世界を恐怖のどん底にでもつき落とすつもり?」
「あはは、それじゃあまるで、大魔王の世界征服だね」
二人は声を上げて笑った。食事を済ませ、外に出る準備を始める。二人は家を出発した。外は少し風が吹いていて、とても清々しく快適だった。アクトとフォルティナは手を繋いで歩いていった。行く先は太陽の日差しで白く輝いていて、まるで二人の行く末を象徴しているかのようだった。




